第五十二話 男の意地
「ふわぁ……朝早くから運動したら疲れたよ。帰ってもう一回寝ようかなー」
流凪はあくびをしながら鳥居へと足を向ける。時刻はそろそろ朝の六時を回ったところ。周囲は既に明るくなっており、少しずつ気温が上がっていく。それなりの時間朱里の攻撃から逃げ回っていた流凪は結構な汗を掻いているため、先にシャワーを浴びようか、それとも気にせず寝てしまおうか、どうしようかなーと暢気なことを考えていた。
そのまま数歩、神社から出ようと歩を進め
足音がついてこないことに違和感を覚えて振り返る。
「玲?」
俯く玲は、その表情を真っ白な髪で隠したまま動かない。流凪の声に反応する様子もなく、ただその場に立っている。その右手には、先ほど朱里から投げつけられた刀が握られている。切っ先は地面を向き、ぶら下がるようにただその柄を玲の手の内に包まれていた。
言い知れない違和感と不安感。何か取り返しのつかない状況にしてしまったような、最悪を超えた最悪に辿り着いてしまったような。暑い中で運動して身体は火照っているはずなのに、背筋を悪寒が駆け抜ける。
そして、玲が顔を上げる。
そこには
先ほどまで何度も見ていた
嫌らしい笑みが張り付いていた。
「フフ、フフフフ、アッハハハハハ!!」
境内に哄笑の声が響き渡る。それは普段の玲からは考えられない、人を馬鹿にしたような笑い。ただただ不快感を煽る、自身の優越感に浸るためだけの笑い。
「すーっごい、体が軽いわ」
腕を回したり、軽く飛び跳ねたりして体の調子を確かめる玲。いや、朱里。本人の口から説明された訳ではないが、明らかだろう。玲は朱里によって操られている。
「どうして……メイド服は……」
流凪は最初から把握している。玲はこういった霊的干渉に対して無防備であると。だからこそ、常に玲を守るための措置をそのメイド服に施していた。以前の学校での件で込めていた力はそれなりに削がれていたが、当然その後に込め直している。あの妖刀に人を操る力があろうと、玲がメイド服を身に着けている限り問題なく弾けるはずだ。それだけ念入りに力を込めているのだから。
何故玲が操られてしまったのか、その理由を探ろうと目を走らせ、見つけた。メイド服の袖が僅かに斬られている。あの傷のせいでメイド服の守護が揺らいでしまったのだろう。朱里から攻撃されていないことは流凪も見ていたので、この神社で受けた傷ではない。つまり。
「そっかー。玲、言うことを聞かなかったんだね。勝手に道場に入ったでしょ」
道場には近づかないようにメモを残しておいたのに、どうやらその言いつけを破ったらしい。流石の流凪もこうなることを予測して道場に近付くなと伝えた訳ではないが、それにしても最悪な状況になってしまった。玲が道場に近付いた理由は不明だが、流凪には分かる。きっと何か気を利かせて、言いつけを破ってでもやった方が良いことがあると考えたのだろう。
「何か、ダメだなー。どうにも上手くいかない」
思えば、優が自力で怨念に打ち勝ってくれることを期待して様子を見た時から、つまりは最初から、楽観し過ぎたように思える。優の心も守れるように様子見して、まだ時間はあると放置して、玲ならどうとでもしてくれると雑な命令で一人にして。その全てが思った通りに進む可能性も当然あったが、結果的に全てが裏目に出た。
家の方がどうなっているのかは確認していないが、朱里が残り二人だと言っていたので、そういうことなのだろう。勝だけでなく、静香も佳子も優も、全員死んでしまった。それだけでなく、妖刀も完成してしまったし、玲のメイド服に傷が付いたことで操られてしまった。
「はぁー…………どうしようかな、これ」
「どうしようかな? どうも出来る訳ないでしょうが!」
にやついた笑みを浮かべたまま、玲の体で朱里が突っ込んでくる。刀を振り上げグッと踏み込めば、もう目の前。その圧倒的身体能力は、流凪ではどうしようもない。
「今度こそ死ねえええぇぇぇぇッ!!」
その刀が振り下ろされる。流凪の頭に向かって垂直に落ちてくる刀は、股下まで抜けてその小さな体を真っ二つにする
はずだった。
「くっ……る、なちゃん……逃げろ……ッ!」
流凪の頭に当たる直前で止まった刀が、震えている。刀だけではなく、その柄を握る手も、腕も、せめぎ合うように震える。真っ白になった手が、どれだけ力が込められているかを分かりやすく伝えてきていた。
「こいつ、は……俺が、抑える……ッ! 君は、逃げろッ!!」
「……もしかして、優君?」
玲の顔が苦悶に歪む。声も、姿も何もかも篝火玲そのものだが、流凪には感じ取ることが出来た。ずっと怨念に隠れて見え辛かった、田野山優の気配。それが、玲の中に薄くだが存在している。
「このっ……大人しく死んでろよ、グズ男がッ……!」
「た、しかに、俺はグズだ……でも、惚れた女のために気張るくらい、出来んだよ、クソ女ッッ!!」
ずっと、怨念に負けていた。日々の鍛錬のストレスから父親を殺し、助けてくれなかった逆恨みで母親を殺し、妖刀に操られていると自己暗示したせいで祖母を殺し、最期には自分自身すら殺した。
それでも
もう何もかも取り返しがつかなくて、自分のせいで全てが滅茶苦茶になって、遂にはこんな災厄まで生み出してしまったとしても
それでも
せめて、好きになった人くらいは
たった一人くらいは、助けて見せると
「うん、そうだね。ありがとう。それじゃあわたしも、やれることをやろう」
いつだって穏やかで、のんびりしていて、その表情はいつも温かい流凪が。優の覚悟を受けて、その姿を優しく見つめていた流凪の表情が。
完全に、抜け落ちた
機械の如き無表情。何の感情も映さない完全な無。普段通りの優しさはおろか、朱里に対して見せた怒りも、たくさんの人が死んでしまった悲しみも、操られてしまった玲への心配も何もない、一切の感情が読み取れない平坦な表情。
「な、何……っ!?」
流凪の身に何が起きたのか、朱里には何も分からない。しかし、その存在の重みに思わず後退った。数歩下がって、流凪の全身が視界に入る。その姿は何も変わっていないのに、その存在の格が先ほどまでとは比較にならないことだけは分かった。
「な、何なのよ……何か言いなさいよっ!!」
恐怖を押し殺すように、朱里が叫ぶ。何をしたのか、お前は何者なのか、何をするつもりなのか。しかし流凪は何も答えない。ただ無感情な目で、見るともなしに玲の中に入り込んだ朱里の姿を眺めているだけ。
「こ、答えなさいよ……答えろって言ってるのよおおおおぉぉぉぉッ!!」
玲の体で朱里が駆ける。刀を大上段に振り上げたそれは、攻撃というよりは身を守るための行動に近かった。この流凪の正体が何なのか、それは分からずとも、このままでは自分は消されてしまう、それだけは間違いないだろうと。得体の知れない恐怖に負けて、一刻も早く目の前の脅威を消し去らなければならないという焦燥感で突撃する。優の最期の抵抗も、結局はただの悪あがき。体の主導権は朱里が握っていて、全力で動く朱里に対して、僅かな抵抗も難しい。
慌てて踏み込んだだけの朱里の突撃は、しかし玲の身体能力を以てすれば必殺の一撃に等しい。剣道の世界王者にすら避けることが難しいだろう速度で、気が付いた時には既に振り下ろす体勢に入っていた。
それに対する流凪の行動は
ただ、トンと一つ、足音を鳴らしただけ。




