余命一年半の彼女と今にも消えそうな僕。
七月上旬、茹だるような暑さの中、蝉の声だけが喧しく地上に降り注いでいた。教室の窓から見える空は、白く霞んで見えるほどだ。
今日のホームルームの冒頭、担任はどこか改まった口調で「大切なお知らせがある」と切り出した。
そうして紹介されたのが、彼女――高坂佳奈だった。
教室に微かなざわめきが広がり、生徒たちの好奇の視線が彼女に集まる。けれど、僕、水上瑞希にとって、それは他人事でしかなかった。中学時代に父を、そして高校入学を目前にして母を相次いで失ってからというもの、僕の世界からは色彩というものが抜け落ちていた。誰かが転校してこようと、それは乾ききった僕の心に何の波紋も描くことはなかったのだ。
何事もなく、彼女と関わることのない、灰色の日々が続くだろう。
この時の僕は、まだそう信じて疑わなかった。
両親というかけがえのない存在が消え去ってから、僕はただひたすらに彼らの温もりを求めていた。かつては一人でいることに何の感慨も抱かなかったはずなのに、今はどうしようもない寂寥感が、じわじわと胸の内を侵食していく日々だった。会いたい。ただ、その一心だけが、僕の思考の大部分を占めていた。
昼休み、僕は重い足取りで屋上へと向かった。錆び付いたフェンスを慣れた手つきで乗り越え、その縁に立つ。
眼下に広がるのは、いつもと変わらない、ありふれた街並み。けれど、今日に限って、その風景はひどく空虚で、まるで色褪せた絵画のように見えた。心の奥底を冷たい風が吹き抜ける。理由は分からない。分かりたくもなかった。
これが、この世で最後に見る景色。そう思うと、不思議と心は凪いでいた。
僕は深く息を吸い込み、虚空へ向かって一歩を踏み出そうとした、その瞬間――。
「――待って」
背後から、凛とした、しかしどこか儚げな声が鼓膜を震わせた。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは、今日転校してきたばかりの女子生徒――高坂佳奈だった。白いブラウスに身を包んだ彼女は、夏の陽射しを浴びて、その黒髪がきらりと光って見えた。
「……何故、ここに」
絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。僕のいる場所は、普段生徒が立ち入るような場所ではない。
佳奈は僕の足元、フェンスの向こう側を一瞥し、そして再び僕の目を見据えた。その瞳は、僕の心の奥底まで見透かしているかのように澄んでいた。
「あなたこそ、何してるの? ……そんなところで涼んでるわけじゃ、ないんでしょ」
彼女の声は、責めるでもなく、ただ静かに事実を確かめるような響きを持っていた。
「……関係ないだろ。放っておいてくれ」
僕は苛立ちを隠せずに吐き捨てる。あと一歩だった。この邪魔さえなければ、僕は両親の元へ行けたかもしれないのに。
しかし、佳奈は怯むことなく、小さく首を傾げた。そして、ふわりと、まるで花が綻ぶように微笑んだ。その笑顔は、どこか寂しげで、僕の荒んだ心を不意に揺さぶるような、不思議な力を持っていた。
「関係なくないことも、あるかもしれないよ」
彼女は静かにそう言うと、僕の隣、フェンスの内側にゆっくりと歩み寄った。そして、僕が見ていたのと同じ風景に目を向ける。
「だって……私も、時々ここに来るから。この景色、好きなんだ」
そう言って、佳奈は遠くの空を見上げた。その横顔は、何かを探しているようにも、あるいは何かを諦めているようにも見えた。
「でもね」と彼女は続ける。「ここから見る景色より、もっといい景色、一緒に見に行かない?」
その言葉は、僕の胸に小さな石を投げ込んだかのように、静かな波紋を広げた。
死のうとしていた僕に、彼女は「生きているからこそ見えるものがある」と、そう言外に告げているのだろうか。
僕の固く閉ざされた決意は、彼女の予期せぬ登場によって、あっけなくその輪郭を曖昧にされ始めていた。
「……どうして、僕に声をかけたんだ」
僕は、自分でも無意識のうちに、そんな問いを口にしていた。
佳奈はゆっくりと僕に視線を戻し、悪戯っぽく、それでいてどこか切なげに微笑んだ。
「さあ、どうしてでしょうね? ……ただ、あなたが、今にも消えてしまいそうに見えたから、かな」
その言葉の真意は測りかねたが、彼女の存在が、僕の踏み出そうとしていた一歩を確かに押しとどめたのだった。
そして、この出会いが、僕の灰色の世界に、予期せぬ色をもたらすことになるなど、この時の僕はまだ、知る由もなかった。
「……ただ、あなたが、今にも消えてしまいそうに見えたから、かな」
高坂佳奈の言葉は、夏の生暖かい風に乗って、僕の鼓膜を静かに揺らした。消えてしまいそう――それは、僕自身が誰よりも強く望んでいたことのはずなのに、彼女の口からそう表現されると、なぜか胸の奥が小さく疼いた。
「……いい景色って、なんだよ」
僕は、フェンスを掴んでいた手から力を抜き、無意識のうちに彼女に問い返していた。自分でも驚くほど、その声には棘がなかった。さっきまでの、世界に対する拒絶感とは違う、何か別の感情が芽生え始めているのを感じる。
佳奈は悪戯が成功した子供のように、ふふっと小さく笑った。その笑顔は、夏の陽炎のように捉えどころがなく、それでいて目を逸らせない不思議な魅力があった。
「それは、見てのお楽しみ。でも、きっと、今のあなたに必要な景色だと思うな」
彼女はそう言って、僕に向かってそっと右手を差し伸べた。細く白い指先が、僕の視界に入る。
「……俺に、何がわかるっていうんだ」
僕は俯き、力なく呟いた。両親を失ってから、僕の世界はモノクロームに塗りつぶされた。楽しいことも、嬉しいことも、全てが色褪せて見え、生きる意味なんて見出せない。そんな僕に、一体何が分かるというのだろうか。
「うーん、それは私も分からないけど……」佳奈は少し考える素振りを見せ、そして続けた。「でも、一人で見ている景色より、誰かと見る景色のほうが、少しはマシかもしれないでしょう? 少なくとも、私はそう思うな」
その言葉には、不思議な説得力があった。まるで、乾いた砂地に染み込む水のように、ゆっくりと僕の心に浸透していく。
僕はしばらくの間、差し伸べられた彼女の手と、その向こうに見える佳奈の顔を交互に見つめていた。蝉の声が、まるで僕の逡巡を急かすかのように、一層大きく響き渡る。
この手を取れば、何かが変わるのだろうか。この息苦しいほどの孤独から、ほんの少しでも解放されるのだろうか。
そんな期待と、どうしようもない諦めが胸の中で渦巻いていた。
しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。僕は意を決し、おそるおそる自分の手を伸ばした。そして、佳奈の小さな手に、そっと触れる。
彼女の手は、思ったよりも少し冷たかった。けれど、その確かな温もりが、僕の凍りついた心に微かな熱を灯すような気がした。
「うん、それでいい」
佳奈は満足そうに微笑むと、僕の手を軽く引き、フェンスから離れるように促した。僕はわれるままに、数歩後ろへ下がる。さっきまで立っていた場所が、今はひどく遠いもののように感じられた。
「さて、と」佳奈は僕の手を離すと、パンパンとスカートの埃を払う仕草をした。「まずは、ここから降りましょうか。先生に見つかったら、また面倒なことになるしね」
彼女はそう言うと、僕に先んじて屋上の出口へと歩き出した。その軽やかな足取りは、まるで何も重荷を背負っていないかのようだ。本当に、彼女は僕と同じ高校生なのだろうか。その佇まいは、どこか達観した大人のようにも、あるいは全てを諦めた子供のようにも見えた。
錆びた扉を開け、薄暗い階段を二人で降りていく。コンクリートの壁に反響する僕たちの足音だけが、やけに大きく聞こえた。
教室に戻るのだろうか。それとも、本当に彼女が言う「いい景色」とやらに連れて行かれるのだろうか。
僕の頭の中は、様々な疑問符で埋め尽くされていた。けれど、不思議と、さっきまでの死にたいという強烈な衝動は、少しだけ薄らいでいるのを感じていた。
階段を降りきり、一階の廊下に出ると、昼休みの喧騒が僕たちを迎えた。生徒たちの賑やかな声、部活動に向かう足音、窓から差し込む強い日差し。
それは、僕が自ら遠ざけようとしていた、日常の風景だった。
「ねえ、水上くん」
隣を歩く佳奈が、ふと僕の名前を呼んだ。今日初めて会ったはずなのに、彼女はごく自然に僕を名前で呼ぶ。
「……なんだ」
「お腹、空いてない? 私、お弁当持ってきたんだけど、よかったら一緒にどうかなって」
彼女はそう言って、可愛らしい布で包まれた弁当箱を小さく掲げて見せた。その屈託のない笑顔に、僕は一瞬言葉を失う。
死のうとしていた僕に、弁当を一緒に食べようと誘う転校生。
あまりにも突飛な状況に、僕は現実感を失いそうだった。しかし、彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられると、断るという選択肢はどこかへ消え去ってしまう。
「……別に、構わないけど」
僕はぶっきらぼうにそう答えるのが精一杯だった。
佳奈は嬉しそうに「やった!」と小さく声を上げると、「じゃあ、中庭に行こうよ。あそこなら静かだし、木陰もあって涼しいから」と僕の手を再び軽く引いた。
彼女の温かい手に引かれるまま、僕は中庭へと向かう。
蝉の声は相変わらずやかましい。けれど、さっき屋上で聞いた時とは、少しだけその響きが違って聞こえるような気がした。
僕の心の中に生まれた、この小さな変化。
それが何を意味するのか、まだ僕には分からなかった。ただ、高坂佳奈という存在が、僕の止まっていた時間を、ほんの少しだけ動かし始めたことだけは、確かなことのように思えた。
余命一年半の彼女と、今にも消えそうな僕。
二人の奇妙な物語は、こうして、夏の陽射しが照りつける昼下がりに、静かに幕を開けたのだった。
高坂佳奈に手を引かれるまま、僕は中庭へと足を踏み入れた。
昼休みの喧騒が嘘のように、そこは静けさに包まれていた。高く伸びた木々が強い日差しを遮り、地面には濃い影を落としている。風が通り抜けるたびに、葉擦れの音が心地よく耳に届いた。隅には忘れられたように咲いている紫陽花が、梅雨の名残を惜しんでいるかのようだ。
「ほら、ここなら涼しいでしょ?」
佳奈はそう言うと、一番大きな木の根元に腰を下ろし、僕にも隣に座るよう促した。僕は少し戸惑いながらも、言われるままに彼女の隣に腰を下ろす。硬い地面の感触が、制服越しに伝わってきた。
佳奈は慣れた手つきで可愛らしい風呂敷包みを解くと、中から二段重ねの弁当箱を取り出した。蓋を開けると、彩り豊かなおかずが綺麗に詰められており、ふわりと優しい出汁の香りが鼻孔をくすぐる。卵焼き、ミニトマト、ほうれん草のおひたし、そしてメインは鶏の唐揚げだろうか。どれも手作りだと一目で分かった。
「どうぞ。口に合うか分からないけど」
佳奈はそう言って、僕に割り箸を手渡した。僕は一瞬ためらったが、空腹には抗えず、素直に受け取る。最後に誰かと一緒に弁当を広げたのは、いつのことだっただろうか。母が作ってくれた弁当を、教室の隅で一人で食べていた記憶が蘇り、胸の奥が微かに痛んだ。
「……いただきます」
僕は小さく呟き、卵焼きに箸を伸ばした。ほんのり甘い優しい味は、どこか懐かしさを感じさせる。
「美味しい?」
佳奈が期待のこもった目で僕を見つめてくる。
「……ああ」
素っ気ない返事しかできなかったが、嘘ではなかった。久しぶりに食べる、温かい手作りの味だった。
しばらくの間、僕たちは黙々と弁当を食べ進めた。蝉の声と、時折聞こえる生徒たちの遠い笑い声だけが、僕たちの間の沈黙を埋めている。
気まずいというわけではない。けれど、何を話せばいいのか分からなかった。
先に口を開いたのは、佳奈だった。
「水上くんは、いつも屋上にいるの?」
「……別に、いつもじゃない」
「そっか。でも、あそこからの景色、結構好きなんだよね。何もないけど、それがいいっていうか」
彼女は遠くを見るような目をして呟く。その横顔は、やはりどこか掴みどころがない。
「……なんで、転校してきたんだ」
僕は、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。こんな時期に転校してくるのは、何か特別な事情があるのだろう。
佳奈は唐揚げを一つ口に放り込み、もぐもぐと咀嚼してから答えた。
「んー、色々あってね。お父さんの仕事の都合、かな。よくある話だよ」
そう言って彼女はにこりと微笑んだが、その笑顔はどこか曖昧で、本心からの言葉ではないような気がした。けれど、それ以上踏み込んで聞く勇気は、僕にはなかった。
「水上くんは、どうしてあんなところにいたの?」
今度は佳奈が僕に問いかける。その質問は、僕の心臓を鷲掴みにするような鋭さを持っていた。
僕は箸を止め、俯いた。
「……別に。ただ、ぼーっとしてただけだ」
嘘だ。本当は、全てを終わらせようとしていた。けれど、それを目の前の少女に告げることはできなかった。
佳奈は僕の言葉を疑うでもなく、ただ「そっか」と静かに相槌を打った。そして、弁当箱の蓋を閉めながら、ふと思いついたように言った。
「ねえ、水上くん。さっき言ってた『いい景色』、今度の週末にでも見に行かない?」
「……週末?」
「うん。ちょっと遠いんだけど、きっと気に入ると思うな。そこから見る夕焼けが、すっごく綺麗なんだ」
夕焼け、という言葉に、僕は少しだけ心が動いた。最後にちゃんと夕焼けを見たのは、いつだっただろうか。両親が生きていた頃、家族三人で河原を散歩しながら見た、あの燃えるような空の色を、ふと思い出した。
「……なんで、俺を誘うんだ」
僕の疑問は、まだ消えていなかった。今日会ったばかりの、しかも自殺しようとしていた人間に、なぜここまで構うのだろう。
佳奈は少し首を傾げ、悪戯っぽく笑った。
「うーん、それはね……秘密」
そして、こう付け加えた。
「でも、一人で見るより、誰かと見たほうが、夕焼けももっと綺麗に見える気がしない?」
その言葉は、さっき屋上で聞いたものとよく似ていた。彼女は、僕に「一人じゃない」ということを、繰り返し伝えようとしているのだろうか。
僕の心の壁は、まだ厚く高いままだ。けれど、佳奈の屈託のない明るさと、時折見せる寂しげな表情が、その壁に小さなひびを入れ始めているのを感じていた。
昼休み終了のチャイムが、遠くから聞こえてきた。
「あ、もう終わりか。早いな」
佳奈は少し残念そうに呟きながら、手早く弁当箱を片付け始めた。
「じゃあ、週末、どうする? もし気が向いたら、でいいんだけど」
立ち上がりながら、佳奈が僕を見下ろして言った。その瞳には、強要するような色はなく、ただ静かな期待が込められているように見えた。
僕は、まだ「行きたい」とはっきり言うことはできなかった。けれど、心のどこかで、彼女が言う「いい景色」を見てみたいという気持ちが芽生え始めているのも確かだった。
「……考えておく」
それが、僕にできる精一杯の返事だった。
佳奈はそれを聞くと、満足そうに頷いた。
「うん、分かった。じゃあ、また明日ね、水上くん」
そう言って、彼女は僕にひらひらと手を振り、教室へと戻っていく。その後ろ姿は、夏の木漏れ日の中で、どこか儚く揺らめいて見えた。
一人残された中庭で、僕はしばらくの間、佳奈が座っていた場所をぼんやりと眺めていた。
彼女の優しさ、明るさ、そして時折見せる影。
高坂佳奈という少女は、僕にとって、まるで掴みどころのない陽炎のような存在だった。
けれど、その陽炎が、僕の乾ききった心に、ほんの少しだけ潤いを与えてくれたような気がした。
「いい景色、か……」
僕は小さく呟き、重い腰を上げて立ち上がった。
まだ、彼女を信じきれたわけではない。けれど、ほんの少しだけ、明日に続く何かを期待している自分がいることに、僕は気づいていた。
それは、両親を失ってから、初めて感じる微かな希望の光だったのかもしれない。
高坂佳奈と中庭で昼食をとった翌日から、僕の日常に微細な変化が訪れた。
相変わらず僕は教室で孤立しているし、誰かと積極的に関わろうという気力も湧いてこない。けれど、佳奈だけは、まるでそんな僕の周囲に張られた見えない壁など存在しないかのように、ごく自然に話しかけてくるのだった。
「水上くん、おはよう」
朝、教室で顔を合わせれば、彼女は太陽のような笑顔で挨拶をしてくる。僕はぶっきらぼうに頷くか、小さな声で「……ああ」と返すのが精一杯だったが、佳奈はそんな僕の態度を気にする素振りも見せない。
昼休みになると、佳奈は時々僕の席にやってきて、「一緒に食べない?」と誘ってくるようになった。断る理由も特になく、僕は何度か彼女と中庭で弁当を広げた。彼女の手作りの弁当はいつも彩り豊かで、優しい味がした。他愛のない会話を交わしながら食事をする時間は、僕にとって、いつしか苦痛ではないものに変わっていった。
授業中、ふと視線を感じて顔を上げると、佳奈がこちらを見ていることがあった。目が合うと、彼女は悪戯っぽく微笑んで、すぐに視線を黒板に戻す。そんな些細なやり取りが、僕の心をわずかに揺さぶった。
もちろん、僕の抱える虚無感が完全に消え去ったわけではない。夜になれば、両親を失った悲しみとどうしようもない孤独感が、まるで嵐のように心を覆い尽くすこともあった。屋上のフェンスの冷たさを思い出し、再びあの場所へ行きたいという衝動に駆られることも一度や二度ではなかった。
けれど、そんな時、ふと佳奈の笑顔が脳裏をよぎるのだ。
「一人で見るより、誰かと見たほうが、夕焼けももっと綺麗に見える気がしない?」
彼女の言葉が、僕の足を地上に繋ぎ止める、細いけれど確かな錨になっているような気がした。
そして、週末が近づいてきた金曜日の放課後。
ホームルームが終わり、生徒たちが騒がしく帰り支度を始める中、佳奈が僕の席にやってきた。
「水上くん、明日のことなんだけど……」
彼女は少し声を潜め、僕に話しかける。
「……ああ、夕焼けの件か」
僕は平静を装って答えたが、内心では少し緊張していた。この数日間、彼女と話す中で、心のどこかでその「いい景色」とやらに興味が湧いていたのは事実だった。
「うん。もしよかったら、一緒に行かないかなって。場所はね、隣町の海が見える丘なんだ。ちょっとしたハイキングコースにもなってるんだけど」
佳奈はそう言って、鞄から一枚のパンフレットを取り出して見せた。そこには、青い海と空を背景に、緑豊かな丘の写真が載っていた。確かに、そこから見る夕焼けは綺麗そうだ。
「……別に、予定はないけど」
僕はパンフレットから顔を上げ、佳奈の目を見た。彼女の瞳は、期待にきらきらと輝いているように見えた。その純粋な眼差しに、僕は逆らえない何かを感じる。
「本当? やった!」
佳奈は小さくガッツポーズをすると、嬉しそうに続けた。
「じゃあ、明日の午後二時に駅前のバス停で待ち合わせでもいいかな? そこからバスで三十分くらいかかるんだけど」
「……分かった」
僕は短く答えた。自分でも驚くほど、すんなりと承諾の言葉が出ていた。
「よかった。楽しみにしてるね!」
佳奈はそう言うと、満面の笑みを浮かべて自分の席に戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、僕は胸の中に小さな温かいものが灯るのを感じていた。
誰かと約束をして、週末に出かけるなんて、一体いつ以来だろうか。
両親がいた頃の、遠い記憶の断片が脳裏を掠める。
その夜、僕は久しぶりに自分の部屋を少しだけ片付けた。明日着ていく服を選び、鞄に必要なものを詰める。そんな当たり前の行為が、今の僕にとってはひどく新鮮で、どこか落ち着かない気持ちにさせた。
窓の外は相変わらず暗く、蝉の声だけが響いている。けれど、その闇の中に、ほんの小さな光が差し込んできたような気がした。
翌日。
僕は少し早めに家を出て、約束の場所である駅前のバス停へと向かった。夏の太陽がじりじりとアスファルトを照りつけ、汗が滲み出てくる。
バス停には、すでに佳奈の姿があった。白いワンピースに麦わら帽子を被った彼女は、まるで絵本から抜け出してきた少女のように見えた。
「水上くん、おはよう!」
僕に気づくと、佳奈はぱっと顔を輝かせて手を振った。
「……ああ、おはよう」
僕は少し照れくささを感じながら、彼女の隣に立つ。
「ちょっと早く着きすぎちゃった」と佳奈は悪戯っぽく笑う。
「俺もだ」
「ふふっ、気が合うね」
そんな他愛のない会話が、僕たちの間に流れる。それは、数日前には想像もできなかった光景だった。
やがて、目的のバスがやってきた。
僕たちは並んでバスに乗り込み、空いていた後方の席に腰を下ろす。バスが走り出すと、窓の外の景色がゆっくりと流れ始めた。
佳奈は窓の外を眺めながら、時折僕に話しかけてくる。学校のこと、好きな音楽のこと、最近読んだ本のこと。彼女の話はいつも明るく、僕もいつしか自然と相槌を打っていた。
バスに揺られること三十分。僕たちは目的のバス停で降りた。
そこは、駅前とは打って変わって、緑豊かな静かな場所だった。蝉の声と鳥のさえずりだけが聞こえてくる。
「こっちだよ」
佳奈はそう言って、緩やかな坂道を登り始めた。僕は黙って彼女の後ろをついていく。
彼女が言う「いい景色」とは、一体どんなものなのだろうか。
期待と、ほんの少しの不安を胸に、僕は佳奈の背中を追いかけた。
僕の止まっていた時間が、確実に動き出している。そのことを、僕はひしひしと感じていた。
高坂佳奈に導かれるまま、僕たちは緩やかな坂道を登り始めた。木漏れ日が優しく降り注ぎ、時折吹き抜ける風が汗ばんだ肌に心地よい。道端には名も知らぬ小さな花が咲いていて、佳奈は時折立ち止まっては、その花を愛おしそうに眺めていた。
「見て、水上くん。この花、小さくて可愛いね」
彼女はそう言って、足元に咲く紫色の小さな花を指差す。僕は黙って頷いた。普段なら気にも留めないような些細な風景も、佳奈と一緒にいると、なぜか少しだけ違って見えてくる。
しばらく歩くと、視界が開け、目の前に広大な海が広がった。太陽の光を反射してきらきらと輝く水面は、どこまでも続いているように見える。潮風がふわりと頬を撫で、磯の香りが鼻をくすぐった。
「わぁ……!」
思わず、僕の口から感嘆の声が漏れた。屋上から見る、色褪せた街並みとは全く違う、鮮やかで、生命力に満ち溢れた景色だった。
「どう? いい景色でしょう?」
佳奈は僕の隣に並び、満足そうに微笑んだ。その横顔は、太陽の光を浴びて、いつもより少しだけ大人びて見える。
「……ああ。すごいな」
僕は素直な感想を口にした。心の奥底に澱のように溜まっていた何かが、この雄大な景色によって少しだけ洗い流されていくような気がした。
僕たちは丘の上に置かれた古いベンチに腰を下ろし、しばらくの間、黙って海を眺めていた。遠くには小さな漁船が見え、カモメがのんびりと空を舞っている。時間がゆっくりと流れていくのを感じた。
「ここね、私のお気に入りの場所なんだ」
佳奈がぽつりと呟いた。
「小さい頃、よくお父さんと一緒に来たの。夕焼けも綺麗だけど、こうして昼間に海を眺めるのも好きなんだよね。なんだか、心が落ち着くっていうか……」
彼女の声には、どこか懐かしむような響きがあった。
「水上くんは、海、好き?」
「……別に、嫌いじゃない」
僕はぶっきらぼうに答えたが、嘘ではなかった。両親が生きていた頃、夏休みには家族で海水浴に行った記憶がある。あの頃の楽しかった思い出が、不意に胸をよぎった。
しばらく他愛のない話をしていたが、ふと、佳奈が真剣な表情で僕を見つめた。その瞳には、いつもの明るさとは違う、何か深いものが宿っているように見える。
「ねえ、水上くん」
「……なんだ?」
「あのね、私……」
佳奈は何かを言いかけたが、途中で言葉を詰まらせ、俯いてしまった。その表情は、どこか苦しそうで、僕の胸をざわつかせた。
「私、実は……ううん、なんでもない」
彼女は無理に笑顔を作って、そう言った。けれど、その笑顔はどこかぎこちなく、何かを隠しているのが明らかだった。
「……何かあったのか?」
僕は思わず問いかけた。彼女の様子が、いつもと違う。
「ううん、本当に何でもないの。ごめんね、変なこと言って」
佳奈はそう言って、慌てて話題を変えようとした。
「あ、そうだ! そろそろ夕焼けの時間じゃないかな? もう少しあっちの、もっと見晴らしのいい場所に行ってみようよ!」
彼女はそう言って立ち上がり、僕の手を軽く引いた。その手は、ほんの少しだけ震えているような気がした。
僕は何となく釈然としないものを感じながらも、彼女に促されるままに歩き出した。
夕焼けは、言葉を失うほど美しかった。空一面が茜色に染まり、海面にもその色が映り込んでいる。まるで世界全体が燃えているかのような、壮大な光景だった。
「……すごい」
佳奈も、うっとりとした表情で空を見上げている。その横顔は、夕陽に照らされて、儚げで、今にも消えてしまいそうに見えた。
僕たちは言葉もなく、ただ黙ってその景色を目に焼き付けた。
やがて太陽が水平線の向こうに沈み、空の色が深い藍色へと変わっていく。一番星が瞬き始めると、佳奈がぽつりと言った。
「……来てよかった。水上くんと見られて、よかった」
その言葉は、僕の心に温かく染み渡った。
帰り道、バスの中では、佳奈はいつもより口数が少なかった。時折、窓の外を眺めながら、何か考え事をしているような表情を見せる。僕も、さっき彼女が言いかけた言葉が気になっていたが、それを聞き出すことはできなかった。
家に着き、自分の部屋のベッドに倒れ込むと、どっと疲れが押し寄せてきた。けれど、それは心地よい疲労感だった。
佳奈と見た海の景色、そして燃えるような夕焼け。それは確かに、僕の心に何かを残してくれた。
しかし、同時に、彼女のあの時の苦しそうな表情と、言いかけた言葉が頭から離れなかった。
その夜、僕は奇妙な夢を見た。
夢の中の季節は春だった。桜の花びらがはらはらと舞い散り、地面を薄紅色に染めている。それは美しい光景のはずなのに、なぜかひどく寂しく、胸が締め付けられるような感覚があった。
そして、その桜の木の下で、誰かがもがき苦しんでいた。
顔は見えない。けれど、その苦しみは痛いほど伝わってくる。体が思うように動かず、必死に何かを掴もうとしているが、その手は空を切るばかり。意識がだんだんと遠のいていくのが、まるで自分のことのように感じられた。
助けたいのに、声が出ない。体が金縛りにあったように動かない。
ただ、その絶望的な光景を、見ていることしかできなかった。
「……うっ!」
僕は苦しさに呻きながら、目を覚ました。全身に冷や汗をかいている。窓の外はまだ暗く、蝉の声だけが静寂を破っていた。
夢の内容は、あまりにも鮮明で、胸に重くのしかかっていた。
あの苦しんでいたのは、一体誰だったのだろうか。そして、あの言いようのない寂寥感は、一体何を意味しているのだろうか。
僕は言いようのない不安に包まれながら、なかなか寝付けずに、ただ暗闇を見つめていた。
佳奈のあの時の表情と、夢の中の誰かの苦しむ姿が、僕の頭の中で重なり合って離れなかっ
あの丘で見た夕焼けと、その夜に見た不穏な夢。その二つが、僕の心の中で奇妙なコントラストを描きながら、数日が過ぎた。
高坂佳奈は相変わらず明るく振る舞っていたが、時折見せる翳りのような表情や、何かを言いかけては言葉を飲み込むような仕草が、僕の胸に小さな棘のように刺さったままだった。
ある日の放課後、佳奈は僕を屋上に呼び出した。あの、僕が全てを終わらせようとした場所に、再び二人で立つ。蝉の声は変わらず喧しいが、以前のような絶望感は、そこにはなかった。
「水上くん、少し、話があるの」
佳奈はフェンスに寄りかかり、遠くの空を見つめながら切り出した。その声は、いつもより少しだけ低く、真剣みを帯びている。
「……なんだ?」
僕は彼女の隣に立ち、同じように空を見上げた。白く霞んだ夏の空は、どこまでも続いているように見える。
「あのね……私、やりたいことがあるんだ」
佳奈はゆっくりと、言葉を選ぶように話し始めた。
「たくさん、じゃないんだけど……でも、どうしても叶えたいこと。いくつか、リストにしてるの」
彼女はそう言って、小さな手帳を取り出し、僕に見せた。そこには、可愛らしい文字でいくつかの項目が書き出されている。
「例えば……二人乗りの自転車に乗りたい、とか。手作りのケーキを一緒に作りたい、とか。あとは……そうだな、制服デート、とかもしてみたいな」
佳奈は少し照れたように笑いながら、リストを指差す。どれも、ごく普通の、どこにでもあるような願い事ばかりだった。けれど、彼女の口から語られると、それは何か特別な意味を持っているように感じられた。
「それでね、水上くんにお願いがあるの」
佳奈は僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。その瞳には、切実な何かが宿っている。
「このリストを叶えるのに、付き合ってほしいんだ。……ううん、誤解しないで。本当の恋人として、じゃなくていいの。ただ、この願いを一緒に叶えてくれる、期間限定のパートナー、みたいな感じで」
「……期間限定の、パートナー?」
僕は思わず聞き返した。彼女の言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「うん。変なお願いだって分かってる。でも、私にはあまり時間がないのかもしれないから……だから、どうしても、誰かと一緒に、これらのことを経験してみたいんだ」
佳奈の声は、微かに震えていた。そして、彼女は僕の目から視線を逸らし、小さく呟いた。
「もし、迷惑じゃなかったら……ダメ、かな?」
彼女の言葉の端々に滲む切実さと、どこか諦観したような響き。そして、あの夜に見た夢の光景が、僕の頭の中で重なった。
「時間がないのかもしれない」――その言葉が、僕の胸に重く響く。
彼女が何を隠しているのか、僕にはまだ分からない。けれど、彼女が何か大きなものを抱え、そしてそれに抗おうとしていることだけは、痛いほど伝わってきた。
僕はしばらく黙って考えていた。
僕自身、両親を失い、生きる意味を見失っていた。そんな僕が、彼女の願いを叶える手伝いなどできるのだろうか。
けれど、同時に、彼女の存在が、僕の止まっていた時間を少しずつ動かし始めていたのも事実だった。彼女といると、ほんの少しだけ、世界が色づいて見える気がした。
「……いいよ」
僕は、自分でも驚くほど静かな声で答えた。
「俺でよければ、付き合う」
佳奈は驚いたように顔を上げ、大きな瞳を瞬かせた。そして、次の瞬間、その瞳からぽろぽろと涙が溢れ出した。
「……ほんと? ほんとに、いいの?」
「ああ。ただし、期間限定だぞ」
僕は少し照れ隠しに、ぶっきらぼうに付け加えた。
佳奈は涙を拭うのも忘れ、何度も「ありがとう」と繰り返した。その涙は、悲しみの涙ではなく、安堵と喜びの涙のように見えた。
僕たちは、こうして奇妙な「仮の恋人」になった。
それからの日々は、目まぐるしく過ぎていった。
佳奈のリストを一つずつ消化していく。二人乗りの自転車で海沿いの道を走ったり、ぎこちない手つきで一緒にケーキを焼いたり、映画館で他愛のないラブコメディを見て笑い合ったり。
制服を着て、近所の小さな遊園地にも行った。観覧車の一番高い場所から見る街の景色は、屋上から見るそれとは全く違って見えた。隣に佳奈がいるだけで、世界はこんなにも変わって見えるのかと、僕は何度も驚かされた。
佳奈は、リストの項目を一つ叶えるたびに、心からの笑顔を見せた。その笑顔を見るたびに、僕の心も温かくなった。
けれど、同時に、僕は言いようのない焦りを感じていた。
彼女の「時間がないのかもしれない」という言葉が、常に頭の片隅にあったからだ。
一日一日が、まるで砂時計の砂が落ちるように、確実に過ぎていく。
佳奈と過ごす時間は、かけがえのないものであり、大切にしたいと心から思う。けれど、その一方で、この幸せな時間がいつか終わってしまうのではないかという不安が、常に僕の胸を締め付けた。
彼女が時折見せる、ふとした瞬間の物憂げな表情。
薬を飲む姿を、偶然見かけてしまったこと。
そして、あの夜に見た、誰かが苦しむ夢。
それらが全て、僕の中で不穏なパズルのピースのように散らばっている。
佳奈は、僕に本当のことを話してはくれない。
僕は、それを問い詰めることもできない。
ただ、与えられた「今」を、精一杯彼女と一緒に生きる。それしか、僕にできることはなかった。
夏が終わりを告げようとし、蝉の声が少しずつ弱々しくなっていく。
僕たちの「仮の恋人」としての時間は、確実に積み重なっていく。
けれど、その一方で、見えない何かが、僕たちを刻一刻と追い詰めているような気がしてならなかった。
彼女の笑顔の裏に隠された真実を知るのが怖い。けれど、知らなければ、僕は本当の意味で彼女に寄り添うことはできないのかもしれない。
そんな相反する思いを抱えながら、僕は過ぎていく日々を見つめていた。
佳奈の余命という言葉の意味を、僕はまだ、本当の意味では理解していなかった。
八月も終わりに近づき、あれほどやかましかった蝉の声も、どこか力を失い始めていた。夏の終わりを惜しむかのように、夕暮れの空はひときわ美しく燃える日が続いた。
そんなある日、佳奈が僕に声をかけてきたのは、いつものように放課後の教室だった。
「ねえ、水上くん。今週末、駅前の河川敷で花火大会があるんだけど……一緒に行かない?」
彼女は少し頬を赤らめながら、期待のこもった瞳で僕を見つめる。その手には、花火大会のポスターが握られていた。
「花火大会……」
僕は思わず顔をしかめた。人混みは苦手だ。あの喧騒と熱気は、僕の心をざわつかせる。
佳奈のリストには、確かに「一緒に花火を見る」という項目があったのを思い出す。彼女のキラキラとした瞳を見ると、断るという選択肢は、僕の中から消え去っていた。
「……人が多いのは、嫌いだけど」
僕はぼそりと呟いた。それが、僕にできる最大限の抵抗だった。
「大丈夫! ちょっと早めに行って、いい場所を取れば、そんなにギュウギュウにはならないと思うし!」
佳奈は僕の渋面を意に介す様子もなく、嬉しそうに声を弾ませる。
「それに、浴衣、着てみたいんだよね。水上くんにも、見てほしいな」
そう言って悪戯っぽく微笑む彼女に、僕はもう何も言えなかった。
そして、花火大会の当日。
夕暮れ時、待ち合わせ場所の駅前には、すでに多くの人が集まり始めていた。僕は少し早めに着いて、人々の賑わいをぼんやりと眺めていた。
やがて、カランコロン、と軽やかな下駄の音が近づいてきた。振り返ると、そこに立っていたのは、淡い水色の地に朝顔の柄が描かれた浴衣を身にまとった佳奈だった。髪は綺麗に結い上げられ、小さな花の飾りが揺れている。いつもとは違う、しっとりとした佇まいに、僕は思わず息を飲んだ。
「……どうかな? 変じゃない?」
佳奈は少し不安そうに、僕の顔を覗き込む。
「……別に、変じゃない。似合ってる」
素っ気ない言葉しか出てこなかったが、それは紛れもない本心だった。夏の夕暮れの光の中で、彼女はひときわ輝いて見えた。
僕たちは人でごった返す河川敷を歩き、少し離れた土手の上に腰を下ろした。佳奈の言う通り、早めに来たおかげで、比較的ゆったりと座ることができた。
夜空が藍色に染まり、星が瞬き始める頃、最初の花火が打ち上げられた。ドン、という大きな音と共に、夜空に大輪の花が咲く。
「わぁ……!」
佳奈は子供のようにはしゃぎ、空を見上げる。その横顔は、花火の光に照らされて、きらきらと輝いていた。
「たーまや! ほら、水上くんも!」
彼女は僕の腕を軽く叩きながら促す。
僕は少し恥ずかしかったが、彼女の期待に応えるように、小さな声で呟いた。
「……かーぎや」
けれど、その声は周囲の歓声や花火の音にかき消され、誰の耳にも届かなかっただろう。
次々と打ち上げられる花火は、どれも美しく、幻想的だった。菊、牡丹、柳……色とりどりの光の饗宴が、僕たちの頭上で繰り広げられる。
佳奈は時折僕の顔を見上げ、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔を見るたびに、僕の心は温かいもので満たされていくのを感じた。この時間が、永遠に続けばいいのに、とさえ思った。
やがて、フィナーレの壮大な連射が終わり、夜空に静寂が戻る。人々は一斉に立ち上がり、家路へと向かい始めた。僕たちも、その人の波に押されるようにして歩き出す。
「すごかったね、水上くん! 来てよかった!」
佳奈は興奮冷めやらぬ様子で話しかけてくる。
「ああ……」
僕は相槌を打ちながら、彼女の足元に目をやった。慣れない下駄のせいか、その歩みは少しぎこちない。
そして、ふと、彼女の右足の指の付け根あたりが赤く擦れているのに気づいた。白い足袋には、うっすらと血が滲んでいる。下駄の鼻緒にも、小さな血の跡が見えた。
「佳奈、足……」
僕は思わず声をかけた。
「え? ああ、これ? ちょっと擦れちゃったみたい。でも、大丈夫だよ、大したことないから」
佳奈は笑顔で取り繕おうとするが、その顔は少し痛みを堪えているように見えた。
「無理するな。少し休むか?」
「ううん、平気。早く帰らないと、もっと混んじゃうし」
そう言って、彼女は再び歩き出そうとしたが、明らかに足を引きずっている。
「……馬鹿だな、お前は。痛いなら痛いって、ちゃんと言えよ」
僕はため息をつき、彼女の前に屈み込んだ。
「え? み、水上くん?」
「ほら、乗れ。おぶってやる」
「で、でも……そんな、悪いよ!」
佳奈は慌てて遠慮しようとするが、僕は構わずに言った。
「いいから、早く。このままじゃ、もっと酷くなるだろ。それとも、裸足で歩くつもりか?」
僕の少し強い口調に、佳奈は戸惑いながらも、おそるおそる僕の背中に身を委ねた。
彼女の体は、思ったよりもずっと軽かった。けれど、その温もりが、僕の背中に確かに伝わってくる。
「……ごめんね、水上くん。重くない?」
耳元で、佳奈が申し訳なさそうに囁く。
「別に。お前、ちゃんと飯食ってるのか?」
僕はわざとぶっきらぼうに答えた。
「も、もちろん食べてるよ! 失礼だなあ」
佳奈は少しむくれたように言ったが、その声にはどこか安心したような響きがあった。
帰り道、僕たちはゆっくりと歩いた。人の波は少しずつまばらになり、夏の夜の虫の声が聞こえ始める。
「……花火、本当に綺麗だったね」
背中から、佳奈の穏やかな声が聞こえる。
「ああ」
「水上くんと一緒に見られて、よかった。リストの一つ、また叶っちゃった」
彼女は嬉しそうに、僕の肩に頬をすり寄せた。その仕草に、僕の心臓が小さく跳ねる。
「……お前のリスト、まだたくさんあるのか?」
僕はふと尋ねてみた。
「うーん、そうだね。でも、焦らなくてもいいかなって、最近思うようになったんだ。水上くんと一緒なら、一つ一つが、すごく大切な時間になるから」
その言葉は、僕の胸に温かく響いた。
「……なあ、佳奈」
「ん?」
「その……足、大丈夫なのか? 病院とか、行かなくていいのか?」
僕は、ずっと気になっていたことを口にした。彼女の体調は、本当に大丈夫なのだろうか。
「うん、大丈夫だよ。これはただの擦り傷だから。心配してくれて、ありがとう」
佳奈はそう言って、僕の首に回した腕に、そっと力を込めた。その温もりが、僕の不安を少しだけ和らげてくれるような気がした。
駅までの道は、まだ少し距離があった。けれど、僕の足取りは、不思議と軽かった。
背中に感じる佳奈の温もりと、彼女の穏やかな寝息。
この時間が、少しでも長く続けばいい。そう願わずにはいられなかった。
そして、同時に、彼女が隠している「何か」に対する不安も、消えることはなかった。
夏の終わりが、僕たちにどんな未来をもたらすのか。それはまだ、誰にも分からなかった。
はい、承知いたしました。「クリスマス」「痩せていく佳奈」「プレゼントと広場のツリー」という要素を盛り込み、続きの⑧を執筆します。
題名:余命一年半の彼女と今にも消えそうな僕。⑧
あれから季節は何度か巡り、夏の喧騒は遠い記憶の彼方へと消え去っていた。木々は葉を落とし、街は吐く息も白くなるほどの寒さに包まれている。
十二月。街のショーウィンドウはクリスマス一色に染まり、きらびやかなイルミネーションが人々の心を浮き立たせていた。
僕と佳奈の「仮の恋人」としての関係は、相変わらず続いていた。彼女のリストは、一つ、また一つと着実に消化されていった。秋には二人で紅葉を見に行き、手作りの弁当を広げた。文化祭では、クラスの出し物で一緒にお化け屋敷の受付をしたのも、今となっては良い思い出だ。
けれど、季節が移ろうにつれて、僕は佳奈の些細な変化に気づき始めていた。
以前よりも顔色が悪く見える日が増えたこと。時折、息苦しそうに胸を押さえる仕草をすること。そして何より、彼女の体が、少しずつ痩せ細ってきているように感じられたのだ。
浴衣を着た夏の日にはまだ気づかなかった、その変化。重ね着をする季節になっても、ふとした瞬間に触れる手首の細さや、以前よりも浮き出て見える鎖骨が、僕の胸を締め付けた。
それでも佳奈は、僕の前ではいつもと変わらず明るく振る舞い、リストの項目を一つでも多く叶えようと、前向きに日々を過ごしていた。その健気さが、僕には痛々しく映ることもあった。
クリスマスイブの夜。
僕たちは、駅前で待ち合わせをしていた。一応、仮ではあるけれど、僕もささやかなプレゼントを用意していた。何を選べばいいのか随分と悩んだ末に、温かそうな手編みのマフラーを選んだ。不器用な僕が選んだものだ、気に入ってくれるだろうか。
「水上くん、こっち!」
待ち合わせ場所に少し遅れてやってきた佳奈は、白いコートに赤いマフラーを巻き、嬉しそうに僕に手を振った。その顔は少し青白いようにも見えたが、笑顔はいつものように太陽みたいだ。
「ごめん、待った?」
「いや、別に」
僕はぶっきらぼうに答えながら、彼女に小さな紙袋を差し出した。
「これ……クリスマス、だから」
「え! わあ、ありがとう! 開けてもいい?」
佳奈は子供のように目を輝かせ、僕の返事を待たずに袋を開ける。中から出てきたマフラーを見ると、彼女は「わあ、可愛い! すごく温かそう!」と声を弾ませた。そして、すぐに自分の首に巻いていた赤いマフラーを外し、僕が贈ったマフラーを丁寧に巻き直す。
「どうかな? 似合う?」
「……ああ、いいんじゃないか」
僕の素っ気ない返事に、佳奈は満足そうに微笑んだ。
「私もね、水上くんにプレゼント、あるんだよ」
そう言って、佳奈は鞄から小さな箱を取り出した。中には、シンプルなデザインの銀色のキーホルダーが入っていた。小さな星のチャームが付いている。
「水上くん、いつも鍵をポケットにそのまま入れてるでしょ? これなら、少しは失くしにくくなるかなって」
「……ありがとう」
僕はそのキーホルダーを受け取り、ポケットにしまい込んだ。温かい気持ちが、胸の中に広がっていく。
「ねえ、水上くん。駅前の広場に、大きなクリスマスツリーが飾られてるんだって。見に行こうよ!」
佳奈はそう言うと、僕の手にそっと自分の手を重ねてきた。その手は、以前よりもずっと細く、そして少し冷たいように感じられた。僕は無言でその手を握り返す。彼女の指が、僕の指に絡みつく。
広場に着くと、そこには巨大なクリスマスツリーがそびえ立っていた。色とりどりの電飾がきらめき、周囲には楽しそうなカップルや家族連れの姿があった。
「わあ……綺麗……!」
佳奈は感嘆の声を漏らし、ツリーを見上げる。その横顔は、イルミネーションの光に照らされて、どこか儚げで、消えてしまいそうに見えた。
僕たちはしばらくの間、言葉もなくツリーを眺めていた。繋いだ手から伝わる、佳奈の微かな温もり。それが、今の僕にとっては何よりも大切なもののように感じられた。
「……なあ、佳奈」
僕は、ずっと胸の内にあった不安を、言葉にせずにはいられなかった。
「最近、ちゃんと食べてるのか? 少し、痩せたように見えるけど……」
僕の言葉に、佳奈は一瞬、びくりと肩を震わせた。そして、ゆっくりと僕に視線を向ける。その瞳には、いつもの明るさとは違う、深い悲しみの色が浮かんでいるように見えた。
「……うん、大丈夫だよ。ちょっと、食欲がない時もあるけど……でも、ちゃんと食べてるから。心配しないで」
彼女は無理に笑顔を作って、そう言った。けれど、その笑顔はどこか力なく、僕の不安を拭い去ることはできなかった。
「水上くん」
佳奈は僕の手をぎゅっと握りしめ、真剣な眼差しで僕を見つめた。
「私ね、今、すごく幸せだよ。水上くんとこうしてクリスマスを過ごせて、本当に嬉しい。この時間があるから、私……頑張れるんだ」
彼女の言葉は、僕の胸に深く突き刺さった。「頑張れる」という言葉の裏に隠された、彼女の本当の気持ち。それを僕は、まだ知らない。
「……俺も、佳奈といると、楽しい」
僕は、ようやくそれだけの言葉を絞り出した。それは、紛れもない本心だった。彼女と出会ってから、僕の世界は確実に色を取り戻し始めていた。
佳奈はそれを聞くと、心から嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、どんなイルミネーションよりも明るく、僕の心を照らしてくれるようだった。
「ありがとう、水上くん。……大好きだよ」
そう言って、佳奈は僕の肩にそっと頭を寄せた。その小さな温もりが、僕の心を締め付ける。
僕たちは、しばらくの間、寄り添いながらツリーを眺めていた。
楽しいはずのクリスマス。けれど、僕の胸には、言いようのない不安と、そして彼女への愛おしさが複雑に絡み合っていた。
彼女が抱える秘密。そして、日に日に痩せていく彼女の体。
僕は、いつか来るかもしれない「その日」に、どう向き合えばいいのだろうか。
そんなことを考えながら、僕は佳奈の細い肩を、そっと抱き寄せた。
雪がちらつき始めたクリスマスの夜空の下で、僕たちの時間は、静かに、そして確実に過ぎていくのだった。
クリスマスが過ぎ、新しい年が明けた。厳しい寒さはまだ続いていたが、日差しにはほんの少しだけ春の気配が感じられるようになってきた。
僕と佳奈の関係は、周囲から見ればごく普通の恋人同士のように映っていたかもしれない。けれど、僕の胸の奥には、常に言いようのない不安が渦巻いていた。日に日に痩せていく佳奈の姿を見るたびに、心臓が締め付けられるような思いだった。
三月のある朝。いつものように、僕たちは一緒に登校していた。
「おはよう、水上くん。今日は少し暖かいね」
佳奈は白い息を弾ませながら、僕の隣で微笑んだ。その顔色は相変わらず優れなかったが、努めて明るく振る舞っているのが分かった。
「ああ。でも、まだ油断はできないな」
僕はそう答えながら、彼女の足取りがいつもより少しおぼつかないことに気づいていた。時折、小さく咳き込む姿も痛々しい。
学校へと続く坂道を登り始めた、その時だった。
突然、佳奈が「うっ……」と小さく呻き声を上げ、その場に立ち止まった。
「佳奈? どうしたんだ?」
僕が心配して声をかけると、彼女は胸を押さえ、苦しそうに顔を歪めていた。
「……なんでも、ない……ちょっと、息が……」
そう言いかけた佳奈の呼吸が、みるみるうちに浅く、速くなっていく。肩が大きく上下し、顔からは血の気が引いていくのが分かった。
「佳奈! しっかりしろ!」
僕は慌てて彼女の肩を支える。過呼吸だ。以前にも、何度か軽い症状を見せたことはあったが、これほど酷いのは初めてだった。
「大丈夫……大丈夫だから……学校、行かなきゃ……」
佳奈は途切れ途切れの声でそう言うが、その瞳は焦点が定まらず、苦しげに喘いでいる。
「馬鹿なこと言うな! すぐに病院に行くぞ!」
僕は彼女を抱きかかえようとしたが、佳奈は弱々しく首を振った。
「やだ……病院は、行かない……学校がいい……水上くんと、一緒に……」
その懇願するような眼差しに、僕は言葉を失った。彼女にとって、学校で過ごす時間は、それほどまでにかけがえのないものなのだろうか。
幸い、少しして佳奈の呼吸は落ち着きを取り戻したが、顔色は真っ青で、立っているのもやっとという状態だった。僕は無理やり彼女を近くのベンチに座らせ、背中をさすった。
「……本当に、大丈夫なのか?」
「うん……もう、平気。ごめんね、心配かけて」
佳奈は力なく微笑んだが、その笑顔は痛々しいほどだった。
結局、その日は学校を休ませ、僕も付き添って彼女の家まで送っていくことにした。佳奈の両親は仕事で不在のようだった。
彼女の部屋のベッドに横たわらせ、僕は黙ってそばに座っていた。部屋には、彼女の好きなキャラクターのぬいぐるみや、僕と一緒に撮った写真が飾られている。それを見るたびに、胸が締め付けられた。
しばらくして、少し顔色が戻ってきた佳奈が、静かに口を開いた。
「……水上くん、驚かせちゃってごめんね」
「別に……。それより、本当に病院に行かなくていいのか? 無理してるんじゃないのか?」
僕の問いに、佳奈はゆっくりと首を横に振った。そして、意を決したように、僕の目を真っ直ぐに見つめた。
「……ずっと、隠しててごめん。でも、もう、話さなきゃいけないよね」
彼女の声は、か細く、震えていた。
「私ね……心臓が悪いの。生まれつき、じゃなくて……進行性の病気だって、言われてる」
その言葉は、僕の頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を与えた。心臓の病気――。だから、あんなに苦しそうにしていたのか。だから、日に日に痩せて……。
「……いつからだ」
僕は、絞り出すように尋ねた。
「診断されたのは、中学の終わり頃。でも、本格的に症状が出始めたのは、高校に入ってからかな……。それで、こっちに引っ越してきたの。少しでも、空気のいいところで療養した方がいいって、お医者さんに言われて」
佳奈は、一つ一つ言葉を選びながら、静かに語り始めた。
「余命、とか……そういうことも、言われたの?」
聞きたくない、けれど聞かなければいけない。僕は、震える声で問いかけた。
佳奈は一瞬、言葉を詰まらせ、そして、小さく頷いた。
「……うん。最初に倒れた時……一年半くらい、かなって」
一年半――。その言葉が、僕の脳裏に焼き付いた。僕たちが「仮の恋人」として過ごしてきた時間は、まさにその「余命」の期間だったのだ。
「……ごめんね、水上くん。ずっと黙ってて。怖かったんだ。本当のことを言ったら、水上くんが離れていっちゃうんじゃないかって……」
佳奈の瞳から、涙が溢れ出した。
僕は、何も言えなかった。ただ、彼女の細い手を、強く握りしめることしかできなかった。
そして、佳奈は、さらに衝撃的な事実を告げた。
「あのね……水上くんのお母さんと、私、同じ病院に入院してた時期があるの。病室も、隣同士だったんだよ」
「……え?」
僕は、信じられないという思いで佳奈の顔を見つめた。母が亡くなる前の数ヶ月、僕は毎日のように病院に通っていた。けれど、佳奈の姿をそこで見た記憶はなかった。
「私がね、去年の四月に一度、病院で大きく体調を崩して倒れたことがあるの。意識が朦朧として、すごく苦しくて……もうダメかもしれないって思った時、誰かが私の手を握って、大丈夫だって、声をかけてくれたんだ」
佳奈は、遠い目をして語り続ける。
「その時、顔はよく見えなかったんだけど……男の子の声だった。それがね、水上くんだったんだよ。お母さんのお見舞いに来てた水上くんが、たまたま私の病室の前を通りかかって、助けてくれたの」
その言葉を聞いた瞬間、僕の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが一つに繋がった。
あの夜に見た夢――春、桜の花びらが舞い散る中で、誰かがもがき苦しんでいた光景。体が思うように動かず、意識が遠のいていく感覚。
あれは、佳奈だったのだ。そして、無意識のうちに手を差し伸べていたのは、紛れもなく僕自身だった。
だから、初めて屋上で会った時、佳奈は僕のことを知っているような素振りを見せたのか。
「あなたが、今にも消えてしまいそうに見えたから」――あの言葉の本当の意味を、僕は今、ようやく理解した。
「……そうか……だから、あの時……」
僕は、言葉を失い、ただ呆然と佳奈を見つめていた。
運命、という言葉を信じるわけではない。けれど、僕と佳奈の出会いは、まるで最初から決められていたかのように、見えない糸で繋がっていたのかもしれない。
「水上くんのお母さんね、すごく優しい人だった。私が落ち込んでる時、いつも励ましてくれたんだ。『佳奈ちゃんなら大丈夫。きっと、素敵な未来が待ってるわ』って……」
佳奈は、涙を拭いながら、懐かしそうに微笑んだ。
「だからね、水上くんと出会って、一緒に過ごせるようになって、本当に嬉しかった。お母さんの言った通りだって、思えたから」
僕の胸は、様々な感情で押しつぶされそうだった。
佳奈の病気のこと。余命のこと。そして、母との繋がり。
あまりにも多くの情報が一度に押し寄せ、頭が追いつかない。
けれど、一つだけ確かなことは、僕にとって、高坂佳奈という存在は、かけがえのない、大切な人だということだった。
「……ごめん。俺、何も知らなくて……」
「ううん、謝らないで。私が、言わなかったんだから」
佳奈は、そっと僕の頬に手を伸ばし、涙を拭ってくれた。その手は、やはり少し冷たかった。
「水上くん。私ね、残りの時間、水上くんと一緒に、たくさん笑って過ごしたい。リストも、まだ全部叶えられてないしね」
彼女は、力強く、そう言った。その瞳には、諦めではなく、生きようとする強い意志が宿っていた。
僕は、何も言わずに、ただ強く佳奈を抱きしめた。
彼女の体の細さ、そして、微かな震えが、僕に現実を突きつける。
けれど、もう、目を逸らすことはできない。
僕にできることは、彼女の願いを叶えること。そして、彼女のそばに、最後までいること。
それが、僕にできる、唯一のことなのだと、僕は強く心に誓った。
春の柔らかな日差しが、静かに二人を包み込んでいた。
はい、承知いたしました。佳奈への告白場面、瑞希の嫉妬と怒り、そして佳奈の本心が明らかになる展開を盛り込み、続きの⑨(※前回が⑨でしたので、今回は⑩として執筆させていただきます)を執筆します。
題名:余命一年半の彼女と今にも消えそうな僕。⑩
佳奈から全てを打ち明けられたあの日から、僕たちの関係は少しだけ変わった。
いや、変わったというよりは、より深まったと言うべきだろうか。彼女の病気という現実を共有したことで、僕たちの間には、以前よりもずっと強い絆が生まれたように感じていた。
残された時間を意識するたびに胸が苦しくなるのは変わらない。けれど、それ以上に、彼女と過ごす一日一日が、かけがえのない宝物のように思えるようになった。
季節は春本番を迎え、校庭の桜も満開に近づいていた。あの日、夢で見た光景と同じ、桜の花びらが舞い散る季節。
ある日の放課後、僕はいつものように、中庭の大きな木の下で佳奈を待っていた。彼女がクラスの用事を済ませてから合流する約束だった。
暖かい春の日差しが心地よく、ウトウトとしかけたその時、ふと話し声が聞こえてきた。僕のいる場所からは少し離れた、別の木の陰からだ。
気になってそっと近づいてみると、そこにいたのは佳奈と……佐藤だった。
佐藤は、クラスでも目立つ存在だ。成績優秀、スポーツ万能、おまけにルックスも良く、誰とでも気さくに話せるコミュニケーション能力の高さ。僕とは正反対の、まさに「何でもできる」完璧な人間というイメージが強い。
彼が佳奈に何か話しかけている。その表情は真剣で、いつもの軽やかな雰囲気とは少し違っていた。
僕の胸が、嫌な予感でざわついた。
聞き耳を立てるつもりはなかったが、風に乗って、彼らの会話の断片が聞こえてくる。
「……ずっと、好きだったんだ。高坂さんさえよければ、俺と……」
佐藤の言葉。それは、紛れもない告白だった。
その瞬間、僕の頭が真っ白になった。心臓がドクンと大きく跳ね、同時に、胃の奥から不快なものがこみ上げてくるような感覚に襲われる。吐き気とめまいが、僕の体を支配した。
これ以上、見ていられない。聞いていられない。
僕は、音を立てないように、そっとその場を離れた。足元がおぼつかず、何度もつまずきそうになる。
少し離れた、別の木の幹に寄りかかり、荒い息を整える。
どうして、こんなにも胸が苦しいのだろう。佳奈が誰に告白されようと、僕には関係ないはずだ。「仮の恋人」なのだから。
そう頭では分かっているのに、心の奥底で燃え盛る、黒い炎のような感情を抑えることができなかった。嫉妬、だろうか。こんな感情を抱くのは、初めてだった。
しばらくして、佳奈が僕の姿を見つけ、駆け寄ってきた。
「水上くん! もう、どこにいたの? 探したんだから!」
彼女はいつものように、太陽のような笑顔を僕に向けている。その笑顔が、今の僕にはひどく眩しく、そして苛立たしかった。
「……別に、どこでもいいだろ」
僕は、自分でも驚くほど冷たい声で吐き捨てた。
佳奈は僕の剣幕に少し驚いたように目を見開いたが、すぐに心配そうな表情で問いかける。
「どうしたの、水上くん? 顔色が悪いよ……?」
「……うるさい。放っておいてくれ」
僕は佳奈の言葉を遮り、その場を立ち去ろうとした。
「待って、水上くん!」
佳奈が僕の腕を掴む。その手は、やはり少し冷たかった。
「何かあったの? 私、何か気に障ることしちゃった……?」
彼女の不安げな声が、僕の苛立ちをさらに煽った。
僕は振り向き、溜まりに溜まった感情を、怒りとして佳奈にぶつけてしまった。
「……お前さ、本当は佐藤の方が良かったんじゃないのか? 俺なんかより、あいつの方が、お前のこと幸せにできるだろ! 病気のことも、きっとあいつなら……!」
言葉にすればするほど、自分の惨めさが浮き彫りになる。佐藤と自分を比較して、勝てる要素など一つもない。佳奈にとって、僕よりも佐藤の方が、ずっと良い相手であることは明白だった。
佳奈は僕の言葉に、一瞬、息を飲んだように固まった。そして、その瞳にみるみるうちに涙が浮かんでくる。
「……どうして、そんなこと言うの……?」
彼女の声は、震えていた。
「俺なんかじゃ、お前の本当の支えにはなれない! 仮の恋人だって、結局は俺の自己満足だったんじゃないのかって……!」
僕は、もう自分の感情をコントロールできなかった。
佳奈はしばらく言葉を詰まらせていたが、やがて、小さな声で、しかしはっきりと告げた。
「……佐藤くんの気持ちは、嬉しかったけど……でも、断ったよ」
「……なんでだよ!」僕は思わず叫んでいた。「あんな良い奴、他にいないだろ! 俺なんかより、ずっと……!」
佳奈の言葉が信じられなかった。なぜ、彼女は佐藤を断ったのだろうか。僕への同情か? それとも、病気のことを知られたくないという見栄か?
すると、佳奈は堰を切ったように、僕に怒りをぶつけてきた。
「まだ分からないの!? 水上くんの、馬鹿!!」
彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出す。
「私が、どうして水上くんにリストをお願いしたと思ってるの!? どうして、水上くんとじゃなきゃダメだと思ったか、まだ分からないの!?」
彼女の叫び声が、中庭に響き渡る。
そして、佳奈は涙で濡れた顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「本当はね……私、水上くんのことが、好きなの。ずっと、ずっと前から……初めて病院で会った時から、ずっと……!」
その言葉は、僕の頭をハンマーで殴られたかのような衝撃を与えた。
好き……? 佳奈が、僕を……?
信じられない、という思いと、心の奥底から湧き上がってくる、どうしようもない喜び。そして、彼女を疑ってしまった自分への後悔。様々な感情が、僕の中で渦巻いていた。
「……ごめん……俺……」
僕は、ようやくそれだけの言葉を絞り出した。
佳奈は、まだ涙を流しながらも、少しだけ表情を和らげた。
「……分かってくれたなら、いいよ」
彼女はそう言って、そっと僕の胸に顔をうずめた。その小さな体が、微かに震えている。
僕は、何も言わずに、ただ強く佳奈を抱きしめた。
桜の花びらが、まるで僕たちを祝福するかのように、ひらひらと舞い落ちてくる。
長い間、僕たちの間を隔てていた見えない壁が、ようやく取り払われたような気がした。
けれど、同時に、彼女の命の灯火が、刻一刻と消えようとしているという現実も、重く僕にのしかかっていた。
喜びと不安が入り混じる中で、僕たちの時間は、それでも確かに進んでいくのだった。
佳奈から本当の気持ちを打ち明けられ、僕たちはお互いの想いを確かめ合った。それは、まるで長い夢から覚めたような、それでいてどこか現実離れした感覚だった。
「仮の恋人」という肩書きは消え、僕たちは本当の意味で寄り添い始めた。残された時間は少ないかもしれない。けれど、その一日一日を、大切に、そして精一杯愛おしんで生きていこうと、僕たちは心に誓った。
桜の花びらが完全に散り、新緑が目に眩しい季節へと移り変わろうとしていた、ある日のことだった。
その日の朝、僕は珍しく寝坊をしてしまい、慌てて学校へ向かう支度をしていた。佳奈とは、校門で待ち合わせる約束をしていた。
携帯電話がけたたましく鳴り響いたのは、家を出ようとした、まさにその時だった。
ディスプレイに表示されたのは、佳奈の父親の番号だった。胸騒ぎがして、僕は震える手で通話ボタンを押した。
「……もしもし、水上くんかい?」
電話の向こうから聞こえてきたのは、佳奈の父親の、いつになく憔悴しきった声だった。
「はい、瑞希です。どうかされましたか?」
「……佳奈が、今朝……倒れたんだ」
その言葉は、僕の頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を与えた。一瞬、呼吸が止まり、全身の血の気が引いていくのを感じる。
「……佳奈が? どうして……容態は……?」
僕は、必死に平静を装いながら尋ねた。
「……分からない。ただ、今は……病院で、集中治療室に入っている。お医者様からは……目を覚ますかどうか、まだ何とも言えないと……」
父親の声は、途切れ途切れで、絶望の色が濃く滲んでいた。
「……でも、一応、一命はとりとめた、とだけは……」
僕は、その場に崩れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。
目を覚ますかどうか、分からない――。その言葉が、僕の脳裏で何度も繰り返される。
どうして、こんなことに。昨日まで、あんなに元気に笑っていたのに。
「水上くんには、本当に申し訳ないんだが……今は、家族だけで、佳奈のそばにいさせてほしい。落ち着いたら、必ず連絡するから……」
父親の言葉は、僕にとってあまりにも残酷な宣告だった。佳奈のそばに行きたい。今すぐにでも、彼女の顔を見て、手を握りたい。けれど、その願いは叶わない。
電話が切れた後も、僕はしばらくの間、その場から動けなかった。
頭の中が真っ白で、何も考えられない。ただ、佳奈の名前を、何度も何度も心の中で呼び続けていた。
それから三日間、僕は生きた心地がしなかった。
学校にも行けず、部屋に閉じこもり、ただひたすらに佳奈の無事を祈り続けた。携帯電話を握りしめ、いつかかってくるとも知れない連絡を、息を詰めて待っていた。
食事も喉を通らず、眠ろうとしても、佳奈の苦しそうな顔が浮かんできて、すぐに目が覚めてしまう。
時間が経つのが、恐ろしいほど遅く感じられた。
そして、三日目の夕方。
ついに、佳奈の父親から連絡が入った。
「水上くん……佳奈が、目を覚ましたよ」
その言葉を聞いた瞬間、僕は堰を切ったように涙が溢れ出した。安堵と、そして言葉にできないほどの喜びが、胸の奥から込み上げてくる。
「……ただ、まだ予断を許さない状況だ。でも……佳奈が、水上くんに会いたがっている。もし、よかったら……病院に来てくれないか」
僕は、震える声で「はい」と答えるのが精一杯だった。
急いで身支度を整え、病院へと向かう。足がもつれ、何度も転びそうになった。
病院の廊下は、消毒液の匂いが充満し、重苦しい空気が漂っていた。案内された病室のドアの前に立つと、心臓が張り裂けそうなくらいに高鳴った。
ゆっくりとドアを開けると、そこにいたのは、ベッドの上で静かに横たわる佳奈の姿だった。
顔色は青白く、以前よりもさらに痩せてしまっているように見える。たくさんの管に繋がれ、その姿は痛々しくて、目を背けたくなった。
けれど、彼女は、僕の姿を認めると、力なく、しかし確かに微笑んでくれた。
「……みずき、くん……」
か細い声で、彼女が僕の名前を呼んだ。
僕は、溢れそうになる涙を必死で堪えながら、彼女のベッドのそばに近づいた。そして、そっと、彼女の冷たい手を握りしめる。
「……よかった……本当に、よかった……」
僕の声は、震えていた。
「……ごめんね……また、心配、かけちゃった……」
佳奈は、途切れ途切れにそう言った。その声は、あまりにも弱々しく、今にも消えてしまいそうだ。
僕たちは、しばらくの間、言葉もなく、ただお互いの手を見つめ合っていた。
窓の外は、夕焼けが空を茜色に染めている。それは、あの丘で一緒に見た夕焼けとは違う、どこか悲しげで、終わりを予感させるような色だった。
佳奈の瞳には、以前のような輝きはなかった。けれど、その奥には、まだ確かに、生きようとする小さな灯火が揺らめいているように見えた。
僕は、その灯火が消えないように、ただひたすらに祈り続けることしかできなかった。
僕たちの物語の終わりが、すぐそこまで近づいている。
そのことを、僕は痛いほどに感じていた。
けれど、まだ諦めたわけじゃない。奇跡を信じたい。佳奈と一緒に、未来を歩みたい。
そんな相反する思いが、僕の胸の中で激しくぶつかり合っていた。
静かな病室に、僕たちの浅い呼吸の音だけが、重く響いていた。
佳奈が目を覚ましてから数日間、僕は毎日病院に通い、彼女のそばで過ごした。
彼女の体調は、一進一退を繰り返していた。時には少し元気を取り戻し、僕と笑顔で言葉を交わすこともあったが、またすぐに苦しそうな表情を見せることもあった。その度に、僕の心は激しく揺さぶられた。
ある晴れた午後、いつものように僕が病室を訪れると、佳奈は少しだけ顔色が良く、穏やかな表情をしていた。
「水上くん、来てくれたんだね」
彼女の声は相変わらずか細かったが、どこか嬉しそうだった。
僕がベッドのそばの椅子に腰を下ろすと、佳奈はゆっくりと、僕たちの思い出を語り始めた。
初めて屋上で出会った日のこと。一緒に食べたお弁当の味。二人乗り自転車で走った海沿いの道。花火大会の夜、僕が彼女をおぶって歩いたこと。クリスマスツリーの下で交わした、ささやかなプレゼント。
一つ一つの思い出が、彼女の口から紡ぎ出されるたびに、僕の胸に鮮やかに蘇ってきた。それは、決して長い時間ではなかったけれど、僕たちにとっては、かけがえのない、そして何よりも濃密な時間だった。
「……水上くんと出会えて、本当に良かった。私の人生、水上くんのおかげで、すごく……キラキラしたものになったよ」
佳奈はそう言って、僕の手を弱々しく握りしめた。その手は、やはり少し冷たかった。
「俺の方こそ、佳奈と出会えて……救われたんだ。お前がいなかったら、俺は……今頃、どうなってたか分からない」
僕の言葉に、佳奈は嬉しそうに微笑んだ。
しばらくの間、僕たちは静かに手を握り合い、窓から差し込む柔らかな日差しを感じていた。それは、まるで永遠に続くかのような、穏やかで、満たされた時間だった。
しかし、やがて、佳奈の表情に少しずつ疲労の色が見え始めた。
「……なんだか……眠たくなってきたな……」
彼女は、そう呟くと、ゆっくりと目を閉じようとした。
その言葉に、僕はハッとした。嫌な予感が、僕の全身を駆け巡る。
「佳奈! ダメだ、寝るな! まだ、僕のそばにいてくれ……!」
僕は必死に彼女に呼びかけた。その声は、自分でも驚くほど震えていた。
佳奈は薄っすらと目を開け、僕の顔を見つめた。その瞳には、深い愛情と、そしてどこか諦観したような色が浮かんでいた。
「……ごめんね……みずきくん……もう……体が……思うように、動かないや……」
途切れ途切れの言葉で、彼女は懸命に伝えようとする。
「……でもね……水上くんと……過ごした時間……本当に、幸せだった……ありがとう……」
そして、彼女は最期に、僕に微笑みかけた。それは、僕が今まで見た中で、一番美しく、そして一番悲しい笑顔だった。
「……大好きだよ……みずき、くん……」
そう言って、佳奈はそっと目を閉じた。
握りしめていた彼女の手から、力が抜けていくのが分かった。まだ温もりは残っている。けれど、その温もりが、少しずつ、少しずつ、消えていくのが……僕にははっきりと感じられた。
「……佳奈……? 嘘だろ……? 目を、開けてくれよ……佳奈ッ!!」
僕は、叫んだ。現実を受け入れたくなくて、ただひたすらに彼女の名前を呼び続けた。
けれど、彼女が再び目を開けることはなかった。
静かな病室に、僕の嗚咽だけが響き渡る。
どれくらいの時間が経っただろうか。
いつの間にか、医師と看護師が病室に入ってきていた。
医師は、僕の肩にそっと手を置き、静かな声で言った。
「……残念ですが……。でも、彼女は、苦しまずに、穏やかに行けたんじゃないかなと思います」
その言葉は、何の慰めにもならなかった。僕の心は、深い悲しみと絶望で、完全に打ち砕かれていた。
佳奈がいなくなってから、僕の世界からは再び色彩が消え去った。
毎日が、まるでモノクロームの映画のように、ただ淡々と過ぎていく。何をしても、どこにいても、佳奈のいない現実が、僕に重くのしかかってきた。
屋上に行き、フェンスの向こう側を見下ろしたことも一度や二度ではない。けれど、その度に、佳奈の笑顔が脳裏をよぎり、僕の足を押しとどめた。
「水上くんと出会えて、本当に良かった。私の人生、水上くんのおかげで、すごく……キラキラしたものになったよ」
彼女の言葉が、僕の中で何度も何度も繰り返される。
季節は巡り、再び桜の季節がやってきた。
僕は、あの日、佳奈と初めて出会った屋上に立っていた。
桜の花びらが、はらはらと舞い散っている。それは、あの夢で見た光景と、そして佳奈との出会いと別れを、鮮明に思い出させた。
僕は、ポケットから、佳奈がくれた星のチャームが付いたキーホルダーを取り出した。
それを握りしめ、空を見上げる。
青く澄み渡った空は、どこまでも続いているように見えた。
佳奈はもういない。けれど、彼女と過ごした時間は、確かに僕の中に生きている。
彼女が教えてくれた、人を愛することの喜び、そして、生きることの輝き。
それを胸に、僕はもう一度、前を向いて歩き出さなければならない。
彼女が僕に託してくれた「キラキラしたもの」を、今度は僕が誰かに繋いでいくために。
「……ありがとう、佳奈」
僕は、空に向かって、小さく呟いた。
その言葉は、春の柔らかな風に乗って、どこまでも遠くへ運ばれていくようだった。
まだ、悲しみは完全に癒えたわけではない。
けれど、僕はもう、消えようとは思わない。
佳奈との思い出を胸に、僕は、この世界で生きていく。
彼女がくれた、かけがえのない光を道しるべにして。
余命一年半の彼女と、今にも消えそうだった僕。
二人の物語は、ここで幕を閉じる。
けれど、僕の物語は、まだ、始まったばかりなのだから。
あれから、五年という月日が流れた。
僕は大学を卒業し、小さな出版社で編集者として働いている。忙しい毎日だが、それなりに充実した日々を送っていた。
けれど、心のどこかには、常に佳奈の存在があった。彼女と過ごした、あの短いけれど濃密な時間は、僕の人生の大きな支えとなっていた。
ある春の日の午後。
仕事を終え、自宅に戻ると、パソコンに一通のメールが届いていた。
差出人は、高坂佳奈。
僕は、息を飲んだ。ありえない。彼女はもう、この世にはいないはずだ。
恐る恐るメールを開くと、そこには短いメッセージと、一つの動画ファイルが添付されていた。
「水上くんへ
元気にしてるかな?
このメールが水上くんに届く頃、私はもういないかもしれないね。
実はね、水上くんに話していなかったことがあるの。
よかったら、この動画を見てほしいな。
佳奈より」
僕は、震える手で動画ファイルをクリックした。
画面に映し出されたのは、少し痩せてはいるけれど、穏やかな表情をした佳奈だった。背景は、見慣れた彼女の部屋。おそらく、僕と出会う少し前の映像だろうか。
「……こんにちは、水上くん。未来の水上くんに、このメッセージが届いているといいな」
佳奈は、少し照れたように微笑みながら話し始めた。
「実はね……私、本当は、去年の夏に、もうお別れするはずだったんだ。お医者様にも、そう言われてたの」
僕は、息をのんだ。そんなことは、全く知らなかった。
「でもね、その時、すごく強く願ったんだ。もう一度だけ、生きたいって。やり残したことが、まだたくさんあるから。後悔しないように、精一杯生きたいって……」
彼女の声は、少し震えていた。
「そしたらね……不思議なことが起こったの。少しだけ、時間がもらえたんだ。奇跡だって、思ったよ」
「そして、水上くんと出会えた。水上くんと一緒に過ごした時間は、私にとって、本当に宝物だった。屋上で初めて会った日のこと、覚えてる? あの時、水上くんが今にも消えちゃいそうに見えて、思わず声をかけちゃったんだよね。でも、あの時声をかけて、本当によかったって、心から思ってるよ」
彼女は、僕たちの思い出を、一つ一つ慈しむように語っていく。
「水上くんのおかげで、私のリストも、たくさん叶えることができた。二人乗りの自転車、一緒に作ったケーキ、花火大会……どれも、本当に楽しかったな。水上くんがいなかったら、私はあんなに笑うことも、あんなに胸がときめくことも、きっとなかったと思う」
彼女の瞳が、微かに潤んでいるように見えた。
「本当に、ありがとう。水上くん。私に、生きる希望と、たくさんの幸せをくれて……本当に、ありがとう」
佳奈は深々と頭を下げた。その言葉は、僕の胸に温かく、そして切なく響いた。
「……あ、そうだ。ちょうどいいタイミングかな? 多分、そろそろ水上くんのところに、私からの郵便物が届く頃だと思うんだけど……」
佳奈はそう言って、ふと画面の向こうの何かを見つめるような仕草をした。
その時、タイミングを見計らったかのように、僕の部屋のチャイムが鳴った。
郵便配達員が届けてくれたのは、一通の封筒だった。差出人の名前は、高坂佳奈。消印は、五年も前の日付になっている。
僕は、震える手で封筒を開けた。中には、便箋が数枚入っていた。佳奈の、可愛らしい文字で綴られた手紙だった。
動画の中の佳奈が、僕に優しく語りかける。
「その手紙ね、私が水上くんに宛てて書いた、最後の手紙なんだ。よかったら……私が今、隣にいて、読み上げているような気持ちで、読んでみてくれないかな?」
僕は、頷きながら、手紙に目を落とした。
動画の中の佳奈も、まるで僕の隣にいるかのように、ゆっくりと、その手紙を読み上げるような口調で話し始める。
『親愛なる水上くんへ
この手紙を水上くんが読んでいる頃、私はもう、水上くんのそばにはいられないかもしれません。
そう思うと、やっぱり少し寂しいけれど、でも、後悔はしていません。
だって、水上くんと出会って、一緒に過ごした時間は、私にとって、何物にも代えがたい、かけがえのない宝物だからです。
初めて屋上で会った時、水上くんはすごく寂しそうな顔をしていて、なんだか放っておけませんでした。
生意気かもしれないけれど、私がこの人を支えなきゃって、勝手に思っちゃったんです。
でも、いつの間にか、私が水上くんに支えられていましたね。
一緒に見た夕焼け、二人で笑い転げた映画、ちょっと失敗しちゃった手作りケーキの味……。
全部全部、私の大切な思い出です。
水上くんといると、どんな些細なことでも、すごく楽しくて、時間が経つのがあっという間でした。
病気のことを打ち明けた時、水上くんが私を受け入れてくれたこと、本当に嬉しかったです。
怖かった。嫌われるんじゃないかって、ずっと不安でした。
でも、水上くんは、そんな私を優しく包み込んでくれましたね。
あの時、水上くんがそばにいてくれて、本当に心強かったです。
もし、私が水上くんの心に、少しでも何かを残せたと知れたなら、それ以上に嬉しいことはありません。
水上くんには、たくさんの幸せが訪れることを、心から願っています。
私が水上くんからもらった勇気と優しさを、今度は水上くんが、誰かのために使ってあげてください。
水上くん、どうか、前を向いて生きてください。
私のことを時々思い出してくれたら嬉しいけれど、でも、悲しい気持ちに囚われないで。
水上くんの未来が、たくさんの笑顔で溢れることを、私は空の上から、ずっとずっと見守っています。
たくさんの愛と感謝を込めて。
高坂佳奈』
動画の中の佳奈は、手紙を読み終えると、穏やかな笑顔で僕を見つめた。
「……水上くん。ありがとう。そして、さようなら。でも、これはお別れじゃないよ。またいつか、どこかで会えるって、私は信じてるから」
そして、彼女はそっと手を振り、画面は静かに暗転した。
僕は、手紙を握りしめたまま、しばらくの間、動けなかった。
涙が、止めどなく溢れてくる。けれど、それは悲しみだけの涙ではなかった。
佳奈の温かい言葉が、僕の心に深く染み渡り、凍りついていた何かが溶けていくような感覚があった。
佳奈は、僕に生きる希望を遺してくれた。
そして、彼女自身もまた、僕と出会うことで、後悔のない時間を過ごすことができたのだと知った。
僕たちの出会いは、決して無駄ではなかった。お互いにとって、かけがえのない意味を持っていたのだ。
僕は、窓を開け、春の柔らかな光を浴びた。
空は、あの日と同じように、どこまでも青く澄み渡っている。
佳奈の声が、風に乗って聞こえてくるような気がした。
「ありがとう、佳奈。俺も、前を向いて生きていくよ。お前がくれた光を、今度は俺が、誰かのために灯せるように」
僕は、そっと呟いた。
心の中に、新たな決意が芽生えるのを感じていた。
佳奈との思い出は、決して消えることはない。それは、僕の人生を照らし続ける、永遠の星となるだろう。
余命一年半の彼女と、今にも消えそうだった僕。
僕たちの物語は、ここで、本当に終わりを告げる。
けれど、僕の新しい物語は、佳奈が遺してくれた希望と共に、今、確かに始まろうとしていた。