第四十話 刀痕
「遅すぎます、お嬢様。もうわたしが運びますから」
足元が悪い中で裏山を進んでいた流凪と玲だったが、あまりの進行速度の遅さに玲が痺れを切らした。ただでさえあまり脚力体力がないので雨でドロドロになっている山道を進むのは難しい流凪が、その上に寝起きで余計に体が動きづらい状態なのだ。進行速度は亀の如し。家が見える範囲から脱することすら時間がかかる有様で、あまり気が長い方ではない玲の我慢が限界を迎えるのはすぐだった。膝裏と背中を両腕で支えて抱え上げる、いわゆるお姫様抱っこと呼ばれる方法で軽々と流凪を持ち上げた玲は、足元の悪さなど全く影響していないかのように歩を進める。
「とりあえず、神社まで行きますか」
「おっけー」
この裏山で勝と静香を捜索して欲しいと言われた流凪と玲だが、どこを探せば良いのかなど何も分からない。知っているのは家から神社までの道だけだ。そのため、まずは神社を目指すしか取れる方針がないのだが、実際のところは神社に勝たちがいる可能性は低いだろうと考えていた。何故なら、神社にいるのなら帰ってこない理由がないからだ。錬刀神社にはほとんど何もない。仮に神社に用があったとして、それで一晩中帰ってこないなどということはあり得ない。田野山家の人間である勝や静香がこの裏山で迷うとも考えにくいので、家出をして神社に泊まったなどという意味不明行動をしてでもいなければ、勝と静香が神社にいることはないはずだ。
それでも、神社に行くしか出来ることはない。玲は流凪を抱えたまま、真っ直ぐ神社を目指す。しかし、その途中、ちょうど半分くらいまで進んだ辺り。
「ん……?」
唐突に、流凪が何かに気が付いたように声を上げた。忙しなくキョロキョロと周囲に目を走らせ、何かを探しているようだ。
「どうしました、お嬢様?」
「んー……」
本人にもよく分かっていないのか、玲の問いにも答えず考え込む流凪。目を閉じ、しばらく集中するように黙り込んだかと思えば、目を開けて指を伸ばした。
「多分……あっち?」
「気配ですか?」
「うん。かなり薄いけど、人がいると思うんだよ」
玲は流凪の指し示す方向へと道を外れていく。ただでさえぬかるんだ山道の、人通りがほとんどないため踏み固められてすらいない場所を歩くとなると、流石の玲も多少進行速度を落として、足元に気をつけながら歩かなくてはならない。玲だけなら少し足を滑らせても転ばずに耐えることが可能だが、流凪を抱えているとなるとそうもいかない。万が一にも流凪ごと倒れる訳にはいかないし、倒れなかったとしても泥はねが流凪に付着するかもしれない。流凪に対して口が悪いことも多い玲だが、流凪のことは何よりも大切に想っているのだ。自分のミスで流凪を汚すようなことがあれば、自分を許せない。玲にしてはかなり慎重に、しかし一般人よりは圧倒的に速い歩調で道なき道を進んでいく。
そのまま進むこと十分ほど。杉や檜ばかりだった周囲はいつの間にか竹に覆われていた。それなりの密度で竹が生えているため、自然と竹を避けて進まなくてはならず、竹に誘導されるようにして奥へと入っていく。よく見ると足跡のようなくぼみが地面に残されているのが見えた。そのくぼみは結構な深さで、恐らく足跡の主は走っていたのだろうと推測出来る。思い切り地面を蹴って出来た足跡は抉れているため、どのような靴によるものか不明だが、一人の人間がここを通ったにしては多いように見える。正確に何人かというのは分からないが、少なくとも二人は雨が降ってからここを通っているだろう。
そして、そこにたどり着く。
最初に見えたのは、雨で泥になっている地面に座り込んでいる女性の背中だった。背中まである黒髪も含め、その背中は恐らくここに来るまでに付着したのだろう泥がそれなりに飛び散っており、しかしほとんど乾いているのが分かる。後ろからではその表情は分からないが、顔は地面に向いているようだ。捜索対象の一人、静香は、足音を立てて玲たちが近付いてきても、全く聞こえていないかのように反応を示さない。
その視線の先。静香がただ見つめているその場所には、男性が倒れていた。
剣道着姿で地面に横たわる男は、半ばから消失した竹刀を片手に持っている。表情は驚愕に染まり、しかし血の気が全く感じられないほどに真っ白だ。
そして何より目を引くのは、その紺色の剣道着。肩から腰にかけて大きく裂けているそれは、紺色のため分かりにくいが、真っ赤な液体で染まっているようだ。よく見ると地面にも赤が広がっており、人が一人すっぽり入ってしまいそうなくらいの面積を染め上げている。
脈を診るまでもない
勝が、死んでいた
玲に下ろしてもらった流凪が、スカートの裾に泥が付着するのも気にせず、勝の状態を見るためにしゃがみ込む。横目で静香の様子を確認すると、声もなく涙を流していた。きっとこの男は良い夫ではなかっただろうに、声を失うほどに追い詰められていたのだろうに、それでもきっと夫の死は悲しいのだろう。もしくは、結婚した当初のことを思い出しているのか。声を失った静香の内心を知る術は、流凪にはない。
倒れる勝へと視線を戻すと、やはりまず目につくのはその胴に刻まれた深い傷だ。剣道着を斬り裂き、その中の人体を深く傷付けるほどの斬り傷。包丁などではあり得ない。具体的に刃渡り何センチくらいの刃物ならこれが可能なのかというのは流凪では判断出来ないが、第一感、思いつくのは当然、日本刀。勝が握る竹刀も、鋭い物で斬り飛ばされたように綺麗な断面を描いて先がなくなっている。
「はぁ…………そっか」
一通り勝の遺体を確認した流凪は、何かに納得したように一つ頷き玲へと振り返る。
「玲、静香ちゃんを連れて山を下りて。希美ちゃんに連絡してあっちの人たちも家に帰ってくるように言っておくから、ここのことを誰かに伝えておいて」
「お嬢様はどうするのですか?」
「わたしはやることが出来たから」
「やること?」
立ち上がり、軽くスカートを払って付着した泥を全て払い飛ばす流凪。そのまま玲に答えることなく歩き出す。
「ま、皆が寝る前には帰るよ」
背中越しにそれだけ返事をして、ゆっくりゆっくりと歩いて行った。
すっかり日も落ちて、辺りは真っ暗になった。山中には街灯もなく、月明りだけが世界を照らしている。今日は晴れ渡っていたが、地面はまだまだぬかるんだまま。木々が日を遮ってしまうので、山の中は地面が乾きにくい。これが完全に乾くまでには、もうしばらくかかるだろう。
「ふう、疲れた疲れた」
休み休み歩を進め、やっとの思いで目的の場所にたどり着いた流凪は、しばらくその場で休憩した後に目の前に伸びる石段を一歩一歩上っていく。何度も休みながらここまで来たので問題なく石段を上ることが出来るが、きっと急いで歩いてきたら一段も上ることが出来ず立ち往生していただろう。僅かな疲労を覚えつつも鳥居を通り過ぎると、そこには以前来た時と同様の巫女装束に身を包んだ幸薙朱里が待っていた。
「こんばんは、流凪さん。ようこそ錬刀神社へ。このようなお時間に、何かご用でしょうか」
「やあ、朱里ちゃん。ちょっと気になることがあってね」
開けた境内には月明りを遮る物はなく、夜とは思えない明るさが視界を確保している。時刻はそろそろ二十一時を過ぎようかというところ。虫の声も聞こえない静寂が、辺りを支配していた。




