第二十話 大地場蛇田雄という男
担任の男性教師の姿を目にして、奏の心に安心感が広がっていく。生徒たちには嫌われているこの担任のことは奏としてもあまり好きではないが、しかし今は状況が状況だ。大人の男性がいてくれるというのは非常に心強く、これできっと無事に帰ることが出来ると、そう思って強張っていた表情にも明るさが戻ってくる。
「大地場先生! 良かった、あの……」
「待って」
笑顔で蛇田雄へと駆け寄ろうとした奏の手を強く引いて足を止めさせたのは、秋子だった。驚いて振り返る奏が見た秋子の表情は安心とは程遠く、むしろ先ほどまでよりも明らかに警戒心が前面に現れている。その目は睨むように蛇田雄を見据え、嫌っているからというだけでは説明出来ない、敵意とも思えるほどの鋭さで蛇田雄の様子をくまなく観察していた。
「こんばんは、先生」
「ああ。それで、こんな時間に何をしているんだ?」
「ちょっと、肝試しを」
「肝試し? 子供だけでこんな夜中に、危ないだろう。ほら、こちらへ来なさい」
そう言って笑う担任教師の姿が、秋子には何かの妖怪の如く見える。地獄へと手招く鬼のような、闇へと誘う悪魔のような。しかし、奏には分からない。この状況で何故先生を警戒するのか。むしろ連絡が取れるなら自分から呼び寄せるくらい頼りになる存在に思えるというのに。
「先生こそ、こんな時間に何を?」
「俺はちょっとした忘れ物だ。そうしたら誰かがいるような音が聞こえてきたから、確認に来たんだ」
言っていることは真っ当だ。確かに秋子たちは先ほどまでそれなりに騒いでいたので、学校に来たならその存在を感知するのはそう難しいことではなかっただろう。それでも秋子の警戒は解けない。幽霊を目にした時よりも更に目の前の男を危険視している。
「どうした、藤野谷。そう怖がらなくても良い。別に叱ったりはしない。家まで送るから、一緒に帰ろう」
その姿は普段と変わらない。いや、むしろ普段よりも穏やかで優しそうに見える。怖がる子供を安心させようという気遣いに満ち、とても多くの生徒から嫌われている教師だとは思えない。きっと普段は皆が頑張って勉強するように敢えて厳しくしているのだろう、と。今は自分たちが怖がっているから安心させようとしてくれているのだろう、と。やはり警戒する必要なんてないだろう、と。全く警戒を解かない秋子とは逆に、奏はどんどん先生を頼りにこの学校から脱出したい思いが大きくなっていく。
しかし、先生の方へ行きたくても、それを秋子が許さない。繋いだ手は痛いくらいに力が込められ、万が一にも奏が勝手に先生の方へ行ってしまわないように、必死さすら感じるほど。
「あれ、先生、そのポケットから出ているのは何ですか?」
「え、ああ、いや、この下着は落ちていたから」
秋子の指摘に慌てた様子でズボンのポケットへ手を伸ばす蛇田雄。が、その手が触れるのはズボンの生地だけ。ポケットから出ている何かに触れることはない。目を見開いて目視で確認すると、秋子が言うようなポケットからはみ出している何かは存在しなかった。嵌められた。それを理解した蛇田雄が再び視線を秋子へと戻す。秋子の表情は、先ほどまでのように蛇田雄を警戒して睨みつけていた状態を超え、もはや汚物を見るかの如く歪んでいる。
「下着だなんて、誰も言っていませんが」
「くっ……!」
「え? 何、どういうこと……?」
「奏が二階で聞いた物音。あれは一階の女子トイレを物色するこの人が鳴らしていた音だったってことよ」
二階で浮遊霊が現れる直前、奏は何かの物音を聞いて足を止めていた。奏によると、それはどうやら下、つまり一階からの物音だったらしい。この学校は階段のすぐ横にトイレがあるので、二階の階段前で真下から音が聞こえてくるのなら、それはきっとトイレからの物音だ。実際、奏もその音が七不思議の一つ、物音がする女子トイレに違いないと思っていた。秋子にも確信があった訳ではないが、今の反応で確定した。間違いなくあれはこの教師がトイレで何かをしていた音。恐らくは一階の女子トイレで発見した、誰かが捨てていったおもらしパンツを回収していたのだろう。もしかしたら、隠しカメラでも仕掛けていた可能性もある。
「な、何を根拠にそんなことを。言いがかりは止めなさい」
「別に、当てずっぽうで言っている訳ではないので。三階でわたしたちに襲い掛かってきた人体模型。あれは先生ですね」
「……っ!」
走る人体模型を目撃した時、秋子は違和感を抱いていた。それは、人体模型にしては太っているように見える、ということだ。一瞬しか見えなかったし、周囲も薄暗いため、気のせいである可能性もあったのだが、秋子の言葉に言い返すことが出来なくなっている蛇田雄の様子を見るに正解のようだ。人体模型の描かれた服を着て、まるで七不思議の走る人体模型が襲ってきたかのように見せかけていたのだろう。
「ここまでくれば他も予想出来る。校庭の人影も先生。恐らくは階段から覗く目や音楽室の動く肖像画も同様ね。そして、それらの噂を流しているのも先生」
「何を馬鹿なことを。俺がそんなことをする意味がない。何のためにそんな」
「女子生徒を襲うため」
秋子の言葉に、今度こそ顔が歪む蛇田雄。図星だ。秋子の予想は全て合っていたということだ。本当は、合っていて欲しくはなかったのに。
「え? えぇ……? どういうこと……?」
「奏。あなたがついさっき、先生に笑顔で駆け寄ろうとしていた。あれがこの人の狙い通りなのよ」
七不思議の噂を流し、怪談好きな生徒が夜の校舎に肝試しに来るように仕向ける。そして、その七不思議通りの行動で生徒の恐怖を煽り、散々怯えさせた上で、まるで助けに来たかのような顔で現れるのだ。たとえ普段は嫌っていようと、こんな状況で優し気な笑顔で現れた頼りになる大人の男性を警戒出来る子供は多くない。無警戒に近寄り、まんまとその毒牙に掛かる。
「教室で大きな声で肝試しの計画を話したのは失敗だったわ。わたしたちはこの人にとって、絶好の獲物になってしまった」
話しながら、どうにか蛇田雄と距離を取ろうと後ずさる秋子。本当はこんな話をしたくはなかった。こうして蛇田雄の悪事を暴いてしまえば、その後この男がどのような行動に出るか予想出来ない。出来れば何も分かっていない風を装って離れられればベストだった。しかし、蛇田雄が悪人であることを暴いてやらなければ、奏が罠にかかってしまう。全てを白日の下に晒すしかなかった。
奏の手をグッグッと引っ張る秋子。しかし、まだ納得出来ていないのか、納得したくないのか、奏は秋子と蛇田雄を交互に見ているばかり。その場を動こうとしない。そうしている間に、蛇田雄の中で何かの整理がついてしまったのか、歪んでいた顔を嫌らしい笑みに変えて、秋子と奏を、いや、二人のスカートの裾辺りを見つめている。
「そこまでバレているなら仕方がない。もう良い。無理矢理ヤるだけだ!」
「ヒィっ!?」
今にもよだれでも垂らしそうな顔でいきなり襲い掛かってきた蛇田雄に、ようやく状況を理解したのか逃走を始める奏。手を引いていた秋子をあっという間に抜き去り、逆に引っ張る格好になる。が、遅い。蛇田雄はいかにも運動不足の中年男性といった風貌だが、成人男性であることに変わりはない。女子小学生の、それも運動が特別苦手な秋子の足で逃げ切れる相手ではない。あっという間に距離を詰められ、その手が秋子に触れる
直前
世界が、変わる。




