1・1話 田中さんの奇行はまだ始まらない
北海道以外の地域では桜の花びらが満開になっていき、散っていき、路上を汚していく季節。
札幌市を生活圏にする学生にとっては桜の季節というよりは、溶け始めた圧雪路が雪泥だらけになった雪道のせいで、登下校の靴が湿ってしまう煩わしい季節。
出会いの季節であることに変わりはない。
僕はこの男子高校生の肉体へ、異世界転生した直後だった。
転生は無事に成ったようだが、多少の不具合があった。
一週間程度、意識混濁状態だったそうだ。四月当初から寝込みがちになり、結局入学式にも出ていない。
もとの肉体の男子生徒の精神、意識は肉体のどこかに追いやられたらしく、一週間かけて僕の意識が顕在したようだ。
僕の精神が彼の肉体を侵食し、彼の精神を追いやったようだ。
問題はこれではない。
高校一年生として入学してからの一週間を、丸々在籍していなかった、ということだ。
見事に君誰? 陰キャ? 状態からのスタートになり、最も友達関係を構築しやすいとされる初期の交友時期が終了していた。
こういう状態になることをボッチというらしい。この肉体に内在していた記憶を参照することができたので、僕は僕の状況をすぐに理解した。
こういう状態が客観的に、至極残念な状態であるという知識はあったが、転生直後の僕自身がこういう状態を残念がることはなかった。
しがらみなく、何も意識せず、自由に生きていけると思った。
日本の学生として、日本という世界で生きていくに対しての、日常生活を全うできる記憶と知識があった。高校卒業後も日雇いなる状態であれ、贅沢をしないならば、生きていくことは可能だろう。生活を保護してくれるセーフィーネっトの存在も認識している。
おはようと挨拶することはできるし、ごめんなさいと謝ることもできる。女性の短いスカートの中身がどんなに気になってもめくってはいけないし、コンビニに陳列している商品は金銭取引によって交換される。
転生による肉体的な問題もあった。学生、十代という立場であるなら、大いなる問題だ。
いくつかの感情が抜けていた。
まず、恋愛という感覚が理解できないようだった。
恋、好意という感覚についての理解が及ばない。
恋、好意に付随する行動をされたとしても、僕の感覚からは奇行に走っていると感じてしまうようだ。実際の全裸で市内ダッシュするような奇行と、恋愛感情に付随する行動の差異を、僕は理解できないようだ。
恋愛感情が理解できないことに付随するのか、普通の男子生徒が持ちうるべき、恥じらいなどの感覚も薄い。
素直に感じたことを言葉に出しても、心が汗かくことはなく、慌てることはない。
全力ダッシュをすれば体中から汗が噴き出るが、名も知らない女子生徒と交流することや、授業中に積極的な発言を繰り返すことに心の動揺はない。赤面発汗などは一切なかった。
普通は、家族や、他人や、社会にどう見られているか、気になってしまうそうだ。
そういう未成年の男子高校生にありがちな皮膚感覚がなかった。
目の前にある事柄や人を、瞳に映った通りに素直に評価し、声にだして伝えることができるだけだった。
だから同級生の田中さんの容姿が、飛びぬけて美しいことも、すぐに分かった。
田中さんは別クラスではあったが、飛び切りの美人だった。
可愛いという表現を使うことをためらってしまう美しさだ。陽キャの中心人物。ザ・リア充。きっちり差別的な視線も送ってくる。おそらく辛党。よくお昼に「裂けているチーズ辛党」を食べている。
日常生活を開始してから、田中さんをよく観察するようになっていた。
理由は分からない。彼女が僕の異世界転生による記憶喪失に関わっているからなのか。
それとも単に、すれ違っただけで思わず見とれてしまう美人具合だったからなのか。
おそらく後者であろうと思う。直感だ。
だから偶然田中さんと遭遇したとき、再びガン見してしまったのは必然だった。
授業の遅れを取り返すために図書館でひたすら復習に励んでいた。部活動の生徒以外は誰もいなくなった頃に切り上げる。
夕焼け色に染まっている誰もいなくなった昇降口。慌ただしかった部活動の音や、吹奏楽部の知らない音楽も聞こえなくなっていた。
座り込んで外靴を履き替え、紐を締め付けている最中。
香りがした。
当たり前のように視線で追うと、目の前を田中さんが通り過ぎていた。
長い素足が、スカートの中から伸びている。座り込んでいたので必然的に見上げる姿勢になった。ガン見だった。スカートの中身は見えなかった。
田中さんは靴を履き替えながら、僕を見下ろしていた。自然と田中さんの靴箱の位置を脳内に記録している僕がいた。雄的生命体としては必然的な反応だと考える。
田中さんとは目が合ったままだった。見つめあっている、とロマンティックに考えるほど、頭の中が向日葵畑になっていない。睨まれているというべきだ。
僕も視線をそらさない。しばし瞳が合っていた。田中さんは上履きを革靴に履きかえると、そのまま近づいてきた。
表情にはどこか険がある。
多人数アイドルグループの先頭かつ中央で意気揚々とダンスしている女性のような顔立ちだった。そんな顔で睨まれるように見下ろされている。僕にそういう方向の趣向はないが、それでもとても嗜虐的かつ魅力的な顔だと思った。
「何か用? いっつも見ているでしょ」
顔つきに見合った、意思の強さがはっきりと滲んだ声音。
何か用があるとは思っていない口調だ。ただ不快感と威圧感を浴びせてくる。言葉にはしていないけど、気持ち悪いんだけど、という意思がびしびし伝わってくる。
そういうことはわかる。
普通なら、肉食動物に草食動物が絡まれているような状況で。
ひるんでしまうのかもしれない。ビビッて、恐怖のあまり何もいえずに俯くべきかもしれない。
僕は当然そういった感情に鈍い。まったくひるめない。ひるむという感覚が極端に薄い。
そういうふうに思われていることは理解しつつも。
素直に頭に浮かんだ言葉が、思った通りに、口から出てくる。
「綺麗だからです」
田中さんの瞳が点になる。丸くて大きな点。クエスチョンかもしれない。
「は?」
「田中さんが綺麗だから見惚れていました。不快でしたからすみません」
以下は推察ではある。
数秒の間。
田中さんは顔が少し赤い。
彼女はその容姿ゆえ、好意をもたれていることには慣れているはずだ。大多数の相手に好意をもたれることにも自覚的。対面やSNSで、人から強い感情や悪感情をぶつけられることもあったであろう。告白された回数も両手両足の指の数では足りないのだろう。
そんな高嶺の花となっていた彼女に近づくのは、巧みの話術と膨大な会話デッキを持ったナンパ男子ぐらいで、僕のように感じたことをそのままの言葉で、真正面から気持ちを伝える存在は、じつは稀だったのかもしれない。
彼女は、他者へ与える攻撃力は破壊神級であるが、自分が受ける防御力面はからきしだった。攻撃される機会が少なく、攻撃される意識が少なかったゆえ、彼女は最強の矛をいくつも持っていたが、盾はなかった。
ノーガード系女子だった。幸いなのか、普段は委員長のような女子友達が盾の役割を担っていたのだろう。
今日は彼女と僕しかいなかった。
ゆえに僕の言葉は、素直に彼女の心へ刺さった。ようである。
推察ではある。
田中さんは顔を赤くしたまま、後ずさる。
「そ。そ、それだけ?」
「それだけです」
「そ。じゃ、じゃあね」
「はい、また明日」
田中さんにとってその他大勢、風景の一部でしかいなかった男子生徒の群。
この日の僕は、一歩だけ彼女のその他大勢の意識下から、顔を突き出した。
一歩ではあったが、誰も踏み込んだことのない一歩だった。
今だから。そうわかる。




