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第86話

 合唱部は、狩野が「練習中ですが」という注釈はつけたものの、粗の目立たないハーモニーの『流浪の民』を中庭いっぱいに響かせる。

 その中間部分のソロパートが始まったとき、

「あ……」

 くるみは思わず声を上げる。

(アルトのソロ、あの先輩が歌ってるじゃない)

 もしかしたら、狩野が折り合いをつけるためにそうした可能性があることも否めないが、それでも彼女のソロは確かに力強く、安定感と伸びやかさがあった。

(自分がアルトを歌うことに納得したのかな。最初で最後のコンクールだから、どこかで目立ちたい気持ちもあったんだろうし、そもそもこんなにしっかり歌えるんなら当然だよね)

 本当のところはどうなのかわからない。それでも、ソロを歌う彼女の誇らしげな顔にくるみはほっとして、胸のつかえがとれる思いだった。


 さらさらと川を流れる落ち葉のようにピアノのアウトロが最後のハーモニーを追いかけ、生徒たちから拍手が起こる。

(野外でこれだけ聴こえるように歌えるなら、コンクールでもいいとこまで行くかもなあ)

 合唱部が初めて挑む舞台での健闘を、くるみは秘かに祈った。


 その後、すでに伝統になっている、この街の定時チャイムの元になった歌を美しく歌い終え、合唱部は吹奏楽部にその順番を譲った。

 大物の打楽器が男子部員と藁科と興津に、椅子が巴と生徒会の手によって次々運び込まれ、各々譜面台と楽器を持った部員たちがなだれ込み、ステージの上は一気ににぎやかになる。

(あ、麗ちゃんだ)

 下手側のクラリネットの一団の中に友人の姿を見つけて、くるみは思わず手を振る。

 もちろん手を振り返すことはないが、彼女は軽音楽部の部員たちがたまっている校舎の壁際を見て、にこりと微笑んだ。


「今年はどんな曲で来るかねぇ」

「去年の盛り上がらなさ、申し訳ないけど、なんとも言えない気分だったよ」

 ステージの上の麗から目を離した隆玄と顔を見合わせ、太陽が苦笑する。

「藁科先生、選曲上手ですから、きっとみんなが楽しめる曲にしてくれたはずですよ」

 祐華が今まさにステージに上がってきたその人を見て、わくわくしながら言う。


 藁科が構えた手に部員たちが息を吸いこみ、指揮棒がすっと振り下ろされると、金管と木管がくるみたちにとって、あまりにも聞き覚えがあり過ぎるイントロを奏でた。

「うわー、なっつ!!」

「幼稚園の時踊ったなあ、これ!」

 翔琉と敦哉が興奮して声を上げる。

 それは生徒たちが幼稚園から小学校低学年の頃、社会現象を巻き起こした、子供向けアニメのエンディングだった。

「うああ、懐かしい! お兄ちゃんと一緒にコイン集めてたよ、これ……!」

「わたしもよ、毎週見るのが楽しみだったわ!……」

 そこまで話して、二人はミチルを振り返る。

「うふふ、アニメは見てませんけれど、幼稚園のお遊戯会で踊りましたので歌は存じてます。あとで聞きましたら、保護者の方からすさまじいクレームが来たそうですけれど」

「ああ、歌詞がちょっと下ネタ入ってるからねえ……」

「それは怒られちゃっても仕方ないわね」

 みんなと共通の話題が出来て嬉しそうなミチルに、くるみと祐華も声をたてて笑う。

「よ、幼少のみぎりにわたしを沼に叩き落したアニメ……!」

 凛子が感激に震える隣で、

「家にまだ、コインあったかな……」

 微笑みながら、政宗がそう独り言つ。

「懐かしいなあ、まだうちが三姉妹だったころだ。パーティーでよく踊ったっけ」

 じっとしていられなくなったのか、ソフィアは楽し気に軽く踊り始める。


「……ふふっ」

 紗雪が笑い始めた声に、くるみたちはそちらを見た。

 ほんのりと頬を染め、ステージを見つめて演奏に耳を傾ける彼女の笑顔に、部員たちは互いに顔を見合わせ、よかった、という思いでそれぞれにうなずいて、また目線を元に戻す。

 それを、ちょうど部員たちの側に戻って来た興津も目にする。

 和やかな雰囲気に満ちた彼らの姿に、彼も力の抜けた笑みを浮かべた。


 生徒たちが童心に帰って歌い踊りながら、一曲目の演奏が終わった。

「あのひゅーって音するやつ、お前んち持ってなかったっけ? 貸してもらえんかなぁ」

「スライドホイッスル? なんで?」

「いや、吹きたいだけ」

「出たよ、りゅーげんの『やってみたいだけ』」

 二人が笑いながら舞台袖に歩き出したのを合図に、くるみたちもあとに続く。


「牧之原」

 隣から優しい声が降ってきて、くるみはそちらを見上げる。

「緊張はしてないみたいだな」

 中庭に吹く風に興津の暗い茶色の髪が揺れ、差し込む日差しに透ける紅茶色の瞳に、くるみはどきりとする。

「……はい。『おまじない』のおかげです」

『綺麗だ』と褒められた嬉しさを思い出しつつ、目いっぱいの笑顔を返すと、彼の方も少しだけ動揺したのか、一瞬だけ戸惑う素振りを見せたあと、嬉しそうに微笑み返してくれた。


 舞台袖に着くと、今度は吹奏楽部がまた違うアニメソングを奏で始める。

「ひょっ!?」

 凛子がいつも以上に過剰反応する。

 観覧する生徒たちも先程と同じか、それ以上に盛り上がり始める。

「これ、もう吹奏楽譜出てたのか」

 政宗が感心したように壇上を見遣る。

 それは去年の秋に流行った、『異世界バンドアニメ』のオープニングや劇中歌のメドレーだった。

「今年の選曲は本当に生徒向け全振りだな」

「藁科先生、本気出してきたねぇ」

 太陽と隆玄が手拍子しながら、正確に指揮棒を振る藁科を見上げる。

「いや、二曲目は巴先生の提案だってさっき聞いたよ」

 後ろから興津がそう言うと、

「へー、巴先生、アニメ見るイメージなかったのになぁ」

「急にイメチェンしたりしてたし、なんか心境の変化があったのかもな」

 反対側の袖ですっかり見慣れた黒髪ボブを揺らして、眼鏡を押さえつつ、片付けの準備をしている巴を見て、二人は小さく笑った。


「巴先生、終わったらどれから下げればいいですかね?」

 演奏がエンディングに入り、そろそろ終わる気配を見せた時、背中から狩野に控えめに声をかけられて、巴ははっとしたように振り向く。

「あ、ああ、ありがとうございます。ティンパニの大きいのから、男子と一緒にやってもらっていいですか?」

「わかりました、こっち側に下ろせばいいんですよね?」

「はい、お願いします」

 人の良さそうな笑顔に頭を下げると、巴はもう一度反対側の袖に目を遣り、軽音楽部の部員たちと楽しそうに言葉を交わす興津を見る。


(完全に脈なしになっちゃったかー……)

 去年の秋の終わりに、「婚約者がいる」ときっぱり交際を断られてから、それなり諦める努力をしては来たが、やはり職場が同じとなると否が応でも毎日、背の高い彼の姿が目に入る。

 自分の見た目を変えれば心情も変わるかと思ったが、それも想定通りにはいかず、巴は片思いの後遺症に日々苦しみ続けていた。

(ドライなもんだなあ、あれからいろいろ話題振ってみたけど、なーんにも手応えないもんね。いっそ転職しちゃえばよかったかな……でも、今の世の中、こんないい条件の教職なんて二度と見つからないかもしれない。勤め始めたばっかりだし、辞めるなんてありえない。もう公立で働けない身体になっちゃった気がするし、絶対に定年までしがみついてないと)

 公立校で働いていた頃、初任でいきなり合唱部の顧問を任され、給与が出るどころか交通費や生徒の飲み物代まで自腹の上、土日休みも殆どなかったおかげで過労と精神的な摩耗で死にそうだったことを思い出し、巴は心の中で首を横に振る。

(マッチングアプリも空しくなって退会しちゃったし、母さんの言うこと聞いてお見合いするのもなんか癪だし、……だいたい、まだ自分が『本当に好きな音楽』を見つけられてないじゃない。だけどなー、クラシックも洋楽もアニソンも吹奏楽も、なんか違うのよね……)

 逆に身構えているせいもあるのだろうか、とは思うが、徐々に『好き』という定義もわからなくなりつつあり、授業で何かを教えていてもすべてが上滑りしているような気がして、自分が音楽教師になった意味を巴は見失いつつあった。

(……誰か助けてくれないかな……)

 演奏が終わり、生徒たちに拍手を送って、巴はため息をつく。

 楽器と譜面台を抱えて下りてきた生徒たちにねぎらいの言葉をかけながら、ステージに登って椅子を片付けつつ、集合した部員の輪の中にいる興津をもう一度見る。

(いいな、生徒は先生に教わってればいいんだもの。先生になっちゃったからには、自分で考えて、何もかも頑張らなきゃいけないんだから。……親の顔色なんか伺わないで、学生のうちに、もっといろんなことやればよかった)

 まるで遅れて反抗期が来たような心持ちの胸苦しさに、もう一度彼女はため息をついて彼から目を離した。


「よし、みんな集まったな」

 生徒会の手で機材が運び込まれているステージの、その下手袖に集まった軽音楽部員たちを前に、興津は話し始める。

「いいか、ちょっとくらい失敗しても気にしないで演奏を続けるんだ。たとえミスっても、必ず誰かがカバーしてくれる。一人でなんとかしようなんて思わなくていい」

 はい、と口々に返事がきたあと、彼は強気な笑みを口の端に浮かべる。

「よし、それじゃあ今年度最初のステージ、みんな楽しんでこい!」

「「はい!」」

 彼の言葉に力強くうなずくと、一曲目を演奏する部員たちはステージへと駆け上がっていく。

 その刹那、くるみと視線が重なった時、二人は甘い笑みを交わした。


 祐華がエフェクターにシールドを繋ぎ、アンプの電源を入れて一本ずつ弦を爪弾く。

 隆玄はハイハットとタムを叩いて、少し角度を変えながら細かいセッティングをする。

 ミチルは先に次の曲で使うキーボードを運び込んでしまってから、コーラスで使うマイクの電源を入れて爪で引っかき、電源が入っていることを確かめる。

 その脇に立つ太陽も、この間片付けた棚の奥から出てきたエフェクターにシールドを差して、アンプの電源とフットスイッチを入れた。

 くるみはエレアコのシールドをスピーカーアンプに繋いで、電源を入れてボリュームを上げてから、ふと上手側にいる凛子を見る。

 巫女舞で人前に出ることに慣れているかと思ったが、やはり勝手が違うのか少し緊張しているようだ。

 しかし、彼女はくるみの視線に気づくと、ほっとしたような顔をしてわずかに微笑む。

(楽しくね、凛子ちゃん)

 できるだけ安心させようと思って凛子に笑顔を返すと、彼女は敬礼の仕草を取って前を向き、大きく息をして肩の力を抜いた。

(わたしも楽しく歌おうっと)

 マイクのスイッチが入っているか、軽く声を出して確認してから、くるみは興津を見遣る。

 再び交わす心強い微笑みに安心して、前を向く。

 すでに温まった生徒たちの群れに、心がぐんと高揚するのを感じた。


 舞台袖にいる生徒会長に隆玄が目線を送ると、それを合図に彼は喋りだす。

「おまたせしました、それでは軽音楽部の皆さん、よろしくお願いします!」

 ステージの上のメンバーは互いに向き合ってうなずく。

 二秒ほどの間のあと、隆玄がスティックを打ち鳴らしてリズムを取ると、明るくばりばりとした太陽と凛子のエレキギターの音がスピーカーから中庭に響き、そこにほんのりとディストーションを効かせた祐華のベースの弾むようなグリッサンドと、軽妙さの中にしっかりと迫力が加わったドラムが乗る。

 やがてくるみが『リルラリルハ』を歌い出すと、生徒たちは手拍子を始める。

 ミチルの声がユニゾンで重なって、サビに近づけば近づくほど盛り上がる歌に、中庭の空気は真夏のように熱くなる。

(うああ、この感じ、やっぱ楽しいなあ……! みんなで演奏するの、最高に好き!)

 練習通りに間違えずエレアコを奏で、ミチルと正確にハーモニーを歌い上げながら、くるみは一番のサビを歌い終え、二本のエレキギターに合わせて飛び跳ねるようにリズムを取る。

 梅雨の前のぬるくて湿気を含んだ、それでいて爽やかな風が校舎の合間を吹き抜けていった。


 ステージの上で楽しそうに演奏を続ける軽音楽部員たちを見ながら、巴は雷に打たれたような気持ちでいた。

(この歌、ちゃんと聴いたことなかった。こんな歌だったんだ……)

 胸に詰まっているものを洗い流していくような歌詞に、頬が熱くなる。

(……だめだわ、誰かに助けてもらおうだなんて、そんな他力本願じゃいけない。人に好かれようとか、仕事のためだけじゃない。音楽は、自分のために聴くもの……これから先の世界の見え方も感じ方も、全部、私次第でしかない……)

 見失ってしまいそうだった『好き』の焦点が急にあったような思いで、身体が震える。

(どうしよう、こんなに歌を聴いてどきどきしたの、初めてかもしれない)

 元気が少し良すぎるくらいのサウンドに乗せた、気取らない真っ直ぐな言葉に背中を押されたような気がして無意識に振り返ると、その先にいた狩野と偶然目が合う。

 彼はおや、という顔をしてから、すたすたと彼女の側に歩み寄ると、隣でステージを見上げ、笑いながらつぶやく。

「やっぱり牧之原さんは、こっちのほうが合ってますね。彼女は、自分の好きな音楽を持ってる」

「……自分の好きな音楽……」

「ええ。彼女は自分じゃない誰かの言葉であっても、それを自分の中で一度きちんと形作って、色や飾りをつけてから歌っている。そしてそれを気の合う仲間と楽しんで演奏することが、何よりも大事なんです。こりゃあ、うちに来ても面白くないわけですよ」

「……」

 思いもよらなかった人物から聞こえてきた話に、巴は驚きのあまり何も言えなくなる。

「まあ、音楽のプロである巴先生から見れば、僕なんかが言わなくてもお判りでしょうね」

「いえ……貴重なご意見です」

「いやいや」

 二人は互いに頭を下げた後、ステージに向き直って演奏の続きに耳を傾ける。


(……なんか、また間違ってたな)

 ミチルと楽しそうに目線を交わしながら軽やかにハーモニーを歌うくるみの声は、巴が抱えていた自分への違和感を取り去っていく。

(好きになろうと思うんじゃなくて、好きだって思ったものを大事にするんだ。私に足りてないのはそこ。これからは、音楽も恋愛も、自分にメリットがあるかどうか、なんて値踏みから始めるようなことはしない。好きなら好きでいいんだ、まずはそこから……)

 そう考えて、彼女はふと向こう側の袖に立っている興津を見た。

(……嫌いじゃないのよ。今まで出会った中でダントツにいい人だと思うし。でもね、やっぱり髭剃って欲しいって思っちゃうし、それ言ったら絶対ケンカになるのも目に見えてるのよね。そんなつまらないことを、これからもずっと我慢するのは嫌だな。……きっと、彼女っていう人は、あなたのそういうこだわってるところも好きなんでしょうね)

 心の中から何かが剥がれ落ちる感触がして、巴は急に笑いが込み上げてくる。

(そっか、なるほどね。私はこのくらいストレートに、日本語で言われないとだめみたい。こういうの、わかりやすくて好きだわ)

 演奏を終えた軽音楽部員たちに拍手を贈りながら、吹っ切れたようにくすくすと笑う巴を、隣で同じように拍手をする狩野が、穏やかに微笑んで見ていた。


 ステージの上に、下手で待機していた一年生たちがなだれ込んでくる。

「磐田、本当に歌わなくて良かったのか?」

 袖に残ってステージを見る政宗に、興津が声をかける。

「はい。目立つことしたくないんで」

「ステージに立つことが前提の部活なのに、若干矛盾を感じる発言だな」

「身バレしないからDTMは気楽でいいんですよ。音楽だけ評価してもらえるから」

 その言葉に、政宗の人形のように整った顔立ちと聡明さ、それにまつわる過大評価がこれまでの彼の重荷になったのだろうということがたやすく想像でき、興津はなんとなく納得する。

「でも、文化祭には出るだろう?」

「そのときはアノニマスのマスク被ってもいいですか」

「もうちょっとマイルドなのにしなさい」

 返ってきた答えの過激さに苦笑しながら興津がそう言うと、政宗は肩をすくめて笑い、再びステージを見る。

 すでに部員たちはそれぞれのポジションに移動し、くるみはエレアコをスタンドに立てて制服の胸ポケットからハーモニカを出している。

(……誰も気が付かないとは思うけど、少しやり過ぎたかな)

 借り受けたときのやたらと嬉しそうな彼女の様子を思い出して彼は少し恥じ入り、それをごまかそうと口元に手をやって、上唇を厚めになぞっている髭を撫でた。


 ほぼ倍になったステージの上の人数に、観覧している生徒たちもざわざわとし始める。

 所々から部員の名を呼んで、応援する声も聞こえてくる。

 ギターを肩からかけたままウッドブロックを構えた凛子と、ギロを手にしたソフィアの合間に挟まるようにして紗雪が立つ。

 タンブリンを手に、やや緊張した面持ちの敦哉の横で、凛子の使っていたアンプに翔琉がレスポールを接続し、電源を入れる。

 太陽はフットスイッチをオフにして、出だしをクリーントーンで弾くための準備をしてから、ミチルの隣に移動した。

 祐華もエフェクトを切り、自分のすぐ脇にあったマイクを口元に寄せる。

 隆玄が生徒会長から渡されたスタンドマイクをドラムセットの隙間にセッティングし、位置を変えながら爪で引っ掻いて電源の確認をする。


(今日はこれで最後……)

 いつもライブが終わるときに訪れる寂しさに、くるみは一瞬だけ浸る。

(でも、こんなたくさんの人数で演奏できるんだ。全力でみんなと一緒に楽しもう!)

 その気持ちを払うように彼女が振り向くと、ステージの上の全員の気配が身体を包む。

(みんな、よろしくね)

 くるみは微笑むと、一番奥にいる隆玄と目を合わせる。

 彼はそれにうなずくと、くるみが前を向いたのを合図に、両手を高く上げてスティックを打ち鳴らす。

 太陽のリズムギターのイントロに敦哉のタンブリンが続くと、翔琉がギターを始めたばかりとは思えないような、分厚くパワフルな音色でレスポールを奏でる。

 祐華が手慣れたグリスから始めるベースラインを奏で、隆玄のドラムが加わって、くるみたち二年生三人は同じメロディを歌い始める。

 そのボーカルを追いかけるように重なるハンドクラップとコーラスが中庭の空に弾けて溶け、翔琉のギターリフが鳴り響く。

 さっきよりも熱を帯びた会場の空気は、舞台の上のくるみたちを強く煽った。


「みんな知ってるもんだねえ、自分たちが生まれる前の曲だって言うのに」

 唐突に後ろから声が聞こえ、ぎょっとした興津と政宗が振り返ると、実に楽しそうにステージを眺める天竜がそこにいた。

「ああ、いいよ、そのままで」

 頭を下げようとした二人を手で制し、天竜は政宗を見てにこにこと笑う。

「あ、あの、動画サイトとかで知ってる子も多いと思います。僕はたまたま、父がこの曲書いた人のファンなんで、小さい頃から聴いてましたけど……」

 緊張を隠せない政宗がいつも以上に硬い表情でそう言うと、天竜は満足げにうなずく。

「そうなのか。この曲は私も好きなんだよ。ビートルズのリフが入ってるからね、私が君たちぐらいだった頃を思い出すんだ」

「……あの、理事長先生も、何か音楽をやってらしたんですか?」

『リフ』という単語に引っかかった政宗が思わず話に食いつくと、天竜は好々爺然として答える。

「ははは、聴くばっかだよ。兄貴が先にベンチャーズの真似事始めたもんで、そういう方法ではグレ損なってね。ビートルズも聴いたけど、私はどちらかと言えばローリング・ストーンズと、日本のグループサウンズが好きだな。タイガースとかスパイダースとか、あのへんね」

「へええ……」

 政宗が初めて聞く名に関心を持った様子でうなずく。

「……大丈夫だよ、興津くん。別に文化祭でストーンズやタイガース演れって言ってるわけじゃないでね」

「え、あ、はい」

 笑いながら天竜に背中を叩かれ、今まさにそう考えていた興津は面食らった。


 三人の会話が途切れた時、くるみが興津のハーモニカで間奏部分のメロディを吹き、その後に翔琉のレスポールが『プリーズ・プリーズ・ミー』の旋律を乗せ、また歌が続いていく。

 凛子とソフィアに挟まれた紗雪も、表情はそこまで緩んではいないが、しっかりと歌う声がする。

 男子部員の一人ずつの声が重なり合っていくハーモニーで、盛り上がりは最高潮に達した。


「しかし、あの子も入学してからなかなか災難続きだけれど、へこたれずに頑張ってるね」

 ジレと同じネイビーのスラックスのポケットに両手を突っ込みながら、天竜はステージの上で汗をかきながら歌うくるみを見遣る。

「母親と同じように、芸能界に進むだかしん?」

「いえ……この間の進路希望調査、ここのすぐ側の大学を第一志望にしてましたよ」

 良くないとわかっていても、くるみがまったく芸能界に興味がなかったことに心底安堵してしまったことを頭の隅に追いやりながら、興津が答える。

「ふーん、……まあ、どんなにこっちから勧めても、最終的には本人の意志が最優先だからねえ。しかし、このままにしておくにはもったいない才能だ。なんか、大学行ってなりたいものでもあるだかね?」

「さあ、まだそこまでは……夏休み前に三者面談がありますから、そこで訊くことにしています」

「なるほど」

 単に自分と離れたくないという理由だけでそこを選んだことは想像に難くないのだが、担任として目指す資格や仕事によっては別の大学も勧めなければと思いつつ、興津はくるみに視線を戻した。


 ほどなく演奏が終わり、隆玄と太陽を中心に前後二列で部員たちは並び、深々と客席に向かって頭を下げる。

 割れんばかりの拍手が、汗の滴る彼らの肌を風と共に吹き抜けていく。

 身体を起こすと、すぐに部員たちは撤収作業に移る。

 興津と政宗も天竜に軽く頭を下げ、彼がうなずいたのを確認してからそれに加わった。


 バッテリーの電源が落とされ、辺りはさっきまでの賑やかさとの落差も相まって、ひどく静かに感じられる。

(ああ……また終わっちゃった……)

 たっぷりと空から降るまばゆい日差しに目を細めながら、くるみはシールドが刺さったままのエレアコを身体にかけ、たわんだシールドとスタンドを持ち、胸ポケットのハーモニカを落とさないように気を付けながら上手へと降りる。

(楽しかったな。文化祭は政宗先輩も演奏するっていうし、もっと賑やかになるんだ……楽しみだなあ)

 ステージのトリを飾る科学部員たちが準備を始めたのを見つつ、彼女の心はすでに夏休みの先に飛んでいた。


「今年は人手があるから、去年よりは楽に片付けできたな」

 あっという間に空になった舞台を見て、太陽がほっとしたように笑う。

「これで、後は文化祭が終わったら俺らも引退だな。定期演奏会までいたい気持ちはあるけど、推薦落ちたら一般受けなきゃだから、油断はできないし」

「まあ、いようと思えば、ギリギリまでいられないこんもないけどねぇ」

 隆玄のとんでもない発言に、太陽は目をむいて彼の横顔を見上げる。

「……お前、どこ受けるんだっけ?」

「東大の理Ⅲ」

 飄々と途轍もないことを言ってのけた彼に、太陽は思わず首を横に振る。

「だったらやめとけよ、無茶するの。浪人したら目も当てられないだろ」

「浪人かぁ。こないだ親父と母さんが見舞いに来たとき、一回くらいなら浪人しても許されそうな空気になったんだけど、やっぱダメか」

「親の前に担任の先生が泣いちゃうだろ、ダメに決まってる」

「ちぇー、浪人したら、麗ちゃんと一緒に研修医になれるのになあ」

 口を尖らせた隆玄を太陽は呆れ顔で見つつ、同い年だというのにまるで弟のような親友に、大きなため息をついた。


 ステージに上った科学部員たちは、『バロック・ホーダウン』をBGMに巨大なシャボン玉を飛ばし始める。

 子供の顔に戻った生徒と教職員から歓声が上がり、きらきらと輝きながら空に登る虹色の玉は、風に乗って校舎の屋根まで流され、あるいはその途中でぱちんと消えていく。

「うああ、きれいですね!」

「ああ、そうだね」

 スピーカーアンプを挟んで並びながら、無邪気にはしゃぐくるみと、興津は空を見上げる。


 その後ろで同じように太陽と並んで空を見上げるミチルの目にも、シャボン玉が映る。

 しっとりと重い海のにおいを含んだ風に煽られて、次々に淡く弾けていくその光の欠片を眺めながら、

(……わたしの未来も、こんな風に、儚く消えてしまわないかしら)

 彼女はずきずきと疼く胸の前で手を握り、唇を噛んだ。

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