第2話 祖母の遺産
部屋に帰ったのは、日付が変わる頃だった。
ワンルームマンションの玄関を開けると、かび臭い匂いがした。梅雨前のこの時期、湿度が高い。除湿器をつけるのを忘れていた。
でも、それだけではない。
部屋の中に、かすかに水の匂いが漂っている。川の匂い。それも、山奥の、人の手が入っていない清流の匂い。
ありえない。ここは東京の、しかも四階だ。
シャワーを浴びながら、ふと思い出した。
祖母の家で過ごした夏休みのこと。
山間の小さな集落にある古い家。井戸があって、冷たい水を汲み上げては顔を洗った。祖母は毎朝、井戸に向かって手を合わせていた。
「水神様に感謝しないとね」
幼い私には、その意味が分からなかった。ただの水なのに、なぜ感謝するのか。
「水は命の源。でも、時には人を連れて行くこともある」
「連れて行く?」
「水に取られるって言うんだよ。だから、敬意を払わないといけない」
祖母の言葉が、今も耳に残っている。
そして、祖母はいつも小さな鈴を身につけていた。真鍮製の、音の澄んだ鈴。
「これは水封じの鈴。水に取られそうになった時、これが守ってくれる」
子供心に、迷信だと思っていた。
でも、今思えば、祖母は何かを知っていたのかもしれない。
水に取られる。
奇妙な表現だと思った。溺れるとか、流されるとかではなく、「取られる」。まるで、水に意志があるかのような。
シャワーの水を見つめていると、排水口に吸い込まれていく渦が、ゆっくりと逆回転を始めたような気がした。一瞬だけ。錯覚だろうか。
その夜、私は夢を見た。
幼い頃の記憶だった。
八歳の夏。祖母の家の近くの川で遊んでいた時のこと。
澄んだ水が流れる小川。膝までの深さしかない、安全な場所。
でも、あの日は違った。
水の中に、何かがいた。
最初は魚かと思った。でも、魚にしては大きすぎる。人の形に似た、透明な何か。
それが、私の足首を掴んだ。
冷たい手。でも、手ではない。水でできた手。
引っ張られて、バランスを崩した。水の中に倒れ込む。
息ができない。でも、不思議と苦しくない。
水の中で、目を開けた。
そこには、透明な人たちがいた。
男性、女性、子供。みんな透明で、水と区別がつかない。
でも、確かに人の形をしている。
彼らは、私に手を伸ばしてきた。
『一緒に』
『おいで』
『楽になれる』
水の中で、声が聞こえた。いや、声というより、水を通じて直接心に響く思念のような——
その中に、一人だけ、はっきりとした顔の女性がいた。若くて、どこか私に似ている——
その時、強い力で引き上げられた。
祖母だった。
「美咲!美咲!」
必死の形相で、私を抱きしめる祖母。
「見たのね...見てしまったのね...」
震える声で、祖母は言った。
そして、あの鈴を私の首にかけた。
「これは水封じの鈴。絶対に外しちゃダメよ」
鈴は冷たく、まるで氷のようだった。でも、身に着けた瞬間、水の中で見た透明な人たちの姿が、すっと消えた。まるで、最初からいなかったかのように。
夢から覚めて、時計を見ると午前三時だった。
全身が汗でびっしょりと濡れていた。
いや、これは本当に汗だろうか。
触ってみると、妙にさらさらしている。
まるで...
ベッドサイドの引き出しを開けた。
祖母の形見の小箱がある。
中には、あの鈴が入っていた。真鍮製の小さな鈴。
手に取ると、記憶の中と同じようにひんやりと冷たい。
まるで、今まで水に浸していたかのように。
軽く振ると、澄んだ音がした。
リン...
その音を聞いた瞬間、部屋の空気が変わった。
さっきまで感じていた水の気配が、すっと引いていく。
水の匂いも消えた。
まるで、鈴の音を恐れているかのように。
ノートを開く。
祖母の几帳面な字で、山菜採りの記録が書かれている。日付、場所、天気、そして必ず水の状態。
『五月十五日 晴 東の尾根 蕨二十本 沢の水澄む』 『五月二十日 曇 北の谷 蕗少々 水濁る 早めに下山』 『六月三日 雨 西の斜面 行かず 水が呼んでいる』
水が呼んでいる。
奇妙な表現だった。でも、今夜の私には、その意味が少し分かる気がした。
さらにページをめくると、普段とは違う乱れた字があった。
『水は記憶する 全てを記憶する 取った者も 取られた者も 永遠に水の中に
それが水の理 逆らうな 受け入れよ
でも、完全に受け入れてはいけない 境界線上に留まれ 水見として 記録者として
それが、生き残る唯一の道
鈴の力は、使用者の意志と恐怖に反比例する。 恐怖が強いほど、鈴の力は弱まる。 逆に、明確な意志を持って鳴らせば、水をも退ける。 そして、鈴は使うたびに力を消耗する。 無限ではない。だから、本当に必要な時にだけ』
水見。
初めて見る言葉だった。祖母は、この言葉を使っていたのか。
その下に、小さく日付。
昭和三十二年六月七日。
そして、次のページには切り抜きが貼られていた。
新聞記事だった。かなり古いもので、黄ばんでいる。でも、不思議なことに、この記事だけは水に濡れた跡がない。まるで、水が避けて通ったかのように。
『ダム工事現場で48名行方不明 御霊山で原因不明の失踪事件』
記事の本文は一部が破れていて読み取れない。
でも、一つだけはっきりと読める文章があった。
『生存者の証言によると、「仲間が次々と水に溶けていった」という。当局は集団幻覚の可能性も含めて調査中』
昭和三十二年六月八日付の記事。
祖母が記録を止めた、翌日の新聞。
そして、それ以降のページは空白だった。
いや、よく見ると、最後のページに小さく書き込みがあった。
『美咲へ
もしこれを読んでいるなら、あなたも選ばれたのでしょう。
水見の血は、隔世で現れる。
気をつけなさい。
でも、恐れすぎてもいけない。
水は敵ではない。
理解者を求めているだけ。
鈴を持っていきなさい。
まだ間に合う間は、守ってくれる。
でも、一度水を受け入れたら、もう戻れない。
それでも、悪い運命ではない。
ただ、違う形で生きることになるだけ。
選びなさい。』
私は鈴を握りしめた。
明日、私は山に行く。
御霊山に。
偶然だろうか。それとも...
窓の外を見ると、雨が降り始めていた。
天気予報では、明日は晴れのはず。
でも、この雨は朝まで止まないような気がした。
雨音が、次第に大きくなっていく。そして、その音の中に、かすかに混じる別の音。
声?
いや、もっと原始的な何か。
水が、待っているような。
私を、待っているような。