第二十一話 取り込まれた異界
まず、色が変わった。真っ暗だった廊下は肉々しい赤混じりのピンクに染まる。それは校舎内に留まらず、窓の外の景色も同様。世界の全てがその色を一変させた。まるで巨大な怪物の腹の中に飲み込まれてしまったかのような、何かの体内を思わせる質感を持ったピンクの世界。そして、秋子たちが立つ床も、壁も、天井も、粘性を持つ白濁した液体が付着し、ポタリ、ポタリとゆっくり垂れ落ちる正体不明のそれが不快感を煽る。周囲は嗅いだことのない臭気に満ち、不安感と不快感で吐き気すら覚えそうだ。
奏にはそれが何なのか本当に分からなかったが、秋子には思い当たる物があった。実際に見たことはないが、自身が持つ情報から予想出来る物はある。
(まさかこれって……男性の……!?)
それに思い当たった瞬間、限界まで増した不快感に本当に吐き気を催したが、そんなことをすれば奏の不安を更に煽るだけ。無理矢理に飲み込んで、様子が変わった周囲を見回す。
「あの人は……どこに行ったの?」
すぐそこまで迫っていた担任教師の姿が見えなくなっている。それだけでなく、先ほどまでとは違い視界が開けているというのに、もう少しでたどり着きそうだった音楽室がある廊下の突き当りが遠くにギリギリ見えるほどに離れている。すぐ隣にある教室のプレートを見ると、理科室と書かれているはずのそれは滲んで読むことが出来なくなっていた。
「校舎が、拡張されている……?」
普段通りなら、真っ暗でさえなければ廊下の端から端までを見通すことが出来るはずだ。しかし今は、音楽室と逆側の廊下の先がどこまでも続いているかの如く視界の限界より奥まで延び、永遠に何の部屋かも分からない教室が並んでいる。
「な、何、これぇ……」
これまでに見てきた物とは一線を画す明らかな超常現象に、奏の恐怖心が再び呼び起こされてしまった。繋いでいる手から秋子にも伝わるほどに震え、不安から周囲を何度も見回すという、校舎に入ったばかりの時と同じ行動を繰り返している。だが、今はそんな場合ではない。何が起きたのかは全く分からないが、せっかくあの変質者から逃げることが出来たのだ。少しでも遠くに逃げなければならない。
「行きましょう」
「う、うん……ヒッ!?」
奏の手を引いて再び歩き出す秋子に、素直についてくる奏。そんな奏の、忙しなく周囲を見る目に、飛び込んでくる。
あの浮遊霊
背後から秋子と奏を追いかけてくるように、浮遊したまま滑るように迫ってくる浮遊霊。その姿は、二階で見た時よりも明らかに実体に近く、半透明だった体がはっきりと肉体を持っていることが分かる。そんな幽霊が着ている制服のスカートの裾から、周囲を垂れ落ちる液体と同様の物がポタポタと滴っているのが見えた。
「くっ、逃げるわよ!」
「ううぅ、うん……!」
慌てて逃走を始める秋子たちだったが、足元の状態が悪く走りにくい。ただでさえ秋子は足が遅いというのに、粘性を持つ液体が足の動きを妨害してくる現状、とても浮遊霊からは逃げられない。あっという間にその距離はなくなっていき、ゆっくりと伸ばされる細い腕が秋子の背を捉えようとした。
その行く手を遮るように
何もない空間を斬り裂き現れる
カッターナイフの刃
「え、何、あれ……」
「カッター……?」
その刃を警戒するように動きを止めた浮遊霊と、秋子たちとの間。空間を切り開くようにカッターナイフの刃がするりと振り下ろされ、開いた穴から、この異界化した世界へと飛び込んでくる、小さな影。
「よいしょっと、っとと」
ゴスロリ風といえば良いのか。フリルがふんだんにあしらわれた黒いジャンパースカートはパニエでふわりと浮かび、肩を覆う黒いボレロ。背中まで伸ばした艶やかな黒髪に乗せられた黒いヘッドドレスも白いフリルで縁取られていて、全体的に可愛らしい印象の服装。だというのに、黒いニーハイソックスで包まれた脚先に、何故か靴だけ軍靴のような固いものを履いている。身長百四十ほどの幼さを残した天使の如く可愛らしい少女。
「間一髪って感じ? ごめんねー、遅くなっちゃって」
澄川流凪がそこにいた。
「る、流凪ちゃん……?」
「流凪、何故ここに!? 駄目よ、ここは危険だわ!」
奏と同様、流凪も助けなくてはならないと、慌てて手を伸ばす秋子。しかし、そんな秋子への流凪の対応はあまりにも対照的。のんびりとその伸ばされた手をいつも通りの眠たげな眼で見た流凪は、スカートの中に手を突っ込んで何かを取り出した。そして、秋子の手へと取り出した物を握らせる。
「はい、これ。念のために持っといてね」
「何これ、ハサミ……?」
流凪が秋子へと手渡したのは、何の変哲もないハサミ。秋子も学校の工作等で使用したことがある、どこにでもある文房具としてのハサミだ。何故急にハサミを渡してきたのか、それも尋ねたい秋子だったが、今はそんなことはどうでも良い。とにかくここは危険なのだ。どこでも良いから早く逃げなくてはならない。
「とにかく早く逃げ、っ流凪!!」
ハサミから顔を上げ、再び流凪へ逃走を促そうとした秋子の目に、警戒から立ち直ったのか手を伸ばして襲い掛かってきている浮遊霊の姿が見えた。慌てて流凪へと警告の声を掛ける秋子だが、もう間に合わないことは誰の目にも明らかだった。既にその手は流凪に触れる直前まで来ていて、触れられたらどうなるのかは不明だが、きっと碌な事にはならないだろう。
パンッと、柏手一つ
それだけで、浮遊霊が苦しむように下がっていく
「え……?」
「る、流凪……あなた一体何を……?」
秋子と奏には理解の埒外の現象。流凪がしたのは、ただ一回手を叩いただけ。少なくとも秋子にも奏にもそう見えた。それなのに、何かお祓いでもされたかのように幽霊が苦しむ仕草をして飛び退いたのだ。そういえば、理解出来なかったので放置していたが、先ほど流凪はカッターナイフで空間を斬り裂いて現れなかったか。
もしかして、この少女ならこの状況をどうにか出来るのか。そういう力があるのか。秋子と奏に、希望が見え始めた。
「んーとねー、『鳴る』という概念を拡張して、わたしが持つ祓いの力を乗せた音で追い払ったんだよ」
「…………ごめんなさい、さっぱり分からないわ」
「んふふ、だろうね。とにかく、ここは大丈夫ってことだよ。玲が下から来てるから、ここはわたしに任せて希美ちゃんたちと合流して」
「ほ、本当に流凪ちゃんだけで大丈夫なの……?」
ここはわたしに任せて先に行け、などと、まるで漫画のキャラクターが死亡する前に言うような台詞を口にする流凪。そんな姿に不安を掻き立てられ、奏は思わず心配の声を掛けてしまう。逃げても良いと言われればすぐにでも逃げたいが、しかしそれはそれとして一人で残していく流凪のことは心配なのだ。そういう、奏の善良性の表れだった。秋子としてもそれには同意見。確かに、どうやら何か理解出来ない力を持っているのは間違いないようだが、それはそれとしてここに一人で残していって良いのか。下から玲が来ているというのなら、一緒にそちらを目指して移動するべきではないのか。
「んふふ、ありがとう奏ちゃん。でも、大丈夫だよ」
相手が怪異の類なら、わたしは無敵だから
そう宣言する流凪の背中は、その華奢な見た目とは裏腹にあまりにも大きく、強く、頼りがいがあるように見えて。流凪が一体何を根拠に無敵だなどと言っているのかも分からないというのに、何故か流凪は大丈夫なのだと、秋子も奏も、無条件に信じることが出来た。




