第三十七話 過酷な練習
「はぁッ……はぁッ……ゴホッゴホッ……はぁッ……」
道場に荒い息の音だけが響く。時刻は午前五時。日が出てきて、段々と明るくなってくるくらいの時間。そんな時間に、道場の床に倒れペットボトルを倒したかのように汗を流す男が一人。
「お疲れ様。飲む?」
「はぁ……はぁ……流凪ちゃん?」
疲労で起き上がる気力すらなくなっていた優だったが、隣から聞こえてきた声と差し出された水の入ったコップに、床に張り付いた体をベリベリと引き剥がすくらいの気持ちで上体を起こす。そこには、いつも通りののんびりした顔つきながらわずかに眉を寄せている流凪がいた。
「ああ、ありがとう。もらうぜ」
「いつから練習してるの?」
「ん? 今何時だ?」
「五時だよ」
「じゃあ二時間くらいだな」
つまり、午前三時からずっと練習しているということだ。それも、時間を忘れるほどに集中して。剣道の防具は流石に身に着けていないが、道場は空調も整えられていない。今は七月下旬。この辺りは自然が多いし標高も高く、都市部に比べれば気温は低い。が、それでも真夏であることに変わりはない。暗い時間とはいえ快適とは言い難い気温だ。この様子だと水分補給すらまともにしていたかも怪しい。軽い熱中症になるだけならまだマシ、最悪の場合は命すら危うい可能性もあっただろう。軽く眉が寄っていただけの流凪の表情が露骨に心配そうに歪んだ。
「危ないよ?」
「ああ……まあ……流凪ちゃんはどうしてここに?」
「ん、何か気配がしたから」
「気配? ははっ、俺のこと、気配で分かるほど気にしてくれてんのか? 嬉しいぜ。やっぱり付き合って」
「それはダメ」
「くうっ、やっぱり駄目か」
「もう」
やっと息が整ってきた優だが、汗はまだまだ引く気配がない。コップ一杯程度の水ではまるで足りないだろう。そんな状態でも全く変わらない調子で告白してくる優の様子に、流凪の口元にも笑みが浮かぶ。
「ふわぁ……じゃあ、わたしはもう一回寝ようかな。優君も、ちゃんと休まなきゃダメだよ」
「おう、サンキュー」
優に背を向け、道場から出ていく流凪。後ろから聞こえてきた重々しいため息は、聞こえなかったことにした。きっと、彼もそれを流凪に聞かせたかった訳ではないだろうから。
二度寝から目を覚ました流凪が時計を見ると、時刻は午前九時。畳の上に敷いた布団から体を起こし周囲を見ると、隣の布団で寝ていたはずの希美の姿はなく、逆隣りの布団に玲の姿もなかった。もう起きているのだろう。匂いを頼りにダイニングに顔を出せば、そこには朝食中の希美がいた。イチゴジャムを塗った食パンを口に運んでいる希美は、扉の音に振り返る。
「あ、おはよう流凪ちゃん」
「おはよー」
「おはよう流凪ちゃん。ちょっと待っててね。流凪ちゃんの朝ごはんも準備しちゃうから」
「あーい」
佳奈美がテキパキと希美と同じ朝食を用意してくれる。トースターで焼いた食パンが二枚に、レタスとコーンのサラダが少々、マグカップに入ったココア。食パンに塗る用のイチゴジャムとチョコクリーム。
「流凪ちゃんはジャムとチョコどっちが良い?」
「んー、じゃあチョコ」
「はいはーい。じゃあこれねー」
「ありがとー」
まだ目が覚め切っていない流凪が半分くらい寝そうになりながらモソモソと食パンを口に運んでいると、先に食べ終わった希美が横から話しかけてくる。流凪を放置して歯を磨いたり着替えたりしに行く気はないようだ。
「おばあちゃんが玲さんを連れて行っちゃったけど、大丈夫?」
「んー? うんー」
「畑仕事の手伝いにって言ってた。あ、お父さんは儀式の準備のために神社に行ってるよ」
「んー」
「お兄ちゃんと勝おじさんは道場だと思う。静香おばさんは……どこにいるのか分かんないかな。物静かで、気が付いたらいたりいなかったりする人だから」
希美の話を聞いているのか聞いていないのか、曖昧な返事をしながら朝食を口へ運ぶ流凪。三十分くらいして食べ終わる頃に、ようやく目が覚めてきたようだ。食器を片付け、ようとしたところで佳奈美に強奪され、歯を磨いてくるように勧められた。
「きょふはどこにいふ?」
「んー」
歯を磨きながら、希美が今日はどこに行きたいかを尋ねてくる。どこと言われても特別行きたい場所はないかな、と思った流凪だったが、そこまで考えて早朝の優の様子を思い出す。かなり無理をしているようだったが、今も道場にいるという。本当に大丈夫なのか。昼が近付くにつれて段々気温も上がってきている。早朝よりも練習をするには過酷な環境になっているだろう。
ぺっ、と吐き出して、口をゆすぐ。歯ブラシも洗って、顔も洗って。最後にタオルで拭いたら完了だ。顔を上げて、希美に返事をした。
「道場に行こっか」
田野山家の裏手にある道場は、なかなか一般家庭にはない立派な木造建築だ。学校の体育館を彷彿とさせるほどの大きさで、公式試合を行うことも出来そうな板張りの床の道場は、前方の壁の上部に力戦奮闘という書道の作品が額に入れて飾られている。一面の壁が木製の引き戸になっていて、歴史を感じさせるその戸はやや立て付けが悪いのか、動かすときに引っ掛かりを感じる。
「メェェェェェンッ!!」
竹刀がぶつかる乾いた音が道場全体に響く。優が振り下ろした渾身の一撃は勝によって受け流され軌道を逸らされてしまった。自分の振り下ろしの勢いを止め切れず、優の竹刀が斜め下へと抜ける。
「メェェェェェェンッッ!!」
道場がビリビリと震えるほどの咆哮。気合一閃、勝の竹刀が優の面を捉え、勝負あり。互いに蹲踞して納刀。立ち上がり、数歩下がって目礼。
「十分休憩!」
「はいっ!」
休憩に入った優が面を外すと、バケツで水を被ったのかと思えるほどに汗が流れていた。道場の壁際に置いていたペットボトルの水を一気に一本分飲み干して、そこでやっと流凪と希美が来ていることに気が付いたのか目を見開いて大げさに驚く。
「うおっ!? いつからそこに!?」
「ついさっきだよ」
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ああ、こんなんいつものことだぜ。大丈夫大丈夫!」
そう言って笑う優だが、やはりその顔には疲労が色濃く表れている。いつものことなのはきっとその通りなのだろうが、だから大丈夫ということにはならないだろう。むしろ、だから大丈夫ではないとも言えるのではないだろうか。
「あんまり無理しちゃダメだよ」
「おう! やっぱり流凪ちゃんは優しいぜ。俺と」
「優!! てめぇ、何気ぃ抜いてやがる!! 休憩とは言ったが、練習が終わりだと言った覚えはねぇぞ!!」
優がいつもの告白をしようとした時、それを遮って勝の怒号が響き渡る。直接言われた優だけでなく、希美まで跳び上がってしまうほどの大声は、反射的に優に謝罪の言葉を吐き出させた。
「はいっ! すいません!」
「ガキ共も、練習の邪魔すんなら出てけ!」
「は、はい」
「うーん……はーい」
怒られてまで道場に留まる理由もない流凪と希美は、追い出されるようにして道場を後にする。理不尽に怒られたような気がするが、優の気を逸らしたという意味では確かに練習の邪魔をしたとも言えるので文句も言い辛い。納得がいかない気分を抱えつつ、これからどうしようかと考える二人を追いかけるように、道場から足音が一つ。
振り返ると、そこには静香がいた。優と勝に気を取られて全く気が付かなかったが、どうやら道場内にいたらしい。静香は二人が自分に気が付いたことを確認すると、ペコペコと頭を下げる。相変わらず口は開かないが、どうやら勝の行動を代わりに謝っているようだ。
「大丈夫だよー」
「気にしないで、静香おばさん。わたしたちは大丈夫だから」
その言葉を聞いて、もう一度深く頭を下げた静香は道場へと戻っていく。あの人も大変だな、と気の毒に思いつつ、道場に背を向ける二人だった。




