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第80話

「……ありがとう。きっと君のことだから、もう二度と同じことを繰り返すことはないと思うけれど、娘の身の安全を保障したいからね」

 銀縁眼鏡の奥の目は笑っていない笑顔で、くるみの父の牧之原朔太郎は、生まれて初めて公的書類に自筆署名と押印をしたであろう緑郎に、穏やかに話しかける。

「先生方、娘もそうですが、未角君もよく見てあげてください。彼も才能ある若者です、正しく導いてあげれば、きっと素晴らしい選手になります」

「承知いたしました。お言葉の通りにいたします。御配慮をいただき、大変恐れ入ります」

 いつも世話になっている法律事務所の若い弁護士が念書の確認をする隣で、向かいに座っている教師たちに投げかけられた朔太郎の言葉に、その正面にいた天竜が答えて深くうなずく。

 朔太郎はその様子に表情を少しだけ緩ませると、今度は手前に目線を戻した。

「……お母さん、親が子供と一緒にいられる時間なんて、本当に短いものです。いま向き合わなければ、きっと後悔します。……それを望んでいたのに出来なかった私の妻とは違って、あなたは幸いにも時間が与えられている。息子さんを正面から受け止めてあげてください」

 緑郎から聴かされた本心を、化粧がはげるほど涙を流しながら聴いていた彼の母が、また新しい涙をにじませて、朔太郎の言葉にこくりとうなずいた。


 ゴールデンウイークが始まる前に行われた話し合いは、結局くるみが同席しない形で粛々と進められ、緑郎がくるみに言ったことは、瀬戸と天竜の判断によって理事会の面々と保護者達には『かなりマイルドな表現』に修正されて伝えられ、同時に興津とくるみの関係に一切の物的証拠がなく、いたって健全であるという藁科からの報告もあり、緑郎の言葉は事実無根であるとして、興津に何らかの処分が下るようなこともなかった。

 そして、本来ならば停学になって然るべきだった緑郎は、それを朔太郎の恩情によってまぬがれ、代わりにこの先くるみに一切接触しないという念書を書かされることで収まった。

 先だって緑郎の話を聞いていたスクールカウンセラーも同席し、彼の了承を得たうえで、今回の原因となった彼の心の内を、その場にいた教職員と朔太郎、そしてやはりというか、予想通りに夫を伴うことなくこの場に一人でやってきた緑郎の母が知ることとなった。


(……これで、この子も本当にやりたいことに身が入るだろう。もう、人との接し方を間違えることもないはずだ。あとは父親も含め、親子関係が修復されることを祈るだけだな)

 散会後、母に背を撫でられながら会議室を出ていく緑郎を見て、興津はほっと息を吐く。が、

(いや、僕はここからが本番だ……)

 気を引き締め直してソファから立ち上がり、天竜に頭を下げてから、彼は新調したばかりのグレーのストライプのスーツのジャケットの上ボタンを留め、襟を正して戸口に立つ。

 そうして、このあと自分に投げかけられる言葉をいくつか予想しながら廊下に出ると、扉の反対側の廊下の端で弁護士と一緒に書類を確認しつつ、紺鼠の麻の着物をぱりっと着こなしながらもぼさぼさに寝癖がついた銀縁眼鏡のその人と、興津はいよいよ目が合った。


「ああ、興津先生。少しお話をよろしいですか」

「はい」

 出来るだけ平静を装って、彼は返事をしながら朔太郎に近づく。

「この度は、以前に引き続き、娘が大変ご迷惑をおかけしました」

「いえ、とんでもない。お嬢さんがお元気になられて、私も安心しています」

 特に含みのない朔太郎の言葉に、胸をなでおろしながら会話を続ける。

「何かとお世話になっているとはいえ、疑われるようなこともないのに、お立場が悪くなるような言葉が出てきて大変だったでしょう。お察ししますよ」

「……ありがとうございます。でも、よくあることですから、気にしてはおりません」

 腹に一物ある身としては即座に返答が出来ず、わずかな間が出来てしまったことに、彼は心の中で頭を抱える。

「いやいや、娘にはよく言って聞かせておきます。『李下に冠を正さず』……そもそもはあの子が、先生が誤解を受けるようなことを日常的にしていたからでしょう。先生のお邪魔をしてはいけないと、後できっちり叱っておきますよ」

「そんなことは……確かによく質問を受けたり、部活動でも話をしたりはしますが、特に何か迷惑を被ったですとか、邪魔をされたとか、そういったことは全くありません。どうかお嬢さんを責めないであげてください」

 思いもよらず飛び出してきた厳しい言葉に、興津は慌ててくるみを庇った。

「……ふむ。それはすなわち、先生としては、娘が何か迷惑をかけているという意識はないと、そう解釈してもよろしいでしょうか」

「えっ?」

 かかってはいけない釣り針にかかってしまった気がして、彼は思わず声を上げる。

 わずかな焦りが見て取れた興津の様子に、朔太郎はくすくすと笑い始め、ひどく楽しそうに話を続けた。


「いえね、父親の私が言うのも難ですが、娘は先生のことをずいぶん好いていますよ。入学式の時にあなたのところへ、わざわざご挨拶に伺ったでしょう? なぜそんなことをしたのか気になりましてね、息子に話を聞いてみたんです。……先生、おととしの文化祭に娘が来たとき、バンドを組んで歌を歌われていたそうですね? どうも娘は、その時にあなたのことが大変気に入ったようです。それまで公立だ、通信制だところころ志望を変えて、あげくの果てには受験しないとまで騒いでいたあの子が、秋口になって急に進路をここに変えたものですから、私も中学の担任の先生も大いに焦りましたが、それも含めてそう考えると、すべての理由が線で繋がるんですよ」


 あまりにもあっけらかんと手の内を明かされ、興津は動揺で言葉を失う。

(ああ、そうだ……この人は推理作家なんだ、僕ごときが頭脳戦で勝てるわけがない……!)

 冷静に考えればこうなることがわかったであろう不測の事態に、彼はそのまま倒れそうになるのを堪えるだけで精いっぱいだった。


 朔太郎はにこにこと微笑みながら――それは本当に嬉しそうな笑顔で――なおも喋る。

「まあ、随分まじめに勉強もしましたし、入学してからもいろいろトラブルはありましたが、他の学校に行くよりは、ここの自由で個性を尊重する校風の方があの子には合っているでしょうし、ひとつひとつの問題を、息子の時のように先生方が誤魔化さず、重大な時には率先して、理事長先生自ら、解決のためにこうして真摯に対応していただいてますから、皆さんには大変感謝しております。何より、あんなに楽しそうに学校に通う娘を見たのは、小学一年生の時以来ですからね、親としては嬉しい限りですよ」

 そしていったんそこで言葉を区切ると、少しだけ真面目な雰囲気で興津を見た。

「先生、ご職業柄、生徒から思いを寄せられることは往々にしておありでしょう。ですが、私の目から見て、明らかに娘は本気だ。今まであの子が過ごしてきた環境をご存じのことかとは思いますが、あの子はなかなか、他者に心を開くことをしません。男性ともなればなおさらだ。それが、ここまで真剣に誰かのことを思って、その中で自分を相手にふさわしい人間に変えようとしているのは『恋』とは呼べません。これはある種の『愛』です」

「……」

「先生にとっては確かに『よくあること』でしかない。ですが、娘にとってはこんなこと、『一生に一度』あるかないかだ。特別扱いをしろというわけではありません。間違ったことはどんどん正して頂きたいし、甘やかせと言っているわけじゃない。ただ、娘の気持ちを決して無碍に突っぱねず、そういうものとして受け止めてやって頂きたい。……娘が自分の高校生活を振り返ったときに、あなたを真剣に好いてよかった、と、思わせてやって欲しいんです」

 朔太郎の目が、興津の目をしっかりと捉え、逃れようのない鋭さで射貫く。

 自分の心が完全に見透かされているような気がして、彼は喉がからからになっていた。


「他の生徒からこんな話題が飛び出してくる程度には、娘のやっていることはあからさまなんでしょう。ですが、先生はそれをご迷惑だと感じておられない、広いお心をお持ちのようだ」

 朔太郎はそう言うと、着物の袖の中で腕を組む。

「こんなご時世ですし、親の私がこういったことを申し上げるのも時代錯誤かもしれません。ですが、どうかこれからも今まで通りに、お仕事に影響がなく、常識の許す範囲で、娘を見守りつつ、相手をしていただければと思います。人生で自分を大きく変えるチャンスなんて、そうそうない。娘にとってはそれが今だと思うんですよ。……ああ、お付き合いされている方がいるなら、娘にそう言っておきますので、今の話は聞かなかったことにしてください。お相手の誤解を招いてはいけませんからね」


(その付き合ってる相手が、今まさに話題に上がっている、あなたの娘さんなんです……)

 痛烈な申し訳無さと謎の安心感と妙な嬉しさで混乱し、興津は朔太郎の灰色がかった黒い目を見ることしかできなくなる。

(でも、これは……要は、今までで通りの距離ならば、くるみと僕が一緒にいても、お父さんとしては文句は言わない、って言ってくれてるんだよな?……まさか、罠じゃないだろうな……「はい」って答えた途端に、どこからともなく警察官が出てきたりは……)

 そんなコントのようなこともあるまいと思い、了承の返事をしようと口を開きかけた時、

「あ、お父さん、先生!」

 たぶん自分のことを迎えに来たのだろう、くるみが階段の踊り場からこちらに走ってくるのが見えた。


「こら、廊下は走らない」

「はーい」

 自分の脇で足を止めたくるみを優しく叱ると、彼女は嬉しそうに肩をすくめる。

 朔太郎の話で罪悪感と胸のつかえが軽くなった興津は、くるみに同じ微笑みを返す。


「そのご様子でしたら、今の話はお受けいただけるということでよろしいですか?」

 にこやかにこちらを見る朔太郎に、興津は真正面から向き直る。

「……はい、謹んで。出来得る限り、力添えをさせていただきます」

 半分結婚の挨拶でもするような気持ちで、彼は頭を下げた。


「?……何の話してたの?」

 きょとんとして二人を見上げるくるみに、

「大人同士の密約だよ」

 朔太郎は楽しそうにそう言って、茶目っ気たっぷりにウインクを返す。

「今日はこのあとまだ部活だろう? この間みたいにサボるんじゃないよ」

「もうサボらないってば、やることいっぱいだもん」

「そうか。じゃあしっかり楽しんでおいで」

 父は娘の頭を撫でてから、興津に「では」と短く挨拶をして、少し離れたところで待っていた弁護士とともに去っていく。


「……行きましょう、先生。みんな待ってますから」

「ああ」

 朔太郎たちを見送りつつ、くるみの言葉にうなずいて、興津は彼女と並んで廊下を歩きだす。


「……なんだか、このひと月の間、やたらしんどかったなあ……」

 歩きながら腕を回す興津を、くるみははたと何かを思いついた顔で見上げる。

「あとで肩揉みましょうか? お父さんの肩しょっちゅう揉んでるから上手いですよ、わたし」

「……ずいぶんストレートな手段で来たな」

「もう隠すのやめたんです。わたし、先生に『片想い』してるの」

「こら、そういうこと言わない。おべっか使っても駄目だぞ、絶対ひいきはしないからな」

「わかってます」

 睦まじい会話を交わしながら、くるみと興津は顔を見合わせ、くすくすと笑う。


 春の終わりの海風が、グラウンド側から開け放たれた窓の内側にこもった空気を連れ、廊下の網戸を通り抜けていく。

 からりと晴れて午後の日差しが照り付ける光を受けて、部室に向かう二人は黒いシルエットになって、背の高い花とその周りを飛び回る蝶のように歩き去って行く。

 やがて、二人が正面玄関を通り過ぎる時、すぐ外の通路をサッカー部がランニングしながら、反対側へと駆け抜けていった。

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