第78話
「……じゃあ、もうあの子はここには来ないんですね?」
「ああ、大丈夫だ。私も一緒に付き添って、サッカーグラウンドまで送り届けてきたからね」
「……よかったあああ……」
興津から緑郎がサッカー部に戻ったという話を聞いて、くるみは安心して椅子からずるずると床にずり落ちる。
「こら、行儀が悪いぞ」
「だってー……」
くすくすと笑う興津に腕を借りながら、くるみはもう一度椅子に座り直す。
「まあ、気持ちはわかるよ。俺もすげーほっとした」
「あるべき場所に帰ったって感じだねぇ、……俺、ホント疲れたよ」
くるみの様子を見て、太陽と隆玄も顔を見合わせて笑う。
「二人とも、大変な思いをさせて申し訳ない。特に伊東、何も力になってやれなくて、本当にすまなかった」
「そんなことないっすよ、愚痴聞いてもらえただけで全然っす」
頭を下げた興津に、隆玄は首を横に振って微笑む。
「それにしても敦哉氏、グッジョブでしたな!」
「そうだね、まさかあの歌で改心しちゃうなんて思わなかったよ。ナイスアイディア」
「いや、そ、そうかな……」
凛子とソフィアに褒められ、敦哉は思わず照れ笑いする。が、
「痛って!」
隣に座る紗雪に太腿を思い切りつねられ、大きな悲鳴を上げた。
「何すんだよ、さゆ!」
「……わたしじゃない。蜂でも飛んでるんじゃないの?」
「もう……」
すっかりやきもちを妬いてむくれている紗雪に、敦哉は弱り果てた様子でため息をつく。
「えっ、蜂!!? やっべ、オレ、アレルギーなんだけど!!?」
紗雪の発言を真に受けた翔琉が、慌てて周囲を見渡す。
「あ、え、も、森くん、違うの! 今のはそうじゃなくって……」
「ははは、しょんない嘘つくなよ、紗雪」
思わぬ反応に対処しきれない妹を、隆玄が笑顔で諫めた。
「でも、人の噂って怖いわね。それだけ合唱部も必死だったんでしょうけど……」
祐華がひそひそと話しながら困り笑顔を浮かべると、隣でミチルも肩をすくめてうなずく。
「狩野先生が理解のある方でよかったです。このまま強引に引き抜かれてしまっていたらと思うと、まったく笑えませんもの」
「そうね、本当によかったわ。合唱部には申し訳ないけれど、やっぱりくるみちゃんはここが定位置よね」
「そうですね。くるみさんがいない間の先生、おいたわしい限りでしたから」
ふふっ、と笑って、二人は興津の隣に座るくるみを見た。
「……さて、じゃあ先に中庭ライブの話をしようか」
くるみが戻ってきたことで、やっと落ち着きを取り戻した部員たちに、バンドスコアを手にした興津が声をかける。
「セトリは『リルラリルハ』と、『これが私の生きる道』の順だな。二曲とも演奏ができる人優先だ。メインボーカルは牧之原で、コーラスパートは全員でやろう。松崎、本来ならオーディションをするところだが、ドラムは三年生の伊東に譲ってほしい。君のプレイは自己流の気が強い。ノッてくるとテンポが走るのと、なんでもメタルにする癖をまずは治そう。というこんで、基礎からトレーニングをやり直したいから、文化祭まではそっちを頑張るようにね。ステージにはパーカッションとコーラスで加わってもらうから、まずは伊東の叩き方を見て、自分とどう違うのか比較するんだ。いいかな?」
「わかりました。くるみ先輩と同じステージに上がれるなら、なんでもいいです!」
ソフィアが勢い良く、満面の笑みで敬礼を返す。
「あ、ああ、そうか。……ええと、じゃあ、そのほかのパート分けだ」
その妙な熱の入り方に首をかしげつつ、興津は話を戻す。
「一曲目は……エレキはリードが島田で、リズムが掛川でいこう。ただ、このアコギが問題だな。まあ、エレキで派手にやれば、なくても問題はないかもしれないが、やっぱりサビのところが物足りなくなる。……牧之原、少し難しいけど、弾き語りしてみるか?『スタンド・バイ・ミー』だって出来たんだし、去年からずっとやってみたかったんだろう?」
「ふえっ!!? あ、えっと……うああ……が、がんばります……」
挑発的な笑顔と共に供された興津の提案に、くるみは自信なさげにうなずいた。
「あれ? 先生、伊東さんは? アコギ弾けるんでしょ?」
翔琉が不思議そうに尋ねると、興津は真面目な顔でそれを止める。
「いや、……伊東は先に、自分の練習したい曲を練習しなさい」
「え……」
唐突な言葉に、紗雪はひどく戸惑う。
「中庭ライブも、無理をして出ることはない。君には時間が必要だ。そうだろう?」
「……」
「今回は荷物運びとセッティングだけ手伝ってくれればいいから、君は文化祭まで自分のことに集中すればいいよ。もしも出たくなったら、声をかけてくれ」
「……わかりました……」
おずおずとその言葉を受け取り、紗雪はうつむく。
向かい側で首をかしげる翔琉と、かすかにざわつく部員たちを横目に、隣の敦哉が彼女の背を撫で、斜向かいに座る隆玄が小さなため息をついた。
紗雪から視線を外すと、興津は祐華を見て楽しそうな笑みを浮かべる。
「藤枝、せっかくだし、この曲は好きなようにエフェクターを使いなさい」
「はい! うふふ、いよいよ出番がきたわ」
祐華はうきうきと答える。
「さて、二曲目だけど、……ギターは島田と……森、やってみるか?」
「いいんですか!?」
興津の言葉に、翔琉がぱっと目を輝かせる。
「五、六回通しただけで『アイ・フィール・ファイン』のリフが弾けるようになった君ならいけるだろう。それにこの曲なら、レスポールとも相性がいいはずだ」
「うわあ、やった! 頑張ります!」
翔琉はガッツポーズをしてはしゃぐ。
「ただし、あくまで勉強や睡眠に支障の出ない範囲で練習するようにな」
「はい!」
後光でも差しそうなほどの満面の笑みで、翔琉は興津の言葉にうなずいた。
嬉しそうな翔琉に小さく声を立てて笑うと、興津は手元のスコアに目線を戻す。
「シンセサイザー……はキーボードでいいな。でも、セカンドのハーモニカは本物があるからそれでいこう。……舞阪、タンブリンだったら歌いながら叩けそうかな?」
「はい、やってみます」
緊張した面持ちで敦哉が答える。
「ベースボーカルは文化祭でやるとして、今回はライブの空気に慣れるための練習だ。気楽に構えていいからね」
「はい」
「ギロは松崎、君にお願いするよ。後で吹奏楽部から借りよう」
「あ、うちにありますよ。明日持ってきます」
「はは、さすがだな。それならよろしく頼むよ。……これでパート分けは済んだかな? じゃあ、スコアを配るから、ひとり一枚ずつ取りに来て」
そう言って興津が立ち上がろうとしたとき、隆玄がはっと何かを思い出したように顔を上げる。
「あ! すんません、先生、大事なこん忘れてたっす。三年の入部希望者がいるんすけど、今度連れてきていいっすか?」
「?……いいけど、どんな子だ?」
「あいつっす、磐田政宗」
「え!?」
思ってもいなかった名前に、興津が仰天する。
「あいつ、DTMやってるみたいで、生音録りたいから協力してほしいって言ってました。今回のライブには混ぜなくていいんで、とりあえず入部だけさせてやってください」
「いや、本人がそうしたいならそれでいいけれど……勉強の方はいいのか? 放課後は予備校に行ってるから、部活動してないって話をきいたんだが……」
「なんとでもなるって言ってたんで、なんとかするんじゃないっすか? 俺はそこまで責任持ちません」
軽く笑いながら隆玄は立ち上がって、椅子を片付け始める。
「まあ、地頭のいい子だから問題はないのかも知れないが……申し訳ないけど、私はDTMは詳しくないから、何も教えることはできないぞ。それから、あくまで受験に影響の出ない範囲で活動するように、とは伝えておいてくれ。これで浪人なんかされたら困るよ」
「了解っす」
「……一応言っとくけど、伊東も島田もだからな。君たちは勉強最優先だ」
「わかってますって」
興津の言葉に、三年生二人は肩をすくめた。
「その先輩って、どんな人なんですか?」
先程の驚きようが気になった様子の祐華が問う。
「ああ、伊東のライバルだね」
冗談のニュアンスが強い口調で興津が答えると、
「そんなんじゃないですって、たしかに成績はだいたい同じくらいっすけど、俺とあいつは目指すものが違うっすから」
隆玄は苦笑いして、まるで逃げ出すようにスコアを取りに行く。
「ふうん……それは確かにびっくりしちゃうわね」
「とりあえずめちゃくちゃ頭がいい人なのはわかったけど、でぃーてぃーえむって?」
きょとんとしている祐華とくるみに、
「『DTM』とはですねえ!」
先程から会話を横で聞いていた凛子が、二人の背中から意気揚々と語り始める。
「『デスクトップミュージック』の略称で、まあ和製英語なんですけど、それぞれの言葉の頭文字なんですな。デスクトップというのはデスクトップパソコンのことを指しておりまして、そのパソコン上で直接編集した打ち込み音源や、楽器から録音したり過去の楽曲から抜き出したサンプリング音源、『ミュージカル・インストゥルメント・デジタル・インターフェイス』略して『MIDI』と呼ばれる形式の音源モジュールや、ボーカロイドみたいなバーチャルシンガーソフトを、ミュージックシーケンサーというソフトウェアを使用して、『ピアノロール』という形の直感的に操作しやすいインターフェイスなんかにしてから編集して作曲する手法のことです。欧米では『ベッドルームミュージック』なんて言われ方もしております。つまり自分の部屋の中で作業ができる、パソコンを使って作られる音楽のことですな」
「……掛川、その説明、頭と最後以外のとこいるかな……?」
「相変わらず長い……」
「合ってるのか合ってないのか、わかんない説明だねぇ」
鼻息荒くドヤ顔を決める凛子に、興津と三年生が苦笑する。
「……えーと、パソコンで音楽作ってるってことは、ボカロPとかなのかな?」
「あ、そうだよ。本人が言ってたっけ」
誰にともないくるみの質問を、太陽が拾って答える。
「うわあ、すごいわ、自分で作詞作曲してるってことでしょ?」
「どんな曲を作られてるんでしょうね」
祐華とミチルが色めき立つ。
「いやー、すごい先輩がいっぱいいるなあ、聖漣って」
「あはは……」
素直に感動する翔琉の隣で、敦哉が居心地悪そうに愛想笑いした。
「ボカロかあ、アタシあんまり聴いたことないんだけど、なんかリンちゃんのおすすめとかある?」
「そうですな……」
ソフィアに尋ねられて、凛子は『torimune』のことを思い出すが、
(……あの人の曲は、わたしだけの秘密にしておこう)
誰にも教えたくない気持ちに素直になって、
「……『ダーリンダンス』と『きゅうくらりん』などいかがでしょう?」
自分のスマートフォンを取り出し、動画アプリを立ち上げた。
わいわいと目の前で盛り上がる部員たちを、紗雪は無言で眺める。
(わたしの練習したい曲……)
先程の興津の口調から考えて、もう何が起こったのかを彼は知っているのだろう。
楽しそうなみんなの輪の中に自分も混ざりたい気持ちを、静かに圧し殺す。
(……わたしはまだ、あんなに素直に音楽を楽しめない。……楽しんじゃいけない)
スタンドに立てた、ハート型のサウンドホールのエレアコを眺めてため息をつく。
(もしも、……もしもあなたに、わたしの歌う声が聴こえるなら、あなたは何を思う?……喜び? 苦しみ?……ねえ、あなたは今、自分の選択を、悔やんだりはしていない? 本当に、それでよかったの……? これまで、同じことを何百回も考えたわ。でも、わたしには、わからないの……)
窓の外は、羽を広げれば、飛びたてそうな青で満ちている。
その青の中に自分も手を伸ばして、掴めるもの――ひとかけらの救いが、一粒の慰めが、何も奏でる力のない自分の手のひらに落ちて来はしまいかと、紗雪は心の中で、両手を眩い空に延べる。
しかしそれは、あの日に崩れた危ういバランスの積み木のような日々のモノトーンの景色に置き換わり、そして散らばったまま、どう片づければいいのかわからないその想いの破片のひとつひとつが砕け、鋭く尖り、自分の心の一部だというのに、紗雪にそれに触れさせることをためらわせた。
(ごめんね、りーちゃん。……わたし、何もしてあげられなかった……)
眩しさが目に痛くて伏せたまぶたの裏側、永遠に手の届かない丸い背中に、紗雪は記憶の中に刺さった刃で切り裂かれ、開いたままの傷口から溢れる血にまみれた手で、祈りを捧げた。




