第89話
「……今日で終わりにします」
放課後、部室で紗雪は部員たちにそう言って頭を下げた。
「終わりって、……部活、辞めちゃうの?」
予感していたことが当たってしまった、という様子で悲しげにそう言ったくるみに、
「いえ、……今日で、わたしの歌いたかった歌、終わりにしたいんです」
紗雪は微笑んで首を横に振ると、泣きはらした目でまっすぐ前を見て、言葉を続けた。
「みなさん、今朝のニュースをご覧になったと思います。あのニュースを見て、やっとわたし、りーちゃんの遺書を読みました」
胸に抱えたクリアファイルの中に挟んだそれを、紗雪はぎゅっと抱きしめる。
「……りーちゃんが背負ってたものは大きすぎて、重すぎて、わたしたちがどんなに頑張ったところで、死ぬことは止められなかったと思います。だけど、ほんの少しだけ……本当に少しだけですけれど、わたしとあっくんはりーちゃんの支えになれた……それがわかったら、ほっとして……」
赤いアンダーリムの眼鏡の奥、大きな猫目の縁に、あっという間に涙の雫が溢れて零れだす。
「ずっと怖かったんです。どうして助けてくれなかったのって書いてあったら、って思うと。自己満足で手紙だけ渡して、偽善者ぶるなって、恨まれてたらって想像して……でも、わたしを責めるような言葉はなかったんです。……そんな子じゃないって、わかってたはずなのに、勝手に怖がって、怯えて、……わたし、とても悪いことをしました……」
隣に立った敦哉が、幼い子供のようにしゃくりあげる彼女の背を撫でる。
その涙のハレーションがおさまるまで、部員たちは黙って、紗雪の次の言葉を待った。
眼鏡をはずしてハンカチで頬と目元を拭い、鼻水をすすってから、紗雪はもう一度口を開く。
「……わたし、いままで、ただ、自分が苦しい気持ちから救われたくて、自分のためだけに歌いたくて、みなさんにわがままを聞いてもらいました……でも、今日はわたし、りーちゃんのためだけに歌いたい。……今だったら、歌の中で、りーちゃんにきちんと『さようなら』が言えると思うんです。……だから、今日で、終わりにしたい……このまま、わたしの心の中に、りーちゃんを縛り付けていたら、いつまでたっても、あの子は空に還れない……」
彼女はそう言って、泣き崩れるようにして敦哉の引いた椅子に座る。
妹を気遣うように隆玄も側に寄って、真っ直ぐに分けたおさげのつむじを大きな手で撫でた。
「……わかった。演ろう、みんなで一緒に、最後の演奏」
瞬きで涙を堪えた太陽がそう言うと、ミチルが優しい笑みを浮かべて隣で頷く。
「……精一杯、お友達のご冥福を、祈らせていただきますね」
その後ろで、もらい泣きした祐華が、ハンカチをポケットにしまいながらにこりと笑う。
「わたしもよ。今まで以上に、心を込めて弾かせてもらうわ」
他の部員たちも彼女の言葉にうなずいて、涙で顔が上げられない紗雪に微笑みかける。
くるみは紗雪の前にしゃがみこんで、彼女の手を取った。
「みんなで、送ってあげよう。きっと、『りーちゃん』も、紗雪ちゃんがこれ以上自分のことで苦しむのは、望んでないと思う。……そういう子なんだよね、『りーちゃん』は」
紗雪がその言葉にうなずくと、目からこぼれ落ちた涙の雫が、くるみの手の甲に落ちた。
「ありがとう、みんな」
隆玄は部員たちに礼を言い、くるみと入れ替わりに紗雪の顔を覗き込む。
「紗雪、俺と一個約束しような。これからは、『楽しい』と思ったことは、素直に『楽しい』って思え。その子の分まで生きようとか思わんでいいから、自分の人生は、精一杯楽しめよ」
「……うん」
再びうなずいた妹の肩を叩いて、兄は立ち上がる。
「よし。……じゃあ、楽器の準備しよう。撮影とか録音はしたいか?」
「……ううん。残しといたら、きっと引きずっちゃうから、やめとく」
紗雪はそう言って首を横に振ると、決意を宿した目で笑った。
「お疲れ様。みんないるかな?」
いつもより少し遅れて、ギグバッグを背負った興津が部室に入ると、部員たちはチューニングと音出しをしている。
「先生」
くるみが彼の側に駆け寄って、その音の中で彼にだけ聞こえる大きさの声で説明をすると、彼は粛々とした面持ちで頷いてから、荷物をすぐそばの机周りに置く。
そして、部室の真ん中でキーボードとマイクの位置の調節をしている紗雪に歩み寄り、
「伊東」
穏やかな声で呼びかけた。
遺書と楽譜の挟まったクリアファイルを抱えたまま、窓辺に寄り掛かって、紗雪は興津に内容をかいつまんで話す。
それを一言も発することなく最後まで聞いた後、
「その手紙、コピーだけを渡すっていう方法もある。手元に置いておかなくていいのか?」
遺書をそのまま第三者委員会に提出するつもりだという彼女に、興津は心配そうに聞いた。
紗雪は少し考えるようにうつむいてから、おさげを揺らして首を横に振る。
「いいんです。持ってても、思い出して辛くなるだけな気がしますから。きっとあの子も、それは喜ばないと思います」
「……そうか……」
身の回りのものの多くが家族の遺品で占められている興津は、それ以上の言葉を紡ぐことが出来なくなる。
「……先生」
紗雪は興津を見上げて、ひどく真面目な顔をした。
「……生まれかわれると思いますか、あの子。今度は、幸せな家の子に」
「……」
事故の後、自身に幾度となくかけられてきた、似たような文言の無神経な慰めの言葉に反発を感じながら生きてきた興津は、色よい返事を返すことができないまま口をつぐむ。
その渋い顔を見ても、紗雪は退くことをせずに話を続ける。
「先生が信じなくても、わたしはそう思いたいです。……そうじゃなかったら、何のためにあの子が死んだのか、わたしはわからなくなります。……とても素直な子だったから、次はきっと、幸せになれるんだって、そう信じて……」
厳しい顔で何かを言おうとした興津を遮って、彼女はその先を語った。
「自殺をいいことだと思ってるわけじゃありません。生きていれば、あの子だってきっと、いつかは幸せになれたと思います。誰かが才能を認めてくれたかもしれないし、大切にしてくれる人が現れたかもしれません。そのチャンスを自分から失くしてしまったのは、本当にもったいないし、そのための力になれなかった自分が、とても歯がゆくて、悔しいです。でも、そんな、永遠に来ない『もしも』ばかり考えているよりは、あの子が本当に、全身全霊、命懸けで信じた未来を、わたしも一緒に信じてあげたいんです。……手紙の中でわたしと舞阪くんを、あの子は『友達』って言ってくれました。だから……わたしも、『友達』のことは、信じていたいです。……先生の言いたいこんはわかります。これはわたしが救われたいだけの、わがまま勝手な考えです。だけど……そう思わないと、わたしも舞阪くんも、お兄ちゃんも、きっと、二度と前に進めなくなるから……」
何も言葉を返すことのできない興津に頭を下げると、紗雪はスタンバイを始めた部員たちの中に戻っていく。
「紗雪、先にどっち演奏するんだ? いつも通り、『ひこうき雲』から始める?」
兄の問いかけに彼女がうなずくと、それを聞いた敦哉とミチルがそれぞれの位置につく。
「じゃ、お前の中でタイミング取れたら始めてくれ」
ドラムセットの向こう側で微笑んだ隆玄に、キーボードを前にした紗雪はうなずいた。
紗雪がピアノの音色を奏で始めると、ミチルのオルガンが柔らかくその音に重なる。
優しく静かに滑り込んだ隆玄のドラムに続いて、敦哉の少し拙さが垣間見えるベースがリズムを一緒に刻み始めると、線の細い、しかし芯の通った紗雪のボーカルが、マイクから拡がる。
いつも最初のサビを歌い終える前に、こみ上げる涙に負けてつっかえてしまう危うい紗雪の歌を知っているくるみは、果たして彼女が最後までこのまま歌い終えることができるかどうか、どきどきしながら聴いていた。
(がんばって、紗雪ちゃん。これが最後だから、終わりまでこのまま……)
祈りながら息を詰めて聴いているくるみの前で、彼女は涙ひとつこぼさずに、どこか儚い歌声で歌い続けていく。
(よかった……)
ほっとして息を吐くと、隣に座っていた興津も同じ仕草をした気配がした。
そうして最後のひとフレーズを歌い始めたとき、
(あ……)
くるみは急に、自分が上か下かもわからない広く青い空の中に浮かび、真っ白な雲の隙間から、透き通る日差しにきらめく飛行機雲を見ている感覚がした。
(見えた、……飛行機雲が、今、確かに……)
紗雪が『りーちゃん』の言葉から得ることのできた確かな実感と、彼女が歌に込めた偽りない想いのなせる業だったのか、それとも自分のただの思い込みなのか、くるみに判別はつかなかった。
それでも、確かに心が震えたことに違いはなくて、彼女は胸に手を当てて目を見開いたまま、紗雪が最後まで静かに歌い終えるのを聴いていた。
誰からともなく拍手が起きて、紗雪は頭を下げる。
「ありがとうございました……」
泣かずに歌えたことに、どうやら本人が一番驚いている様子だった。
くるみは何故か、悲しみよりも澄みきった優しさに満ちた気分で、紗雪に拍手を贈る。
「紗雪、どうする? 少し休憩するか?」
兄の言葉に彼女は振り向くと、首を横に振って微笑む。
「大丈夫」
「そっか。じゃあ、このまま次いこう。……みんな、よろしく」
隆玄にそう呼び掛けられ、くるみも椅子から立ち上がると、カバンの中から楽譜を取り出した。
「……紗雪ちゃん」
エレアコを抱え、カポタストをネックにつけている彼女にくるみは話しかける。
「さっきね、見えたよ。……飛行機雲。紗雪ちゃんの歌、聴いてるときに」
「え……」
今度はくるみの言葉に、紗雪が目を見開く番だった。
「きっと『りーちゃん』に届いたんじゃないかな、紗雪ちゃんが、歌に込めた気持ち」
「……」
そう言って微笑んだくるみの言葉に、紗雪はしばらく目を伏せたあと、ゆっくりとまぶたを開け、涙を堪えて笑顔を返した。
「……みなさん、本当にありがとうございます」
歌い出す前に、紗雪は部員たちにもう一度頭を下げる。そして正面を向くと、そこに座っていた興津にも同じ角度で身体を折り曲げた。
「先生も、貴重な部活動の時間に、こんな個人的なことで時間を割いていただいて、本当に恐れ入ります」
かしこまった様子の紗雪に、興津はその動作を制しながら、立ち上がって微笑みかける。
「いいんだよ。こういうことは、教室の中や病院じゃ絶対にできないだろう?……人に話を聞いてもらったり、薬を飲んだりする以外にも、心を癒す手段は必要だ。ここで気持ちに区切りをつけていきなさい。……君はひとりじゃない。みんながついている」
「……はい」
紗雪はこくりとうなずいてからマイクの前に戻ると、アンプのスイッチを入れてボリュームを上げる。
自前のキーボードの前にミチルが立ち、もう一度音色がピアノであることを確認する。
その反対側にいる敦哉が古いキーボードの鍵盤を叩く横で、政宗がスピーカーを繋いだオーディオインターフェイスとノートパソコンを交互に見ながら、同期音源のテストをしている。
隆玄がドラムセットの椅子から妹の背中を見つめるその前で、凛子が忙しなくアンプのゲインを微調整する。
ステージのど真ん中には、レスポールを爪弾きながら演奏が始まるのを待っている翔琉が立ち、ちょうどミチルの後ろにいる太陽が、ストラトキャスターを抱えていくつかのフレーズを確認している。
黒板を背にして立っている祐華も、軽く指慣らしをしてから肩と首を回し、前を見る。
廊下側の柱の前で、ソフィアが吹奏楽部から借りてきたボンゴを、ぽこぽこと軽く叩いた。
やがて、すべての準備が整い、部室の中は静かになる。
(紗雪ちゃん、最後まで一緒に歌おうね)
コーラス譜を手にしたくるみは、隣に立つ紗雪に心の中で声をかける。
その声が聞こえたかのように紗雪はくるみの方を見て、かすかに笑った。
「……よろしくお願いします」
まっすぐ前を見た紗雪がそう言った数秒後、隆玄がスティックでリズムを取る。
それを受けたミチルのキーボードが、『生きていたんだよな』のイントロを奏で始めた。
『小説家になろう』での投稿は、ここまででいったん終了となります。
続きはnoteにて、2025年8月初旬をめどに再開予定です。
まだ物語にお付き合いいただける方は、活動報告にて移転先URLをお知らせいたしますので、そちらからぜひお越しいただければと存じます。
長い間お付き合いいただき、ありがとうございました。
まだまだくるみたちの物語は続きますので、その続きを安心して掲載できる場所を作るまでの間、今しばらくお待ちください。




