第二十五話 迫りくる浮遊霊
五十メートルをほぼ五秒ジャスト。世界記録を圧倒的に上回る速度で走破する玲は、白い液体で滑る廊下でもその脚力を遺憾なく発揮し瞬く間に蛇田雄へと接近する。そしてその勢いを保持したまま、踏み込みの衝撃を余すことなく腕へと伝達。見失うほどの速度で拳打を放つ。過剰な興奮で脳のリミッターが外れている蛇田雄だったが、玲の身体能力は最初から人間の限界を超えている。わずかに反応するのが限界で、避けることなど出来ようはずもない。容赦ない拳が蛇田雄の顔面を捉え、あまりの勢いに吹き飛ぶことすら出来ずにその場で回転。頭から床に叩きつけられた。
「消えろ、豚がッ!」
足元に倒れた蛇田雄を、ついでとばかりに蹴り飛ばす玲。綺麗に腹を捉えて振り抜かれた脚がロングスカートをフワリと浮かび上がらせ、そのスカートが下りてくる頃にはもう、蛇田雄はサッカーボールの如く彼方まで転がっていた。玲の足元には、顔面を殴られた時に折れた蛇田雄の歯が二本、液体の中に沈む。白い中に混じる赤の量が、蛇田雄を打ち抜いた攻撃の威力がいかに高かったかを物語っていた。
「フゥー……死んではいませんよね。首を折ってしまわないようには気をつけましたが」
思い切り蹴り飛ばし、多少は玲の機嫌も直った。普段の穏やかさを取り戻し、蛇田雄が生きているかどうかを確認するために、倒れたまま起き上がってくる気配がない蛇田雄へと歩いて近付いていく。最悪死んでしまっても仕方がないという気持ちではいたが、玲とて殺そうとして攻撃した訳ではないのだ。死体にすると後始末が大変にもなるので、玲も出来れば生きてはいて欲しいと思っている。
そんな玲の視線の先。蛇田雄が倒れるその場所に。
ゆらりとどこからともなく現れる浮遊霊
「あれは……お嬢様が言っていた幽霊、でしょうか。そちらにはお嬢様が行っていたはずですが……何故ここに。お嬢様は何をしているのでしょう」
表面上は余裕そうな態度を崩さず、しかし蛇田雄へ近付くのは止めて後ずさる玲。幽霊が何をしてくるのかは不明だが、ここに流凪がいない以上、希美と凜々花は自分が守らなくてはならない。そう考え、幽霊から目を離さないようにしつつ後退していく。基本的には通常の人間と同様に肉体を用いた殴打しか出来ない玲にとって、幽霊というのはかなり厄介な相手だ。現状取るべき基本戦術は、逃走。戦うことではなく、逃げることを考えなくてはならない。
「れ、玲さん、あれって」
「しっ、お静かに。あの幽霊を刺激するようなことはしないようにしてください。わたしでは、相当無理をしないと幽霊の相手は出来ません。逃げますよ」
「は、はい……」
近寄ってきた希美と凜々花に小声で指示し、三人で後退していく。その間、現れた幽霊は何をするでもなく、ただその場に浮かんでじっと倒れた蛇田雄を見つめていた。それを見て、希美と凜々花は思った。やはりあの幽霊はただそこに浮かんでいるだけなのだと。七不思議の題が現れ消える浮遊霊である通り、ただそこに現れ、そして何もせず消えていく。それだけの存在なのだと。前回見た時よりもはっきりと実体を持っているように見えるが、何も変わらない。玲の言う通りに一応逃げはするが、実際のところは大した危険はないだろう、と。そう楽観していた。
「ゥ……ゥゥゥ……ァァ……」
しかし、そんな二人の考えを嘲笑うように
オおおああアアァぁあァぁァッッ!!
離れていても耳をつんざく悲鳴ともおたけびとも思えるような叫びを上げ、幽霊がその手を蛇田雄の胸へと貫手の如く突き刺す。その手はまるで水面に入れているかのようにほとんど抵抗なく蛇田雄の胸へと入っていき、幽霊の手首までが蛇田雄の中へ隠れるほど深く突き刺さった。
次の瞬間
「あ、が、があああああぁぁぁぁッ!!?」
玲に蹴り飛ばされてから全く動く様子のなかった蛇田雄が、尋常ではない苦しみの声を上げながら暴れ始めた。足は何度も何度も床を叩き、手は何かに助けを求めるように小さく床を引っかく。しかし、どれだけ暴れようと、幽霊が手を突き刺した胴部分だけは全くその場から動かない。空間に固定されてしまったかのように、ただ静かに幽霊の手を受け入れたまま、床に横たわるだけ。
「な、何っ!?」
「ちょっと、あれヤバいんじゃないの!?」
「これは、一体」
悲鳴を上げ、ただ暴れることしか出来ない蛇田雄。どれだけ暴れようが幽霊がその手を抜く様子はなく、やがて暴れる蛇田雄の動きと声が段々小さくなっていく。
そして
「あ、あが、がっ……ごぼッ!?」
最初に変化が起きたのは、悲鳴を上げていたその口だった。離れていてもはっきり聞こえるほど大声で悲鳴を上げていたその声が小さくなっていき、そして、血を吐いた。その量は口を少し切ったとかそのようなものでは決してなく、最初にコップ一杯分をぶちまけたかのように一気に吐き出したかと思うと、それ以降止めどなく大量の血を吐き出し続ける。
変化はそれに留まらない。次に鼻から、次に目から、次に耳から。蛇田雄の体中、あらゆる穴から血を垂れ流し、遂には全身の至る所から血を噴き出し始めた。灰色のスーツはあっという間に真っ赤に染まり、床に広がっていた白を押し退けて赤く赤く侵食していく。医療の知識がなくとも分かる。明らかに致死量を超えている。蛇田雄からの苦しむ声はとうに途絶え、その体は死してなお血を垂れ流すことを止めない。蛇田雄の体がミイラの如く痩せ細り、最早それが誰なのかも一目では分からないような状態になって、やっと幽霊の手がその体から引き抜かれた。
「ゥゥゥ……ゥゥゥゥ……」
希美も、凜々花も、玲も、確かに感じた。
その幽霊の、長い髪に隠された目が
こちらを見ている
「ヒッ!?」
「くッ、逃げますよ!」
「は、はいっ!」
空中を滑るように接近してくる幽霊を見て、それに背を向け全速力で逃げ出す希美と凜々花。その後ろで幽霊の様子を振り返りながら走る玲は、みるみる距離が縮まり、このままではすぐに追いつかれてしまうことを理解する。
「舌を噛まないように、口を閉じていてください!」
「え、ひゃあっ!?」
「わぁっ!?」
追いつかれて蛇田雄のような目に遭うことだけは避けなくてはならない。玲は両脇に希美と凜々花を抱え、全速力で逃走を開始した。小学校高学年の子供二人を抱え、足元が悪い中、それでも玲の速度は人間離れしている。その速度は五十メートルを六秒と少し程度で駆け抜けられるほどで、希美と凜々花が自分で走るより圧倒的に速い。少なくとも、先ほどまでの幽霊の速度から考えればそれで充分逃げ切れるはずだった。
しかし、この幽霊は怪異のプロフェッショナルである流凪ですら驚愕するような相手。これで逃げ切れるような、そう甘い相手ではない。足元を満たす白い液体の粘度と量が増し、更に走ることが困難になる。その上、玲の走る速度を見て幽霊側も全力を出してきたようで、明らかに接近速度が上がった。こちらは遅くなり、あちらは速くなる。玲ですら逃げることが難しい状況になり、百メートル近くあった距離はほんの十数秒で半分ほどまで縮まった。
「れ、玲さん、来てます!」
希美に警告されるまでもなく、玲だってそれは分かっている。振り返らずとも、背後から迫ってくる圧が無理矢理にでも接近を理解させる。だが、今この状況で玲に出来ることは全力で走ることだけだ。もちろん流凪のように手を一度叩けば相手を怯ませられるならどうとでもなるが、玲にそんな力は備わっていない。そして流凪はここにはいない。少しでも逃げて時間を稼ぎ、流凪が来てくれることを願うしかない。
必死に走る。後ろを確認する余裕などない。ただ前を見て、全力で走る。そんな玲の視界に、前方から誰かが走って来るのが見えた。お互いに向かい合って走っているので分かりにくいが、希美や凜々花よりも足が遅いように見える。更に距離が縮まりその姿がはっきり見え始めると、遅いながらも必死に走っていること、そして目に涙を溜めていることが見て取れる。
「あれは……秋子さん?」
「え、秋子ちゃん!?」
「秋子が来てるの!? ちょっと、駄目よ秋子! こっちは危ないわ!」
凜々花の声が聞こえたのか、一度足を止めて玲たちの方をじっと見つめる秋子。そして、その背後から迫る幽霊の姿を視界に捉えると、むしろ凜々花に警告される前よりも必死さを増して走り寄ってくる。
「え、な、何故。秋子さん駄目です! 逃げてください!」
玲に言われても秋子は全く走る速度を緩めない。その目は涙を溜めつつも何かを決意したように鋭く光り、表情は恐怖でも不安でも混乱でもなく、怒りが込められているように見える。
そして、その右手にハサミを構え、叫ぶ。
「許さない! 奏はわたしが助けるッ!!」
秋子はそのまま玲たちの横をすり抜け、気付けばすぐ後ろまで迫っていた幽霊へ向かって右手のハサミを振りかぶる。
幽霊にも人間と同様、全速力で移動している状態から急には止まれないという物理法則が働いているのか、ハサミを回避しようという素振りは見せるもののそれは叶わず。
振り抜かれたハサミは秋子の狙い通り、幽霊のこめかみに深々と突き刺さり
「ああああああぁぁぁぁぉぉォォッ!?」
幽霊の断末魔の叫びが校舎中に響き渡った。




