第六十八話 大家の悩み
翌日、和が午後六時頃に帰ってくると、二〇一号室の前に一人の男性が立っていた。このアパートの大家だ。和も当然知っている人物であり、しかし日常的に会う訳でもない人物だ。特に仲が良いということもないが、しかし知り合いを無視して通り過ぎるのも何だか感じが悪い。挨拶くらいはしようと思い、一度立ち止まって会釈をする。
「こんばんは、大家さん」
「ん? ああ、空栄さん、こんばんは。今お帰りですか?」
「はい、仕事終わりです」
そうして挨拶だけでさっさと通り過ぎてしまおうとしていた和だったが、しかしどうやら大家は和に用があるらしい。困ったような表情で続けて口を開いた。
「空栄さんは鈴木さんとはお知り合いでしたっけ」
「鈴木さん……?」
鈴木なんていくらでもいる苗字だ。和の生徒にも数人いるし、それ以外の知り合いにも何人かいたはず。一体誰のことを言っているのか分からず、返答出来ないまま首を傾げる。
「ああ、すみません。ここの住人だった鈴木さんです」
「二〇一ですか? あのご夫婦、鈴木さんというんですね。知り合いというほどではないですけど、せいぜい挨拶するくらいですか」
「そうですか……」
一体どうしたというのか、大家は困ったような表情のまましばらく考え込んでしまう。行ってしまっても良いのか、ここで待つべきなのか、和が悩んでいると、それを察した訳ではないだろうがやっと大家が用件を告げた。
「実は鈴木さんが急に出て行ってしまって。何かご存じだったら教えていただきたいのですが」
「え、それは本当に急ですね。昨日帰ってきた時に奥さんに会いましたけど、お酒を飲んで酔っ払っていたくらいで特におかしなところは……」
「こんなところに住んでいられない! すぐにでも出ていくわ! と言って、本当にすぐに出て行ってしまったんです」
妙な話だ。普通引っ越しなんてその日に決めて即実行出来るものではない。引っ越し先も探さなくてはならないし、仮にあらかじめ引っ越し先の検討が済んでいたとしても、大家に伝えたその日にもう出て行くなんて。
「どうも、奥さんが昨晩妙な夢を見たようでして。何かから逃げるように窓から飛び降りて怪我をしたそうなんです」
「なるほど。その夢がこのアパートのせいだと?」
「ええ。本当は事故物件なんでしょ、聞いてないわ、訴えてやる! と言われたのですが、このアパートで過去に死者が出たという事実はありません」
「はぁ……それは何とも」
鈴木の言葉は流石に言いがかりだと思うが、しかし和も少しだけ共感出来る部分があった。それは、家賃だ。一万円というあまりにも安い家賃。確かにこのアパートは古いのであまり高くては入居者がいなくなるだろうと予想出来るが、それにしたって一万円は安過ぎる。過去に何か事件があり、そのせいで安い家賃設定になっていると言われればその方が納得出来る。恐らく鈴木も妙な夢を見たという事実と安過ぎる家賃とを合わせて考えたことで、事故物件などという結論に達したのだろう。
「ちょっと気になったんですけど、ここってどうしてこんなに家賃が安いんですか?」
「え? ああ、それですか……」
家賃のことを尋ねてみると、何か事情があるのか、話しても良いのか悩むように大家の眉が寄る。が、誤魔化しても仕方がないと思ったのか、説明のために言葉を続けた。
「実は四、五年前くらいからでしょうか。今回の鈴木さんのようにこのアパートを出て行く人が急に増えたんです。で、それが一部で噂になっているようでして、なかなか入居者が来てくれなくなってしまったんですよ」
四、五年前となると、ちょうど和が天路ヶ丘小学校の教師になってこのアパートに来た頃だろうか。そういえば何度か家賃が値下げされた覚えがある。和が来たばかりの頃は三万くらいだったはずだ。既に入居している自分の家賃もちゃんと値下げしてくれる良い大家さんだなぁと思っていた。
「本当はこの値段だとなかなか苦しくもあるのでもう少し上げたい気持ちはあるのですが……ああ、すみません。こんなこと、入居者の方に言うことではありませんね」
「いえ……」
どう返せば良いか分からず、苦笑いでその場をしのぐ和。大家には申し訳ないが、一万円でここに住めるのはとてもありがたいのだ。出来ればこのままの値段を維持して欲しい。三万円までなら値上げしても素直に従うつもりではあるが、家賃なんて入居者からすれば安いだけ良い。どうか大家さんが破産しませんように、あと方針転換して急激に値段を上げたりしませんように、と思う和であった。
「はぁ……異音がするとか霊が出るとか、物が勝手に動いたなんて、絶対全部気のせいだよ。そんなことで文句を言われても困るんだよなぁ……」
限界が近いのか、大家の口から愚痴がこぼれる。異音、霊、ポルターガイスト。確かにどれも和は経験したことがない。それに、和以外にもそれなりに長期間このアパートに住んでいる住人もいるが、その人も特に不満なく生活しているように見える。もしこのアパートに何か問題があるのだとしたら、一部の人だけがそれに遭遇するのもおかしな話だ。もしかしたら一部の部屋だけが……とも思ったが、大家だってそれくらい確認しているだろう。やはり大家の言う通り、気のせいである確率が高そうに思える。
「まあ、気を落とさないでください。ほら、鈴木さんは昨日酔っぱらってましたし、そのせいで変な夢を見たんですよ、きっと」
「そうだと良いんですけどね……」
鈴木以外にも同じようなことを言って出て行った人がいる時点でそんな訳がないのだが、和としても何を言えば良いのか分からないので、それっぽいことを言うしかない。これ以上愚痴を聞かされても困ってしまうので、それで話を切り上げて自分の部屋へと帰った。
「ただいまー」
カバンを雑に放り投げ、そのままベッドへ飛び込む。
「ああー、沈む―。ご飯の準備しなきゃー」
あーあー、とベッドの上でうだうだしながら、ご飯の準備しなきゃお風呂に入らなきゃ着替えなきゃと考えている間に、いつの間にか和の意識はベッドに吸い込まれていくのだった。
「――――――」
目を閉じて集中すると、指に挟んで掲げたお札が淡い輝きを放つ。時間をかけて力を込めたお札をそっと置いて、次の一枚に手を伸ばした。そしてまた集中。お札が淡く輝く。
「――――っはぁ……はぁ……こんなもの、かな?」
力を込めたお札の束を懐にしまう綺季。これで準備は完璧、と言えるかどうかは分からないが、少なくとも自分に出来ることはやったはず。
「このまま行く、のは流石に駄目かな。ちゃんと休んでから、うん、明日にしよう」
何枚ものお札に力を込めたため、今の綺季は疲労している。今から何か行動をするのは迂闊に思えた。動くなら少しでも早い方が良いとも思うが、それはそれとして万全の体勢を整えずに向かって失敗するのは愚か者のすることだと理解出来ている。それに、絶対に何かあるとは限らないのだ。もしかしたらちょっと何か感じ取ってしまっただけで、実際には何の問題も起きていない可能性だってある。というか、その方が可能性としては高いとすら思える。
「何もないならそれで良い。万が一、何かあるとしたら放置は出来ないから、だから確認に行くだけ。うん、それだけだから、大丈夫」
そう自分に言い聞かせて、どうにか心を落ち着けて、普段よりも時間をかけてどうにか眠りに就いた。




