第1話:世界は、一日でひっくり返る
人生の幕切れというのは、案外あっけないものだ。
三十路を迎え、中堅商社で馬車馬のように働かされていた俺――佐藤一真の最期は、深夜の国道での居眠り運転だった。
対向車のライトが視界いっぱいに広がり、網膜に焼き付いた瞬間、思考がぷつりと途切れる。
――これで終わりか。
そう思ったはずだった。
「カズマ・・・・・・カズマ! ああ、神様、ありがとうございます・・・・・・!」
耳元で、切羽詰まった泣き声が響く。
鼻を突く消毒液の匂いに、俺は顔をしかめた。
重い瞼を持ち上げると、そこには涙でぐしゃぐしゃになった母さんの顔があった。
だが――おかしい。
記憶の中の母さんより、明らかに若い。
シワが少なく、髪にも白いものがほとんど見当たらない。
「・・・・・・母さん?」
声を出した瞬間、自分の声がやけに高いことに気づいて、背筋が冷えた。
「よかった・・・・・・意識が戻ったのね! もう、急に道路に飛び出したりして・・・・・・!」
「・・・・・・道路?」
俺は車を運転していたはずだ。
混乱したまま視線を巡らせると、病室のテレビが目に入った。ワイドショーが流れている。
『――続いてのニュースです。今月、国内で誕生した男児の数は、統計開始以来過去最低を記録しました』
画面の中では、威圧感のあるスーツ姿の女性議員たちが腕を組み、その横で、フリルのついた服を着た男性タレントが、所在なさげに微笑んでいる。
胸の奥に、説明のつかない不安が広がった。
震える手で、サイドテーブルに置かれたスマートフォンを取る。
指紋認証が、あっさり通った。
「・・・・・・通るのかよ」
ブラウザを開き、検索窓に打ち込む。
――日本 男女比
表示された数字を見た瞬間、思考が止まった。
【現在の日本における男女比率――1:20】
「・・・・・・1:20?」
俺の知っている世界では、ほぼ1:1だったはずだ。
画面いっぱいを埋め尽くす赤い「女」のグラフ。その片隅に、消え入りそうな青い「男」の線。
「カズマ? どうしたの、顔色が悪いわ」
母さんが心配そうに覗き込む。
「ああ、きっとお腹が空いているのね。今、看護師さんに『殿方用』のメニューを持ってきてもらうわ」
「・・・・・・殿方用?」
運ばれてきたのは、病院食とは思えない高級ステーキと、栄養計算された小鉢の数々だった。
母さんは、まるで割れ物を扱うように、俺の布団を丁寧に整える。
嫌な予感が、確信に変わりつつあった。
洗面台の鏡を見て、息を呑む。
そこに映っていたのは、疲れ切った三十歳の社畜ではない。
肌に艶のある、どこか中性的な――十代の少年だった。
「・・・・・・冗談だろ」
それから一ヶ月。
検査とリハビリを名目に、俺はこの世界で入院生活を送ることになった。
退院が決まると同時に、母さんは言った。
「前の学校は警備が甘かったのよ。だから事故に遭ったの」
意味が分からない理屈で、男子保護が厳重な名門校への転校が決定した。
中身は三十歳、外見は希少価値の高い男子高校生。
歪な状態のまま、俺は「男子保護地区」にある自宅へ戻った。
街の光景は、俺の常識を完全に破壊した。
道路工事も、トラックの運転も、高層ビルの清掃も、すべて女性。
逆に、数少ない男性は日傘を差し、複数の女性に囲まれて怯えるように歩いている。
「・・・・・・これ、詰んでないか?」
「カズマ! 外でそんな声を出しちゃダメ!」
母さんが血相を変える。
「野性的な男の子が好きな『ハンター』に目をつけられたらどうするの!」
「ハンターって何だよ・・・・・・」
「男の子はね、家で可愛く過ごして、立派な女性にプロポーズしてもらうのが一番幸せなの」
その途中で、一瞬だけ母さんの口が「買い取って」と動いたのを、俺は聞き逃さなかった。
翌日、俺は転入先の高校へ向かった。
ショート丈のジャケットに、装飾過多なスラックス。
どう見てもホスト風だが、これが男子生徒の正装らしい。
校門をくぐった瞬間、空気が変わった。
ずらりと並ぶ女子生徒たち。
視線は期待と渇望に満ち、何人かは息を呑んで固まっている。
「・・・・・・やばい」
「見た? あの子」
「堂々としてる・・・・・・」
獲物を見る目だった。
担任教師――当然、屈強な女性だ――に案内され、教室の前に立つ。
「佐藤君、気分が悪くなったらすぐ言いなさい。直接触れるのは禁止してあるから」
ドアが開いた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、教室が爆発した。
悲鳴を上げる者、固まる者、机を倒して立ち上がる者。
「今日から転入してきた、佐藤一真君だ」
俺は、無意識に営業用スマイルを貼り付けていた。
「佐藤一真です。よろしくお願いします」
頭を下げ、顔を上げた瞬間。
「「「「ギャアアアアアアアアアアアア!!!」」」」
鼓膜が震える。
(・・・・・・俺、自己紹介しただけだよな?)
こうして俺の平穏な日常は、開始一秒で崩壊した。




