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水に取られた ―六月の贄(にえ)―  作者: 大西さん
第一章「水守村」
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第3話 朝の出発

土曜日、午前四時。


アラームが鳴る前に目が覚めた。昨夜の夢のせいか、シーツが湿っている。汗か、それとも...


手で触れてみると、シーツは確かに濡れているが、匂いがない。汗特有の匂いも、その他の体液の匂いもない。


ただ、無臭の水分。


そして、濡れたシーツに奇妙な模様ができている。まるで、私の体の輪郭に沿って水が染み出したような。人型の水染み。


シャワーを浴びた。


熱い湯を浴びているのに、なぜか寒気がした。排水口に流れていく水を見つめていると、渦が人の顔に見えて、慌てて目を逸らした。


昨夜見た、夢の中の透明な人々。


あれは本当に夢だったのか。


それとも、八歳の私が本当に見たものだったのか。


鏡を見ると、首筋に小さな痣のようなものがあった。薄い青色の、水滴の形をした痣。触れてみるとひんやりと冷たい。まるで、皮膚の下に水が閉じ込められているような——


登山用の服に着替える。速乾性のTシャツは、さらりとした肌触りが心地いい。トレッキングパンツを履き、厚手の靴下を履く。


鏡を見ると、オフィスにいる時とは別人のような自分がいた。


でも、目の奥に不安が宿っている。


今日は楽しい登山のはずなのに。


祖母の鈴を、ザックの奥底にしまった。


持っていくべきか迷ったが、お守りとして。


手に取った瞬間、鈴がかすかに鳴った。誰も振っていないのに。


リン...


まるで、これから起こることを知っているかのような、予兆の音。


朝食を準備しながら、ふと水道の蛇口を見つめた。


ひねれば水が出る。当たり前のこと。


でも、その水はどこから来るのか。


東京の水は、主に利根川水系と多摩川水系から来ている。その前は山から、さらに遡れば雨から。


雨は海から蒸発した水蒸気が...


ふと、思考が止まった。


じゃあ、最初の水はどこから?


地球が生まれた時から?


それとも宇宙から?


蛇口をひねった。


水が流れ出す瞬間、奇妙な音が聞こえた。配管の中を通る水の音に混じって、かすかな声のような——


『まって...る...』


空耳だ。そう自分に言い聞かせて、コップに水を注いだ。でも、飲むのをためらった。この水の中に、何が溶け込んでいるのか。記憶?意識?それとも——


卒論で調べた時、ある学説を読んだ。


地球の水は、彗星によってもたらされたという説。


宇宙から来た水。


それが、今も循環している。


形を変えながら、永遠に。


その循環の中に、何が含まれているのか。


ただのH2Oだけではないはずだ。


記憶、感情、意志...


「考えすぎだ」


自分に言い聞かせて、おにぎりを作った。


梅干しを入れようとして、手が止まった。


梅干しの赤い色が、血のように見える。


代わりに、昆布を入れた。


海の記憶を持つ昆布。


これも水の一部。


マンションを出ると、まだ薄暗い。朝の冷たい空気が肺に入ってくる。


昨夜の雨は上がっていた。


道路は濡れているが、空は晴れ渡っている。


不思議な天気だ。


でも、アスファルトの上の水溜りが、不自然な形をしている。人の足跡のような、でも人間のものではない奇妙な形。まるで、水自体が歩いたような跡。


この時間の東京は静かだ。


でも、よく耳を澄ますと、水の音が聞こえる。


下水道を流れる水。


ビルの空調から落ちる水滴。


道路の側溝を流れる水。


都市は水の音で満ちている。


普段は気づかないだけで。


そして今朝は、その音が妙にはっきりと聞こえる。まるで、水たちが私の出発を見送っているような。あるいは、仲間のもとへ向かう私を歓迎しているような。


駅への道を歩きながら、ふと足を止めた。


道端に、小さな祠があった。


いつも通る道なのに、今まで気づかなかった。


いや、本当に今までなかったのかもしれない。


昨夜の雨の後、突然現れたかのように、濡れた石の祠がそこにあった。


近づいてみると、「水神」と書かれた小さな石碑。


その前に、コップに入った水が供えられている。


新しい。


今朝、誰かが供えたばかりのような。


誰が?


こんな都会の片隅で。


そして、コップの縁に口紅の跡があった。赤い、女性のもの。でも、なぜか懐かしい感じがする。まるで、知っている人の——


水面を覗き込むと、自分の顔が映った。


でも、一瞬、別の顔が見えた気がした。


もっと若い、女性の顔。


昨夜、原稿の水たまりに見た顔と同じ——


瞬きをすると、また私の顔に戻っている。


気のせいか。


でも、胸騒ぎがする。


まるで、これから起こることを、誰かが知っているかのような。


その誰かが、私を待っているような。

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