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第77話

(……結局、来ちゃったなあ……)

 土曜日の朝、講堂の前で深いため息をつきながら、くるみはとぼとぼと中に入る。

(昨日の子っちと会いたくないし、この部の押しの強い男子も苦手だし、……ほんと、智の言うとおりだ。なんでわたし、ここにいるんだろ……)

 慎に励まされはしたものの、今まで完全に無視を決め込んだ手前、気まずさの方が勝ってしまい、結局くるみは軽音楽部の部室に向かう勇気が出ず、合唱部の――こちらも昨日、派手に喧嘩を売った相手がいるだけに、気まずいことは気まずいのだが――活動場所である講堂の方に足が向いてしまった。

(うああ、もうこれ全員来てる。狩野先生もいるかも……)

 誰とも話をしたくなくて時間ぎりぎりに来たおかげで、ホールの床と玄関の間はすっかり靴で埋まっている。

 白いタイルのたたきにずらりと並んだ黒とこげ茶のローファーの群れに、心がざわつく。

(……多分もう、欠席裁判になってて、わたしのことハブにする算段がまとまってたりするんだよね。……やな気分)

 中学校時代に頻繁に身の回りで起きていたことを思い出しつつ、その切れ目のない群れの端っこの、出入り口のガラス戸にいちばん近い場所にローファーを脱ぐと、そこからジャンプしてホールの床に着地する。

(帰りたい。……でも……祐華ちゃんもミチルちゃんも、……みんな、怒ってるよね。何も言わないでこっちに来たこと。中庭ライブの練習、もう始めないと間に合わないのに。なんか、やってること、あの子と変わらないな……)

 部員たちの顔がちらついて、ルーズソックスの爪先が急に冷たくなったように身体が痺れる。

(先生……もう何日、まともに顔見てないかな……)

 今頃部室でベースのチューニングをしているだろう、愛しい背中を思い出して、また胸の奥が痛む。

(……今まで無視してたの許してもらえるなら、今からでも、みんなのところに行きたい。……でも、軽音楽部の部室に行けば、またあの子と鉢合わせするかもしれない。先生にも迷惑がかかる。……かといって何もしないのも、なんだかもったいない……いや、人生には休息も必要って、お父さんのエッセイにも書いてあったし、今日はやっぱサボろうかな……)

 ぴたりと閉じられた防音扉の前で、うだうだと考えながら中に入るのをためらっていると、

「おはよう、牧之原さん」

 後ろから狩野に声をかけられ、くるみは逃げ場を失った。

「……お、はようございます……」

 もごもごと挨拶を返すと、狩野は一瞬きょとんとした後、爽やかに笑う。

「……あれー、元気ないなあ。合唱部員らしくさ、ちゃんと腹から声出しな。昨日で仮入部期間も終わったし、もっと明るくいこう。あ、退部届と入部届持ってきたから、あとで書いてね。ほら、中入って」

「……あ、はい……」

 狩野の手で防音扉が開き、中にいた部員たちがほぼ一斉に「おはようございます」と彼に挨拶する。

 いよいよ興津との縁が完全に切れてしまう気がして、彼女はガラス戸の向こうの中庭を見て、小さなため息をつくことで虚しさをごまかした。


「……本当ですか、それ」

「狩野先生が言っていたからね、間違いないよ」

 張りつめた表情の隆玄に、興津はうつむいてそう答える。

「うそだろ……」

「くるみちゃん……」

「……そんな……」

 部員たちは信じられないという顔で興津を見た。

「……未角君が、あんなこと言わなかったら……」

 祐華がぐっと拳を握って、怒りを滲ませる。

「どうにかして引き止められないんですか、先生」

 追いすがるようなミチルの質問に、興津は首を横に振る。

「部活動については生徒の意思が最優先だ。だから未角がここに来ることも、牧之原がここをやめることも、私に止める権利はない」

「それでいいんですか、先生。ライブの曲、くるみちゃんがいないと成り立たないですよ」

「仕方ないよ、牧之原が自分で決めたことだ。曲は今から選び直しても間に合う」

 太陽の訴えを退け、興津は部員を見渡す。

「……ということで、今から曲の決め直しだ。自分がボーカルやりたいっていう人、いたら立候補して……」

「無理っすよ、先生。この場のみんな、誰もくるみ先輩にかなわないってわかってますから」

 低く鋭い凛子の声に止まりそうだった言葉を、彼は無理矢理、口から引っ張り出す。

「……別に牧之原だけがボーカルじゃない。誰がやったっていいんだ」

「アタシ、嫌です。くるみ先輩と一緒に演奏したくて、この部に入ったんで」

 ソフィアが噛みつくように興津に食い下がる。

「松崎、そういう言い方は……」

「だって、納得できませんよ。なんで真面目にやらなかった奴のせいで、本当に音楽やりたかった人がここから出て行かなくちゃいけないんですか? 筋が通んないですよ。アタシ、そういうの絶対嫌です。くるみ先輩がボーカルやらないなら、アタシだってここにいる意味なんてない」

「合唱部でも歌は歌える。牧之原の歌が聴きたいなら合唱部の歌を聴けばいいだろう」

「アタシは合唱が聴きたいんじゃないんです! 先輩の声が聴きたいの!!」

「あああ、ソフィア氏、ストップストップ!」

 今にも興津につかみかかりそうな勢いで言い返すソフィアの腕を、凛子が引く。

「松崎さん、落ち着いて。……牧之原先輩が自分で決めたなら、受け入れるしかないよ。合唱部だって僕たちと同じように頑張ってるんだから、個人的感情で勝手なこんして、向こうの邪魔しちゃだめだ」

「……だって、……」

 きっぱりと敦哉に止められ、それ以上言い返すことも出来ずに、歯を食いしばって目に涙をためたソフィアの背を、紗雪が黙って撫でる。

「しっかし、オレらの演奏聴いて、反省したって言ってもなあ……人を傷つけた事実は事実だし、いろんな人に迷惑かけたってことも変わんないからなあ。謝って済むことじゃないだろ。許してもらえるとでも思ってんのかな。楽器の扱い方も雑だし、ほんと、何から何まで自己中な奴……だめだ、楽器借りといて言うのもなんだけど、オレはあいつのこと、好きになれないや」

 翔琉がうんざりした様子で緑郎を断罪する横で、

「……悔しいな。あんなやつのせいで。……ここまで一緒にやってきたのに……」

 ぽつりと太陽がこぼすと、堪えきれなくなった祐華がすすり泣きを始める。

「こうなる前に少しでも、お話が出来ればよかったんですが……チャットも見ていただけてませんし、もう、あんなひどいこと、思い出したくもないんでしょうね……」

 祐華の背に手を置いて、ミチルが涙を飲み込みながら唇を噛む。

「……みんな、椅子並べて。セトリ決め、やり直しだ」

 無表情で隆玄はそう言うと、自ら椅子を手にとって、円座に並べ始めた。


(……もっと早く、無理矢理にでも話を聞けばよかった)

 手近な椅子を持って円座の中に加わると、そこに腰掛けて興津は下を向く。

(きっと、君は僕が話しかけるのを、ずっと待っていたんだろう。……僕が自分の意気地のなさを、君への気遣いだ、って、嘘ですり替えて、誤魔化してたから……)

 不甲斐なさと情けなさに、身体が震える。

(本当に僕は、教師失格だ。……このまま、終わりにしよう。何もかも。話し合いが終わったら、東京に行って、家族のことも、音楽のことも、……こんな気持ちも、全部捨ててしまおう。僕は教師に向いてなかったんだ、ただそれだけのことだ)

 ほんの一秒だけ、彼はまぶたを閉じる。

(辛い思いばかりさせて、ごめん。……くるみ……)

 自分を呼ぶ優しく甘い声とこちらを見つめる大きな瞳が、意識の中で儚く溶けて消えていく。

 それでも『さよなら』とだけは言いたくなくて、彼はその先を続けることができなかった。


「じゃあ、パートごとに分かれて並んで、三年生から一人ずつ順番に入って。まずはソプラノからいこう。みんな頑張ってね」

 廊下とホールに並んだ部員たちは、口々にはい、と狩野に返事をする。

 合唱コンクールの課題曲はまだ発表されていないが、気の早い彼の意向により既に自由曲は『流浪の民』を歌うことに決まり、その曲のパートそれぞれにある中間部分のソロを歌う部員を決めるオーディションが、今から講堂の中に併設された会議室で行われようとしていた。


(……自分がやらかしたこととはいえ、居心地悪いなあ)

 案の定、昨日の揉め事はあっという間に部の中に伝播し、女子部員の大多数から完全に白い目で見られているのを、くるみは感じていた。

 そしてそれに呼応するように、まるで自分が正義の味方にでもなったかのように、男子部員が馴れ馴れしく話しかけてくるのが、たまらなく鬱陶しい。

(あとで何かあった時、いろいろ言われるのが嫌なだけなんだろうな……)

 中学生の時にも経験のある事柄に、彼女は今日何回目かわからないため息を、また吐いてしまった。


(こういうギスギスが嫌で、わたしは聖漣に来たはずなのに……)

 やっていることが全く昔の自分と変わらないことに、苛立ちを覚える。

(……そうだよ、なんでそんなに仲がいいわけじゃない人に義理立てして、誘われたからって我慢して、わざわざ居心地悪い場所を選んでるんだろう)

 不意に自分のしていることの矛盾に気が付き、くるみはうつむいたまま目を見開く。

(ううん、そもそも、あの子があんないやらしいこと言わなかったら、わたしはここに来てないし、昨日みたいな揉め事だって起こさなかった。そうじゃなかったらきっと今頃、部室でみんなと一緒に歌って、話をして、笑って……先生とだって、もっといっぱい、話が出来たかも知れないのに……!)

 苛立ちは怒りに形を変え、くるみは心の中で緑郎にそれをぶつけ始める。

(あんたがしつこくわたしに付きまとうから、あんな気持ちの悪いこと言うから……! あんたのせいで、わたしがやりたいこと、何も出来なくなっちゃったじゃない!! わたしが直接、何回も何回も嫌だって言ったのに、嫌いだっていう言葉も態度も全部無視して、おまけに先生が疑われるようなこんまでして……!)

 あまりの悔しさに身体ががたがたと震え始めたが、彼女はもうそれを気にしなかった。

(確かにわたしと先生は生徒と教師なんだから、本当は恋人になんかなっちゃいけないよ。それはわかってる。でも、わかってるからいっぱい色んな事ガマンしてるの。デートもしないし、個チャも電話もしないし、ツーショットの画像だって一枚きりだし、車で送ってもらったことだってない。本当はマンガやドラマみたいに、唇同士でするキスだって、その先だってしてみたいのに、絶対だめって決めたから、お互いのことを守るためにもずっとそうしてきたの。付き合ってること、ホントは話したいけど祐華ちゃんやミチルちゃんにだって言ってないのに、なのに、あんな気持ち悪くて誤解されるような言い方でみんなにバラして……!)

 十日越しで反芻された怒りは、降りかかった理不尽を焼き尽くさんとばかりに燃え広がる。

(うああ、あったまきた! 悔しい! すごく腹立つ! あの時逃げないで、思い切りキレちゃえばよかったんだ! あー、わたしのバカ! あの日のわたしにもムカついてきた! なんで逃げたの! 思い切り怒ればあいつの方がどっか行ったに決まってる! これまでだって、先輩たちに怒られたら大人しくなったし、わたしが真面目にやらないなら出てけって言ったら本当に出てったじゃない!……悔しい、すごく悔しい! 平手打ちくらいしたって誰も何も言わなかったよ!)

 そこで頭の中の緑郎を殴ることに疲れ、くるみは少しだけ上がってしまった息を整える。


 そうして、

(……もしも、部室にまだあいつがいるなら……今度こそ、絶対言い返す。少しくらい暴れたって、きっと誰かが止めてくれる)

 ひらめいたその考えと、妙な安心感と信頼に、彼女は部室の空気がたまらなく恋しくなった。


(……帰りたい。ここはわたしの居場所じゃない)

 自分の前に並んでいた女子生徒が、会議室の扉をノックして中に入る。

(まず、先生に謝ろう。わたしのこと心配して、何度も声をかけようとしてくれてたのに、そのたびに聞こえなかったふりして逃げてた。……きっと、先生のことだから、自分で自分をいっぱい責めてる。こんなことになったの、自分のせいだって思ってる……違うって言ってあげないと……このまま何も言わずにいたら、本当に離ればなれになっちゃうかもしれない)

 彼がいつか話してくれた東京の親戚の話が頭をよぎり、ひどい胸騒ぎがしていてもたってもいられなくなって、くるみはスカートのポケットの中に入っている、はちみつレモンののど飴のスティックを服の上からぎゅっと握りしめる。

(祐華ちゃんとミチルちゃんにも、心配してくれてたのに、ずっと無視してたの謝らないと。あの子から守ろうとしてくれてた先輩たちにも、部室にエレアコ置きっぱなしにしたことも、チャットに返信しなかったことも、一年生にも、……とにかく全部謝らなきゃ)

 扉が開いて、女子生徒が楽譜を見ながら出てくる。

(これ以上、大事な人から逃げちゃだめ。しっかりして、くるみ)

 閉じかけた扉をそのまま開いて、くるみはノックせずに会議室の中に足を踏み入れた。


「来たね。牧之原さん。もう君でソロは決まりって思ってるんだけど、一応オーディションだから歌ってもらってもいいかな?」

 くるみの胸中を知らない狩野が、無邪気に笑う。

 その笑顔を見て、少し申し訳ない気がしたが、

「……先生、すみません。わたしやっぱり、合唱部には入りません」

 そう言って彼女はぎゅっと目を瞑り、直角に腰を曲げた。


「……あはは、やっぱり。そう言うんじゃないかって気はしてたよ」

 狩野の明るい、しかし残念な響きを隠さない声が会議室の中に響いて、驚いたくるみは目を見開いて身体を起こした。

「うちに来てから、君、あんまり楽しそうじゃなかったからね。何かを抑え込むような、堪えるような、そんな歌い方をして、歓迎会のときみたいな、こう、きらきらした感じが全然なくてさ、すごく居心地が悪そうだったから」

「……」

「今、確信したよ。君は合唱に向いてないんだ、牧之原さん。君はとても個性が強すぎる」

「……はい」

 残念なことを言われているはずなのに、なぜか胸のつかえが下りるような気がして、くるみは肩の力が抜けた。

 狩野は笑顔を崩すことなく、話を続ける。

「声の話だけじゃなくてね、君はちょっと正直すぎるんだよね。昨日、三年生とトラブったんだって? 僕にこっそりそれを教えてきた子がいたから、さっき相手の子にちょっとだけ話聞いたんだけど、結構な勢いでズバズバ言い返してきたって聞いて、困ったなあと思ったんだよ。確かに君の言うことは正しいし、はいそうですかじゃあ譲ります、なんていうのも間違いなんだけど、一応先輩だからね、嘘でもいいから、先生に聞いてみます、くらいの遠慮する素振りはできたほうが軋轢は減る。軽音楽部ではそれが許されてたのかもしれないけれど、はっきりものをいうことばかりが正しいとは限らないよ」

「……はい」

 先にそれを教えてくれていた人の面影が浮かんで、くるみは泣きそうになった。

「僕の目から見て、軽音楽部にいる子は君と同じように、みんなかなり個性的だ。一筋縄じゃいかない子ばかり揃ってる。でも君たちは、だからこそ調和がとれてるんだ。みんなが立っている位置も、見えている世界も、向いている方向もバラバラだってわかっているから、お互いを認め合って一つのことを成し遂げられる。いい部だと思うよ」

 話を聞くうちに、軽音楽部の部員一人一人の顔が浮かんで、無性に会いたくなる。

 両目から涙が零れ始めたくるみに、狩野はなおも語りかけた。

「僕の中で、合唱は渡り鳥の群れや、イワシのトルネードのようなイメージなんだ。みんなで心をひとつにして、同じ方向を向いて、一つの美しい絵姿を描き出す。でも、その群れの中に、鳥のフリしたドローンや、でっかいシャケが混ざってたら、それはそれで面白いのかもしれないけれど、やっぱり少し違うなあって気がするんだよ。……牧之原さん、ドローンやシャケに例えて悪いけど、君は飛び回った後、充電する場所が必要だし、元居た川に帰るべきだ。そのほうが居心地がずっといいだろう。それに、そんなわがままが許されるのは社会に出る前だけだから、思い切りやっておくといい。大人になると、居心地が悪くても、なかなか居場所を変えることはできないからね」

「……はい……」

 ハンカチで涙を押さえながらうなずいたくるみを見て、狩野はため息をつく。

「まあ、本当に君をソプラノのソリストにするつもりではいたからね、少し残念だ。……でも、せっかくここにいるわけだし、軽音楽部に戻る前に歌を聴かせてもらってもいいかな。好きに歌ってくれて構わないから、君の歌う『流浪の民』を聴いておきたい」

 そう言うと、彼は机の上に置かれた緑色の小さなキーボードで、出だしの音を弾く。

「音は取れたかな? じゃあ、好きなタイミングで歌って」

 くるみはうなずくと、ぐっと涙を飲み込んで深呼吸し、落ち着いてから楽譜に目を落とす。

 そして、オーディションの課題の十六小節を、自分の思いつくまま、感じたままの歌い方で歌った。


「……ありがとう。とても魅力的でいい歌だったよ。でも、やっぱり合唱には向いてないね」

 聴き終えた狩野はそう言いながらくるみに拍手を贈り、楽譜を受け取ってくすくすと笑う。

「軽音楽部でも頑張るんだよ。僕たちも、コンクールで入賞を目指すからね」

「はい。……お世話になりました」

 くるみは再び最初と同じ角度に身体を折り曲げる。

 そして身体を起こすと、思い出したように付け加えた。

「……あの、わたしが抜けたら、昨日の先輩にソプラノ、譲ってください」

「それはわからないな。君の言うことはもっともだからね、本気で賞を取るなら感情だけで物事を決めるわけにはいかないよ。あの子がソプラノに移れるかは、もっと高音を出せるように、自分を鍛えて変わるかどうかにかかってる。その結果は中庭ライブなり、コンクールなりで確認してほしい」

 あくまで笑みを崩さないあたり、狩野は意志が固そうだった。

 彼はそのまま、くるみを扉の向こうに促す。

「行きなさい。みんなきっと、君が戻ってくるのを待ってるよ」

「はい、ありがとうございました」

 くるみは最後にもう一度丁寧にお辞儀をすると、会議室の扉を開けて外に出る。

 列を崩して廊下に散らばる部員たちをひらひらと避けながら、彼女は講堂に置いてあるカバンを取りに廊下を走った。


「……なかなかないわね、ちょうどいい感じの曲……」

 動画サイトでいくつかのMVを見ながら、祐華がつぶやく。

「……すみません、役に立てなくて」

 興津からベースの演奏と同時に、歌もトレーニングを受け始めたばかりの敦哉が、上級生たちに頭を下げる。

「いいんだよ、敦哉くんは文化祭までに間に合えば。……でも、本当に困ったな。グループサウンズやベンチャーズやっても、俺らくらいの歳で知ってるやつって多分ほとんどいないから、きっと去年みたいにはウケないぞ」

「あの辺の時代は、よっぽど音楽聴いてないとなかなか出会わないよなぁ……まあ、理事長先生は喜びそうだけど」

 太陽と隆玄がぐったりと椅子に寄りかかって途方に暮れる。

「いっそ興津先生が歌ったらどうですか? 大井先生から聞きましたけど、先生たちのバンドでボーカルやってるんでしょう?」

 翔琉の提案に、興津は手を上げて断りのサインを出す。

「中庭ライブは生徒の技量向上と交流を目的としてるんだ、教師は基本参加しないよ。やったとしても、せいぜい指揮や伴奏程度だ」

「そうですか……」

 落胆した翔琉の隣で、凛子が両手の人差し指を、こめかみの上側につけてひねりながら唸る。

「うーん、困っちゃいましたね……ウケそうなボカロ曲のバンドスコアはみーんな、打ち込み音源と効果音にシンセが4台、とかそんなのばっかりだし……」

「……やっぱりアタシ、合唱部に行ってくる。先輩を説得して連れ帰ってくるよ」

「いけませんよ、ソフィアさん。それで合唱部のみなさんにご迷惑をおかけしたら、お互いにいい気持ちはしないでしょう?」

 椅子から立とうとしたソフィアを、ミチルがぴしゃりと諌めた。


(うああ、入りづらい……やっぱ無理……!)

 中から聞き慣れた話し声がする部室の扉の前で、くるみは何度も開けようとしては止め、を繰り返していた。

(でも、これ以上ここでもたもたしてたら、せっかく笑って送り出してくれた狩野先生に申し訳ないし、なんのためにここまできたのかわかんなくなる……! 逃げるな、くるみ!)

 ぴたぴたと頬を叩いて、気合を入れ直す。

(……そうだ)

 そして、そこまでやってから、彼女はすっかり忘れかけていたあることを思い出し、ポケットに手を突っ込む。

(先生の、おまじない……)

 はちみつレモンののど飴をスティックから一つ取り出し、包み紙を向いて中身を口に放り込み、ポケットにスティックを突っ込んでから大きく息をする。

(……大丈夫。ちゃんと謝るんだ、みんなに。……先生に)

 扉を一枚隔てた向こうにいるその人の、優しい微笑みが見えた気がして、

(会いたい……!)

 くるみは扉に手を伸ばした。


「!……あの……」

 出入り口の正面に座っていた紗雪が、はっと何かに気づいたように顔を上げる。

「……ん? どしたー、紗雪?」

「……そこ、あの……」

 全てに行き詰まって力なく尋ねる兄に、紗雪は扉の上側についた磨りガラスの窓を指差す。

 明らかに人影と思しき黒い影が、そこでゆらゆらと動いている。

「?……誰か、そこにいる?」

 隆玄の声に、その影はひゅっと下に引っ込んだ。

「え……」

「まさか……」

 見慣れたその怪しい動きに、部員たちはがたがたと慌ただしく椅子から立ち上がり、真っ先にそこに手をかけた祐華が引手を右に動かす。


「……あ、あの、……どうも……」

 祐華と同じタイミングで引手を引きそうになって、慌てて手を離したくるみは、鉢合わせしてしまった気まずさに顔をひきつらせる。


「くるみちゃん……!」

 喜びのあまり抱きついた祐華と、手前で信じられないものを見るようにこちらを見ている上級生たちと、ぱっと顔をほころばせた一年生たちの奥で、半分泣きそうな目で興津が自分を見つめている。


 いつも通りにサイドから流した、軽い癖がある暗い茶色の髪と、やわらかい目鼻立ち。

 きれいに上唇をなぞって整えられた口髭。

 ライトグレーのスーツに映えるボルドーのネクタイが、第一ボタンを開けたワイシャツの襟元で軽く緩んでいる。

(……ああ、やっぱり好き。今日もすごくカッコいい)

 十日ぶりにきちんと見た彼の姿に、くるみはまた何度目かの恋をした。


 思わず笑顔になった彼女に、立ち上がった興津は甘い眼差しを返しながら近づいてくる。

 そして、心から嬉しそうに微笑むと、

「……長い遅刻だったな、牧之原」

 左手の人差し指で、ちょん、と優しく前髪をつついた。

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