第二十二話 儚い抵抗
「な、何……これ……?」
三階の教室で周囲の様子を窺っていた希美と凜々花。何も異常がなさそうであることを確認し、そろそろ四階へ向けて移動を開始しようとしていたその時、世界が急激に変化した。気持ち悪い粘性の白濁した液体が滴るピンクの世界。あまりにも意味が分からない現象に、二人は周囲を見回すことしか出来ない。
「何か、変な臭いがする。気持ち悪い……」
「何が起きてるのよ。今までも意味不明だったけど、これはいよいよ訳が分からないわ」
周囲を見ても世界が変化した以外は何も起こらないことを確認してから、恐る恐る廊下に顔を出してみる二人。左右を見て、廊下が異常なほど奥まで続いているのが目に入る。上に行きたいのだが、どちらに向かえば階段が近いのかすら分からない。というか、今まで通りの行動方針で上を目指しても大丈夫なのかも不明だ。こんな現象は七不思議にもなかったはず。何が起きているのか。
「……分からないけど、とりあえず秋子と奏と合流しないと。早く行くわよ」
「……うん、そうだね。まずは合流しないとね」
どちらに行けば良いのかも分からないが、世界が変化する前は、この教室は三階の真ん中辺りにあったはずだ。どちらに行ってもそう距離は変わらない。そう考えるなら音楽室が近い方に向かうのが良いだろう。そう考え、自分たちが三階に上ってきた階段があったはずの方向へと移動を開始する。何が起きるか分からない。急ぎたい気持ちを抑え、ゆっくり、ゆっくり、足元が悪い中を前へと進む二人。
どれだけの時間歩いたのか。緊張から時間が引き延ばされているかのように感じ、実際には何分経ったのかも不明な状態。時間だけが無駄に過ぎ、大して進んでもいないように感じ、もっと急いだ方が良いのか、もしかしてこの方向には実は階段が存在していないのではないか、そんな不安に襲われ始めた頃。
ぐちゃぐちゃと、液体を踏み鳴らす音が背後から聞こえてくる。
自分たちよりも明らかに速いペースで追いかけてくる何かの足音。秋子と奏か、他の何かなのか。まだ音は遠い。暗さがなくなり視界が開けた現在でも見えないくらいには遠くを移動しているようだ。その音の方へ向かうべきか、その音から逃げるべきか。どちらが正解なのか分からない。もしこれが秋子と奏であるのなら、わざわざ四階へ向かうまでもなくここで合流出来る。逃げればそれだけ合流が遅くなり、この異常な空間から脱出するための行動を取るのがその分だけ遅くなるだろう。脱出しようと思って可能なのか、ということは置いておくとして。
だがもし、二人以外の何かだったら? 自分から危険に近付くほど愚かなことはない。特に、ただでさえ七不思議の実在が明らかになっているこの学校で、更に異常な世界へと書き換わっている現在。一体どんな危険な存在がいるのか全く分からない。そんな相手に近付いていくのか?
そうして悩んでいる間にも、足音は近付いてきている。段々と近くなってきて、音がはっきり聞こえるようになったところで、やっとその足音が一人分であることが判明した。少なくとも秋子と奏の二人ではないことは間違いない。二人がはぐれていて、その片方である可能性は否定出来ないが。
「ど、どうするのよ」
「分からない、けど……いつでも逃げられるようにしておこう。変なものだったらすぐ逃げる」
それが何者か分からないため、近付くことは出来ない。が、秋子か奏であった時のために離れることもしない。いつでも逃げられるように構えながらその場で待機。視界にそれが入った瞬間に判断する。そう決めて、廊下の先へじっと目を凝らす希美と凜々花。
果たして、やっと視界に入ってきたそれは、二人もよく見知った人間
二人の担任教師、大地場蛇田雄だった
「あれって……先生?」
「何で先生がいるのよ」
何故ここにいるのか分からないが、少なくとも異常存在ではなさそうなことに安心し、逃走の構えを解く二人。まずは秋子と奏を見かけてないか尋ねて、その後は二人と合流するのに協力してもらおう。世界は何か異常なものに書き換わってしまったけれど、大人の男の人がいるならきっと大丈夫だろう。そう思って、笑顔で先生と呼びかけようとして。
「フヒヒヒ、見つけた……喜崎……一番可愛いロリっ子ぉ……!」
様子がおかしいことに気が付く。見開かれた目は血走っており、嫌らしく歪んだ口元からは今にもよだれが垂れそうだ。世界がよく分からないピンクに染まっているというのにそちらには一切目を向ける様子もなく、ただ一心に凜々花を見て駆け寄ってくる。どうなっているのかは分からないが、何かがおかしいことは分かる。明らかに近寄ってはいけない雰囲気。
「や、ヤバいわあいつ! 逃げるわよ!!」
「う、うん!」
蛇田雄に背を向け逃走を始める希美と凜々花。二人とも運動は苦手ではなく、小学生女子としては速い方のペースで廊下を駆ける。
が、明らかに追ってくる方が速い。
小学生女子と成人男性というだけではない差。蛇田雄は何か、人間として持つべきリミッターが外れているかのように異常な速度で迫ってくる。
「待てよ喜崎ぃ……! お前をブチ犯すために俺はここにいるんだからなぁ……! ひゃはははァッ!」
このままでは逃げ切れない。明らかに様子がおかしいあの教師に捕まったら、一体何をされてしまうのか。分からないが、今までに経験したことがない苦痛を味わうことになるのだろうというのは簡単に想像出来る。絶対に捕まりたくない。七不思議に遭遇した時とは比にならない恐怖を感じる凜々花。
しかし、同時に思う
仲間がそんな目に遭うのは、もっと嫌だ
どうやらあの教師の狙いは凜々花のようだ。明らかにその目は凜々花だけを見ている。真っ直ぐに、他の何も見えていないかのように。
だったら
「希美、あんたは逃げなさい!」
「凜々花ちゃん!?」
立ち止まり、振り返る。恐怖に震える体で、涙が浮かぶ目で、それでも真っ直ぐに迫りくる担任を睨みつける。こうなったのは自分のせいだ。自分が肝試しをしようなんて言わなければ、こんなことにはならなかった。希美が嫌々来ているという程度のこと、凜々花にだって分かっているのだ。だからこそ、今、この状況は全て、自分が招いたのだと。だからこそ、その責任は自分が取らなければならないと。
今度は、友達になりたい、憧れのこの子を
昔、自分を助けてくれたこの子を
自分が助ける番だと
「きひひひひ、ようやく観念したか喜崎ぃ……! 良い子だ、大人しくしてろよぉ……」
目の前まで来た男は、凜々花の華奢な体を舐め回すように眺め、ゆっくりと手を伸ばしてくる。その行き先は、スカートの裾。そこまできてようやく凜々花にも理解出来た。この男は、自分に性的なことをしようとしているのだと。恐怖に震える体に、嫌悪感から鳥肌が立つ。
「だれが大人しくなんかしてやるもんですかっ!!」
「凜々花ちゃん!」
「あんたはさっさと逃げろっつってるでしょっ!!」
伸ばされた男の手をすり抜け、全力でその腹に向かって拳を打ち出す凜々花。避けようという素振りすらない蛇田雄の腹に、凜々花の拳が真っ直ぐ突き刺さる。
「捕まえたぁ……!」
「ひっ!?」
その突き出された凜々花の細い腕を、痛いほどの力で握り締める蛇田雄。そして、そのまま白い液体でべとべとの床へと押し倒した。




