第四十七話 圧倒的強者
怒号と共に駆け出す玲。玲の身体能力に対して、道場はあまりにも狭い。瞬きするほどの間もなく、常人では残像すら見えそうな速度で一気に優との距離を詰めた玲は、思い切り振りかぶった右拳をその顔面目掛けて振り抜いた。
空気を裂く甲高い音
(っ、避けられたッ!?)
まさかの事態に止まりそうになる思考を無理矢理動かして、慌てて飛び退く玲。そんな玲が一瞬前までいた空間を、振り上げられた刀が鋭く斬り裂いていく。玲の回避は流石としか言いようがない速度で、これもまた攻撃時と同様に常人では見逃してしまいそうなほどだったが、やはり振り抜いていた腕まで完璧に避け切るというのは難しかった。メイド服の袖がわずかに斬れる。それに顔を顰めつつ、もう数歩下がって優が踏み込んできても余裕を持って見切ることが出来るだけの距離を確保した。
「……流石、剣道の実力者と言うべきか。良い反応だな」
玲の言葉に応える声はない。しかし、先ほどまでのどこを見ているかも分からないような虚ろな目ではなく、しっかりと玲を見据えてその刀を正眼に構えた。その構えは玲をして隙を見つけるのが難しいほど。世界レベルの選手であったという勝に認められ、その過酷な鍛錬を何年もずっと続けてきた確かな実力がそこにはある。それだけを見ても、やはり間違いないだろう。優は何かに操られている訳ではない。少なくとも正気を保っている。ただ、何かに操られていることにしないと両親を自分で殺してしまった事実に耐えられないだけ。
そこまで確認した玲は、大きく息を吐き出し一度気合いを入れ直す。今は、怒りは追い出す。母親に対して謝らせたいとか、操られていることにして逃げようとしている性根を叩き直したいとか、そういう私的な感情は一度捨て、ただ目の前の男を叩きのめすことに集中する。
先ほどの一合で分かる。この異常な状況に脳が壊れているのか、優の動きは明らかに常人のそれではない。加えて、長年続けてきた鍛錬。いくら玲とて、他のことに気を取られながら勝てるような相手ではない。
「参ります」
全力の踏み込み。玲の足が叩いた床から割れそうなほどの轟音が響き、転移したのかと勘違いしそうな速度で優との距離を詰める。常人なら、いや、人間なら誰もが見失うであろう尋常でない速度。しかし、優の目はしっかりと正面から玲を捉え、正眼に構えた刀を最小の動きで軽く振り下ろしてくる。タイミングは完璧。刀は間違いなく玲の頭から胴までを真っ二つにする軌道。動きは軽いが、その振りの速度と玲の速度が合わされば人体を切断するには充分なエネルギーが発生するだろう。
刀は空を斬り、背後からの衝撃で数度跳ねた後に床を転がる優
玲は分かっていた。今の優なら自分の全力でも見切ってくるだろうと。だから、敢えて真正面から突っ込み、今から殴るぞと言わんばかりに拳を振りかぶって一瞬速度を落としたのだ。その後全力で床を蹴って背後に回れば、優の目には拳を振りかぶっている残像だけが残る。その残像目掛けて刀を振り下ろしてしまえば、玲の目に映るのは隙だらけの背中だけ。その背中を思い切り蹴り抜いた玲は、しかし全く油断せずに倒れた優を見つめる。
「普通、背骨にヒビが入ってもおかしくないくらいには力を込めていたと思うのですが」
寄った眉を見るに痛みはあるようだが、何も問題ないかのように立ち上がってくる優。そして再び刀を正眼に構えて玲を見つめてくる。
どれだけ興奮状態にあろうと、体の耐久力が上がったりはしない。痛みを感じにくくなったりはするかもしれないが、骨が折れればそれまでだ。つまり、完全に不意を突いたと思われた先ほどの一撃は、完全には入らなかったということなのだろう。残像を斬った瞬間に状況を理解した優は、背後からの攻撃に備えて飛び退いた。それで避け切るまではいかなかったものの、致命的な一撃を受けることだけは避けた。そういうことか。
ここへきて、玲に僅かな焦りが浮かぶ。
数度のぶつかり合いで、互いの実力は見えた。明確に玲の方が上。同条件で戦えば、百度やって百度勝つ。玲が負けることなどまずあり得ない。しかし、この戦いは全く同条件ではない。優の手には真剣が握られているのだ。対する玲は徒手空拳。優は一度直撃させればほぼ致命、掠らせるだけでも血を流させることで継戦困難にさせることが出来る。だが、玲の攻撃は拳や脚のため、掠ってもほぼダメージにならない。玲の力なら直撃させればそれで終わらせられる可能性も高いが、確実ではない。その上、リーチにも差がある。条件を見れば優の有利は明白。
「仕方ない、ですか。殺す気でやりますので、耐えてください」
カチリと頭の中で音がするようなイメージ。ギアを上げるように、何かが切り替わる。
これまでも、玲としては全力で戦ってはいた。しかし、それはあくまで試合的な意味であり、相手が真剣を使用しているとはいえ殺し合いをする気はなかったのだ。自分の本気は人間相手に使うものではない。そう考えているから。しかし、最早この相手は人間と呼んで良いのか怪しい領域に片足を突っ込んでいる。流凪はこれが分かっていたから誰も近付けないように言っていたのかもしれない。
今にも踏み込んできそうな玲の機先を制するように、今度は優が踏み込む。優も分かっているのだ。実力では玲の方が上だと。自由にさせればどれだけ有利な条件を重ねたところで次の瞬間には負けているかもしれない。ならば、自分から攻めることで主導権を握る。攻撃していれば間合いの広い自分の方が有利だと、玲には及ばないまでも鍛え上げた踏み込みによって瞬時に間合いを詰め、
気が付いた時には、目の前から玲の姿が消えていた。
そして、気が付いた時にはもう背後からの衝撃によって宙に浮き、
浮いたことを自覚する間もなく道場の壁に叩きつけられていた。
砕け散った壁から床へと落下する優。仰向けに倒れ、自分が倒れていることをやっと知覚したところで、体が真っ二つになったかのような猛烈な痛みが全身を駆け巡る。込み上げるものを耐えることも出来ずに吐き出せば、口から真っ赤な血が飛び出した。それで内臓まで傷付けられたらしいと理解するも、内臓がどうとか関係なく体を起き上がらせることも不可能な激痛でのたうち回ることすら出来ない。
どうにか顔だけ動かして玲の姿を確認すれば、床に足型の穴が開いているのが見えた。踏み込みだけで道場の床を砕いたらしい。確かに玲の方が実力が上だと理解していたものの、優の常識からはあまりにもかけ離れた現実に理解が追いつかない。鍛え上げた自分の目が見失うほどの速度、踏み込みで床を砕くほどの脚力、吹き飛ばした人間がぶつかっただけで壁が砕けるほどの打撃。あり得ない。とても人間だとは思えない身体能力だ。
一方の玲は、やはりやり過ぎだったかと僅かな後悔を抱きながら、倒れ込んだ優へと近づいていく。やむを得ない部分もあったが、優はもう二度と立ち上がることが出来ないかもしれない。殺したい訳ではなかったし、これからの人生全てを棒に振らせたい訳でもない。危険かもしれないが、ゆっくり重傷を与えないように倒すことだって不可能ではなかったはず。自分の安全のために、一つの人生を台無しにしてしまったかもしれないのだ。
仕方がなかったと思いつつも、そんな後悔と共に歩く玲に向かって、正面から刀が飛んでくる。悪あがきか、優が倒れたまま刀を投げつけてきたらしい。僅かな後悔に思考を奪われていたとはいえ、そんなものに当たってやるほど気を抜いていた訳もない。軽く横にずれるだけでその刀を回避して
「うっ……!?」
背後から聞こえた呻き声に足を止めた。




