ある夏の日
「おい、待て」
朝の早い時間、男子寮の自室を出たばかりの安土は
聞き覚えのある声に引き止められて眉をしかめた。
声の主は大上隼斗。名実共に格下の相手だ。
その彼が明らかに格上の存在である安土に対して、
事もあろうに命令形の言葉を発したのだ。
なんと身の程知らずな。
安土の信奉者なら、そんな感想を抱くのだろう。
だが当の安土にとっては、大上の無礼な言葉遣いなど
まるでどうでもよかったのである。
「用があるなら手短に話せ
始発に乗り遅れたくないからな」
安土は今、急いでいるのだ。
寝坊をしたわけではない。予定通りに動いている。
こうして予定外の会話が発生したとしても、
それに対処できるだけの時間的猶予は確保してある。
しかし、それでも気分を害したのだろう。
いつもより低い声色が不愉快を物語っていた。
「安土、その格好はなんだ?
お前はどこへ……何をしようとしてるんだ?」
くだらない質問だ。答える義理は無い。
大上とは同じ学園に通う生徒同士というだけで、
プライベートを打ち明けるような関係にはない。
それは何も大上に限った話ではなく、
他の誰にも知らせる必要の無い情報だった。
だが、この時の安土は質問に答えたのだ。
「これから伯父と落ち合う予定だ
そこそこ高い地位にいる人でな、
以前、失礼の無いようにとスーツを着ていったら
『次はもっと子供らしい服装で来てくれ』と
ダメ出しされてしまったんだ」
「それでラフな格好をしてるのか
しかし、その組み合わせはなんというか……」
「上下共に変に気取っていないところが子供らしく、
それでいて夏の気温に適した軽快な装いだろう
同じ格好をした人物の写真を見たことがあるし、
俺のコーディネートは何も間違ってないはずだ」
「ああ、間違ってはいない
たしかに子供らしいといえば子供らしいし、
夏を感じさせる開放的なファッションではある
筋は通っている、通ってはいるんだが……」
「悪いが大上、俺は服装にはこだわらない主義だ
お前とファッション談義なんぞする気は無い
とりあえず“子供らしい服装”という課題は
クリアできてるんだから、それでいいだろう
多少流行に乗り遅れていようが知ったことか
まあ、どのみちもう着替え直す時間は無いがな」
「そう、か……
引き止めて悪かったな
ちなみに今日は記録的な猛暑日らしいぞ
こまめな水分補給を……って、水筒は持ってるな」
そう指摘された安土は水筒を手に取り、
大上に見せつけてからその場を後にした。
それから少しして、安土は見送りに来た仲間から
新品の帽子を受け取り、それを頭に被せた。
すると、ここにある種の模範解答が出来上がる。
麦わら帽子、
白いランニングシャツ、
太腿を曝け出す半ズボン、
裸足にサンダル、
そして肩から水筒を下げている。
その様相は、昭和の夏休み少年そのものであった。
お調子者の男子がウケ狙いでやっているのではなく、
イケメンの安土が大真面目にそうしているのだ。
なんともシュールな光景である。
彼を見送った女子3人はその姿が頭から離れず、
この後に補習授業を受ける予定があるのも忘れて
他愛無い女子トークに花を咲かせるだった。
「あいつの私服姿を初めて見たけど、
なんというか……壊滅的ね
わんこのセンスといい勝負だわ」
「えっ、なんで私!?
最近のトレンドとかには詳しくないけど、
さすがにあれがNGだってことくらいわかるよ!」
「それがわかるのに、自分のセンスが変だという
自覚は持ってないわけね……可哀想に」
「だから、なんで私!?
あんな昭和風な格好なんてしたことないってば!」
「ええ、昭和のセンスではないけど……」
「わんこちゃんは平成だよね」
「平成!?」
「ほら、こないだ3人で映画観に行ったじゃん?
その時にプロデューサー巻きしてたでしょ
カーディガンを肩から羽織るダサいやつ
似合わないサングラスまでしちゃって……
正直ね、一緒に歩いててすごく恥ずかしかったよ」
「え、それってべつに変じゃないよね!?
2人して私をからかってるだけだよね!?」
「あらら、こりゃ本物だわ……」
「何を基準にあの服を選んだのやら……」
「何って、それはほら、映画を観に行くんだから
それにふさわしい格好をするべきだと思って」
「それで映画関係者らしい格好だったわけね
わんこ的にはTPOを弁えたつもりなの?」
「製作側に寄せてどうすんのさ……
ウチらはただの観客なんやから、
普通の格好するのが正解やろが」
「あ、ブタちゃんがエセ関西弁使ってる〜
流行らせようとしてるの、まだ諦めてないんだね」
「「 話を逸らさない 」」
──夕暮れ時、安土製菓本社の社長室にて
安土桜夜はその甥と言葉を交わしていた。
だが和気藹々といった雰囲気ではない。
目の前の少年があまりにも奇抜な格好をしていては、
再会の喜びよりも困惑の感情が勝ってしまうのだ。
「なあ、モモ君
その珍妙な格好は一体……
まるで昭和の夏休み少年じゃないか
いくら君が最新の流行やなんかに疎いとしても、
生まれた時代を間違えたとしか思えない
誰か1人だけでも……
君を止めようとする友達はいなかったのかい?」
そんな伯父からの心配もよそに、
安土桃太郎は鼻で笑いながら答えるのだった。
「ハッ、友達?
何を言ってるんですか?
そんなのいるわけがないし、欲しいとも思わない
伯父さんが一番よくご存じでしょう
俺には友情だの恋愛だの、そんなくだらない
青春ごっこにかまけてる時間は無いんだってね
なんせ億単位の借金を背負ってる身だ
それを清算するには普通の生き方じゃ間に合わない
ごく普通の、そのへんの脳味噌すっからかんな、
平凡な10代の少年と同列に扱わないでいただきたい
お互いの立場を思い出してください
あなたには最後までこのゲームを見届ける義務がある
俺が勝ち、あなたが負けを認めるその瞬間を……」
安土桜夜は言葉を失い、デスクに肘を乗せて
眉間をつまみながら項垂れた。
ああ、なんと孤独な少年だろうか。
彼はこの貴重な10代の時期を、
二度と過ごすことのできない青春の盛りを、
自らの意志で手放そうとしているのだ。
たしかに莫大な借金を完済するともなれば、
チャラチャラと遊んでなどいられないのは当然だ。
だがそれにしたって、もっとこう……
若さゆえの反発があってもいいだろう。
この少年、安土桃太郎は決して馬鹿ではない。
むしろ飛び抜けて頭の回転が早い側の人間である。
このゲームがいかに一方的で、理不尽極まり、
勝ち目の無い戦いであるかを理解しているはずだ。
それなのに、なぜ、まだ諦めようとしないのだろう?
勝ち筋が存在すると本気で思っているのだろうか?
「まあ、俺を止めようとした奴は1人いましたけど」
「ん……?」
「ただし、そいつはお友達なんかじゃない
いつも何かと突っかかってくる目障りな奴でね
少し特殊な存在であるがゆえに勘違いして、
この俺と対等な立場だと思い込んでるどころか
努力すればいつか俺より強くなれると信じてる
まあ、どんな大それた理想を描こうが勝手だが、
まるで現実が見えてないところが痛々しい
まったく哀れな男さ
今までも、これからも、俺の人生においては
なんの利益ももたらさない無価値な存在ですよ」
「へえ、珍しいこともあるもんだ」
「何がです?」
だが安土桜夜はその問いには答えず、
ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべるばかりだった。




