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第74話

「はい、お疲れ様。じゃあいまからパート分けするから、順番に一人ずつ前に出て歌って」

 全員での発声練習が終わり、グランドピアノの側に伴奏担当の少女が座ると、狩野はそのすぐそばに立って、からりと明るい声で三年生から順番に名前を呼ぶ。


(うああ、昔やったな、これ……)

 自分はどう転んでもソプラノにしかならないのはわかっているが、アルトにパート分けされた生徒は、心なしか――というよりは、ほぼ八割方がっかりしている。

(中学の頃、ソプラノやりたかったのにアルトになった先輩に、毎日もんのすごいネチネチ嫌味言われたっけ……)

 嫌な記憶が蘇り、くるみの心はうっすらと曇った。

(アルトだって大事なパートなのになあ。確かにソプラノは主旋律歌うことが多いから、音を拾うのが楽だし、それなり華もあるけど、アルトがないとハーモニーが成り立たないよ)

 今だったらそう言い返せるのに、と小さなため息をつく。が、すぐに、

(いやいや、言い返したら倍返しされるって。軽音楽部とは違うんだから。……)

 そう思ってしまって、心細さに胸が詰まった。


(……あんなに先輩と気楽に話せる部活って、きっと他にはないよね)

 ここからはどう頑張っても見えない、西棟の四階の隅っこの部室を思い出して、くるみは大きな窓ガラスの外に目をやる。

 バドミントン部がサーブ練習をしている後ろに、東棟の一階と渡り廊下の奥、中庭が見える。

(……中庭ライブ、みんなと一緒に歌いたかったな……)

 去年のライブで感じた胸の高鳴りと痺れるような興奮を思い出し、彼女は唇を噛んだ。


 あれからもう一週間以上、祐華とミチルとは話をしていない。

 太陽と隆玄の姿も見ていないし、一年生たちとすれ違うこともない。

 その間、個別にもグループにも上級生たちからもチャットでメッセージは届いていたが、読む気力も起きなくなってしまったくるみはそれをミュートして、アプリをホーム画面から別の場所に移して通知を切ってしまっていた。

(あの子に連絡先、教えてなくてよかった。教えてたらきっと、とんでもないことになってた)

 隆玄がうっかりしていたのか、はたまた故意か、グループチャットの作り直しをしていなかったため、緑郎にチャットのアカウントを教えていなかったことだけは幸いだった。

(行き会うことがないだけ、ここにいる方が全然マシなんだけど……帰りたいな……)

 誰よりも話をしたい人の顔が浮かんで、ずきりと身体の芯が痛くなる。


(先生……)

 出欠をとるときも、彼を見つめていたくて選択した歴史の授業も、くるみは興津の姿を見てしまわないようにずっと下を向いている。

(……これでいいんだ。わたしが側にいたら、先生に迷惑がかかる。もう話しかけちゃだめ)

 自分で決めたことなのに、そのあまりの苦しさに唇を噛んだ時、

「次はー……牧之原さん、前出て」

「あ、はい……」

 狩野に呼ばれ、くるみは現実味を感じない足取りでピアノの側に立った。


「……あいつ、来ないな。まあ、来ても困るんだけどさ……」

「そのテレキャス、どうすんだろうねぇ」

 スタンドに立てかけられたままの、軽く弦を緩めた緑郎のテレキャスターを眺めて、太陽と隆玄は困り顔を見合わせる。


 先週の金曜日、いつ緑郎が来るかと身構えていた部員と興津の前に、彼は結局現れることはなかった。

 気になった興津がサッカー部の顧問に来ていないか聞いてみたが、彼はそちらにも姿を見せていないという。

 とりあえず楽器だけでも返さなければと思いつつ、しかし誰もが何となくそれに触れるのをためらって、彼のテレキャスターはひっそりと部室の隅に佇んでいる。


「……そろそろ取りに来てもらわんと困るねぇ、いつまでも置いとけないし」

「翔琉くんに頼んでみようか、同じ寮だろ」

「いや、揉め事押し付けるのはかわいそうだ。もうちょっとだけ待とう」

 そう言う隆玄の、この頃ため息しかつかない横顔を見て、

(……りゅーげん、痩せたな……)

 頬がこけ、目元がやや落ちくぼんでしまっている気がして、太陽は彼の身体を案じた。


「……エレアコ、いい加減バッグにしまいましょっか」

 自分のベースのチューニングを済ませると、祐華はそう言って立ち上がり、先週からずっとスタンドに立てっぱなしだった、クリーム色のレフトハンドモデルのエレアコを手に取る。

「そうですね……」

 寂しそうにミチルが笑って、後ろ側の机に置いてあったくるみのギグバッグを取りに行く。

(くるみちゃん、もう、ここには来ないのかもしれない……)

 やっと左利き用で気に入った色を見つけた、と、楽器屋で無邪気にはしゃいでいたくるみの姿を思い出して滲んだ涙を、彼女はぐっと堪えた。


 同じクラスなうえ、席も前と後ろだというのに、話しかけられる雰囲気ではないくるみに声をかけることも出来ないまま、祐華はその週の金曜日を迎えてしまった。

 それはミチルも同じで、先週の土曜日、もしかして来ていないかと一緒に覗いたくるみの靴箱が空だった時の落胆は、今まで一緒に育てていた美しい花が無残に摘み取られてしまったような痛みを伴って、二人の心に同時に暗い影を落とした。

 個別チャットでメッセージを送っても既読すらつかず、それは二人に彼女が心に負った傷の大きさと深さを思い知らせる。

 海辺の砂の城が波で削られて消えていくように、くるみと過ごした毎日が遠くなっていく寂しさに、祐華もミチルも怯えた。

 せめてくるみが同じ気持ちでいてくれることだけを願って、二人は過ごしていた。


 ミチルと一緒にギグバッグの中にエレアコを丁寧に収めると、祐華はそれを部室の隅の日の当たらない場所まで持って行って、幅を調節したスタンドにバッグごともう一度立てかける。

(……なんだか、お葬式みたい)

 棺に遺体を収めて埋葬しているような心持になって、祐華は本当に泣いてしまわないように、きゅっと唇を結んだ。


 その様子を見ていた興津が、

「……教頭先生にお願いして、壁にフックを付けられないか検討したほうがいいな。その方が、ケースのまま置いておくより楽器が痛みにくいし、授業中もここに置けるから安心だろう」

 そんなことを言って、自分の膝に乗っているバイオリンベースを撫でた。


 興津もクラス担任だというのに、緑郎がくるみに投げつけた破廉恥な言葉に呼び起こされる後ろめたさにどうしても惑わされてしまい、彼女に話をする機会を逸したままだった。

 というよりも、くるみの方が興津を避けているそぶりがあるおかげで、どうしても声をかけづらい気持ちになってしまうのだった。

 心を鬼にして、仕事だから、と無理矢理に話を聞くことは、いくらでもやろうと思えばできる。しかし、くるみにだけはそんな乱暴な真似はしたくなかった。

 そんなことをしてしまえば、本当に彼女は手の届かないところに行ってしまうという恐怖が、彼の教師としての責任感を磨り潰してしまうのだった。


(……『イエスタデイ』だな、まるで)

 ついこの間まで、抱きしめ合い、囁き合って、時には彼女からくちづけを受けるほど近かった距離は、加速度をつけて遠ざかる彗星と恒星のように感じられる。

(ずっと一緒にいるって約束、守れなくなるかもしれないな)

 話し合いの結果次第では失職するだろうと思うと、やはりどうしても怖くて提出できないままでいる相続放棄の書類が意識にちらついて、自分の弱さに嫌気がさす。

 前にも同じように、仕事を辞める覚悟でいたときのことを思い出し、彼はため息をついた。

(あの時はまだ、僕たちは……いや、僕は、こんな想いを抱えてはいなかったから、君と離れてもまた独りで歩いて行けただろう。だけど、今は……)

 こんな気持ちのまま東京に行っても、きっと生きてはいけないだろうという確信が胸を刺す。

 誰にもほどけない固い結び目だと思っていた二人の絆の、片側の紐だけが手品よろしくするりと抜けて、どこかに飛んで行ってしまうような寂しさが、日に日に彼を追い詰める。

(……話が出来ていないのなんて、ほんの一週間なのに、もう一か月……いや、それ以上何も出来てない気がする。こんなことじゃいけないのに……)

 細い肩に手をかけて、振り向かせてしまおうかと何度も考えた。

 しかし、彼女がそれを振り払って逃げてしまう気がして、そうしていつもためらっている間にくるみは姿を消してしまう。

(何やってんだ、僕は。自分の感情を優先して、仕事もまともにできないなんて。……やっぱり、僕は教師に向いてないのかもな……本当に、東京で働くほうがましな気がする)

 ここのところ毎日堂々巡りになる考えに、めまいと吐き気がする。

(このまま何も言えずに、立ち消えになるのが、僕たちの運命なのかもしれない)

 せめて話し合いの後、最後に彼女と別れの挨拶だけでもできればそれでいい、そしてその時に、自分がいなくなった後の彼女の幸せを願えるように、気持ちの整理をしなければ、と考えては、彼は自分の目に映る世界が、次第に光を失うのを感じていた。


 膝の上のバイオリンベースを、もう一度撫でる。

(君と初めて会った時、僕はこれを持っていたね、くるみ。……覚えているかな……)

 思い出に縋りたくて持ち出したチョコレート色のボディは、ひんやりと冷たい。

(チョコレート……そんな『魔法』も、君がかけてくれたね)

 幼い頃の心の傷を、可愛らしい『おまじない』で治してくれた、優しい微笑みを思い出す。

 懐かしさと愛しさでうっかり泣いてしまわないように、彼は一つ咳払いをしてから、いつもよりずっと暗い気がする部室の中を眺める。

「……フックをつけるなら、どの辺がいいかな」

 彼はそう独り言ちて立ち上がると、バイオリンベースを持ったままその場所を検分しはじめた。


 部活動の時間が終わり、興津が職員室に戻ると、教頭の瀬戸俊太郎と教務主任の藁科秀幸が何やら話し込んでいるのが目に入った。

「お疲れ様です」

 遠慮がちに声をかけてから、今日こそは九時前に帰ることを心に誓いつつ、自分のデスクの後ろに置いたスタンドにギグバッグを慎重に立てかけ、椅子に座ってノートパソコンを開こうとしたとき、

「あ、ちょうどいいところに来た、興津君」

 藁科に呼び止められて、彼はその動作を取りやめ、二人の方を見る。

「仕事の前に悪りぃっけねぇ。どうしても今日話がしたいっちゅうだけぇ、ちぃっと聞いてやってもらえんかや?」

 瀬戸の言葉と共に藁科が興津の方を向いて、その巨躯の影になっていた人物の姿が目に入る。


「未角……!」

 言いたいことが脳内を駆け巡りすぎて、興津は混乱する。

 その彼に少年は、神妙な面持ちで頭を下げた。

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