第11話:冬の朝、演習前の前哨戦
十二月半ば、冬の入り口。
佐藤家の朝は、しんと冷え切った空気の中に、香ばしい焼き魚と炊き立ての米の匂いが混じり合うことから始まる。
リビングの窓から差し込む朝日は白く、どこか無機質だった。
ダイニングテーブルに並べられた朝食は、明らかに一人分としては過剰な量だ。厚切りで脂の滴るステーキ。皮までパリッと焼かれた大ぶりの鮭の塩焼き。さらに、栄養バランスを完璧に計算された色とりどりの小鉢が、所狭しと並んでいる。
それらを手際よく配膳していたのは、エプロン姿の早苗だった。
「はい、一真君。今日はお肉多め。しっかり食べて、変な女に捕まらないように気をつけること!」
冗談めいた声色とは裏腹に、その視線は鋭い。
早苗は、一真の母が仕事で不在がちな佐藤家を長年支えてきた家政婦だ。一真にとっては、近所のお姉さんのような距離感と、母親以上の過保護さを併せ持つ存在だった。
前世で三十年を社会で過ごした一真の感覚からしても、これほど献身的な女性は稀だ。だがこの世界において、その献身は単なる善意ではない。「希少資源を守る」という、より生物的で切実な意味を帯びている。
「早苗さん、朝からステーキは重いって・・・・・・。それに『捕まらないように』って、ただの学校行事だろ?」
一真が苦笑しながらフォークを動かすと、早苗は一瞬だけ表情を引き締め、吸い寄せられるように隣に腰を下ろした。柔らかな石鹸の香りが鼻をかすめ、戦場へ向かう前の緊張をわずかに和らげる。
「甘いわよ、一真君。今日の『合同演習』は、世間一般の学園の運動会とはワケが違うの」
声が、自然と低くなる。
「女子にとっては、クラスの威信と、何より『一真君という極上のご褒美』を懸けた、ガチンコの略奪戦よ。この前だって、星野アカリちゃんと『名前呼び』の契約をしたんでしょう? 家政婦ネットワークを舐めないで。もう、とっくに大ニュースよ」
「・・・・・・耳が早いな。あの屋敷のメイドか?」
「希少な男子の情報は、この世界の光より早いの」
早苗は指を立て、一真の胸元を軽く突いた。
「いい? 一真君は自覚がないみたいだけど、あなたは今、学園で一番狙われてる獲物。清楚系も、武闘派も、策略家も、何千人もの女子が、あなたを『確保』して、自分の部屋に閉じ込めて、一生眺めていたいって本気で思ってる」
そう言って、早苗は一真の制服の襟元を整える。
その指先が、ほんのわずかに震えていた。
「・・・・・・お父様だって、そうだったんだから」
一真の父。
この世界の歪んだ制度に翻弄され、優しすぎたがゆえに多くの女性の「期待」という名の鎖を背負わされ、静かに壊れていった男。早苗はその最期を、誰よりも近くで見ていたのだろう。
「最初は『選ばれた』だけだった。でも、いつの間にか『責任』や『家門の存続』って言葉に縛られて、逃げ道がなくなったの。気づいた時には、彼自身の意志なんて、どこにも残っていなかった・・・・・・」
早苗は一真の両肩を掴み、正面から見つめる。
「だから私、一真君には誰かの所有物になってほしくない。危ないと思ったら、ルールなんて無視して電話しなさい。装甲車でも何でも用意して、校門ごと突っ込んで助けに行くから。たとえ星野家を敵に回してもね」
「・・・・・・善処するよ。ありがとう、早苗さん」
一真はそう答え、食後のコーヒーを飲み干すと、高濃度栄養ゼリーをポケットにねじ込み、迎えの黒塗りセダンに乗り込んだ。
◇
学園へ向かう道中、車窓の外の景色は一見穏やかだが、確実に歪んでいる。
道を歩く数少ない男性は、例外なく屈強な女性ガードマンに囲まれていた。その姿は護衛というより、移動する聖遺物の輸送に近い。
正門前には、装甲化された大型シャトルバスがクラスごとに並んでいた。
演習場は隔離区域にあり、移動中ですら略奪が発生する。そのため、バスは強化ガラスと重装甲で覆われ、戦車のような威圧感を放っていた。
2年A組の車両に足を踏み入れた瞬間、空気が一変する。
女子たちの体温と高揚した吐息で、車内は異様な熱を帯びていた。
「佐藤君、おはよう!」
「今日は絶対に守るからね!」
笑顔。その奥には、宝物を奪われまいとする狂信的な防衛本能が渦巻いている。
一真が最後方の席に腰を下ろすと、当然のように隣に星野アカリが座った。
黒い軍服風の演習着に身を包み、タブレット端末を起動する。
「佐藤さん。演習開始前に、今回のルールを再確認しましょう。これは、貴方の身を守るための最低限の知識よ」
画面に表示されたのは
『合同演習:男子保持規約』
「この演習において、貴方は『フラッグ』そのもの。女子が貴方の身体に触れ、五秒間ホールドするか、捕縛用マーカーを装着した時点で陥落」
「陥落したら?」
「陥落させた個人、及びそのクラスが、貴方の『優先所有権』を一週間獲得、食事、放課後、週末の予定まで、すべて」
アカリの声には露骨な嫌悪が滲む。
「・・・・・・なるほどな」
「ただし、女子側には制約があります。男子への負傷は即失格。傷一つ付けることすら許されない」
つまり――。
「俺は殴れないが、相手も全力では来られない、か」
一真がそう呟くと、アカリは一瞬だけ言葉に詰まった。
「貴方・・・・・・その発想がもう危険ね。余計なことは考えず、私の用意した拠点にいなさい」
その時、反対側の席から小さな声がした。
「・・・・・・佐藤君」
氷室愛華だった。
彼女は小さな布包みを、両手で差し出す。
「これ、手作りのお守り。無事でいてほしくて」
歪な形。だが、縫い目は異様なほど丁寧だった。
「ありがとう。大切にする」
その瞬間――。
「・・・・・・それは、何かしら?」
アカリが静かに振り返る。
「私の管理外の物品を受け取る理由を説明してくれるかしら?」
だが一真は、アカリの前でそのお守りを制服の内ポケットへ仕舞い込んだ。
「断る。これは俺の意思だ」
車内の空気が凍りつく。
「・・・・・・そう。個人の信仰までは制限できませんわね」
アカリは前を向いたが、その背中からは凄まじい独占欲が放たれていた。
◇
第13演習場。
廃ビル群と深い森に囲まれた、文明の墓標。
「逃げずに来たか、佐藤!」
伊集院烈の挑発。
――フォンッ!
開戦のホーンが鳴り響く。
佐藤一真は、静かに戦場へ足を踏み出した。




