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第73話

「あ、あの、やめるも何も、まだわたし何もしゃべってないんですけど!?」

「ははは、今ここで退部届と入部届を書けなんて無茶は言わないよ、まずは仮入部だ」


 八角形の講堂の中、半ば連行されるようにして合唱部の練習に放り込まれた牧之原くるみは、目の前のパイプ椅子に座る顧問の狩野一郎に大慌てで抗議する。

(そ、そりゃ軽音楽部やめるつもりでいたけど、ちょっとみんなのこと避けただけでそこまで話進む!? この先生もやばい系!?)

 今まで教師から散々な目に合うことが多かっただけに、くるみは狩野を目一杯警戒する。

 しかし、

「まあ、どうやらその様子だと、うちの部員が少し早とちりしたっぽいね、ごめんごめん」

 そう言って人懐こい笑顔で詫びた彼の言葉に、ほんの少しだけその警戒心を解いた。


「新入生歓迎会で歌っている君を見てね、とても楽しそうでいいなと思ったんだ。声ももちろんだけど、歌うことが好きでたまらないという印象を受けた。歌詞の内容がとてもエモーショナルに伝わってきたし、君には才能を感じるよ」

 狩野は下心のない声色でくるみを褒めそやす。

「ど、どうも、……恐れ入ります……」

 それでもなんとなく、その言葉を素直に受け取ることはできない気がして、くるみは半歩下がって礼を述べた。

 彼は笑顔を絶やすことなく話を続ける。

「その君の才能を、我々と一緒に活かしてほしい。今年度、うちの部は初めて合唱コンクールに挑戦するんだ。まあ、腕試しみたいなものだと言ってしまえば、結果はさておき、とはなるんだけれど、やるからにはやっぱりいい成績を残したい。そのために今、僕が学生時代に経験したことを元にして、実力の底上げを行っているんだよ。君みたいに歌が上手な子が入部すれば、他の部員にとてもいい刺激になる。是非前向きに考えてくれ。ほんとうに軽音楽部をやめる気ならば、今日からでもこちらに籍を移してほしいくらいだ。選曲によってはソロも任せたいと考えているよ、今日から一緒に頑張ろう」


 熱く語る狩野の気迫に圧され、くるみは返答もできない。

 その沈黙を了承だと受け取った狩野は、

「じゃあ、早速発声練習と譜読みをしようか。……はーい、みんな時間だから集合! 今日から仮入部の子がいるから紹介するよー!」

 朗らかにそう言って立ち上がりながら、手を叩いて部員を呼び集めた。


「……未角はそんな事を言っていたのか」

 窓の外にはちみつ色の夕暮れが映る軽音楽部の部室の中、顧問の興津大地は、内心冷や汗をかきながら、部長の伊東隆玄の話を聞いた。

「……すみません、黙ってて。出来れば聞かせたくないと思ったんすけど、……そうも言ってられないっぽいっすね」

 自身が口にした言葉の後味の悪さに顔をしかめながら、隆玄はため息をついた。

「まさか、話し合いすることになったなんて……」

 藤枝祐華が心配そうに声を上げる。

「このままの内容をお話してしまわれては、先生のお立場が……」

 祐華の隣で、菊川ミチルが興津を見上げて眉根を寄せる。

「かと言って、嘘つくこともできないし……どうしたらいいんだ……」

 その後ろで腕を組みつつ、まったく妙案が浮かばない島田太陽が頭を垂れた。


 興津とくるみが密かに交際している――そこまでは見抜けなかったため、くるみの片想いということにはなっていたが――それを知った新入部員の未角緑郎は、彼女に横恋慕するあまりに、まるで興津とくるみが性的な関係を持ったかのような罵声を部員たちの前で浴びせ、それにショックを受けたくるみは、昨日から軽音楽部に関わるすべてのものと急速に距離を置いていた。

 その件に関して、そもそもの原因であるくるみに対する緑郎の執拗なつきまといを解決するための話し合いが近々持たれることになったのだが、そのために緑郎が彼女に言ったことを把握しようとしたところ、内容が興津との関係に大いに誤解を招く悪口雑言だったため、彼はすっかり途方に暮れてしまった。

 もちろん、最後の一線を越えないという意味では潔白ではあるのだが、くるみから不意打ちで寄越される髪や耳へのキスと、二人きりになったときにハグを交わし合うことについて知られでもしたら、申し開きのしようがない。

 ゆえに、こういった話が出てきた時点で興津の立場は一気に厳しくなる。

 手を繋いだだけでも懲戒免職になる公立高校の同業者のニュースを見るたびに肝を冷やしていた彼にとって、この状態はすでに教員として死刑を宣告されたようなものだった。


「……くるみ先輩も先生も、何もしてないのに、なんであんな言い方するの……」

 隆玄の妹の紗雪が、兄そっくりの表情で不愉快そうにため息をつく。

「ほんとうにいい迷惑だよ、事実無根なのに疑われるようなこと言われて」

 紗雪の幼馴染の舞阪敦哉が、まるで我が事のように憤りながら、苦虫を噛み潰したような顔でつぶやく。

「証拠がなければノーダメだとは思いたいけども……うまいこと言いくるめられないかなあ」

 大好きなTRPG動画に出てくるスキルに例えつつ、森翔琉は敦哉の隣で思案を巡らせる。

「アニメだったらこういう時、ハイパー権力を持つ生徒会とか理事長なんかが出てきて、超法規的措置でお咎めなし~とかやるんすけど、これはリアルっすからね……」

 二次元のようにいかない現実に、掛川凛子が整った顔を歪めて臍を噛む。

「一番いいのは話し合いがなくなることなんだけれど、そうもいかないよね……」

 すっかり困り果てた松崎ソフィアが、乱れたシニヨンを揺らしてうつむいた。


「……みんな、そんなに心配しなくて大丈夫だよ」

 部員たちは興津の声に、一斉にそちらを見る。

「そもそも、誤解されるような態度をとっていた私に責任があるんだ。それは私が改めないといけないし、ちゃんと責を負わなければいけない。……未角の目から見て、私は牧之原に少し、目をかけすぎていたかもしれないね」

「そんなことないですよ、あいつが勝手に嫉妬して、あることないこと言っただけですって」

「そうですよ! 自分、あいつがくるみ先輩にあんなこと言うまでわかんなかったです!」

 敦哉と凛子の言葉に、興津は首を横に振る。

「いや、そういう話が出てしまった時点で、私は仕事がきちんとできていなかったということになるんだ。……大人の世界は過程や事情は汲まない。結果が全てなんだよ」

「でも……」

「しょんないよ。仕事というのはそういうものなんだ」

 まだ何か言いたそうだった紗雪の言葉を遮って、興津は笑顔でため息をつく。

「……時間だし、今日はここまでにしようか。みんな、話し合いが出来なくて申し訳ないね」

 彼のひと言に部員たちは顔を見合わせ、この場で自分たちに出来ることが何もないのを悟り、ぱらぱらと楽器を片付け始めた。


 持ってきたはいいが、今日は一度も弾くことのなかったベースをギグバッグにしまい、仕事用のカバンを持つ手と反対側の左肩に背負うと、興津はからっぽの廊下に出て部室の鍵を閉める。

(いっそ、教師を辞めてしまって、東京のあの人たちの下で働いたほうがいいのかもしれない)

 ふと、一月前に自分を訪ねてきた、音信不通だった母方の親戚のことが頭をよぎる。

 顔も声も知らない祖父が遺した会社を継いでほしい、と嘘のような話を持ち掛けてきたとき、素直にはいと言っておけば、くるみをここまで苦しめることはなかったのかもしれないと思うと、彼は今になってそれを断ってしまったことを深く後悔していた。

(相続放棄の書類、まだ提出できてないし、名刺も残ってる。……この街を離れる、ちょうどいい機会なのかもしれない。くるみの気持ちを受け入れてしまった時点で、僕は教師に向いてないんだから)

 孤独から解放されたい一心で、自分を抱いて甘やかしてくれた彼女の胸に縋りついてしまった、あの合宿の日の真夜中に、すべての終わりが詰まっていたのだと今では思う。

(いや、くるみを好きになったことに、……あの子を愛していることに、一切後悔はない。それだけは間違いない。……でも、東京に行ってしまえば……もう、くるみの側にはいられないのか)

 そう思った瞬間、ずき、と身体の芯を刺すような痛みを覚え、彼はそれを真正面から受け止めるためにうつむいて、胸に手を当てた。

(ちゃんと大人を演じて、教師の立場にいればよかったんだ。あの子の気持ちを拒まなかった僕が悪い。でも、……拒めなかった……あそこでくるみの手を離してしまったら、もう二度と掴めない気がして、……何があっても、一緒にいたいって思ってしまったんだ)

 閉じた目の縁に、じわりと涙がにじむ。

(僕の心に足りなかったものは、くるみの存在だけで全部埋まってる。あの日までは音楽でさえ、僕を満たしてはくれなかったのに、くるみが笑って、頭を撫でてくれて、抱きしめてくれて……それだけで、胸の奥にずっとつかえてたものが、消えてくのがわかった……辛いことばかりだったけど、やっと幸せになれたって、本当に、心の底からそう思えたんだ)

 それを思い出しただけで、ふわりと心が温かくなったような気がして、そしてもうその感覚が永遠に訪れることはないのかもしれないという予感が苦しくて、彼の喉の奥から不意に嗚咽が零れだす。

 毎日整えることをようやくためらわなくなった口髭ごと声を手で抑え、せめて廊下に響かないように無理矢理飲み込む。

(くるみ……嫌だ、離ればなれになんてなりたくない。ずっと一緒にいたいんだ。僕を君の側に、死ぬまで置いてほしいんだ。歳も立場も関係ない、僕は君じゃないとだめなんだ……!)

 身体と心で爆ぜた想いは、閉じた目の縁から溢れ零れて、ぱたぱたと足元に不揃いな水玉模様を描く。

 下校時刻の本鈴が鳴り終わるまで、興津は部室の前にひとり佇み、幼い子供が泣くのを堪えるような仕草で涙を流し続けた。


「……チッ」

 夕食が済み、風呂から上がった今になっても、耳の奥に残って頭の中で響き続ける、荒々しい演奏と合唱で聴かされた幼児向けアニメの主題歌が鬱陶しくて、緑郎は学生寮のベッドの上で舌打ちをする。

「うるっせえな、俺が何しようと勝手だろ! 欲しいもん手に入れようとして何が悪いんだ!」

 ひとりごとでその耳鳴りのような歌声が消えないかと思い、結構な大きさの声を出すと、隣の部屋から壁を叩かれて緑郎は首をすくめる。

「……ったく、どいつもこいつも……」

 やり場のない苛立ちをどうにかしたくて、しかしどうにもならず、彼はまだ手をつけていない宿題が鎮座している机の前の椅子に腰かける。

 全くやる気がわかないそれを見たくなくて目を閉じると、まだ鳴りやまない歌の歌詞と一緒に、物心つくかつかないかの頃、いつも見ていたキャラクターたちの姿が突然頭の中に溢れ出し、緑郎は慌てて目を開けた。

「……何だよ、今の」

 目を開けるよりカラフルだった、瞼の裏の景色にどきりとして、彼は息が上がってしまう。

「……」

 そのまま鼓動は妙な速さで彼を急かすように、机の端で畳まれているノートパソコンへと意識を向かわせる。

 数学と英語の問題集を押しのけてそれを広げ、

「いっぺん本物聴きゃ、消えっかな……」

 検索窓にそのままタイトルを打ち込み、出てきた動画のサムネイルをいくつか眺めた後、引き出しから出したイヤフォンを差し込んで耳につけてから、いちばん時間の短いものをクリックした。


(……ああ……)

 耳から流れ込む優しく明るい歌声に身体の力が抜け、今の家とは違う、本当に小さい頃に暮らしていた、古いアパートの一室が眼前に浮かぶ。

(懐かしいな)

 もう卒業して久しい、幼い子供のためのアニメソングの歌詞が、また深々と心に刺さっていく。

(そうだっけ、俺、昔は……)


 二つか三つの頃、午前中におやつを食べながらこのアニメを見た後、近所の公園へ散歩に出かけ、母が転がしてくれる小さなピンクのボールを蹴って遊ぶのが緑郎の日課だった。

 ただ蹴り返すだけで褒めてくれるのが嬉しくて、何度も何度もそれをねだった。

 幼稚園に上がってからも、友達や先生と、やわらかいボールを園庭で蹴飛ばして遊びながら、すぐそばにある大きな湖を渡ってくる風を感じるのが大好きだった。

 自分がボールを蹴ってみせるたびに、誰もが褒めてくれた。

 もっと褒めてほしくて、ただひたすら前へ、前へとボールを蹴って、靴で砂の上に描いたゴールにシュートするたびに、心が騒いだ。

 小学校の昼休みにルールのない無茶苦茶なサッカーで遊ぶのが、たまらなく面白かった。


(……やっぱ、俺、サッカー好きだわ。サッカーするために生まれてきたって思うもんな)

 三つ子の魂百までってこういうことか、と緑郎は心の中で独り言つ。

(そうだよな。当たり前だ、俺はサッカーやりたくて聖漣受けたんだから)

 実家から遠い、県の真ん中に位置するこの街の高校に、わざわざやってきた理由を忘れていたことに気が付き、緑郎は笑い出しそうになりつつも、笑えない現状にすぐそれを中断した。

(……悔しいけど、あいつの言う通りだ。俺、本当に何やってんだろうな)

 放課後、開口一番で興津に叱られたときの記憶が蘇り、彼は小さく舌打ちした。


 そしてふと、ひとつのことに思い当る。

(……俺、親父と母さんに褒められるのが嬉しかった。でも、……親父が転職して、住む家も学校も変わって、それまでの友達も周りから消えて、……それから、誰にも褒められなくなった……)

 降って湧いた孤独感と、楽し気なマーチのメロディの中に潜む、ナイフのように鋭い歌詞に刺激され、緑郎の涙腺は緩んだ。


 今思えば、収入がおそらく一桁変わったのだろうというほどの生活様式の変化に、まだ小学生だった緑郎は上手くなじめなかった。

 辛さと寂しさを埋めるために必死でサッカーにのめり込むうち、ただ気楽に楽しく遊びたい同級生とは溝が出来て、緑郎は友達がいなくなった。

 やがてある日、自分の両親が何か月も会話をしていないことに気が付いた。

 家政婦やシッターに彼を任せきりにして、何かの鬱憤を晴らすかのように旅行ばかりになって家を空けることが増えた母と、仕事でずっとパソコンの前から離れない父。

 まるで自分が二人の生活の邪魔者になったような気がして、緑郎は小遣いをねだるとき以外、二人には話しかけなくなった。

 サッカー少年団に入っても、二人が試合を見に来てくれることは終ぞなく、送り迎えにも手伝いにも来ない彼とその両親に、他の子供の親は決して良い顔をしなかった。

 せめて監督に褒められたくて、必死でボールを前に蹴っても、「チームの輪を乱すな」と叱られてばかりになった。

 それでも、やっぱり前に蹴ることしか緑郎には褒めてもらう手段が思いつかず、ただ得点を入れることだけを目指して、前に前にボールを蹴り続けた。

 後ろで自分を呼ぶチームメイトの声を聞こうという気持ちの余裕もないほど、誰かに褒めてもらいたくて、認めてほしくて、必死だった。

(……俺について来れないみんなが悪いんだ。仕方ないだろ、褒められるためには点を取りに行って、勝たないといけないんだから)

 自分が点を入れたおかげで優勝した時の記憶を思い出し、彼は慌てて自身を正当化した。


 中学生になったとき、周りの環境は悪い方に変わった。

 元々サッカーの盛んな地域に住んではいたが、腐るほどの数のサッカー部員の半分以上は『モテたい』という理由でのみ入部してきた人間で、同じ学年で真面目に練習する者の数は両の手で足りるほどだった。

 それでも、褒められるために誰よりも上手くなりたくて、緑郎が黙々と練習をしている間に、周りの部員たちは少しずつ自分を差し置いていかがわしい遊びを覚え、次々と『大人』になっていった。

 それをある日、同級生に勝ち誇ったように自慢され、焦った緑郎も、サッカー部というだけで喰いついてきた、たいして好きでもない女子生徒と『そういうこと』を済ませた。

 一度火がついてしまえばそれは止められなかった。

 何度も練習をサボって、部室や教室で複数の女子生徒とそれを繰り返すうちに、バレたらどうなるかというスリルも相まって、病気になったように彼は『遊び』に興じた。

 脳髄まで毒が回って、だんだん自分の根っこが崩れていくような恐怖に脅え、そのたびに同じことを繰り返す――そんな負のループから抜け出せないまま、やがて受験を迎えた。


 両親に褒めてもらうのは、これがラストチャンスだという予感があった。

 スポーツ特待を狙って、専願で聖漣高校を受験したが、推薦には受かったものの特待枠からは漏れた。

 代わりに選ばれたのは、『そういうこと』とは全く無縁だった、ボランチの少年だった。

 自信があっただけに、足元をすくわれた気分だった。

 こんなことなら、『遊び』にうつつを抜かしている時間を練習にあてればよかった、と何日も後悔した。

 結局、合格祝いに父の名前で多額の現金が自分の口座に振り込まれる以上のことはなかった。

 入学式に来た母も、手続きだけ済ませてさっさと緑郎の前から姿を消した。

 自分に向かって優しい笑顔でボールを転がしてくれたあの人は、もう死んだのだと思うことにした。


 そして、次の日の軽音楽部のステージで歌い跳ねるくるみに、彼は優しかった頃の母の面影を――彼女の中にある、深く広い『母性』を見てしまったのだ。

 彼女なら自分を受け入れて、母の代わりに褒めてくれるはずだという理由のない確信と、年頃の女子だったら、『そういうこと』にも興味津々だろうという思い込みに任せ、これまでのようにすべてが簡単に手に入るだろうという自信をもって、怯えるその顔にさえ引き寄せられるかのように追いかけた。

 だが、彼を待っていたのは、かたくなに自分を拒む彼女と、その彼女をおそらく教師という距離以上の近さで守る、一人の大人の男――


 気が付いたときには、緑郎の顔は滂沱の涙と鼻水でずぶ濡れになっていた。

「な、なんだ……俺、何やってんだよ……!」

 ベッドサイドから慌ててティッシュを数枚つかみ取り、涙を拭いてから鼻をかんで丸め、すぐそばのゴミ箱に放り投げる。

(……くそっ!)

 恥ずかしくなって思わずパソコンを叩きそうになるが、緑郎はすんでのところでそれを止めた。

(あっぶね)

 いつの間にかエンディングを経て、劇中歌に移っていた動画の再生を止め、フラップを閉じてイヤフォンを耳から外し、彼は大きなため息をついた。


 こんなに泣いたのは、小学生の時、試合で負けて以来かも知れない。

 流した涙の分だけ軽くなった心の、その奥に潜んでいたもの――『寂しさ』と、緑郎はいま、初めてきちんと向き合った気がした。

(ずっと父さんに認めてほしかった。母さんにもう一度、褒めてほしかった。中学で女遊びしたのだって、悪いことしたのがバレて、叱られたかったから……)

 狭いアパートで川の字になって寝ていた頃を思い出して、また涙があふれ始める。

(帰りたい……あの家で、もっとたくさん話をしてみたかった……父さん、母さん、俺、金なんて要らない。ちゃんと俺を見て。昔みたいに笑って、話しかけてよ……)

 また壁を殴られたりしないように、緑郎は声を殺して泣きながら、ベッドにうつ伏して枕に顔を埋めた。


 ややあって、涙はようやく止まり、緑郎は枕から顔を離して盛大なため息をつく。

(……話し合い、二人とも来るのかな)

 きっと父は来ない。母もなんだかんだと理由をつけて、逃げるかもしれない。

(来なかったらその時はその時だ。そうしたら、俺の方からあんな親、見放してやる)

 そこから先のことは全く考えず、緑郎は鼻水をすすって腹を括る。

 そして、もう一つ大事なことに思い当る。

(くるみ先輩と興津先生に謝らないと。許してもらうとかじゃない、俺の中でけじめをつけたい……でも、部室に俺がいるってわかったら、先輩はもう来ないかもしれない。先生にもまた、サッカー部に行けって言われるかもしれない。どうやって謝ればいいんだろう……)

 そこまで考えて、結局、自分本位な考えに嫌気がさすと同時に、ひとつの恐ろしい現実にぶち当たって真っ青になった。

(……俺、あの時、なんてこと言っちゃったんだ……! もしも話し合いで、俺が言ったことをそのまま他の先生や先輩のお父さんに話したら、興津先生だけじゃなくて、くるみ先輩も、間違いなく俺もこの学校にいられなくなる。……ああもう、ほんとになんてことしたんだよ、俺! マジでサッカー以外は馬鹿でどうしようもねえな!!)

 どんなに反省してみても、一度言ってしまった言葉は、もう引っ込めようがない。

 ベッドの上で頭を抱える緑郎は、人生最大の後悔に襲われていた。

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