第三話 希美の学校生活
「おはよう」
「おはよう、希美。あら、何だか嬉しそうね。今日は学校で何かある日だったかしら」
朝、目を覚まして自室を出て、階段を下りる。そして、食事のためにダイニングへの扉を開けて、キッチンの母へと挨拶する。たったそれだけの、いつも通りのルーティーン。だが、それを見た母から普段との違いを指摘された。それを聞き、希美は自身の足取りが確かに軽やかであることを自覚する。
恐らくは昨日、可愛らしい友人が出来たことに起因するのだろうが、あまりにも単純な自分に呆れてしまう。確かに希美には今まで友達と呼べる間柄の相手はいなかったが、だからといって今日遊ぶ約束をした訳でもないのに朝から気分が良いというのは何とも分かりやすい精神構造だな、と感じた。
「ううん、何にもないよ」
「そう? まあ良いわ。じゃあお母さんは先に出るから」
「うん、行ってらっしゃい」
希美の母親が仕事のために家を出る。父は既に仕事に行っていて家におらず、家には希美一人となった。
「いただきます」
母が用意してくれていた朝食を前に手を合わせる。目玉焼きにサラダ、小さいバターロールが二つ、ココア。目玉焼きを箸で持ち上げ、一口でペロリと平らげた。胡椒の効いた半熟の目玉焼きを一度歯で潰せば、トロリと口の中に黄身が広がり全体に美味しさが感じられる。パンを頬張れば甘味に自然と口が笑みを形作る。シャキシャキとしたサラダは胡麻ドレッシングで希美好みの食べやすい味だ。
『高校の男性教師が女子生徒に対し、猥褻な行為を』
食事の傍ら、テレビがいつも通りに物騒な事件の情報を垂れ流すのを聞き流す。
『車三台を巻き込む事故が』
嫌なニュースばかりで、見ているとせっかくの良い気分が吹き飛んでしまいそうだ。最後にココアを一気に飲み干し、食事を終える。食洗器に食べ終わった食器を入れて、洗浄開始ボタンを押す。テレビの電源を消し、洗面所へ。歯を磨いて、髪を整える。そろそろ化粧も覚えた方が良いのかな、と思いつつ、まだ早いかなと言い訳して。自室へと階段を上った。
ピンクのパジャマを脱ぎ、小学校の制服に袖を通す。今年から制服を買い替えたので、この夏服もまだ新しい。白いセーラーに紺のプリーツスカート。スカートと同色の襟に白いラインが特徴的。左胸のポケット上には校章が紺の糸で刺繍されている。白いリボンが付いている、これもスカートと同色の紺のクレマン帽を頭に乗せ、着替えは完了。学校指定の飾り気のない紺色のリュックを背負って、部屋を出る。
「行ってきまーす」
家の扉に鍵をかけ、通学路へと足を向けた。
私立天路ヶ丘小学校。小中高一貫の私立校だ。この小学校は一学年二クラスで各クラス三十人とそこまで大きな学校ではないが、白く美しい校舎と広い敷地で評価されている学校だ。中学高校の校舎も隣にあるため、年上のお兄さんお姉さんが見守ってくれているという安心感から保護者にも人気であり、入学のためのハードルはそれなりに高い。その分、相応に勉強が出来る子供が集まっている、かと思えばそうでもなく、結局は良く出来る子、出来ない子に分かれる。所詮お受験で問われるのは幼稚園、保育園児に対する問題だ。その後の勉強が出来るかどうか、また勉強をきちんとやる子かどうかは別問題。そこには明確な差が存在する。
明里希美という少女は、勉強は得意な方だ。運動は得意でも苦手でもない程度ながら、優れた体格で自然とそこそこ上位に入る。総じて、大体の授業はそつなくこなせる子供だった。本人の気質として勉強が嫌いでもなく、友達の少なさを明確に感じる休み時間よりも授業時間の方を好むくらいだ。
ただ、それは友達が少ないからというだけの理由ではない。
校舎に入り、上履きに履き替える。四年生の教室は四階建て校舎の二階だ。階段を上り、四年一組の教室の扉を開ける。席が五つ並ぶ列が六列で三十人分。希美の席は窓側から二列目の最後尾だ。自分の席へと向かおうとして、その進路を遮るように三つの影が立ち塞がる。
「おはよう、金髪」
「……おはよう。わたしは金髪じゃなくて、明るめの茶髪だよ」
三つの影の中央に立つ真っ先に声を掛けてきた女子生徒は、喜崎 凜々花。黒髪ロングに赤いカチューシャをつけた身長百三十二程度の小柄で勝気な少女だ。そんな凜々花の両サイドの、身長百四十ほどの眼鏡で短く暗い茶髪の冷静な方が、藤野谷 秋子。身長百四十七ほどの背中を丸めて困ったように眉を寄せている黒髪パッツンの方が、音山 奏。いつも一緒にいる三人組だ。
「ふん、今日も無駄に目立つわね、デカブツ。高いところからギラギラ汚らしい金髪の光が降ってきて、うっとおしいったらないわ」
これだ。希美はこれだから休み時間が嫌いだった。自分の目立つ明るい髪色が気に入らないのか、百五十ほどの長身が気に入らないのか。この凜々花という少女はずっと前からこうして何かと突っかかってくる。学年で流れる噂によると、奏の丸まった背は少しでも身長を小さく見せることで凜々花に嫌われないようにするためだとか。あくまで単なる噂でしかないが、複数回聞いたことのあるその説を希美は信じていた。
この三人は保育園時代からの付き合いらしく、常に行動を共にしている。主に希美に敵意を向けてくるのは凜々花のみだが、それでもこうして三人並んで威圧されると気弱な方である希美にとっては相応に恐ろしく映った。
「そう言われても……」
「ただでさえ大きくて邪魔なんだから、髪くらい暗くして目立たないようにしなさいよ」
「これは地毛だし……」
両親とも純日本人である希美だが、その髪色はかなり明るい。凜々花が言うように目立つというのは間違いなかった。学校にも注意されたことがあるが、地毛であることを説明してなんとか納得してもらった過去がある。髪を染めようかと考えたこともあるが、一応髪を染めることは校則で禁止されている。黒染めならば怒られないかもしれないが、気弱な希美にそんな賭けのようなことをする勇気はなかった。
キーンコーンカーンコーン
「席につけー」
チャイムが鳴り、担任の先生が教室に入ってくる。希美が昨日スーパーですれ違った小太りの男性教師だ。大地場 蛇田雄、四十九歳。身長はわずかに百七十に届かない程度。薄くなってきた髪をどうにか誤魔化そうとワックスで固めている、くたびれた灰色のスーツ姿の男だ。視線がいやらしいとして、女子生徒からはすべからく嫌われている。なお、男子生徒からは好かれているとは言っていない。
流石の凜々花も休み時間以外に席を立って突っかかってくるような不良ではないので、ふんと一つ鼻を鳴らして席へと向かう。ほっと息を吐いて、希美もやっと自分の席に座った。
「学級委員、挨拶」
「きりーつ、気をつけー、おはようございます」
『おはようございます』
「着席」
学級委員の号令でいつも通りの挨拶をして、一日が始まった。
休み時間の度に来る凜々花の襲撃をどうにかいなしつつやっと一日を終えた希美は、帰路に就いていた。友達が出来たからか、いつもよりも余裕を持って凜々花に対応出来た気がする。希美はそう思って上機嫌で歩いていた。なお、気がするだけである。ワーワーとまくし立てる凜々花の口撃は希美には強力過ぎる。えっと、と一言挟む間に三つくらい文句をぶつけてくる凜々花に対して希美が出来たことは、せいぜい自明である事実をボソボソと一言返す程度のものである。
しかし、気分が良いというのは大切なことで、いつもは憂鬱でしかない学校が何だか違って見えるのだ。これなら日々の生活も楽になる。希美はそう思って、上機嫌でスマホを取り出した。
「流凪ちゃん、今何してるんだろう。もう学校終わったかな」
せっかく出来た友達だ。その大切さを学校で再認識した希美は、週末の休み、流凪と遊びに出かけたいと思っていた。
「えーっと……」
しかし、今まで友達の一人もいなかった希美にとって、友達を遊びに誘うというのはとてもハードルが高い行為だ。何と言って誘うのか、何に誘うのか、どこかへ出かけるのかどちらかの家に集まるのか。遊ぼ、とだけ声をかけてから一緒に予定を決めれば良いだけなのだが、経験のない希美には何も分からなかった。
が、やはり彼女は希美にとって救世主なのか。
「お、やっほー、希美ちゃん」
「る、流凪ちゃんっ!?」
帰宅中、希美は偶然にも流凪と再会したのである。