第十八話 奏の勇気
「うわああああぁぁぁぁっ!!」
奏は突然目の前に現れた幽霊を目にして、全速力で逃げ出した。無我夢中で廊下を走り抜け、無意識に過ごし慣れた四年一組の教室に飛び込む。そのまま教卓の下に入り込み、出来る限り身を小さく丸めた。
「はぁ……はぁ……奏、待って……」
そんな奏を追って、秋子も教室へと入る。奏は決して運動が得意という訳ではないが、それとは比較にならない程度には秋子の足が遅いため、追いついた時にはかなり息が上がっていた。どうにかゆっくりと呼吸を整えつつ、奏が逃げ込んだ教卓の下を覗き込むと、それだけでビクッと驚きに身を跳ねさせる奏。声からそれが秋子であることは分かっているはずなのにこの怯えよう。先ほどの幽霊との接触が相当堪えているようだ。
「うう……何かいたぁ……もうやだ、怖いぃ……」
涙目で震える奏。何も起こらなかったとしてもこの暗い校舎は奏にとってかなり辛い環境だ。ましてや実際に霊の存在を確認してしまっては、こうなるのも無理はない。しかし、いつまでもこの教室にいる訳にもいかない。早く希美、凜々花と合流してこの校舎から脱出しなくてはならない。秋子はどうにかして奏に動いてもらおうと声を掛ける。
「ほら奏、いつまでもここにいても仕方がないわ。凜々花たちと合流しないと」
「やだぁ……だって何かいるよ……」
「ここにいたって何か来るかもしれないじゃない」
「やだやだ、どっちもやだぁ……ううぅ……」
理屈ではないのだろう。結局どこにいようが安心出来ないのだから、恐怖に震える体を動かす気力など湧いてくるはずもない。秋子は一度震える奏から離れて廊下に顔を出してみる。どうやら先ほどの幽霊は追ってきてはいないようだということを確認し、再び奏のところへ戻ろうと振り返った。
「秋子ちゃん、秋子ちゃんどこぉ!? やだやだやだ、一人にしないで!!」
「ああ、大丈夫よ、奏。ちゃんとここにいるから」
「やだぁ、置いてかないで、一緒にいてぇ……」
半狂乱で教卓の下から這い出てくる奏の下へと慌てて戻る秋子。奏は溢れ出す涙を拭うこともせず、秋子の脚に縋り付いてきた。完全に限界を迎えてしまっている。秋子はその奏の頭に手を乗せながら考える。確かに奏がこうなってしまうのも仕方がないのだが、そうだとしてどうすれば良いのか。恐らくあちらの二人は自分たちと合流するために上に向かっているだろう。このままここにいたところで、状況が悪化することはあっても良くなることはない。どうにかして奏を立ち直らせなければならない。どうすれば良いのか、考えて。
思い出す。
凜々花、奏、秋子の三人は保育園時代からの付き合いだが、その三人組に最後に合流したのは秋子だ。周囲が馬鹿ばかりに見えて、誰とも交流する気がなくなっていた秋子の手を引いて外へと連れ出してくれた凜々花に引き合わされた、大きな体に小さな気の女の子、音山奏。凜々花がいない時に、秋子は奏に尋ねたことがある。どのようにして凜々花と出会ったのか。
「からかわれてたとき、たすけてもらったの。わたし、みんなよりおおきいから」
大きな体で目立っていたのに、気の弱さから言い返すことが出来ない奏を、面白がって男の子たちがいじめていたらしい。そこを助けてくれたのが凜々花だったのだとか。当時、奏よりもっと体の大きな子がいて、その子は強いから男の子たちに怖がられていたらしく、代わりに憂さ晴らしとして目を付けられたのが奏だったという噂があった。後に凜々花から話を聞いた秋子は、それが恐らく希美のことだろうと理解している。もちろん奏が希美を逆恨みするようなことがあってはいけないので、今でもその話は本人にはしていないが。
「りりかちゃんみたいにつよくなりたい」
いつもおどおどと自信なさそうに背を丸めている奏が、あの時だけは力強い目をしていた。秋子はそれを見て思ったのだ。人間には様々な側面がある。一見ただ気弱なだけだと思われる奏が明確な目標に向かって頑張ろうとする気概を持っているように、積極的に前に出て人を引っ張っていく力を持つ凜々花が実は怖がりであるように。ただ一面だけを見て周囲の全てを見下していた自分の何と愚かなことか。世界はまだまだ自分の知らないことで満ちている。自分の殻に閉じこもって交流を絶つのはどう考えても早かった。
「奏」
「な、何……?」
自分の脚に縋り付く奏の頭を両手で挟み、顔を上げさせた。その目を真っすぐ覗き込んで、秋子はその奥に眠る奏の強さを探ろうとする。
「それで良いの?」
「え?」
「怯えて、震えて、隠れて、小さくなって、目を閉じて。それで良いの?」
無理矢理こんな肝試しに連れてこられて、その上こんな超常現象を目の当たりにして、理不尽に恐怖して動きたくなくなるのは仕方がない。肝試しに誘った凜々花、それを承諾した希美、積極的に校舎内に足を踏み入れた秋子、三人にはそれぞれ落ち度があるが、奏だけは何も悪くない。一番怖がりなのに、自分には何の落ち度もなく恐怖に巻き込まれ、可哀想だと思う。助けてあげたいと思う。出来ることなら、このまま何もせず震えているだけで全てを解決させて、ああ良かったって笑わせてあげたいと思う。
でも、それは出来ないから。
だから、秋子は無理にでも奏に上を向かせる。
「あなたがずっと追ってきた凜々花の背中は、そんなところで止まっているの?」
「っ!」
凜々花ならきっと、恐怖に震えながらも立ち上がる。だって、それがあの子の目指す姿だから。平気じゃない。動きたくない。誰かの助けをただ待っていたい。それでも、怯えていても、怖くても、弱いままでも良いから、覚束ない足で、無理矢理振り絞った勇気で、前を向く。
「…………うう、うううぅ」
動き出すことへの恐怖に、奏の目から涙が溢れ出す。ボロボロと零れ落ちる涙。顔はくしゃくしゃに歪み、その姿はとても立派とは言い難い。
それでも
縋り付いていた秋子から体を離し、自分の足で、しっかりと立ち上がる。
「ど、どごにいげば、良いの?」
「偉いわ、奏。上に、音楽室に行きましょう」
そんな奏を一度抱きしめた秋子は、その大きな背中をポンポンと叩いて。そして、歩き出す。慌てて秋子を追って歩き出した奏は、一人では恐怖に負けてしまうから、せめて秋子に助けてもらいたくて、そっと、手を繋いだ。何も言わずぎゅっと手を握り返す秋子。そうして繋いだ手を引いて、教室を出て、懐中電灯で照らしながら左右を見渡して。
ドタドタと足音を立てて駆け寄ってくる、人体模型の姿が目に入る。
「あれは……」
「ひゃあああぁぁぁぁっ!?」
「ちょっ、奏!?」
冷静にその姿を確認して正体を探ろうとする秋子だったが、一瞬にして振り絞った勇気を吹き飛ばされた奏が秋子と手を繋いだまま全速力で逃走を開始。引きずられるようにして強制的に走らされる秋子は、自分の全力を超える速度に今にも転びそうになりながら必死で食らいついていく。
「ま、待って、奏、待って、お願いだから」
「いやああああああああぁぁぁぁぁっ!!」
「お願いだからあああああぁぁぁぁっ!!」
恐怖に涙を流す奏。奏とは別の物に対する恐怖で涙が出てきた秋子。二人ともが理由は違えど泣きながら、階段を無我夢中で駆け上がる。
「あっ」
階段を上り切り、やっと少し速度が緩んだ奏にホッとした拍子に、最後の一段に躓いた秋子。
「ぶっ!?」
思い切り顔面から床に叩きつけられ、また先ほどまでとは別の意味で涙が出てくるのだった。




