第四十三話 聞こえる声
道場の真ん中に、ただ立ち尽くす。下を見ている彼の視界には、床と自分の体だけが映っていた。慌ただしい家族たちにはそんなことを気に掛ける暇はないだろうと思って、まだ土が乾き切っていないところもある畑で作業をしていたので、その体を覆う作業着には至る所に泥が付着している。畑仕事の手伝いをするようになってからは、普段着の如く毎日身に着けているこの作業着は、彼にとっては体の一部も同然である程に着慣れている。畑仕事だって、慣れたものだ。いつもやっている作業をしていれば、きっと気持ちも平常通りになっていくだろうと、そう思って動いていたのに。
手に持つ竹刀を振る。これもまた、彼にとって慣れた動きだ。何千回、何万回と毎日毎日繰り返してきた。最早その剣は手足の如し。一度振るえば、その先の先までどう動いているのか手に取るように分かる。
振り下ろす。
振り下ろす。
振り下ろす。
振り下ろせば、その動きが手に取るように分かる。こんなものはゴミだ。論外だ。普段どころか、剣道を始めたばかりの頃と比べられそうなくらいには話にならない。もし父親がこの素振りを見たら、次の瞬間には殴り飛ばされているだろう。もしかしたら練習量も増やされるかもしれない。全く集中出来ていない。気が入っていない。ただ腕でブンブン振っているだけの、練習にすらならない、何の意味もない振り下ろし。
だが、殴り飛ばしてくるだろう父親は、もういない。
優は、こんな練習はもう嫌だとずっと思っていた。昔は剣道が好きだったけれど、それは上達が実感出来るほどの速度で上手くなっていたからで、自分の才能が見えていたからで、そして、父親が褒めてくれたからだった。彼は剣道が好きな訳ではなかった。ただ褒められるのが好きなだけだったのだ。
それでも、父親がいなくなった今でも竹刀を振るうのは何故だろう。自分でも分からない。ただ、何かしていないと潰れてしまいそうで。無心で出来ることといえば、彼にとって真っ先に思い浮かぶのは剣道の素振りだった。
道場の扉が開く。
振り返った優の視界に、道場内に入ってくる母親の姿が映った。泣いていた跡が残るその顔は赤くなっているが、前髪で目を隠したその表情がどうなっているのかは傍からでは分からない。
「お袋か。何か用かよ」
目を逸らしながら放たれた優の言葉に、返事はない。当然だ。その声はもう失われてしまっているのだから。静香の声が出なくなったのは確かに勝が原因の大半を占めているのだろうが、優もその一端を担っているだろうと言われれば否定することは出来ない。優がもっと早い段階で剣道を止めていれば、父親に逆らって止められるだけの勇気があれば、静香がこうなってしまうこともなかっただろう。だから、何も答えない静香に対して文句を言う権利はない。ない、のだが、そんな権利はないと分かっているが、しかし今の優に、冷静にそう受け止められるだけの余裕はなかった。
「何なんだよッ!!」
何も言わずただじっと見つめてくる静香の視線に耐え切れず、叩きつけるように叫ぶ優。それはただの八つ当たり。吐き出す場所が分からない自分の気持ちをぶつけるだけの、無意味な激昂。
「言いたいことがあるなら何とか言えよッ!!」
それが出来ないことは分かっているのに、それでも言わずにはいられなかった。ただ見つめてくるだけのその視線が、何故かとてつもなく怖いものに思えて。怒鳴ることで誤魔化さなければ、理由も分からないままに逃げ出してしまいそうだったから。そんな臆病な優の怒声に、応える声はない。
ない、はずだった。
「…………ゴメンね、優」
声が、聞こえた。最後に聞いたのはいつだっただろう。もう十年近く聞いていなかっただろうか。それでも、忘れたことなど一度もなかった。楽しかったあの頃の、大切な思い出の中にだけ存在した、優しくて大好きな、母親の声なのだから。
「ゴメンね。わたしが弱いせいで、あなたに決断させてしまった」
「っ!? な、何で……知って……」
「見てたの。優が、あの人を斬る、その瞬間を」
練習が嫌になった、ということにして道場から逃げ出した優を、狙い通り勝は追ってきた。大雨の中、山道を駆け抜ける優と勝。静香は、その後を追っていたのだ。窓から道場を出ていく二人を見て、様子がおかしいことに気が付いた静香は、必死に二人を追って山道を駆け抜けた。もちろん静香の足では二人に追いつくことなど出来ない。見失って、雨で視界が悪い中でどうにか二人の姿を探して。
静香が見たのは、優が振り下ろした日本刀が、勝を斬り裂く、まさにその瞬間だった。
優は最初から勝を斬るつもりだった。その予定地に刀を隠しておき、練習から逃げ出すことで怒った勝が追ってくるように仕向けたのだ。斬った後は急いで道場に戻ったため、すぐ後に静香が勝に近寄ってきたことに気が付かなかった。
「ずっと、辛かったんだよね。なのに、わたしは弱くて、声を失って、大切な息子に寄り添うことも出来なかった」
「……そんなこと、ねーだろ。お袋は、ずっと寄り添ってくれてた」
「ううん。本当ならわたしがあの人に言わなきゃ駄目だったの。もうあなたの剣道を息子に押し付けるのは止めましょうって」
顔を上げた優の目に、静香の姿が映る。その顔は、笑っていた。頬を涙で濡らしながら、口元に笑みを浮かべて、一歩一歩、息子へと近づいていく。
「わたしも一緒に償うから、一緒に警察に行きましょう」
「お袋……ッ!?」
母親の言葉に、ずっと優の中で澱んでいた何かが
なくならない
(騙されるな)
声が聞こえる。優の内から、黒く、暗く、全てを飲み込んでいくような、恨みが発する声が。
(その女はずっとお前が苦しむのを見ていただけ。お前が父親を殺したから、恐怖の対象がなくなったから、だから声が出せるようになっただけの臆病者)
違うと優が否定しようとしても、その声に耳を貸さないようにしても、内から聞こえてくる声から逃れる術はない。
(それなのに、今更になって理解者を気取って一緒に償いましょう? ふざけてると思わないか?)
優の顔から、表情が抜け落ちた。違和感を覚えた静香が足を止め、その顔を見つめる。どうしたの、と声を掛けようとして、しかし自分の身を貫くような鋭い視線に、金縛りにあったように動けなくなってしまった。
そんな静香から視線を外し、道場の隅へと歩いていく優。他に音を発するものが何もない中、優の足音がやけに大きく響く。自身を貫く視線がなくなっても、静香は動けなかった。明らかに優の様子がおかしい。しかし何が原因なのかも、どうおかしいのかも、何をしてあげれば良いのかも、静香には何も分からない。
そうして、静香がただ見つめることしか出来ない中、優は何本もの竹刀が入れられた竹刀立ての前に立つ。ボロボロになった竹刀も新しい竹刀もまとめて突っ込まれているその中に、手に持っていた竹刀を立てて、たくさんの竹刀に隠れるようにして立てられていたそれを取り出した。
ゆっくりと、振り返る。その目は暗く澱み、口元には歪んだ笑みが浮かぶ。
「だったら、償ってくれよ」
鞘から抜かれた打刀。刃渡り七十センチほどの、波打つ刃文が美しい、輝くそれの切っ先を、静香へと向けた。ただ人を斬るためだけに生み出されたその刃は、恐ろしいほど美しく、狂おしいほどに惹きつけられる存在感を放っていた。




