第七十二話 忘れない姿
綺季が改めて気配を探ると、それは消えた訳ではないことが分かった。先ほどまで活性化していたものが急速に小さくなったので見失いかけたが、ただ活性化していない状態に戻っただけで和の中に気配が残っている。これがどのような存在なのかは結局分からないままだが、先ほど呼び鈴から鳴った音は明確に攻撃の意思があったように感じる。
やはり、この霊は危険だ。
「和先生、今お時間大丈夫ですか? いえ、大丈夫じゃなくても空けてください緊急です」
「ちょちょ、ちょっと落ち着いて。大丈夫だから」
和が大丈夫と言い切るかどうかというくらいで、綺季が和の手を引っ張って歩き出す。もう日も落ちる時間帯。こんな時間から一体どこへ連れて行こうというのか。和には綺季が何を考えているのかさっぱり分からなかったが、それはそれとしてこの状況が段々と楽しくなってきていた。何の用事かは分からないが、綺季が自分を連れ出そうとしている。その事実だけで眠気も疲労も空腹も、何も感じなくなっていた。
「どこに行くの?」
「どこでも良いんですが……少し開けたところが良いです」
どこでも良いとは言ったが、あまり遠くまで行きたくはない。早く解決してしまいたいので、時間をかけて移動する気はなかった。そういう訳で、綺季が選んだのはつい先ほどまで作戦を練っていた公園だった。すべり台、ブランコ、鉄棒があり、あとは砂場が用意されているだけの簡単な公園だ。公園中央には子供数人が鬼ごっこするくらいなら困らない程度のスペースがあるため、和の手を引いてそこまで移動する。
「そこに立っていてください」
「良いけど……何をするの?」
「今から和先生に憑いている霊を祓います」
「れ、霊……?」
和の顔に困惑が浮かぶ。霊といえば、希美たちが例の事件で遭遇したと証言していたらしいが、それ以外で霊などという言葉を聞いた覚えは和にはない。希美たちの証言も恐怖から幻覚を見ただけだろうと言われているし、まさか本当に霊が存在するなんて、和には想像も出来なかった。
もしかして何かのごっこ遊びみたいな感じかな、と一瞬思いもしたが、綺季は小さくて可愛らしいとはいえ高校生だ。普段和が接している小学生でも四年生ともなればなかなかそんなごっこ遊びはしないというのに、ましてや高校生の綺季が、しかもこんな時間にいきなり訪ねてきて遊びというのはなかなか考え辛い。
ならば本当に霊が? いや、まさか……と思考がループしそうになっている和の前で、綺季がお札を取り出す。
「これからこのお札を先生の額に貼り付けます。そうしたら霊が嫌がって先生の中から飛び出してくるはずなので、そこを祓います」
本当に霊が憑いているのかどうか、和には分からない。だが、綺季の話を聞くと、そこはあまり重要ではないかもしれないと思い始めた。何故なら、特に難しい儀式などをする気はないようだからだ。もし針で刺すとか縛り付けて水責めにするとか、そんなことをされるようなら拒否したくもなるが、どうやらやるのはただお札を貼るだけ。霊がいようがいまいが、それだけなら和としても綺季に付き合っても問題なさそうだ。
「うん、分かった。じゃあお願い。えっと、ここに立ってるだけで良いのかな」
「はい、後はこちらで全て片を付けます」
右手の人差し指と中指の間にお札を一枚挟み、念じるように目を閉じる綺季。儀式とかよく分からない和も、何だか厳かな雰囲気にゴクリと唾を飲み込む。少しして、綺季の持つお札が淡く輝き始めた。巫女姿であることも相まって、その幻想的な綺季の姿は行動に説得力を持たせる。どういう原理でお札が輝いているのか分からない和には、もしかしたら本当に自分の知らない世界があるのかもしれないと思えた。
「行きます!!」
カッと目を開いた綺季が、その手のお札を和の額へと叩きつける。パンッと音が響くが、全然痛くないな、と和は暢気なことを考えていた。
グッと、後ろへと引っ張られるような感覚。
額を押されるなら分かるが、何かに引っ張られるというおかしな状況に驚いて振り返ろうとする和。しかしその動きを止めるように、綺季がお札を叩きつけたのとは反対の手で和の手を思い切り引っ張った。目の前の綺季に抱き着くような姿勢になり、よく分からないけど本人がそうさせたんだから良いよね、と言い訳して和はそのまま綺季を抱き締めた。
ウウ、ウウう、あぁアァぁ
そのまま綺季の体の感触とか匂いとかを堪能しようとしていた和の耳に、背後から呻き声のような物が聞こえてきた。忘れそうになっていたが、綺季の言葉が本当なら霊が自分から追い出されてそこにいるはずだ。ならこれはその霊の声なのか。しかし、その割には何というか、ずいぶん可愛らしい声だな、とやはり暢気なことを考えていた。
のど、カ、ちゃン、のどか、ちゃん……
「…………ぇ」
聞こえてきた声に和の思考が真っ白になった。かすれていて分かりにくいが、その声には聞き覚えがあるように思える。
いや、聞き覚え、なんてものじゃない。
だって、一瞬だってその声を、その姿を、その最期を、忘れたことなんてなかった。
ずっと後悔していた。もっと上手く立ち回れなかったのかと。周囲の不満には気が付いていた。それでも、彼女の相手をしている方が楽しかったから、雑にあしらって彼女との交流を優先した。
彼女に直接手を出した奴らはしばらく停学になったけど、そんなもの何の意味もない。だって、彼女はもういないんだから。そいつらがどんな罰を受けたって、心の底から反省したとしても、それに意味なんてない。
何より、そんな事件が起きるに至るまで、周囲の気持ちを理解しながら放置した、最も罪深い自分が、何の罰も受けないままのうのうと生きているのに。何をすれば彼女への償いになるのかも分からず、ただ日々を無為に過ごしているだけなのに。
彼女のことを、忘れたことなんて一度もない。
「若葉ちゃんっ!!」
振り向いた。そこにいるはずの大切な親友の姿を求めて。またあの可愛らしい笑顔を自分に向けてくれると、そう信じて。
そこにあったのは、変わり果てた彼女の姿だった。
浮遊するそのシルエットは確かに彼女、傍依若葉に見える。和の記憶の中の姿と変わらない。あの頃のままの、小柄な彼女のシルエット。
だが、若葉はあまりにも傷だらけだった。
最期に見た、左足が折れ、口や頭から血を垂らしたあの姿。それと比較にならないほどに更に傷付いた彼女は、高校の制服を真っ赤に染め、ボロボロになった歯を見せつけるように口を開き、零れ落ちた眼球に気が付いていないようにただの穴と化したその目で和を見つめていた。
「わか、ば、ちゃん……?」
「下がってください、和先生。恐らく怨霊の類です。すぐに祓いますから」
綺季が、和の前へ出る。その手にお札を構え、浮遊する霊を睨みつけた。綺季も和の反応は見えている。恐らくこの霊が生きていた時、知り合いだったのだろう。だが、それは関係ない。綺季の経験上、ボロボロの霊は間違いなく怨霊の類だ。放置すれば魂に刻み込まれた恨みから厄災を振り撒く。一刻も早く祓ってしまうべき存在だ。
ノどか、ちゃン……
「申し訳ありません。あなたの恨み、分かってあげることは出来ませんが、すぐに楽にしてあげます」
そう言って、綺季が霊に向かってお札を投げようとした。
「待って!!」
その手を抑えるように掴んだ和によって、動きを遮られた。




