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第88話

 その金曜日の朝、昨晩の残り物を箸でつまもうとして、映し出されたニュースの画面に紗雪の手は止まった。


【……保護されたこの児童の姉である、昨年八月に自殺した市内中学校の女子生徒についても、市の教育委員会はいじめがあったとして重大事態として認定し、第三者委員会を設置したばかりでしたが、警察はその他にも両親から日常的に虐待があったと見て、慎重に捜査を……】


 無機質に読まれた分、惨たらしく聴こえる文面の原稿とアナウンサーの硬く低い声に、彼女は瞬きも出来なくなる。

 目の前で同じニュースを背中越しに聞いていた兄も、目を見開いたまま動けなくなっている。

 二人は目を合わせ、再びテレビの方を見る。

 既に今しがたのニュースは終わり、芸能ニュースが人気俳優の不倫報道を垂れ流している。

「……ニュースアプリだ、それ見りゃ一発で県内版に出てる」

 言うが早いか箸を置いて彼はスマートフォンをポケットから取り出し、アプリを立ち上げた。


(りーちゃん……)

 紗雪は頭の中に入ってきた情報の重さに打ちひしがれる。

(りーちゃんが自殺したのは、……わたしが助けなかったせい、だけじゃない……)

 茶碗を持つ手が震えて、口の中が乾く。

(手紙……! 手紙、読まないと!)

 紗雪は居たたまれなくなり、居間を飛び出して階段を上り、自分の部屋に駆け込む。

 そして自分の机の引き出しにしまいっ放しになっていた、ピンクのうさぎのキャラクターが描かれた封筒を取り出して、それをずっと封じていた青い花のシールを剥がし、中に入っていた黄色とピンクの花が縁取る便箋を取り出して広げた。


 同じニュースを、敦哉も朝食をとりながら見ていた。

「また虐待といじめか」

 斜向かいに座っていた彼の父が、うんざりした様子でつぶやく。

「今の世の中は何でもかんでも、虐待虐待って騒ぎ過ぎなんだよ。親が子供を殴って何が悪い。俺がガキの頃は、親父にもお袋にもぶん殴られて当たり前だったってのに、ちょっと殴られたくらいで子供が親を警察に突き出すとか、世も末だな。いじめられて自殺すんのも心が弱いせいだ、そんな奴が世の中出たって何の役にも立ちゃしないから、社会のお荷物が減って良かっただろ。そんなこと調査するくらいならもっと子供の成績上げる工夫しろ、馬鹿馬鹿しい」


 父の身勝手な話に食欲がなくなった敦哉は、食べかけの朝食を残して席を立つ。

「おい、飯を残すな。そんなだから野球が出来ないクズにしかならなかったんだぞ、お前は」

 その声を無視して、敦哉は自分の部屋に荷物を取りに食堂を出た。


「上の子はどっちもいい子だし、あいつの友達の伊東医院の子供らも優秀だってのに、なんであいつだけ何も出来ないクズになったんだ……大輔も何が楽しくて、あいつに楽器なんか買ってやったんだかな。どうせ無駄になるって決まってることに投資するくらいなら、ほかにもっと上手い金の使い方があるだろうによ」

 敦哉の父は、盛大に舌打ちをした。

「おい、お前。俺の子のあいつを、なんであんな能無しに育てた? 名づけの時に、お前が間違えて届け出したせいだぞ。大輔みたいに選手の名前つけるはずが、お前が一文字間違えたせいでこのざまだ。あいつがああなったのはお前が不出来な女なせいだからな。忘れんなよ」

 キッチンカウンターの中で黙って片付けものをしていた自分の妻に、敦哉の父は彼女に向かって何千回繰り返したかわからない話をまたしてから、大きなため息をついて立ち上がる。

「残飯はお前が食え。俺の金で買った飯だ、無駄にすんな」

 そう言い残して、敦哉の父は玄関に向かった。


(……これは、本当に俺にもさゆにも、どうにもできなかったこんなんだ……)

 制服のネクタイを留めながら、敦哉は暗い気持ちで鏡を見つつ、ニュースの文言を思い返す。

(原因はいじめだけじゃなかったんだ。……あの子が死んだのは、もっとたくさん、俺たちの知らない苦しみがあったから……あの子は俺たちの手の届かないところで、ずっとずっと苦しんで、悩んで、誰にも助けてもらえなくて……もう、自分を助けるためには、死ぬしかなかったのかもしれない……)

 ギグバッグを背負い、カバンを持って部屋を出る。

(だからって、自殺が良くないっていうのは、それは確かなんだ。俺は残されたさゆが苦しんでるのを、ずっと近くで見てきてるから、あの子の選択を受け入れはするけど、認めないし、きっと一生許せない。……あの子だけじゃない。あの子をいじめた生徒も、追い詰めた先生も、知らん顔してた奴も、我関せずで逃げた校長や教頭も、追い打ちかけて馬鹿にした父さんも、俺は全部、誰一人として許さない。……どんなに苦しくても、人は生きるしかないんだ)

 彼は奥歯を噛み締めながら、階段を降りて玄関で靴を履く。


「……行ってきます。残したやつ、帰ってきたら食べるから、冷蔵庫入れといて。ごめん」

 カバンに紗雪の分の弁当が入っていることを確認して、敦哉は玄関を出る。

 その背中を、廊下の先の居間から、彼の母親は無言で見つめ、ため息をついた。


「おはよ、祐華ちゃん」

 自転車置き場から少し歩いたところで、くるみは彼女の後ろ姿を見つけて声をかける。

「あ、おはよう……」

 くるみの表情がいつもより少し重さと真面目さを帯びていることに気が付き、祐華も同じだけ顔を曇らせる。

「今朝のニュースのあれ、……そうだよね?」

「間違いないわ。映ってたの、第三中だったから」

 二人は並んで、梅雨の晴れ間の濡れた黒いアスファルトを歩く。


 今朝、県内のトップニュースで報じられたのは、一組の夫婦が逮捕されたというものだった。

 その夫婦は小学生である自分たちの娘を殴ったうえ、脚にひどいやけどを負わせたらしく、その娘が自ら警察に駆け込み、助けを求めたのだという。

 そこまでならば、時折耳にするむごい事件だという感想と、虐待を受けた子供が心安らかに、その先の人生を幸せに暮らせることを祈るだけで忘れてしまったのかもしれない。

 しかし、このニュースはそれでは終わらなかった。

 その娘の姉が、去年自殺した紗雪と敦哉の同級生だということ、そして彼女は生前、両親から日常的に虐待を受けていたらしいことがわかったのだ。


「家にも学校にも居場所がないって、……考えただけでも、しんどいね」

 くるみも祐華も、自分たちには家庭という逃げ場があったことが、幸運でしかなかったのだと噛み締める。

「大好きな絵も描かせてもらえないで、家でもひどい目に遭って……こんなことになる前に、どうして……あんなに綺麗で、素敵な絵を描く子を、どうしてお家の人は虐待なんて……」

 自殺した生徒の絵を観たことがないわけではないのだろう、祐華はうつむく。

 その祐華の頭を優しく撫でながら、

「……紗雪ちゃんと敦哉くん、大丈夫かな」

 くるみは最近ようやく笑顔を見せるようになってきた少女と、傍らでいつも彼女を気遣う少年を思い出す。

「隆玄先輩も心配だわ。放課後、部活に来てくれればいいけれど……そうしたら、何か話を聞いてあげられるかもしれない……」

「うん。……聞いても、わたしたちには何も出来ないかもしれないけどさ、抱え込むよりはずっといいって、思ってくれてるといいね……」

 祐華の言葉にくるみはそう答えると、今朝方上がった雨の粒を朝日にきらめかせ、職員室の前で青紫の玉をこれでもかと盛り付けたように咲き乱れる、紫陽花の植え込みを見た。


(こんな日でも、花はきれいに咲くし、空は青くて、……世界は何も変わらない)

 母の葬儀の日、寺の池に咲いていた大きな蓮の花を美しいと思ってしまった自分を、何年も許せなかったことを、くるみは思い出す。

(仕方がないんだ。どんなに悲しくても、寂しくても、綺麗なものは綺麗だって感じるし、楽しいことが重なれば、辛いことも苦しいことも、だんだん思い出さなくなる。そうしないと人間は生きていけないように出来てるって、お父さんは言ってた……でも、それよりも高く悲しみや辛さが積み上がって、もう手の届かないところまで行ってしまったら……どこにも逃げ場がなくて、誰からも助けてもらえなくて、そのことだけで心がいっぱいになってしまったら、これから起こる楽しいことや幸せなんて想像もできないし、この世界にある綺麗なものなんて、どうでもよくなってしまうのかもしれない……)

 立ち止まって反対側を見れば、朝練の片づけをする野球部員たちのその上に、燦燦と透明な光が降り注ぎ、高いフェンスネットの向こう側の濡れた街並みをきらきらと輝かせている。

 火葬の日の空も今日と同じ梅雨晴れだったことを思い出し、そのまばゆい青が目に痛くて、くるみは長いまばたきをした。


(生きてたらいいことある、なんて綺麗事なのかな。本当にそうなのかな。起きてしまったことは変えられないから、受け入れて進むことしか残された人には出来ない。でもやっぱり、わたしは自殺を救いだって思うことは出来ないよ。どんなにその人の心に寄り添ってみたって、死んだことで本当に救われたのかなんて、永遠にわからないから。……ただ、誰かが死んでも、この世界は変わらずに朝が来て、毎日が続いていく。その世界で、死んだ子をいじめてた子たちや、助けなかった大人は、何事もなかったみたいにのうのうと暮らしている。それは、ちっともいいことじゃない。人を自殺に追いやった……殺してしまった罪の重さから逃げるのは、ひとりの人間の人生を壊したことは、絶対に許しちゃだめ。それだけは確かなことなんだ)

 新しい色付きリップを塗った唇を噛むと、オレンジの香りがかすかに口の中に広がる。

(もうすぐ、お母さんの命日が来る。……お母さんも、自殺した子も、もう戻っては来ないけど、もしも生きていたら、今日の朝の空は、とても綺麗だって思えたかも知れない。二人とも、本当は生きていたかったのに、生きられなかったのは、同じなんだ……)


 悲しくなって見上げた雲間に、一筋の白い帯を引いて小さな影が浮かんでいる。

「……飛行機雲……」

 くるみの声に、祐華も顔を上げる。

 二人はしばらくの間、言葉を発することなく、ぬるい風の吹く青空を見ていた。


「あっくん、これ」

 東棟の四階の空き教室で、敦哉から弁当を受け取った紗雪は、彼にピンクのうさぎの絵の封筒を差し出す。

「……今朝、やっと読んだの。きっと、聞き取り調査で提出しなくちゃいけなくなるから、その前に、あっくんにも読んでもらいたくて」

「え、……俺、読んでいいの? さゆ宛てなんだろ、これ……」

「あっくんのことも書いてあるから……中身、辛いことばかりだけど、読めそうなら読んで」

「……わかった」

 敦哉は自分の弁当箱を机に置くと、封筒を受け取り、椅子に腰かけて中身を取り出した。


 ほとんど平仮名だけの丸い文字が並ぶ拙い文章を、彼はゆっくりと読み始める。

 そこには、自殺した少女――『りーちゃん』と紗雪が呼んでいたその子が、まず最初に紗雪へ礼を述べる言葉と、彼女の手紙を毎日読むことを、生きづらい日々をやり過ごす糧としていたことが綴られていた。

 そのすぐ後に、廊下で殴られていた彼女に声をかけた敦哉に対しての、感謝の言葉がある。

 喧嘩ではない、怪我をしていなかったから大丈夫だという記述が今となってはひどく悲しくて、敦哉は思わず目を伏せそうになるが、それを堪えて先へと読み進める。

 しかし、そこからはがらりと内容が変わり、死の直前まで彼女が送ってきた人生について、ただひたすら思いつくままに書きなぐられていた。


 保育園の頃から周りの子たちと比べて、出来ないことがたくさんあったこと。

 小学校に上がってから、平仮名の読み書きはなんとかできるようになったものの、九九が言えなくて毎日居残りさせられたこと。

 勉強ができないのはサボっているからだと両親に言われ、友達と遊ぶことも許されずに学習塾に通うのが、とても辛かったこと。

 それでも一向に上がらない成績に激高した父親に、毎日殴られ、蹴られ、母親からは食事を与えてもらえず、給食でクラスメイトの残飯にまで手をつけていたこと――


「……今朝のニュースの『虐待』って、……こういうことだったのか……」

 怒りと悲しみで身体の震えが止まらない敦哉の背中を、紗雪が寄り添って撫でる。

「あんなにきれいな絵が描けて、誰にも負けない才能があったのに、……きっと、親には認めてもらえなかったんだと思う……悔しいよ、わたし……」

 絞り出すような彼女の言葉にうなずいて、敦哉はあらゆる感情を飲み込んでから先を読む。


 中学校に入ってから、『りーちゃん』はいよいよ追い詰められていったようだった。

 絵を描くことを覚えはしたものの、難しくなった勉強には全くついていけなくなり、教師に見放され、同級生からは毎日おもちゃのように扱われて、家での虐待も激しさを増す描写は、余分な装飾のない文章だからこそ、生々しく感じられる。

 そうしているうち、絵を描いていると、自分の身に起こった嫌なことばかり思い出して泣いてしまうようになった、空が青いと生きているのが苦しくなる、とそこには吐露されている。

 書いているうちに感情の抑えが利かなくなっていったのか、最後の方は支離滅裂になる。

 自分は紗雪たちに優しくしてもらう価値のない人間だ、誰も自分を必要としていない、親にも愛されていない、そんな言葉が乱れた文字で飛び交ったあと、


『だからわたしは、生まれかわって、もっとあたまのいい、しあわせな子どもになります。』


 その一文で、手紙は終わっていた。


 読み終えた後、敦哉はめまいがして、思わず椅子の背もたれに倒れ込んだ。

「なんで死んじゃったんだ……何も解決しないだろ、死んじゃったらそれまでなんだよ……」

 しばらく腕で目元を覆うように抑えて上を向き、涙を身体の奥に無理やり押し込めてから、深いため息をつき、彼は便箋を封筒にしまって机に置く。

「あっくん、大丈夫……? ごめんね、無理させて……」

「俺のこんは気にしなくていいよ、さゆ。これはひとりで抱えていい言葉じゃない」

 敦哉はどうにか笑顔を作って、隣に座る彼女の頭を撫でた。


 そのとたん、ずっと堪えていた感情が爆発したのだろう、紗雪は火がついたように大声を上げて泣き出した。

 ためらいなく敦哉は紗雪を抱きしめ、長いおさげの頭を撫で続ける。

「……さゆが書いた手紙、読んでくれてたんだな。無駄じゃなかったんだ。でも、……力が足りなかったんだ……本当に、どうにもできなかったんだよ、俺たちじゃ……」

「……うん……」

 紗雪を抱きしめながら、とうとう抑えきれなくなった敦哉の涙が頬を伝い、彼女の細い肩のブラウスに染み込む。


 生きていることが苦しくなる青さの空は、泣き崩れる二人を囲う四角い窓ガラスの外に、その中へと飛んで消えていったシャボン玉のような命をはらんで、どこまでも広がっていた。

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