第79話
「あ、こことかどうですか、先生」
後ろ側のロッカーの上を指さしたくるみに、
「いや、取るのが大変だろ? 藤枝や菊川くらいの身長だと、引っ掛けるのも一苦労だ」
興津はそう言って首を横に振る。
「やっぱだめか……」
午前中の青空はどこへやら、昼過ぎに海からやってきた分厚い雲は街をすっぽりと覆い、午後からの雨予報は見事に的中しそうな気配を見せている。
せっかくの全日練習ではあったが、雨に降られて楽器がだめにならないうちに、と、今日は早めの解散となった。
そうして他の部員たちが帰ったあと、さり気なくいつもの時間に迎えに来てもらうように連絡を入れ、二人だけの部室でギターフックを取り付ける場所をああでもない、こうでもないと一緒に考えながら、くるみと興津は久しぶりに恋人同士の会話を交わしていた。
「やっぱりこの、ドラムの後ろ側かな……ここのキャビネットを動かして、掲示板の縁にぴったりフックをつければ、なんとか高さも足りるか……」
中にバンドスコアと教本、そして古い音楽雑誌が入った棚の前で、興津が逡巡する。
「動かすなら中身出しちゃいましょう」
くるみはドラムセットの後ろに回りこむと、絨毯の上に膝をついてガラスの扉を開ける。
「動かした棚はどこにやろうか……とりあえず廊下に置いておくかな」
興津も並んで正座すると、棚の中身を出し始めた。
「……話し合い、気が重いなあ……」
「そんなに身構えなくても大丈夫だよ。疑惑は晴れてるし、無理に同席しなくてもいい」
二人で肩を寄せ合いながら、棚の中の軽音楽部の歴史を二人は掘り返していく。
「うわ、この雑誌、お兄ちゃんが生まれた年のだ……つまり、先生はこのとき中一くらい?」
手にした雑誌の表紙に書いてある発行年月を見て、くるみは驚きつつも興津をからかう。
「やめてくれよ、すごく刺さるから、そういうの。……見せて、誰載ってる?」
興津は苦笑いしつつ彼女の手からそれを取って、ぱらぱらと中を眺めた。
もう解散したバンドや、今はすっかり見かけなくなったアーティストの名前がある。
「うわー、懐かしいな。これがもう二十年前……そうか、牧之原、今年二十歳になるのか」
「そうですね。お父さんが今から、誕生日になったら一緒に行き着けのバーにお酒飲みに行くんだ、ってうきうきしてますよ」
「ふうん、いいね……親孝行できて、ちょっと羨ましいな」
寂しそうにぽつりと本音を漏らした興津の横顔に、くるみははっとして言葉を飲み込む。
その呼吸の音に我に返った興津も、慌てて自分の言葉を取り繕う。
「あ……ごめん、言わなくていいこと言ったな。忘れて」
「ううん、そんな……」
くるみは彼の身体に手を伸べ、肩口から腕を回して抱きしめた。
「こら、離れて。あんまりくっつかれると……」
そう言ってくるみの方に興津が顔を向けようとするより早く、彼女の唇が柔らかく、ちゅっ、と音を立てて彼のもみあげに触れる。
「……本当に、君は約束を守らないな」
そちらを向けないまま、顔を真っ赤にした興津がつぶやく。
「だって……先生見てると、なんかそういうこと、してあげたくなっちゃうんだもの」
くるみは切ない気持ちを抑えずに、彼の髪に頬を寄せる。
興津もくるみの背中に腕を回し、自分を抱きとめる胸に頭を持たせて目を瞑った。
「……先生、好き」
「うん。……僕も好きだよ、くるみ。……戻ってきてくれて、本当によかった……」
十日ぶりに交わした言葉の甘い余韻に、二人はごくわずかな間だけ浸る。
カーテンの向こう側、灰色の春の空に暗く立ち込めた雲から、ぽつぽつと雨粒が落ちて、部室のガラス窓を濡らし始める。
くるみも興津も、その雨の中にお互いの抱えていた不安とわだかまりが、すべて溶けて流れていくような気がしていた。
「……ごめんなさい、ずっと無視してて。ほんとは話しかけてくれてるの、聞こえてた」
腕を解いて、くるみは彼の隣にぺたんと座り込む。
興津も目線を合わせようと、脚を崩してあぐらをかいた。
「いいんだよ、そんなの。……僕が意気地なしだったから、君に辛い思いをさせたね。未角の言うことなんか気にしないで、捕まえてでも話を聞いてあげなきゃいけなかったのに……」
労わるように、彼の大きな手はくるみの髪を優しく撫でる。
「ううん、先生のせいじゃない……あの時、逃げないで怒ればよかったの。でも、もう何もかも嫌になっちゃって……」
「それまでの積み重ねがあったんだ、そんなことで自分を責めなくていい。……嫌な思いをしたね。あの子にもいろいろ事情や原因はあるけど、大人だったら完全にあの発言はアウトだ。社会に出る前にそれに気が付けただけ、運が良かったよ」
「……お父さん、にこにこしてるけど、めちゃめちゃ怒ってるから、話し合いの時にやり過ぎないように釘刺しときます」
「ああ、本人も深く反省してることだし、お手柔らかにお願いします、って伝えといて」
二人は顔を見合わせて、くすくすと笑う。
そしてふと真面目な顔になって、お互いを見つめ合った。
「……くるみ」
先に口を開いたのは、興津のほうだった。
「ごめん、白状するよ。……僕は逃げようとしてた。君が何を言われたか知って、ずっと悩んでたことが一気に頭の中でぐちゃぐちゃになって、……きっと話し合いの結果がどうであれ、僕はここを去らなければならないって思いこんで、東京にいる親戚のところに行って、君のことも、どうして自分がこの仕事に就こうと思ったのかも、音楽のことも家族のことも忘れて、言われた通りのことだけして生きる人生に逃げてしまおうって、本気で思ってた」
彼は彼女の手を取って、指を絡ませ、やわらかく握りながら続ける。
「……うまくいくわけないのにね。きっと、僕みたいに嘘が苦手で、やることなすこと不器用な人間は、あんな厳しい世界でやっていけるわけない。すぐに挫折したと思う。僕はやっぱり、この仕事がいちばん向いてて、好きなんだ」
自嘲するように、そして納得するようにそう笑った彼に、
「あの……どうして、ミュージシャンとか、音楽の道に進むんじゃなくて、歴史の先生になろうと思ったの? どっちも頑張って勉強するの、大変だったでしょう?」
くるみは素直な疑問を投げかける。
「そうだね、前にも話したけれど、いちばんの理由は、じいちゃんとばあちゃんをほったらかしにしておけなかったからだな。僕が受け取った事故の賠償金のことで親戚中ですごくもめて、子供全員と縁切っちゃってたし、高校生の時点で二人とも八十近かったから、バンド仲間についてったり、遠くの音大に行ったりするわけにはいかないと思ったんだ。それに、音楽は仕事にしたら嫌なことや辛いことと結びついて、好きでいられなくなってしまう気がしたし、何かのはずみでそんなことがあったら、自分や家族を嫌いになることに繋がってしまうような……それが怖くてね」
「ふうん……」
自分が考えていた通りの答えが返ってきて、くるみはそこはかとなく嬉しくなる。
そのわずかな笑顔を幸せそうに受け取って、興津は先を続けた。
「でも、歴史を……社会科を選んだのは、音楽とつながりがないわけじゃないんだ。四年生のとき、大井先生のお父さんが弾いてたウッドベースを、こっそり弾いたときの話はしたっけね。……僕はその時初めて、ピアノと、学校で使う以外の楽器の音に触れた。……家族がいなくなって、辛くて足元ばかり向いていたけど、目の前に新しい世界が広がったみたいで、すごく久しぶりに前を向けた気がして、わくわくしたんだ」
目の前で黙って話に耳を傾けてくれているくるみに安心して、興津は話の先を続ける。
「それから、僕はウッドベースが使われてる曲を探して、ジャズとかビッグバンドとか、いろんな昔の音楽を聴き始めたんだけど、そのうちにじいちゃんが、『お前の好きな楽器弾いてる人がいるから、クレイジーキャッツを聴け!』って言い出したもんだから、CDを借りて聴いてみたんだ。そしたら、どれも嫌になっちゃうくらい明るい曲で……」
「それ、もしかして、『スーダラ節』歌ってた人っちですか? それならお母さんのiPodに何曲か入ってました」
「そうそう。……君のお母さん、音楽の守備範囲が本当に広いね。きっと一生かなわないな」
興津は楽し気に笑いながら、また話を始めた。
「今思えば、じいちゃんは単純にいつも暗い顔してる僕を、少しでも励ましたかっただけなんだと思うよ。でも、それがきっかけで、何があってこんな底抜けに明るい曲が出てきたのか、歌ってた人や作った人たちと、その時代背景に興味が湧いて、子供ながらに60年代の日本のことを調べ始めた。学校と街の図書館に通って、高度経済成長期や東京オリンピックのことを調べるうちに、安保闘争と東西冷戦のことを知って、そこからソ連……今のロシアの歴史にたどり着いて、ロマノフ王朝やイヴァン四世みたいにずっと昔のことや、第二次世界大戦とベルリンの壁のことなんかも調べて、そのうち、チェルノブイリ原発事故が引き金で、グラスノスチとペレストロイカが加速して、ソ連解体に繋がったことがわかって……それが僕の生まれたちょうど翌日だったのが、すごく衝撃的でね。……それまで、ひとりだけ生き残って宙ぶらりんだった自分の存在が、世界と繋がった気がした。僕の目に見えているよりも、この世界はずっと深くて広くて果てしないんだ、僕の命はずっと昔の、遠い歴史の中から繋がってきたんだって、柄にもなく感激しちゃってね。それから社会科がやたら楽しくなって、六年生で歴史が始まってからどんどんのめり込んで、中学に入ってからは特に世界史が好きになって、国語の授業中に、こっそりローマ帝国や百年戦争の本とか論文読んだり、高校も楽器の練習の合間に資料集ぼろぼろになるまで読んで……まあ、簡単に言えば世界史オタクになっちゃったんだよ」
「そっか、それで先生の授業、先輩たちからマニアックだって言われてるんですね」
「ははは、公立で教えてるときは苦労したっけなあ、つい余計なことしゃべって、二年目くらいまで授業の進みがめちゃくちゃ悪かったよ。毎日怒られた」
肩をすくめてばつが悪そうに笑った興津に、くるみも笑顔を返す。
彼はそれに小さな笑い声を立てると、どこか遠くを見ながら、聞いてもらえる喜びに任せてさらに話を続けた。
「……すごく烏滸がましいんだけどね、僕と同じように『絶望』の中にいる子がいたら、世界と自分は繋がっているんだ、遠い昔から続いている歴史と命の一番先に自分がいるんだ、それは途轍もなく長い時間をかけて紡がれてきた、何物にも代えがたい『奇跡』なんだ、って教えてあげたいと思って、今は教師を続けてる。それで十年続いたんだから、きっと、この仕事を選んだことは間違ってないと思う。……もちろん、僕はいつだって、そんな前向きなことを考えてるわけじゃない。何もかもが嫌になって、捨て鉢になって、自分なんてどうでもいいやって思うことばかりだったし、どうして家族と一緒に死ななかったんだって、自分を責めることしかしてなかった。口で言ってることと、考えてることと、心が全部ばらばらで……君を好きになるまでは、いつもそんな事ばかり考えてたよ。僕は矛盾だらけだった」
纏う雰囲気の寂しさに延べられた彼女の指先を絡め取り、彼は視線を戻したのち、目を伏せる。
「……いや、今もそうだな。僕はいつも矛盾ばっかりだ。ニュースで僕と同じ教師が、生徒と色々あって処分を受けるのを見て、明日は我が身だって言い聞かせていても、僕は君を好きだと思う気持ちを止められない。……本当に好きなら、君をあの時突き放してしまうのがいちばんの正解だったって思ってる。でも、……」
「たぶん、結果は同じだったと思いますよ、先生」
くすくすと笑いながらそういった彼女の声に、堂々巡りに陥りそうだった興津はまぶたを開ける。
「わたしもあのとき、カッコつけて諦めますなんて言ったけど、きっとそんなの無理で、何度も先生にアタックしてたと思いますから。それでいつか、先生は押し負けてたはずです」
「……うん」
彼女は彼の長い指をゆるく弄びながら、素直にうなずいた興津を、頬を染めて見つめた。
「先生が言う通り、わたしたちは、しちゃいけないことしてるって思ってます。……今だって、誰か来たらどうしようって思うし、あの子にあんなこと言われて、変な噂になったら先生がここからいなくなっちゃうって考えて、毎日すごく怖かった……でも、わたしも先生と同じです。好きっていう気持ちは止められない。わたし、悪いことでも、怖いことでも、先生と一緒だったら平気。……もしも先生が東京に行ったら、わたしは高校辞めて追っかけてました」
「……またそんなこん言って。駄目だってば」
「ううん、何度だって言います。だってわたし、先生と一緒にいたいからここに来たんです。先生がいないなら、ここにいる意味なんてない」
そう言って真剣な眼差しで自分を見上げる彼女に、
「ねえ、くるみ。……僕のどこがそんなに好き? そんなに大した取り柄なんてないし、君がしてほしいと思うことだって満足にしてあげられない。歳だって倍離れてる。こんなつまんない男の何がどうして、君にそんなことを言わせるんだ?」
今度は彼が、ずっと心に引っかかっていたことを訊いた。
「全部です。先生のこと、全部好きだから。……つまんなくなんかないですよ、先生は」
なんのためらいもなく答えが返ってきて、彼は面食らう。
「いちばん最初に好きになったのは声だけど、髪も目も好きだし、ヒゲも好き。ベース弾いてるとこ見てると色っぽくてドキドキするし、スーツが似合うとこも好きだし、優しくって真面目で、授業だってわかりやすくて面白いし、字がきれいで見てるとほれぼれしちゃう。それに、わたしたちと同じ目線で物事を考えてくれるとこも、ときどきうっかりしたり、無茶振りするとこも、面倒くさがりなとこも、少し泣き虫なところも、甘えてくれるのも、全部大好き」
「……」
今まで真正面からここまで好意的な言葉を続けざまにぶつけられたことがないせいで、彼はすっかり顔を赤らめて硬直してしまった。
しばらくの間の後、
「もっと言いましょうか? まだありますよ」
「いや、いい……」
くるみがにこにこしながら先を続けようとしたのを、興津は明後日の方を向いて止める。
しかしすかさず、
「ねえ、じゃあ逆に先生は、わたしのどこが好きなんですか?」
彼女にそう訊かれて、彼は照れくささでますます顔を赤くしつつも、どうにか答え始めた。
「……僕も全部だよ。特に、何でも真剣に取り組んで、努力を怠らないところ、僕は尊敬してる。それに、誰に対しても正直で、素直で優しくて……誰かが傷ついたとき、君はその人の気持ちに寄り添って、一緒に泣いたり怒ったり、慰めたりできる。それはとても大事なことだと思うよ。……まあ、時々言い過ぎたり、やりすぎたりするなあって、ヒヤヒヤしながら見てるけどね」
「それは自覚あります」
「じゃあ気をつけなさい」
「善処します」
二人は小さな声をたてて笑い合う。
ややあって、興津は左手を解くと、くるみの頬にそっと触れてから、おそるおそる言葉を紡ぐ。
「……それに、……ごめんね、君があまり見た目のことを言われるの、好きじゃないことはわかってる。だけど、……君はとても綺麗だ。君が笑うと、まるで花が咲いたような気持ちになる」
「え……」
「歌っている時の君も、とても魅力的だよ。声も表情もきらきら輝いてる。普段しゃべっている声も、聴いているだけでとても幸せだ。初めて聴いたときからずっと、耳の奥に残って離れなかった。僕なんかが独り占めしていいのかいつも悩むくらい、君は素敵な人だ、くるみ」
そう言って微笑んだ興津は、教師ではなく、一人の男のまなざしでくるみを見ていた。
お世辞も下心も一切ない彼の真摯な言葉が、彼女の心のいちばんかたくなだった部分を優しく撫でた。
(笑うと、花が咲いたみたいに……)
それは、幼い頃からずっと憧れていた母の笑顔を見るたびに思っていた、そしてくるみが彼の前でそうありたいと願っていたことだった。
(……先生がそう思ってくれるなんて……嬉しい、すごく……)
くるみは自分が母に似ていることを、今ほど喜ばしく思ったことはなかった。
窓の外は、予報通りに春の嵐が大粒の雨を隙間なく振らせて、アスファルトで舗装された地面を白く叩き、植え込みの木々の葉をもぎ取らんばかりに強い風が吹きつけている。
屋根にあたる雨はまるで拍手のように、明かりをつけていない部室の中、ドラムセットと棚の隙間に座り込んだまま見つめ合う二人を包み込む。
空が白に近い紫に一瞬だけ光って、数秒の後、遠くから雷鳴が聞こえる。
まるで世界に自分たち二人きりしかいないような錯覚に陥って、くるみは灰色の光の中に浮かぶ興津の端正な顔を見つめ、少しだけ距離を詰める。
「……先生……」
心臓がどきどきと早鐘を打ち、狂おしく甘い誘惑に染まった心を煽る。
「……僕なんか、なんて言わないで。……わたしは、先生だけのものだから……独り占め、して……」
繋いでいた手を解いて、彼女は両手を彼の身体の脇につく。
そしてそのまま身体を伸ばし、目を閉じながら彼の顔に自分の唇を寄せ、口髭の下にある彼の薄い唇に触れさせようとした。
「……」
使い古された紙のにおいと、鼻先にぱさついた硬い感触がして、くるみは目を開ける。
「だめだって言っただろ」
バンドスコアで彼女の口元をふさいだ興津が、その向こうで眉根を寄せている。
「えー……だっていま、そういう雰囲気だったじゃないですか」
「何言ってんだ、僕を本当に犯罪者にする気か」
抗議するくるみに、興津は毅然と言い返す。
「黙ってればバレないのに……」
「そういう問題じゃない。それに、そういうことしたら、君はすぐ態度に出ちゃうだろ」
くるみの腕の中から身体を逃すと、興津は棚の中の教本をまとめて数冊引っ張り出す。
「じゃあ、わたしが態度に出さなかったらしてくれる?」
「絶対だめ」
「なんで?」
彼は顔を赤くすると、はあ、とため息をついてくるみを見た。
「わからない?……僕の方だって、態度に出るからだよ。昨日も教頭先生たちと話してるとき、誤魔化すの大変だったんだからな」
「……」
「そんな顔するなよ、当たり前だろ……君のこと、意識してないわけないんだから」
きょとんとしているくるみに興津は所在なさげにそう言うと、再び目を逸らして、手の中の本の表紙を無意味に見つめる。
「……今度の話し合いだって、君のお父さんに勘づかれでもしたらと思うと、寿命が縮むような気分だよ。疑いが消えたって言っても、物的証拠がないだけで、そもそも僕たちの関係はバレたらまずいんだ。君が僕に片想いしてるふりをする分には、きっと誰も何も言わない。でも、僕からは少しでもそんな気配は出せない。……気持ちは嬉しいよ。だけど、受け取れないものを今渡されても、返すほうだってしんどいんだ。お願いだから、わかって欲しい……」
興津の言葉にくるみはしゅんとして、また床にぺたりと座り込むと、
「……じゃ、ハグもやめる?」
そう言って彼を上目遣いに見上げる。
「……ごめん、少しだけ八つ当たりした」
教本の束を床に置くと彼は膝立ちになり、鳩尾に彼女の頭を抱き寄せ、花と果実の甘いシャンプーと爽やかなオードトワレの香りに酔う。
「好きだよ。……だから我慢して。僕も我慢する。ね?」
「……うん……」
くるみも彼の腰に両腕を回して、久しぶりにコロンのミドルノートを胸いっぱいに吸い込む。
「棚、早く片付けないと」
少し近付いてきた三回目の雷が聴こえたとき、ぽつりと彼女がつぶやく。
「うん。でも、もうちょっとだけ、このまま……」
低く掠れた声で彼はそう言うと、背中を丸めて、彼女の髪の分け目に優しく唇を寄せた。
「!……先生、いま……」
「……気のせいだよ、何もしてない」
自分の前では殊更に嘘が下手な彼のその言葉で、何をしてくれたのかが確かになって、くるみは頭から爪先まであたたかいもので満たされたような、幸せな気持ちで目を閉じる。
もどかしい熱をはらんで疼く身体を持て余しつつ、互いの心は解きようがないほど固く結び直されたことに深い喜びを感じながら、二人はもう一度雷が鳴るまで抱き合って、無言で激しい雨音を聴いていた。




