第九話 水泳勝負
「さあ勝負よ!」
二十五メートルプールを背に、希美に向かってビシッと突き出した凜々花の人差し指。勝ち気なその目は真っ直ぐに希美を捉え、ニヤリと笑う口元は絶対の自信を見せる。凜々花には勝算があった。それは、これから行われる勝負が水泳であるということ。水泳は体格によってはっきりとした有利不利が出るスポーツではない。ならば単純に運動能力に優れた自分が勝つはず。ここでの勝利は絶対だ。凜々花はその未来を想像してワクワクが抑えられなかった。
ちなみに、実際は水泳にも体格差は影響する。身長が高い方が単純にゴールまでの距離が短くなるし、他にも腕が長かったり足が大きかったりした方が水をかきやすい等の様々な理由により大きい方が有利だ。しかしそのような現実は置いておいて、凜々花は自分が有利であると考えている。それもあながち間違いではない。凜々花も希美もただの小学四年生。本格的に水泳を学んでいる訳ではないため、多少の体格差は運動能力によるごり押しでどうとでもなる。
つまりはこの勝負に明確な有利不利はないと表現しても良いということ。凜々花の思惑通りとはならず、図らずもある程度は公平な勝負が成立したと言えるだろう。
「もうここまで来たら勝負は良いけど……何の種目で勝負するの?」
「え、うーん、そうね……」
希美と玲は驚愕した。玲は表情には出さなかったが、希美は傍から見ても明確に分かるほど驚愕した。先ほど二時間近く待ったと騒いでいたのは誰だったか。何故その時間を使って勝負内容を考えなかったのか。あまりにも勢い任せが過ぎる凜々花を見て、玲は段々と嫌な予感がし始めていた。
「じゃあ全部やるわよ! 個人メドレーってやつ!」
「個人メドレー? って何?」
「知らないの? バタフライ、背泳ぎ、平泳ぎ、クロールを順番に連続で泳ぐやつよ。二十五メートルずつね」
「え、ちょっと待ってよ。バタフライとか背泳ぎなんて泳いだことない。どうやるの?」
「そんなの自分で考えなさい! 行くわよ!」
理不尽なことを言いながらプールに入っていく凜々花。それを追って渋々ながら準備をする希美。
「凜々花ちゃん、大丈夫なの? 凜々花ちゃんも個人メドレー? なんて」
「うるさいわよ、奏! あんたは黙ってあたしの応援してれば良いの!」
「う、うん、分かった」
隣り合ったレーンに入り、両手を前に出して準備完了した希美と凜々花。それを心配そうに見守る奏。その奏の隣に立つ玲は、奏よりも具体的に問題が発生した未来を予想して、無駄だろうとは思いつつも声を掛けた。
「お二人とも、最初はもっと簡単な種目から勝負した方がよろしいのではないでしょうか」
「簡単な勝負じゃ決着がつかないじゃない! これくらいの方があたしが上だって分かりやすいわ!」
「はぁ……すいません、玲さん。スタートの合図をお願いしても良いですか?」
玲の予想通り、止まるつもりなど一切ない凜々花。希美も、嫌々ながらも勝負から逃げるつもりはないようで、玲に合図を要求してくる。何だかんだ言ってこうして付き合ってしまうところが、希美の良いところであり、苦労しやすい原因なのだろう。仕方がない。玲は言われた通り、合図をするためにプールのすぐ傍に立つ。
「では、準備はよろしいですか?」
「いつでも良いわよ」
「はい、大丈夫です」
「よーい、スタート」
玲が手を叩く乾いた音と同時に、壁を蹴って泳ぎ始める二人。個人メドレーの最初の泳法はバタフライだ。基本的に小学校でバタフライの泳ぎ方など習わないので、学校とは別に水泳の習い事に通ってでもいなければ泳ぎ方を教わる機会はない。希美はもちろん、凜々花もスイミングスクールに通っていないので、これが初めてのバタフライとなる。テレビで見たことが数度あるという程度の見様見真似。とてもまともに泳げる状態ではない。そのため、二人は知らない。バタフライという泳法はしっかり泳ぎ方を教わらないと非常に難しく、同時に非常に疲れるものであるということを。
二本の脚を揃えてうねらせる、いわゆるドルフィンキックと呼ばれるような脚の動き。それと同時に腕を開いて後方へ動かしながら水をかき、腰の辺りから水上へ跳ね上げて前方へ戻しつつ顔を上げて呼吸を行う。慣れている者でも体力を消耗する激しい動きを、バタフライどころか水泳にすら慣れていない者が行う。その疲労はすさまじく、瞬く間に二人とも体が重くなっていく。
すると、呼吸のために顔を上げるのすら億劫になり、動きが雑になっていく。
バタフライの呼吸は、顔を上げ過ぎないように行う。水面から口を出したら息を吸って、すぐに戻すのが理想だ。ただし、それを意識し過ぎて顔が下に向いたままで呼吸を行おうとすると、水を吸い込んで息が吸えない可能性があることに注意しなければならない。ただ水を飲むだけ、ではない。息をしようとして水を吸い込むと、気管に入りむせる。その影響でしばらく息を吸うことが出来ず、いつまでも咳で空気を吐き出し続けるような拷問染みた苦痛を味わうことになる。
「ッ!? ゴホッゴホッ! ゴボッ!?」
凜々花は、この勝負に勝つために中途半端に知識をつけてきていた。バタフライの泳ぎ方もそうだ。ネットでバタフライの速い泳ぎ方を調べ、それを頭に叩き込んできた。ただし前述の通り、実際に泳ぐのは初めて。そんな状態で、この方が速いからなどと考えて少ししか顔を上げずに呼吸をすれば、当然の如く水を吸い込む。大きく吸うために、顔を上げる前にしっかりと息を吐き出していた凜々花。そんな状態で水を吸ってむせれば泳いでなどいられない。一度泳ぎを止め、体を起こしてどうにか呼吸をしようと試みる凜々花だったが、上手く吸うことが出来ず、咳も止まらず、いつまで経っても呼吸が戻ってこない。
「いッ!? ゴホッ!」
更に畳みかけるように、右脚のふくらはぎに痛みが走り、思ったように動かせなくなる。凜々花には初めての感覚だったが、それはこむら返りと呼ばれる症状。体を起こして顔を水上に出していることさえ出来なくなり、水底へと沈んでいく。ただでさえ息を吐き切ったところから呼吸が出来ていない凜々花。酸素を欲する脳が瞬く間に息を吸えと命令を出して息苦しさが増し、しかし呼吸は不可能であるという地獄。
(誰か……助け……)
そんな凜々花の体を軽々と抱え上げ、水上へと救出する手。
「ぷはっ! ゴホッ、ゴホッ!?」
「ご無事ですか?」
それは玲だった。慌ててしがみついてくる凜々花をものともせず抱えたままプールサイドへと泳いでいく玲。凜々花の様子から、最悪の場合こうして溺れるだろうと予想していた玲は、凜々花が泳ぎを止めて顔を上げた瞬間、間髪入れずにプールへと飛び込んでいたのだ。そして、五十メートル二十秒という男子世界記録を超える速度のクロールで瞬く間に凜々花の下へとたどり着くと、その体を抱え上げ救出した。
「はぁ、はぁ、はぁ……い、生きてる? あたし、生きてる?」
「はい、大丈夫ですよ。間違いなく生きています」
「よ、良かったぁ……」
玲によってプールサイドへと持ち上げられた凜々花は、そのままその場でへたり込む。そんな凜々花の下へ、プールサイドを回り込んできた奏と、二十五メートルを泳ぎ切ったところで異変に気が付いてプールから上がっていた希美もやってきた。
「り、凜々花ちゃん! 凜々花ちゃん大丈夫!?」
「ちょ、落ち着きなさいよ奏。大丈夫だから」
「よがっだ、よかっだよー!」
凜々花にしがみついて泣きじゃくる奏。玲はその様子を不思議そうに眺める。玲には理解出来なかった。僅かな時間しか共にいないが、ここまで見る限りでは、凜々花にこれほど慕われるような魅力があるとは思えない。ただの考えなしのわがまま娘に思える。しかし、奏はこうして泣くほど凜々花の無事を喜んでいるし、秋子もとても凜々花と気が合うとは思えないのに一緒にプールに遊びに来る程度には仲が良いようだ。
(まあ、少し見ただけでは分からない魅力がある子、なのですかね)
一先ずそう考えて納得することにした玲。そんな玲に、凜々花から離れて立ち上がった奏が勢いよく頭を下げてきた。
「凜々花ちゃんを助けてくれて、ありがとうございます!!」
「いえ、当然のことをしただけですから」
奏に続き、やっと息が落ち着いた凜々花も立ち上がり、頭を下げる。
「あ、ありがとう、ございました。助かりました」
「おや、意外と殊勝な。大丈夫ですよ。ご無事で良かったです」
あまり表情は動かないながらも優しく言葉を返してくれる玲に、ホッとしたように一息吐く凜々花。
「ですが」
「え?」
「少々、お説教です。危険なことをした反省は必要ですので」
それから、玲による説教は三十分続いた。




