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第75話

「……はい?」

「だから、先輩にソプラノ譲れって言ってるんだけど? わかる?」


 くるみが思ったとおりに彼女はソプラノにパート分けがなされ、全員のパートが決まった。

 今日はそこまでで解散となり、狩野がひとりでさっさと講堂から引き揚げてしまった後、彼女は――ある程度、想定していたことではあったが――数名の同学年の女子に囲まれた。


「先輩どうしてもソプラノ歌いたかったって、トイレで泣いてたんだよ?」

「三年生は最初で最後のコンクールなんだからさ、うちら二年は遠慮しないとだめじゃん?」

「てかお前空気読めよ、高けぇ声なんか出すなよ」

「ちょっと歌えるからって調子乗んないでくれる?」

 自分を強引にここまで連れてきておいて、たちの悪い凄み方をする同級生の後ろで、わざとらしい仕草でしくしくと泣いている三年生が見えて、くるみはうんざりした。

(……サイアク。これだから、女子の人数が多い部活って嫌なんだよねえ……)

 くるみは一瞬だけためらったが、

(いいや、どうせ仮入部だし)

 そう腹を括って息を吸うと、彼女たちをきっ、と睨んでから口を開いた。


「文句あるならトイレでべそかいてないで、先生にパート分けのやり直しでもお願いしたらいいじゃない。なにこんな姑息なマネでマウント取って、パート取り換えっこしようとしてんの? 納得いかないんだったら正々堂々、もう一回挑戦したら? こっちはお望みとあれば、アルトでも何でも歌ってやるよ? どうなの?」

 とてもソプラノを歌う人間とは思えない低さの声に、少女たちは完全に怯んで腰が引けた。

「だいたいね、あんたっち、アルトを馬鹿にし過ぎ。ハーモニーの要はアルトなんだから、自分がいなきゃ成り立たないくらいの気持ちでいればいいのに。アルトが嫌とか、世の中のアルトの声楽家全員に喧嘩売ってる? ていうか、出ない声無理して日常的に出してると喉痛めるよ? それで本番前に喉壊して、コンクールのメンバーから外される方がよっぽど損じゃない?」

 苛立ちをそのまま形にした容赦のない言葉に、なおの事めそめそと泣き始めた三年生を見て、相手をするのも面倒になり、カバンを肩から掛けながら彼女たちを追い越し、講堂の入り口まで歩を進めたところでくるみは振り返る。

「勝手に連れてきといて、高校生なのに中学生みたいなことしてんじゃないっつーの。馬鹿馬鹿しい」

 中学時代の大嫌いだった先輩の姿がダブって見える三年生目掛けてそう言い放ち、何も返せない取り巻きの少女たちを捨て置いて、さっさと靴を履くとくるみは玄関から外に出た。


(……うああ、わたし性格悪いな……)

 自転車置き場に向かう間に、くるみは先程の自分の発言を猛省した。

(なんか、先生と話をしなくなってから、すごくイライラしてる……もうちょっと優しい言い方、出来たと思うのに)

 正論で相手を追い詰めるだけが正義じゃないよ、と興津に注意されたことを思い出して、彼女は深いため息をつく。

(……帰りたいな、軽音楽部に。中学時代の嫌なことばっかり思い出して、しんどい)

 やはりそれが大いに関係しているのか、ここ数日の間なかなか寝付けず、今朝、髪の生え際に大きなニキビが出来てしまっていた憂鬱さに肩を落とす。

(部活がこんなにきつかったの、本当に久しぶりで、耐性なくなってたよ……前は耐えられたんだけどな……)

 もう中学生の頃のように、自分を抑え込まなくてもいい環境に慣れてしまったせいもあるのだろう。当時は特段意識もせずにできていた、個性的な声を殺して周りと同じ音色を喉から出すことが、今のくるみにとっては苦行のように感じられた。

 そのせいで、軽音楽部にいた時に毎日感じた部活終わりの清々しさがなく、いつも不完全燃焼で終わる気がしてしまい、そのたびにふつふつと心の中で何か嫌なものが煮えたきり、さっき吐いた言葉のように刺々しく神経が張り詰めることに、くるみは自分でもダメージを受けている。

(……みんなと一緒に思いっきり歌いたい。祐華ちゃんやミチルちゃんとたくさん話して、先輩たちと演奏して、みんなで笑ってスカッとしたい……)

 寂しくなって、自転車置き場に行く前に、遠回りして西棟の四階の隅を眺めに行く。

 当たり前だが、窓に明かりはもうない。

(先生と毎日二人で帰ったのに、……もう、それも出来ないんだ……)

 温かくてたくましいスーツの腕と、広い胸に抱きとめられた時にいつも鼻をくすぐった、彼の爽やかで大人っぽいコロンの香りが懐かしくなって、目の奥からじわりと涙が湧きそうになったのを、くるみは慌ててまばたきで振り払った。


(明日、用事があるって言って休んじゃおうかなあ。さっきの子っちと丸一日いるとか無理だよ……いや、まあ、自分で首絞めたようなもんだけどさ……ていうか、よく知らない人と狭い空間に缶詰で、慣れないことしながら長時間過ごすのって、めちゃくちゃしんどいよ……)

 先週の土曜日も、一日練習に参加してはみたが、昼食の時間に男子部員にも女子部員にも質問攻めに遭い、活動が終わったときには自転車を漕ぐのも辛いほど疲弊してしまった。

(なんで、教えたくないことまで教えないと、仲良くなれないとか、友達じゃないってなるかなあ……そう言うの、踏み込まないのがマナーだと思うんだけど。親しき仲にも礼儀ありだよ、親しくないけど)

 特に興津のファンと思しき女子生徒から、彼に恋人がいるかを複数回聞かれたことが決定打となって、くるみは積極的にコミュニケーションを取ることを避けようと思ってしまっていた。

(いっそ、わたしが彼女です、って言っちゃいたくなるなあ……絶対言わないけどさ。……でも、今のわたしたちって、付き合ってるって言えるのかな……言えないよね……)

 自分から離した彼の優しくて大きな手が、遠くつかめない距離になってしまったことを認めたくなくて、

(……だめだめ。自分で決めたこと。先生にはもう、卒業まで話しかけないし、近付かない)

 くるみは首を横に振ると、朝と変わらない位置にあった自転車の前かごにカバンを入れ、鍵を差し込んだ。


「おかえり、くるみ」

 帰宅したくるみを出迎えたのは、兄の慎だった。

「あれ、お兄ちゃん。バイトじゃないの?」

「うん、今日は早上がり。あ、父さん、編集さんと飲みに行っちゃったから、晩飯手抜きしてナゲットとポテト買ってきたよ」

「まじで!? やった!」

 玄関まで漂ってくる匂いに、くるみの空腹度は一気に増した。

「へーひゃん、ほはえひー」

 既にリビングにいる弟の智が、それをもしゃもしゃと貪っているのが見える。

「うああ、着替えてくるから残しといてよ!」

 額のニキビのことも忘れ、くるみは慌てて階段を駆け上ると、ブレザーのボタンを外しながら廊下を走った。


「なあ、お前、部活でなんかあった?」

 三つ目のナゲットを口に入れたとき、慎が唐突にそう訊いてきて、くるみは思わずむせる。

「祐華ちゃんが心配してるぞ。……ここんとこ、挨拶もしてないんだって? 友達なんだからそのくらいはしろよ、愛想つかされるぞ」

 渡されたブレンド茶を慌てて飲み、大きく息を吐いてから、

「……それならそれで仕方ないよ。話すのめんどくさいから、何もないってことにしといて」

 一連の出来事を思い返す気になれずに、そう言って兄から目を逸らす。

「だめだ、ちゃんと話せ。今日、興津先生からの電話、たまたま俺が取ったけどさ、なんか今度父さんが学校に呼ばれて、部活のことでみんなで話し合いするんだって? 弁護士さんどうする、なんちゅうこんまで聞かれたから、かなりの大ごとだろ」

「……」

「もしかして、辞めるのか? 軽音楽部」

「……たぶん」

「もうすぐ中庭ライブなのに?」

「……わたしがいなくたって、ライブは出来るでしょ」

「投げやりんなるなよ。何がそんなに嫌んなった?」

 どこまでも食い下がる兄に根負けして、くるみは肩を落とす。

「……ねえ、お兄ちゃん。わたし、そんなにお母さんに似てる?」

「なんで急に」

「……なんか、高校入ってからずっと、変な人に付きまとわれてばっかで、疲れちゃったから……お母さんが昔、ストーカーの被害に遭ったって話、わたしも同じなのかなって……」

「ああ、そういうことか。……別に『音楽』が嫌いになったんじゃあないんだな」

「それも……わかんない。今、誘われて合唱部にいるんだけど、あんま楽しくなくて……」

「そっか、……困ったな、いろいろ」

 慎はそう言うと、マスタードソースをつけたナゲットを口に放り込んだ。

「楽しくねーんならやめたら? なんでいんの、そんな部活」

 あらかた腹が満たされ、平らにした座椅子に寝転んでゲームをしている智が、不思議そうに尋ねる。

「いや……何もしないでいるの、なんか落ち着かないだけっていうか……」

「でもさ、中学と違って、高校の部活って強制じゃないんだろ? 帰宅部でよくない?」

 ゲーム機を床に置いて起き上がった智は、まだ食べたりなかったのか、ごっそりとポテトを容器から抜いて口に押し込み、もぐもぐと頬を膨らませる。

「ちょっと、わたしの分取らないでよ」

 くるみの抗議の声を無視して、座椅子で手を拭きながら智はまたゲームに戻る。

「本当に音楽が嫌いになる前にやめた方がいいと思うんだけどな、合唱部。お前、さんざん中学の時に苦労したじゃん、同じこん繰り返してどうすんだよ。お前みたいな深海魚はメダカのいる淡水じゃ生きてけないんだから、おとなしく海に戻れ」

 今度はバーベキューソースにポテトを浸してから、慎が真面目な顔で妹を見る。

「その戻りたい海が汚染されてる、って感じなんだよ……」

「じゃあ淡水でも生きてけるようになるか、全部諦めて浜名湖に沈んどくしかないな」

「やめてよ、アサリじゃあるまいし」

 くるみは兄の例えにつまらない冗談を返してから、四個目のナゲットにサワークリームソースをつけてかじる。

「ていうか、辞めるにしても、先生にちゃんと話はしたのか?」

「……ううん」

「だめだろ、いちばん最初に相談しないと」

「……そうしたかったんだけど、……」

 緑郎に言われた気分の悪い言葉が蘇り、くるみは口をつぐむ。

「なんだ、喧嘩でもした?」

「そんなんじゃないよ。……もう、喧嘩も出来ないだけ……」

 ただならない雰囲気の妹の言葉に、兄の表情は重くなる。

「穏やかじゃないな。さっきのストーカー云々といい、何があった?」

「……」

 少しだけ話す気は沸いたが、さすがにまだ中学生の智の前では、それは憚られる気がして、くるみは弟をちらと見る。

「……智、ちょっとお前、自分の部屋行け。ゲーム持ってっていいから」

「えー、何でだよ」

 くるみの意思を察した慎が智を追い立てる。

「ごめんっけね。ほら、残りのナゲットもあげるから」

 そう言ってまだ三つほど残りが入った箱の中にソースを一パック突っ込んで、くるみは智に差し出す。

「……わかった」

 自分だけ席を外さなければいけない理不尽さに首をかしげながら、智はゲーム機とナゲットを持って階段を上っていく。

 その背中を見送り、部屋のドアが閉まる音を確認してから、

「話せる範囲でいいから、何があったのか教えろ。部活の誰かに、先生に相談できないようなこんされたのか」

 慎は極めて真面目な顔でくるみに話を促した。


「はー、馬鹿だなあ、そいつ。後先考えてないというか……先生に喧嘩売るようなことしたら、自分が不利になるだけなのに」

 もう二度と話さないつもりで、出来る限り詳細に話をしているうちに泣いてしまったくるみの肩をさすってやりながら、慎は大きなため息をついて呆れかえった。

「念のため聞くけど、そんなことしてないんだろ?」

 こくこくと無言でうなずく妹に、兄はほっとした顔をして笑う。

「じゃあ堂々としてればいいんだよ。下手に避けた方が余計に怪しまれるぞ」

「……っ、だって……」

「お前も先生も深刻に物事考え過ぎなんだよ、もっと色んなとこ、力抜いたほうがいい」

 そう言ってくるみの小さな肩をしっかりと叩くと、慎は座っていた座椅子の背もたれに寄り掛かり、腕を組む。

「でも……付き合ってはいるんだな? こういうこん言われて、ここまで動揺するってことは」

 もう逃げも隠れも出来ないことがわかり、くるみは仕方なしにうなずいた。

「……誰にも言わないから正直に言え。バレてやばいようなこんはしたのか?」

「それは……は、ハグとか、手つなぐとかは……誰もいないときに、ちょっとだけ……」

 さすがに自分からキスしたとは言えず、くるみはその先の言葉を飲み込む。

「じゃあそれは黙っとけ。他には連絡先交換したり、個チャしてたり、先生に写真送ったりはしてないな?」

「何もしてない。絶対、卒業までお互い教えないようにしようって、約束したから……画像も写真も、文化祭ん時、写真部の人が取ってくれた、全員の集合写真と、わたしのスマホで、一枚セルフィー撮っただけ。動画も入部したての頃に、みんなで演奏したのを共有した時のだけだから。……年賀状も多分、みんなに出してるし、付き合ってるっていうの、祐華ちゃんたちにも言ってないよ。わたしが先生を、好きなのは知ってるけれど……」

「んじゃセーフだ。なんも証拠がないから、万一探り入れられても痛くもかゆくもないだろ。強いて言うなら、そのお前のスマホの画像だけ、どっか別のとこに保存してから削除しておけば完璧、ってことくらいかな」

「……ほんとに?」

「うん。全然平気だ。俺と同じ学年で、大井先生のこと狙ってるって公言してはばからないうえに、結構派手にボディタッチかましてた女子が何人もいたっけが、何のお咎めもなかったしな。当の大井先生はすっげー嫌そうだったけど」

 興津の親友で幼馴染の、学校で一番人気がある教師のさもありなんという話に、くるみの身体から少し力が抜ける。

「これからもずっと、……そうだな、大学入って一年目くらいまでは片想いのフリしとけばいい。それなら先生の立場も守られるし、出世にも影響ないから」

「……」

「ま、ハグするんだったら部室に鍵かけて、カーテン引くくらいは気を付けろよ。ちゃんとその辺警戒はしてるんだろうけどさ、くれぐれも見つからないようにな」

 そう言って笑うと、慎はまだ容器の中に残っていたしなしなのポテトをつまんで口に入れる。

「……やめとけ、って言われると思った……」

「あはは、本当は言いたいよ」

「えっ」

 兄のストレートすぎる返しに、くるみはぎくりと固まる。

「でもお前、だめって言ったところで、はいそうですか、ってなんないだろ?」

「……それはそう」

 自分に負けず劣らず正直な妹の回答に、慎はくすくすと笑って、言葉を続けた。

「な? だからもう、開き直って堂々と好きでいろよ。幸い、聖漣はそれがある程度までなら許容される校風だからさ。あんま露骨じゃなければ、話したり質問しに行ったり、そんくらいはしたって誰も気にしないって。興津先生、陰でかなりモテてるから、そのほうがライバルも減るだろうし、そうやって自分が離れてる間に、他の女子が迫ってんのも見たくないだろ? 要はあっちからお前に矢印出てなきゃいいんだ、そこは先生を信頼しとけ」

 箱の底に残った、かりかりに固く揚がったポテトを指で手繰り、慎はふっと何かを思い出したような目をして妹を見る。

「……お前は知らんと思うけど、あの人、自分の『テリトリー』に『女』を踏み込ませない人だよ。職場恋愛なんて面倒だから、女の先生に言い寄られたくなくってヒゲ生やしてるって教えてくれたし、ベース触ろうとした女子を、理事長先生に叱られるくらいの勢いでブチギレて、泣かしたこんだってあったんだ。……お前だけなんじゃないの、先生の『テリトリー』に入れてもらってる『女』なんて。ただでさえ付き合ってんのバレたら、一生台無しになるってわかってんのに、先生がお前の気持ちを拒否らないで受け入れてるってこんは、お前をそんだけ信頼してんだ。最後の一線を超えないって自信があるんなら、その気持ちに応えて、これ以上の後ろめたいこんなんて何もないって思って、お互い正直になったほうが楽だぞ」

「……うん……」

 やっと安心できる要素に巡り会えて、くるみの頬に笑みが浮かぶ。

 妹が笑ったのを嬉しそうに眺めてから、慎は水滴がついたカップの蓋を外して、中の薄まったコーラを飲み干す。

「……わたしたちのこと、お父さんにも言わないでよ」

「大丈夫、黙っとくよ。でもまあ、父さんのこんだから、もうお前の態度でバレてんじゃないかな? 勘がいいからねえ」

「うああ、そんな……」

 くるみは兄の言葉に頭を抱える。


 そのとき、インターフォンの音がリビングに響き、

「こんばんはー、あのー、すみませーん、牧之原先生お連れしましたー」

 父の担当編集者の困り果てた声がマイクから聞こえた。

「あー、また父さんへべれけだな、こりゃ」

「なんで毎回、限界超えて飲んで帰ってくるかなあ……もう」

 兄と妹は顔を見合わせると、肩をすくめて立ち上がり、玄関へと向かった。

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