第87話
「はい、どうぞ。好きなの押して」
「えへへ、いただきまーす」
購買の自販機に硬貨を入れた興津に促され、くるみはペットボトルの紅茶のボタンを押す。
「これで全員買ったかな? じゃあ部室に戻ろうか」
彼女が取り出し口からペットボトルを取ると、興津の声に軽音楽部員たちは三々五々部室に向かって廊下を歩き出した。
中庭から部室にすべての荷物を運び終えた彼らは、からからになった喉を冷たい飲み物で潤しながら、階段を上っていく。
「翔琉くん、すごかったよ」
「ホント、ギター初めて一月半とは思えなかった」
「天才っているんですなあ……」
一年生に口々に褒めそやされ、
「あはは、みんなありがとう。たまたま父さんがよく宴会で弾いてた曲のフレーズが多かったから、覚えやすかったのもあるよ」
練習の途中で「レスポールの方が音が合う」と太陽から譲られた、リードギターという大役を堂々とこなした翔琉は、素直に彼らの言葉を受け取った。
「紗雪ちゃんもお疲れ様。どうだった?」
「あ……はい、なんとか最後まで、歌えました。ありがとうございます」
祐華に声をかけられた紗雪が、ぺこりと頭を下げる。
「政宗くん、やっぱり文化祭のあとは引退するよな?」
先程の隆玄との会話に、他人事ながらなんとなく心配を覚え、太陽が政宗に話しかける。
「場合によるな。多分勉強の息抜きに音楽作りはやってくと思うから、ちょこちょこ顔は出すかも知れない」
「……君といいりゅーげんといい、なんで二人揃ってそんなに余裕なんだ……」
「何言ってんだよ、ここから剣道部と掛け持ちする人間が言うことじゃないだろ」
「いやいや、俺余裕なんてないからね? なんか実績作っとかないと受験資格がなくなるから、申し訳程度に控えでついてくだけだし」
「ばっちり段持ちなんだから一戦くらいしてこいよ、大井先生に頼んで」
後ろから隆玄が会話に割り込んでくる。
「そんなことするわけないだろ。よっぽどのことがない限り俺は補欠でいいんだ。もともと部外者なんだから、試合について行かせてもらえるだけでもありがたいよ」
「遠慮しなくてもいいと思うんだけどなぁ……まあ、頑張れよ。俺も適当に勉強するから」
「だから、なんでそんなに余裕ぶっこいてんだよ、りゅーげん……」
三年生たちはそのまま受験の話に花を咲かせながら、階段を登り始めた。
「牧之原、少し聞いてもいいか?」
「え?」
部員たちのしんがりを歩きながら、興津は隣のくるみに話しかける。
「この間の進路調査、あそこの大学が第一志望だったけど、何か取りたい資格でもあるのか?」
「あ……えーと……」
「家から近いってだけで志望した?」
「あー、まあ、そんなとこです……」
図星を突かれ、くるみはあさっての方を見て口ごもる。
「だめだろ、自分の将来のことなんだから、面倒くさがらずに真面目に考えなさい。適当に決めると、後々すごく後悔するぞ」
「……」
ばつが悪そうに黙ってしまった彼女に、興津は三者面談で聞くつもりだった事柄を、いっそのこと今ここで訊いてしまうことにした。
「……芸能界に進むことは、考えないのか?」
「え……」
ひどいショックを受けたような顔をして見上げたくるみに、興津は首を横に振ってなだめる。
「理事長先生が言ってただけだよ」
その言葉に、彼がそれを望んでいるわけではないことがわかって、彼女の表情は緩んだ。
「せっかくあそこまで歌えるんだから、何かに活かして欲しい気持ちはあるけど、君がそれを望まないなら、それでいいんだ」
「はい」
くるみは彼の言葉にこくりとうなずくと、不意にそこで足を止め、一度だけ長いまばたきをしてから、重々しく口を開いた。
「……先生、先に言っときますね。わたしは芸能界になんか絶対に行きません。たとえお金を積まれたって、全力で断るつもりでいます」
「うん、そうか」
今度はそれを聞いた興津が胸をなでおろす番だった。
しかし、彼はそこで話を終えることはせずに、今しがた彼女が口にした言葉の引っかかった部分を聞きたくなり、先を続ける。
「……でも、君がそう言うってこんは、この間の路上スカウトじゃないけど、今までだって、声がかかった経験はあるんだろう?」
その言葉に、くるみは少しだけ表情を曇らせて、軽く微笑みながら彼を見上げる。
「そうですね、五歳のときにあったみたいです。子役にしないかって、どっかの劇団かなんかの人がうちに来たって。そのとき、お父さんとお母さんが、自分たちのことがあるから絶対させないって阻止したって、中学のときに教えてもらいました。……続き聞きます?」
「ああ、君が話したいなら」
興津が歩くスピードを落とすと、くるみも了承の言葉の代わりに歩調を合わせた。
「お母さん、千葉の生まれなんですけど、伯父さんと一緒に、小さい頃から地元の児童劇団に入ってて、その流れでちょこちょこ東京に呼ばれて、子役やってたみたいなんです。伯父さんは小学校卒業するときに、勉強に専念するって言って、一度お芝居をやめたんですけどね、お母さんは東京の芸能事務所の人に頼み込まれて、中学生の時にひとりで上京して、デビューして、テレビドラマや映画に出るようになったそうなんです。お父さん曰く、お母さん自身はあんまりやりたくなかったらしいですけど、おばあちゃんがステージママで、おじいちゃんが反対したの無視して、勝手に話を進めちゃったんですって。それで、仕方なく……」
一度そこで言葉を切り、ため息をついてからくるみは話を続けた。
「それから何年か仕事して、お母さんが引退する二年前、お父さんの書いた小説が初めて映画になって、その主演をすることになったんです。でも……お母さんはそこで、ひどい目に遭いそうになったんです。監督が原作にはない、いやらしいシーンを勝手に追加して、相手の俳優もマネージャーも一緒になって、仕事だから脱げって強要して……お母さんがそんなの聞いてないって抗議しても、誰も味方してくれなくて、怖くなって楽屋に立てこもってずっと泣いてたそうなんです。だけど、そこにたまたま、現場の様子を見にお父さんが訪ねてきて、お母さんから話を聞いて、お父さん、『原作通りにやらないうえ、女優にヌードを強要するなら裁判にする』ってめちゃめちゃキレたらしくて。その場であちこちに電話して、テレビや週刊誌まで巻き込んでスキャンダルにして、相手の俳優と監督を降板させて、マネージャーもクビにしたんです。……有名な話かもしれませんね。後から聞いたら、これがお母さんが女優を辞めた、いちばんの原因らしいんで……」
そんな騒動があったことを思い出しながら聞いている興津に、くるみはなおも話し続ける。
「ほんとめちゃくちゃなんですけど、うちのお父さんとお母さんの馴れ初めはそれなんですよ。……そんなことがあったから、劇団の人が来たときも、お父さんは家にも上げずに玄関先で断固として追い返して、お母さんが庭の雑草が枯れるくらい塩撒いたって言ってました」
くるみは少しだけ笑うが、すぐさま形のよい眉を吊り上げ、真正面を睨みつける。
「その話を聞いて、わたしは絶対に芸能界なんか行かないって決めました。もしもそこにお父さんがたまたま来なかったら、お母さんは仕事を盾に無理矢理恥ずかしくて嫌な思いをさせられて、それをずっと抱えながら生きていかなきゃいけなかったかも知れないし、映画を見た人からは、いつまでもいやらしくて気持ち悪い目で見られてたのかもと思うと、吐き気がします。そんなことがまかり通る世界なんて、死んだって行く気はないです」
まるでそこに憎むべき相手がいるかのような凄まじい怒りに燃えた目のくるみを、興津は無言で見つめる。
「それに、お母さんが引退してからも、お兄ちゃんが危ない目にあったり、伯父さんのアンチに、家の住所がネットに拡散されて裁判やったり、いろいろとめんどくさいことはあったみたいなんで、うちは家族みんなうんざりしてるんですよ。わたしたちの望みはたった一つです。……『この街で、自分の大事な人達と、平和に静かに暮らすこと』……だもんで、お父さんも伯父さんも、わたしたちのことは絶対、公には話をしません。それでも、周りがここまで静かになったのは、本当に最近のことだから……まあ、いまだに変な人が時々、うちの周りをうろついたりするんで、見回りしてくれる交番のお巡りさんとは、完全に顔なじみになっちゃいましたけどね」
そう言って苦笑しながら、彼女は彼を見上げた。
「……そうか、よくわかったよ。……大変だったな」
興津はいたわるように、くるみの背中を軽くぽんぽん、と叩く。
「いえ、長くなっちゃってすみません。……どうせネットに載ってるんで言わなくてもいいかなって思いましたけど、自分でこの話したの、先生が始めてです。あんまり気持ちのいい話じゃないんで、祐華ちゃんっちに言ったこんもなくって。……だから、去年怖い目にあった時、先生が助けに来てくれたの、今の話に重なって、なんだか余計にほっとしちゃって……」
「ああ……あのときか。そのことも理事長先生は心配してたよ。いろいろ大変だったけど頑張ってるねって、褒めてた。……私もそう思ってるよ、牧之原」
階段を一番上まで登り切って、二人は一度立ち止まると、慣れた様子で微笑み合う。
「この間までも大変だったね。もうなんともない?」
「はい。あれからずっと、毎日が平和です」
生徒と教師の表情をやめて、くるみと興津は恋人同士の目で見つめ合った。
そして、彼女は少しだけ可笑しそうに笑い始める。
「ふふっ……先生がくれた厄除けのお守りがなかったら、もっと大変なことになってたかも」
「そうかな?」
「そうですよ」
部室まで続く、誰もいない廊下を、手が触れるか触れないかの距離で歩く。
「……歌うのは好きですよ。でも、例えばプロの歌手になったとしたら、不特定多数の人に歌を聴かれるってこんになるから、きっとわたしのことを批判したり、文句言う人だっていっぱい呼ぶかも知れない。そうしたら、わたしは歌うことが嫌いになると思います。マンガやアニメの主人公じゃないんだし、何があっても命懸けで歌い続けるなんて気はないです」
「うん、わかるよ。……好きなものは好きなままにしておきたいっていうのは、私も同じだ」
興津とくるみは顔を見合わせ、小さな笑い声を立てる。
「楽しく歌えて、出来るだけ批判されない仕事、なんかあるかなあ。あんまり体育会系じゃない、上下関係の厳しくないような……合唱部にいたときに痛感したんですけど、わたしは普通の会社勤めなんかしたら、あっという間にトラブって首になりそうだなって思うんで……」
「まあ、そうだな……まず君は、もう少し物事をオブラートに包んで言う練習をしなさい。会社に限らず、どんな組織に入るんでも、そういう技は身に付けないと大変だよ」
「はーい、頑張ります」
そう言って肩をすくめたくるみの頭を、興津は一瞬だけ後ろを確かめてから、優しく撫でた。
「ミチル、疲れた?」
「え、……いいえ、そんなことはないです」
ペットボトルの緑茶を手にしたままぼんやりと椅子に座る彼女に、太陽が話しかける。
「大丈夫?」
こちらを気遣う優しい笑顔に少しだけ心のこわばりがほぐれ、ミチルもかすかな微笑みを返す。
「はい。……少し、考え事をしていて……」
「考え事?」
彼の言葉にうなずくと、ミチルは先を続ける。
「やりたいこと、先輩に言われて、考えてみたんですけど、思いつかなくって……」
「そっか。ごめんな、なんか焦らせたみたいで」
「いえ……」
いっそこの場で自分のことを洗いざらい言ってしまおうか、ミチルは迷った。
しかし、
「ミチル、なんか俺に話してないこんあるだろ?」
「!」
それを見透かすかのような彼の言葉に、彼女は思わず身体をすくめてしまう。
「今、無理に聞こうとは思わないけどさ、引退するまでには話してよ。どんな話でもいい。……俺はミチルが笑顔でいてくれるのが一番の願いだから、出来るこんがあったら必ず力になる。遠慮はするな」
「はい……」
上品な笑みを浮かべてうなずきつつ、近々きちんと話をしなければいけない予感に、ミチルの心は窓の外の黄昏のように、少しずつ宵闇に向かっていった。
「……さて、今日はみんなお疲れ様。とてもいい演奏だったよ」
椅子を円座にして部員と一緒にその輪の中に座った興津が、全員を見渡してねぎらいの言葉をかける。
「コーラスも練習通りに間違えず歌えていたし、ミスもほとんどなかった。リズムが走ることもなくて、安心して聞いていられたよ。それぞれのいい所をきちんと演奏に出し切れたと思うけど、みんなはどうかな?」
率直な言葉で褒められてすっかり喜びでいっぱいの部員たちは、互いに顔を見合わせてうなずき合う。
「正直、世代的には馴染みのない曲だと思っていたから、観客があそこまでノってくれたのは本当に驚いたよ。みんなが楽しんで演奏したから、きっとそれが伝わったんだと思う。今日のステージを糧に、また文化祭も楽しくやろう。……で、今日はこれから、その文化祭のセトリを、まず部長から今月の会議で何分時間をもらえたか、教えてもらいつつ決めて……」
興津はそこで少し、勿体つけるように咳払いをして間を取ると、口の端に何か企むときに見せる勝気な笑みを浮かべ、部員たちを見渡した。
「それとは別件でもう一つ。……これはあくまで提案なんだが、今年の冬に行われる、軽音楽部の全国大会に応募してみないか? もちろん、去年みたいに声がかかれば、秋の定期演奏会にも出る予定だから、そのぶん去年より忙しくはなるし、三年生は文化祭で引退するから、やるなら二年と一年だけで、という形になるとは思うが……」
部員たちはにわかにざわつく。
「全国大会に行く前に地区予選があるから、そこで落ちる可能性もある。でも、今日見た限りでは、みんなかなりいい線いってると思うんだ。どうだろう?」
興津の言葉に、全員が「どうする?」という顔で互いを見た。
「まあ、参加するか否かは、まだ時間があるから、みんなでゆっくり話し合ってくれたらいい。ただ、もし参加するのであれば、『コーラスがある歌』を必ず選んでくれ。コーラスの配点が無くなってしまうからね」
興津はそこで言葉を切ると、隣に座っていた隆玄の方を向く。
「……じゃあ伊東、まずは文化祭の持ち時間と、セトリ案をみんなで話し合ってくれ。ざっくりでいいよ」
「あ、はい」
隆玄は少し慌てたようにうなずくと、
「……っと、その前に一個、俺ずーっと忘れてたことがあったんだ」
そう言ってぽん、と手を打った。
「えっ、なんですか?」
「いやぁ、グルチャ作ってなかったんだよ。ごめんな、うっかりしてた。ってことで、今更なんだけど、みんなスマホ出してもらっていい?」
彼はそう答えながら、ポケットからスマートフォンを出す。
「去年のグループは知らん名前が入ったら紘輝先輩がびっくりするから、新しく作ろうか」
慌てふためく紘輝の姿を想像して、上級生たちはくすくすと笑う。
「藤枝先輩、今頃どうしてるんでしょうね」
「学校の他にバイトもしなきゃならんし、大変だろうな」
「またインスタントラーメンばっかり食べてなきゃいいけど、お兄ちゃん」
「今年の合宿、来てくれるかなあ」
懐かしい面影と、これから先の楽しみにわいわいと騒がしくなる部室の窓の外は、訪れつつある梅雨の気配に、しっとりとすみれ色を帯びていた。




