1・3話 田中さんの奇行の予兆はとまらない
一時間目の授業が終わった直後に、田中さんがやってきた。息を切らしている。
両手でピースサインをしているアニメイラストとなったヒグマがプリントされたスマホケースに入ったスマホを握っている。
例のごとく僕の目の前に座っている男子生徒が立たされていた。別に彼から非難めいた視線をもらっているわけではないが、今後の円滑な学園生活のために少し高めの甘ったるい珈琲飲料を買っておこうと誓った。
田中さんは椅子の向きをきちんと変えて、正面から僕と向き合った。
スマホと僕の顔をチラチラ交互に見ている。それから窓辺の席の一番後ろに座っている実里さんを睨んでいる。実里さんは睨まれていることも気にしないでスマホをいじっていた。
「なんか、あの実里がなんか、ちょっかいかけたみたいで」
「実里さん」
田中さんの表情が一瞬こわばる。
「実里さん?」
数秒前まではどこか浮ついた調子だったが、今はドスの効いた声音になっていた。
棲んでいるカーストが違うからだろうか。
そう呼べと言われたから呼んでみたが、そういう情報を知らない相手にしてみれば、お前のような階層に生きている雑魚が、我々の世界で生きている友達を下の名前で呼ぶなんて不敬であろう、ということだろうか。
「ごめん。やっぱり下の名前で呼ぶのは不敬だよね」
「別に実里に対してだからぜんぜん失礼でもなんでもないけど。ちょっとびっくりしただけ」
田中さんは普通に日本語で大丈夫そうだ、と判断。
「村岡さんから、そう呼べと言われたので、そう呼んでみただけだから」
「そなんだ。君は誰にでもそういう風に接してしまう軟派な野郎なんだね」
僕は首をかしげる。半径数メートル内の空気がピリピリしてきた。「怒ってますね?」
「どうしてわたしが怒らないといけないの? 意味不明過ぎて不愉快。不敬だね。謝ったら?」
「ごめんなさい」
「なんかむかつく」
どうすれと。
もしかしたら下の名前で呼ぶことが不敬ではなく、敬意になるのだろうか。実里さんをそう呼んでいて、田中さんは田中さんと呼んでいるからこんなにもお怒りなのだろうか。
僕は納得する。上階層に生きている人間たちのやりとりは、単純ではない。
「では、田中さんも下の名前で呼びます。教えてください」
今度の返答は沈黙だった。
そっぽを向かれてしまった。表情は伺いしれない。困った。たださきほどまでひりついていた半径数メートル内の空気が和らいだ。ほわほわ感。
さらに数秒経ってから、田中さんが口を開いた。相変わらず表情が伺い知れない、そっぽを向かれているままだ。
「どうしてこんなことしているか、正直自分でもよくわかんないんだ」
確かにそうだ。昨日初めて会話のようなやり取りをしたはずの田中さんが、どういう経緯でいきなり教室までやってきて、気弱男子の席を奪ってまで僕と会話しているのだろうか。一切合切理解できない状況だ。
田中さんが僕と会話したがっていることだけは、理解できた。
理由は全く察せない。奇行かもしれない。
田中さんが席を立った。
「分かるようになりたいから、君と話をしていると思う。また来るね」
「了解いたしました」
「あと、下の名前はね」
田中さんは少し言いにくそうにしながら、少し困った顔になっていた。
「もすこし、仲良くなったらね」
田中さんはそれだけ一方的に言い残すと、教室から小走りに出ていった。
席を奪われた男子への配慮はなかった。田中さんは意外と礼儀知らずなのだろうか。それともなにか切迫した事態が起こったのだろうか。
僕が今すぐやるべきことは、どのような銘柄の珈琲をプレゼントすれば、気弱男子のご機嫌を損ねないか、だろう。
田中さんの外見は、同世代女子としては群を抜いている美少女だが、同時に少し行動は常識的範疇から逸脱している女子なのかもしれない。




