第76話
「……本当に事実無根かや?」
「当然です。変に疑わないでください、牧之原の名誉にかかわります」
「そんならええだけど……」
まだ自分を訝しむ瀬戸にほんのりと寒気を感じながら、興津はそれでも堂々と言葉を返す。
「ただ『仕事』してただけなのに、これまたつまらん嫉妬をされたね、興津君」
「……ええ、顧問として、あの子を庇ってただけなんですけれどね……」
自分とくるみの関係を知っていて、敢えて黙ってくれている藁科のフォローにうまく乗ることができて、彼は胸をなでおろす。
先ほど寮母に付き添われて帰った緑郎から、興津は謝罪の言葉を受けた。
そして、くるみにも直接謝罪をしたいという申し出をされたのだが、緑郎が彼女に言った言葉の内容が内容だけに、これを理事会の前で言ってしまっていいものなのかどうかということも含めて、三人はくるみを同席させるかどうかについて協議していた。
「本当に後先考えん子だね、未角は」
瀬戸が腕組みをして困った顔でつぶやく。
「両親も呼び出しに応じるか怪しいもんですね、たぶん父親は来ないんじゃないでしょうか」
深い顎髭を撫でながら、藁科がため息をつく。
「さっきの話だと、話し合いより先にカウンセリングを受けさせた方がいいかもしれません」
そう言いながら口髭に左手をやり、興津は暗くなった窓の外に目をやる。
緑郎の問題行動が、親とのコミュニケーションが希薄であることが原因なのは明らかだった。
彼が起こしたことに両親がどこまで関心を持ち、親としての責任を感じるかは、本当に会ってみないとわからない事柄ではあったが、進んで話し合いに臨む――どこかそれをゲームのように楽しんでいる節は否めないが――くるみの父と雲泥の差なのは目に見えている。
しかし、緑郎が自分を見つめ直し、自らの行動を反省して、こうして謝りに来たことは非常に大きな進歩と言える。
たとえ両親が話し合いに来なくても、彼は自分で自分を律する力を手に入れることができるだろうという手ごたえは、話を聞いた彼らの中に確かにあった。
「明日から、サッカー部の方に行くだかしん」
「うちに来たら追い返しますよ。牧之原も話し合いが済むまでは来ないでしょうし、あの子にも気持ちを落ち着かせる時間が必要です」
目線を瀬戸に戻し、興津は小さく息を吐く。
「サッカー部と担任にも朝イチで話をしておきましょう、どうせなら寮からそのまま連行してもらいましょうか」
「前もそれやって逃げられましたけど、たぶん今回はうまくいきますね」
藁科の提案に興津がうなずくと、瀬戸が急にくすくすと笑いだす。
「それにしても、ちーちゃい子が見るようなアニメの歌で、ああも素直になるとはねえ。軽音楽部の子らも偶然とはいえ、ええこんしたっきね」
軽音楽部員たちの渾身の演奏が耳に残って離れなかったのが、様々なことを思い直すきっかけだったという緑郎の話に、彼はいたく感銘を受けている様子だった。
「そうですね。意外と侮れませんよ、アニメソングって」
大人になってから聴き直すと、ぐさりと刺さるものがある歌詞を思い出しながら興津も笑う。
「……しかし、困りましたね。あの子の言ったことをそのまま話し合いで伝えたら、興津君が疑われて、立場が危うくなる。かといって言わないわけにもいかないし……」
再び顎髭を撫でながら思案する藁科の横で、瀬戸も先ほどと同じ表情に戻って興津を見上げる。
「本当に何もないかや?」
「ありません。もし必要なら、スマホとパソコンの中をお見せしてもいいですよ」
ハグとキスが身体に証拠の残る行為でなくてよかったと心底思いながら、興津はここ一番の大芝居を打つ。
「……じゃあ、悪りぃっけえが、今、見せてもらってもいいかしん?」
「どうぞ」
興津はジャケットの胸ポケットから出したスマートフォンのロックを解除し、瀬戸に渡す。
「……私も見ても問題ないかな?」
写真フォルダを開けた瀬戸の隣で心配そうに自分を見た藁科に、興津はかすかに笑ってうなずいた。
「……猫の写真ばっかだっきね、好きなの?」
数分の後、写真フォルダだけでなくチャットとメール、連絡先のアプリを藁科と共に確かめ終わった瀬戸が、ほっとしたように笑いながらスマートフォンを興津に返す。
「はい。家が缶詰工場と海のすぐそばなもんで、地域猫が山ほどいて、海辺とかコンビニなんかで見かけると、つい……」
最近撮れたお気に入りのキジトラ猫の写真を眺めてから、興津はスマートフォンをしまう。
「そうか。……疑って悪かったっけね、これも仕事だもんで、許してほしい」
「いえいえ、お気になさらないでください。……私も誤解されるような距離感だったことは、猛省しております」
「いいっけやあ、何もなかっただけえ、話し合いん時は胸張って座っときゃええでね」
「はい。本当にご迷惑をおかけしました、以後気を付けます」
平静を装い、瀬戸に完全に形だけの謝罪をしながらも、下手に連絡先を交換していなくてよかった、と興津は内心、安堵しすぎて床の上に崩れ落ちていた。
「これで牧之原のスマホも確かめる必要がなくなりましたね、お次はパソコンか」
「ごめんっけねえ、興津君、じゃ、ちいと失礼して……」
少々面倒くさそうにデスクの上のノートパソコンに向かう二人を見て、
(……こりゃ、今日は九時に帰れないな)
興津は肩を落として笑った。
そこに、
「お疲れ様ですー……何してらっしゃるんですか、お三方?」
校内の施錠と消灯の当番だった狩野が、マスターキーを手に戻ってきた。
「ああ、例の軽音楽部の未角の件で、ちいと確認しないといけないこんがあって……」
いつの間にか老眼鏡をかけてモニターを見ながら、瀬戸が答える。
「あー、あの子ですか。……残念ですね、興津先生。牧之原さんが軽音楽部やめちゃって。でも、そのおかげでうちとしては助かってるんで、何だか申し訳ないです」
「え?」
狩野の悪意のない同情の先から繋がった予想もしない言葉の羅列に、興津の表情が凍る。
「あれ、聞いてませんでしたか? 牧之原さん、合唱部に来てくれることになったんですよ。まあ、今日までが仮入部で、明日の練習の時に、入部届書いてもらう予定なんですけどね」
「……」
「今年、創設以来初めてのコンクールに出るっていうんで、強力なソリスト探してたんです。彼女なら申し分ないですよ。明日、自由曲のオーディションしますけど、ソプラノはもう牧之原さんにやってもらうんで確定です。『流浪の民』のソロ、あの子がやったら絶対いけますよ」
にこにこと嬉しそうに笑いながらそう言い残して、狩野は鼻歌でそれを歌いつつ、職員準備室に鍵を戻しに行ってしまう。
(……嘘だろ、くるみ……)
興津はしばらくの間、呼吸も出来ないまま立ち尽くした。




