第二十七話 永遠の安息があらんことを
音楽室の中から幽霊を鎮めることに決めた流凪が向かったのは、その部屋の角に設置された立派なピアノだった。白い粘液でぐちゃぐちゃのそれを軽く手で払い、『払う』という概念を拡張することでピアノ全体に付着した液体を払い飛ばす。ポンポンと鍵盤を叩けば、問題なくピアノの音が鳴り響いた。間違いなく調律されていることを一通り確認し、椅子に座る。
「ピアノを弾くの?」
「正直、これでいけるかはかなり怪しいんだけど……」
そう言って、両手を鍵盤に乗せ、その指を踊らせる流凪。奏でるのは有名な鎮魂歌。素人が奏でられるものではない相応の難度を持つそれを、しかし流凪は流れるように弾いていく。世界で通用するような一流、とまでは言えないが、それに準ずるくらいには軽やかに、しかし力強く、華麗に演奏する流凪の姿は、その服装も相まって何かのコンクールを想起させるようだ。
「す、凄い……!」
その音は流凪が『鳴らす』という概念を拡張したことにより放送されているかのように校舎全体に響き、希美にも、凜々花にも、秋子にも、玲にも、そして幽霊の耳にも届く。なかなか耳にする機会がないほどの技巧的演奏。玲にはそれが流凪の演奏であることがすぐに分かったし、幽霊を鎮めようとしていることも理解出来た。流凪が状況を理解して解決のために動いている。それなら大丈夫なはずだと。玲はそう考えているし、実際、暴れる幽霊の動きがわずかに遅くなっているようだ。きっともう少しで問題は解決される。そう期待して、痺れる腕に力を込めて幽霊の攻撃を弾き続ける。
「駄目だ」
演奏を続けながら、流凪が呟く。それは、このままでは目的を達成出来ないという宣言であり、それは、このままでは希美も、凜々花も、秋子も、玲も、四人とも助からないという絶望の宣言だった。
「だ、駄目って……」
「わたしの演奏には心がない。こんな響かない演奏では、人の無念は鎮まらない」
流凪がピアノを演奏出来るのは、昔に習ったからだ。流凪の親は教育に厳しい親で、流凪はあまりにも多種多様な習い事を強制的にやらされていた。流凪には何に対してもそこそこの才能があった。そこそこでは駄目だと、両親からは厳しい叱責を受けた。一流でも許されない。超一流以外は認められない。流凪はあらゆる習い事を、ただ言われるがままにやり続けて。そこに自分の心などというものは一切なかった。
流凪の演奏に、心など全く込められていない
「は、ははは、まさか、真面目に習い事に取り組まなかったことが人を殺すなんて、ね……」
流凪の口から乾いた笑いがこぼれる。その両手は義務的に演奏を続けるが、流凪の目はどこを見ているのかも分からない虚無と化していた。どうにか心を込めて演奏出来ないかを試して必死に鍵盤を叩くのに、演奏にはその必死さが全く表れない。凪の如く一定の調子で、ただ正確に譜面をなぞっていくだけ。
「わたしが、やるよ……!」
「え……?」
奏が流凪の隣に座る。思わず流凪が演奏の手を止めて隣を見ると、今まで見たことがないほど力強い目で自分を見つめる奏の姿があった。自信のなさが表れているかのようにいつも丸まっていた背中はピンと伸ばされ、元々流凪よりも大きいその体が、今は更に一回り大きく見える。
「やれるの……?」
「ピアノは得意なんだ。流凪ちゃんほど上手くはないし、やれるかは分からないけど……でも、やるよ!」
奏には自分が仲間たちを苦しめているという罪悪感があった。凜々花も、秋子も、希美も、それぞれが自分でこの恐ろしい学校を脱出しようという気概で動いているのに、自分だけはただ秋子に手を引かれるだけ。ただ悲鳴を上げて逃げ回って、ただ秋子に手を引いてもらって、ただ流凪に守ってもらって、捕まって心配かけて。
そんな自分に出来ることがあるのなら
自分が唯一得意なピアノが役に立つのなら
今やらず、どうして皆の友達を名乗れるのか
「どうすれば良いのか教えて」
「ただ祈って。大丈夫だと。もう休んで良いんだと。安らかに眠れと」
「分かった」
そして、奏の指が動き始める
主よ、永遠の安息を与えたまえ
彼の天才が最期に手掛けた鎮魂歌
重々しい音色に、光が差し込んでくるように。奏では技術的に未熟で演奏しきれないその曲を、流凪が補佐することで再現し奏でていく。流凪の力によって拡張されたピアノが、普通ではありえない重々しさを持って、その音色を世界中へ届ける。
奏の技術は拙い。確かに本人が言う通り上手に弾けてはいるが、その演奏技術は流凪にも満たない。きっとその演奏を世の音楽家たちが聞けば、酷評するだろう。練習が足りない。楽譜の読み込みが足りない。作者への理解が足りない。
それでも、その演奏には心が込められている
どうか、安らかに。もう苦しまなくても良いんだと。守ってくれてありがとうと。わたしたちは大丈夫だから、あなたが守ってくれたお陰で無事だから、だから、どうか、安らかに眠って欲しい。
誰よりも怖がりな奏だからこそ、その感謝はどこまでも真っ直ぐな想い。誰よりも友達想いな奏だからこそ、その感謝はどこまでも真っ直ぐな想い。ありがとう、わたしを助けてくれて。ありがとう、友達を守ってくれて。一番苦しいのは、一番辛いのは、一番怖いのはあなただったはずなのに、それでもわたしたちを守るために恐怖に立ち向かって、そして勝って見せた。あなたの強さを尊敬します。
もう大丈夫だから。落ち着いて、苦しまないで、悲しまないで。
おやすみなさい
あなたに永遠の安息があらんことを
「止まった……」
暴れる幽霊が動きを止め、その場にただ浮遊する。今にも倒壊しそうなほど揺れていた校舎も、いつの間にか静けさを取り戻していた。
「助かった、の……?」
「そうみたいね。この演奏、流凪と奏のお陰?」
「ええ、お嬢様が校舎中に音を届けているようです」
周囲を見回しながら立ち上がる希美と凜々花。幽霊の攻撃を弾き続けていた玲も、やっと一息吐いてその腕を下ろした。そうして落ち着いた三人よりも一歩前に、幽霊の目の前まで進み出て、その場にただ浮かんでいる幽霊を見上げる秋子。
そして、勢いよく頭を下げた。
「ごめんなさい!」
何事かというように、頭を下げた秋子を見つめるように顔を動かす幽霊。頭を下げている秋子はそんな幽霊の様子を見ることもなく、叫ぶように謝罪の言葉を続ける。
「あなたがわたしたちを襲って、奏を傷つけたんだと勘違いして。あなたは守ってくれていたのに、恩を仇で返してしまった。あなたにとってきっと何よりも嫌な物だろうハサミで突き刺すなんて。謝って許してもらえるとは思えないけれど、それでも謝らせて欲しい」
ハサミで刺し殺し、その直後から理性を失ったように暴れ始めた幽霊を見て、秋子も理解したのだ。この幽霊は自分たちを襲ってきていたのではなかった。あの男から守るために行動してくれていたのだと。奏を音楽室に閉じ込めたのだって、外の脅威から守ろうとしてのこと。自分たちの前に現れたのは、危険な男が近くにいることを警告してくれていたのだろう。
「ごめんなさい。そして、ありがとう。あなたは間違いなくわたしたちの恩人よ」
秋子の言葉が届いたのかは分からない。しかし、まるでそれに応えるように、世界が元に戻っていく。どこまでも広くなっていた廊下は見慣れたいつも通りの長さに戻り、ピンクに染まっていた壁も、床や天井も、空も空気も戻っていく。校舎中のあらゆる場所に付着していた白い粘液も消え、転んだり押し倒されたりしてベトベトになっていた希美たちの体もすっかり元通り。最初から何もなかったように綺麗になった。
それでも、先ほどまでのことは夢ではない。凜々花が蛇田雄に殴られた怪我はそのままだし、玲の腕も痺れたまま。
そして、目の前には体が透けている浮遊霊が存在している。




