第五十話 怨念の見る夢
避けて、避けて、避けて。流凪はずっと余裕を持って距離を取り、朱里が振るう刀を避け続ける。どう見ても自分の方が優れた身体能力を持っているのに全く当てられる気がしない朱里は、流凪が何か言った訳でもないのに更に煽られた気分になって怒りを増幅させていった。力が無駄に込められた足が踏み締める地面からダンダンと大きな音が鳴り、それが流凪の軽やかな動きとの対比で余計に際立つ。
最初から朱里だって理解していた。流凪はきっとかなりの力を持った能力者だろうと。間違いなく人間であるはずなのに、気配が人間のそれからかけ離れて感じられるほどだったのだから。だからこそ、この作戦なら流凪に勝つことは容易であるはずだった。自分の本質である怨念を利用した攻撃ではなく、刀による物理攻撃。身体能力によるごり押し。これが最も勝率が高いはずだったのだ。強い能力に胡坐をかいて、全く体を鍛えていない相手など、刀を持てばどうとでもなる。それは的外れではない予測だ。
しかし、当たらない。
「くっ、このっ、ちょこまか逃げ回ってんじゃない!」
「君こそ、そろそろ諦めたら?」
再び数歩分の距離を取って向かい合う両者。もう何度この体勢を繰り返しただろうか。わざわざそれを数えるような無駄なことはしないが、二、三回という程度でないことだけは確かだった。離れたからこそ流凪の全身が目に入り、その姿に一切の傷がないことが分かる。どれだけ刀を振り下ろそうと、服に掠めることすら出来ていない。流凪の言う通り、諦めるしかないのか。そんな考えが朱里の内に湧き上がってきて。
しかし、直後に思い出す。
自分にだって傷は一切ない。
悠々と避けられているから流凪の方が優位に見えるが、実際にはただ避けているだけ。流凪からの攻撃は一切ない。そして、既に流凪の体力に不安があることは分かっている。いくら想定より運動能力が高かったからといって、体力が優れているという訳ではない。神社への道中で息が上がる程度の体力でしかないという事実は変わらないのだ。
ずっと怒りに歪んでいた朱里の表情に冷静さが戻り、逆に口元が愉悦に歪む。これまで散々煽られた仕返しに、煽り返してやろうと考えて口を開こうとした、直前。
「ありゃー、面倒なことに思い至っちゃったねー」
先に流凪が口を開いた。朱里の急激な表情変化から、自分の体力に関する不安に思考が届いてしまったことを理解したのだ。いずれ流凪の息が上がってくればどちらにせよ分かることなので、バレるのも時間の問題だとは思っていたが、予想より早い。煽って冷静さを出来るだけ奪い時間を稼ぐ作戦だったが、それもここまでか。
「チッ、顔以外本当に可愛くないわ。大人しく煽られなさいよイラつくわね」
「えー、我がままだなー。君だってそれだけ人間らしくなれるなら、もう少し頑張れば人間として生きていくことだって可能だっただろうに。もうちょっと抑えられないの?」
実際、朱里は実に二十三年もの期間を人間として過ごしてきた。それだけの長期間、誰にも正体がバレないまま生活していたのだ。ならば、このような事件を起こさずそのまま大人しくしていれば。幸薙朱里が人間として受け入れられ、人間として生き、人間として死ぬ未来だってあったかもしれない。
だが
「はぁ? 流凪ちゃんさぁ、頭おかしいんじゃない?」
そんな未来は、現実的にあり得なかっただろう。
「何で私がぁ、そんなゴミみたいなクソ怠い世界で生きてかなきゃいけないんだよぉッ!!」
やれるかやれないか。その二択だけで言うのなら、きっと朱里にはやれる。人間として、これから何十年と生きていくことだってきっと出来た。しかし、やらない。やれないのではない、やらないのだ。何故なら、人間社会は朱里にとってゴミのような物だから。幸薙朱里は怨念だ。人の負の感情そのものだ。そんな彼女にとって生きやすい世界とは、互いを騙し、憎み合って、誰も信用出来ないような疑心暗鬼の世界。怨念が育つ、負の世界だ。
この世にはそんな場所だって存在する。当たり前のように生きている人間には想像もつかないような世界が、確かにどこかに存在している。が、朱里はその世界には行けない。今のままでは、朱里はこの神社から出られないのだから。封印が解けなければ、朱里の世界はこの錬刀神社しかない。この神社で過ごし、たまにやってくる地元の人間数人と接するだけの世界。朱里にとって不幸なことに、この神社にやってくるのは優しいお爺さん、お婆さんばかり。誰も朱里をワクワクさせるような負を抱えていなかった。
だからこそ、優は目を付けられたのだ。父親からの虐待染みた鍛錬によって内に負の感情を抱え、声を失った母親は頼りにならず相談も出来ない。怨念を植えつけても誰にも相談せずに抱え込み、そして限界を迎えた瞬間に爆発して事件を起こしてくれる。朱里にとって非常に都合の良い存在。
「感じるんだ。私を封印しているのはあと二つ。あと二人殺せば完全に開放される! これだけ封印が弱まればこの周辺くらいなら動き回れる。邪魔すんなよぉ! もう少しなんだからさぁッ!!」
田野山家の血を引いているのは、残り明里佳奈美と明里希美の二人だけ。しかも、その二人は田野山家に住んでいる訳ではないので、もしかしたら来年以降はもうここには来ないかもしれない。そうなれば、あと数年もすれば自然と封印も解ける。今この瞬間さえ乗り切ってしまえば、最悪残り二人は殺せなくても構わないのだ。今、朱里にとって危険なのは目の前の相手だけ。この相手さえ斬り捨てれば、もう何も恐れるものはない。
再び流凪に向かって刀を振り下ろす朱里。先ほどまでと同様、その一撃は避けられるものの、もう朱里に焦りはない。このまま何度も攻撃して、流凪が疲れ切るまで攻め続ければ良い。そうすれば自由が確約されたようなもの。朱里の顔には隠し切れない笑みが浮かび、その内には自由になったら何をしようかという妄想が膨らみ始めていた。
「ふぅ……」
流凪が一つ大きく息を吐く。それを見た朱里は、更に笑みを深くした。ずっと軽い動きで体力の消耗を抑えていた流凪だが、遂に疲れ始めた。こうなればあと少し。回復する隙など絶対に与えないと、更に勢いを増して攻め立てる朱里は、勝利を目の前にして余裕を得たことで、やっと一つの違和感に思い至った。
(何故、一人で来た……?)
流凪だって自分の弱点は分かっているはずだ。能力が強く、様々な技能を持ち、しかし体力がない。物理攻撃で攻められると弱いなどという明確な弱点があるのだから、それを補う何らかの作戦は用意していなくてはおかしいのではないだろうか。あのメイドがその補助装置なのではないのか。確かにその強大な能力によって何の問題もなく事態が収拾する可能性も高いかもしれないが、それはそれとして念のために二人で来るべきだったのではないか。
そこまで考えて、しかし朱里は思考を中断した。流凪が対応するべき相手は朱里だけではない。優の方にだって対応しなくてはならなかったはずだ。メイドはきっとそちらのために残してきたのだろう。今はただ目の前の相手を殺すことだけを考えれば良い。
そして、その時が来た
疲労によって足元がおろそかになった流凪が、境内の砂利によって足を滑らせる。遂に現れた明確な隙。振り下ろしていた刀を、横へと薙ぎ払う。
「死ねえええええぇぇぇぇぇッ!!!」
体勢の崩れた流凪に、それを避ける術はない。




