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第68話

「すごいわね、森くん。この筋トレに耐えられなくて入部やめた子、たくさんいるのに」

「いやあ、こんなの全然。サッカー部の基礎トレに比べたら何でもないですよ」

 祐華に褒められて、翔琉は人懐っこい笑みを浮かべる。

「じゃあ、みんなよくストレッチしてね。お疲れ様」

 くるみも身体を大きく伸ばしながらそう言うと、スカートの下のジャージを脱ごうとして、

(……やめた、今日は家までこの格好でいよう)

 緑郎の視線を感じた気がしてその動作を取りやめ、スタンドに立てかけてあったエレアコのチューニングをしようと、自分の荷物の置いてある方に向かった。

(もう、これから毎日、部活の間はジャージかハーフパンツ履いてようかな……)

 何かの拍子に、大嫌いな男にスカートの中が見えてしまったら、と考えると、それがいちばん正解な気がする。

 その一方で、

(先生になら、見えちゃってもいいんだけど)

 昨日のまんざらでもなさそうな興津の顔を思い出し、ベースのチューニングをしている彼の方を見て微笑む。

 その気配に気が付いたのか、彼女と目が合った彼はいつものように優しい笑みを浮かべる。

(……脚、もっと触りたかったな)

 キスした唇に触れた脛のひんやりした感触を思い出してくるみは頬を染め、小さな声をたてて笑った。


「それにしてもさぁ、紗雪もあっちゃんもこの筋トレによくついて来れるなぁ。俺、最初の内は筋肉痛がひどくて、四、五日ドラム叩くのキツかったよ?」

「……吹奏楽部でも似たようなこと、やってたから。走り込みもあったし……」

 兄の言葉に、淡々と紗雪が答える。

「管楽器は腹式呼吸が重要だからって、一年の時はロングトーンばっかやらされてたし、それでインナーマッスルが結構鍛えられたのかもしれないよ」

「なるほどねぇ、それなら科学部でカルメ焼き作ってるよりは筋肉付くよなぁ」

 隆玄は自分の不甲斐なさに肩をすくめる。

「ソフィアさんと凛子さんも、あまり辛そうにはお見受けしませんが、自主トレをされてるんですか?」

 ミチルの質問に、まずうなずいたのはソフィアだった。

「ハイ。アタシもママと一緒にイベントで踊るんで、太らないように気をつけてるんです。それに、ぷよぷよしたお腹の自分より、シックスパック割れてる自分の方が絶対愛せますから」

「えっ、ソフィア氏、まさかの腹筋女子だった!?」

「うそうそ、ゴメン、ちょっと盛った」

 自分の後ろで驚いた凛子に、ソフィアは笑いながら肩をすくめて舌を出す。

「リンちゃんは? なんか鍛えてる系?」

「あ、自分はちょっと特殊な事情がございまして……」

「特殊な事情? なーに?」

 興味深げに自分を見るソフィアと部員たちに、凛子は照れ笑いしながら答える。

「自分、こう見えて一応神社の宮司の娘なもんで、小五の頃から巫女舞とお神楽を舞ってるんですわ。まあ、踊り自体はそんなに筋力必要ないんですが、お神楽と言ったら神様に捧げる舞ということで、ほら、何年か前にアニメが大ヒットした、聖なるダンスと剣で技を繰り出して人間と魔族が戦うバトルマンガがあったじゃないっすか。いやあ、自分、自慢じゃないんすが、あのマンガがアニメになる前から読んでたんっすけどね、あの主人公たちが話の中で修行してムチャクチャ身体鍛えてるじゃないですか。あれのおかげで、あー、自分もそのうち同じことやるんだと思ったもんで、だったら同じように鍛えなくちゃうまく踊れないって思って、早速腕立てとクランチとスクワット始めたんすわ。で、当時はまだ小学生だったもんで、そのうちすっかり自分も主人公側の可愛いのにめっちゃパワー系のハーフエルフの女剣士みたいに身体バチクソ強くして戦う気満々になっちゃって、自分でもどこをどう鍛えれば強くなれるかって研究しだして、そのキャラみたいに全身筋肉質になろうとして自重トレがっつりやったんすよ。まあ結局そのキャラみたいなガチムチな身体にはなれなかったんっすけど、その代わりに巫女舞とお神楽やるときも姿勢がきれいだってすごく褒められてすっかり気を良くしちゃったんですな。で、ちょうどあのマンガがアニメになった時くらいにフィットネスゲームがめっちゃ流行ったじゃないっすか、だからそれ買ってもらってさらに自分を追い込んで、同じ時期にネットで流行ったボディビルダーの日常系アニメも見てモチベあげて、勢いで動画サイトでガチプロのボディビルダーの食事とルーティンもマネして、その甲斐あって自分ではセパレートの水着を着ても恥ずかしくないとこまでは鍛えられた感触はありまして、まあおかげさまでそれが生活の中にしみついて、今に至るといった感じでありますよ」

「あ、そ、そうなんだ……すごいね」

 質問したソフィアが凛子の早口にたじたじになりながら、どうにか笑顔を浮かべる。

「長い……」

 唖然としている紗雪の隣で、敦哉がぼそっとつぶやく。

「へー、掛川さんもあのバトルアニメ見てたんだ、オレも見てたよ」

 圧倒されることなく話題に食いついてきた翔琉に、凛子がぐっとテンションを上げる。

「まじすか! 仲間がいた!」

「うん、弟と妹も大好きでさ、映画やってた時はみんなで三回観に行ったよ」

「おお! わたしもお小遣いが尽きるまで五回ほど観賞しに参りましたぞ! あれはテレビや配信じゃだめっす、絶対映画館に行かないと!」

 はしゃぐ凛子のよく通る声が、興津とくるみの耳にも飛び込んできた。


『映画』という単語に、ベースのチューニングをする手が凍ったように止まり、コーヒー色の瞳が忙しなく動く。

(先生!)

 くるみは自分のエレアコのチューニングを中断し、スタンドに楽器を立てかけると急いで彼の側に寄る。

「……先生」

 くるみに声をかけられて、はっと興津は我に返る。

「牧之原……」

「大丈夫ですか?」

「あ、ああ、……うん、何でもないよ」

 そう言ってくるみを見上げた彼の目は、助けを求めて縋るように彼女の黒い瞳を見つめる。

(側にいるから、安心して。先生)

 彼の心が凪ぐように、かすかに震えている肩にそっと手を置きながら、くるみはありったけの優しい気持ちを詰め込み、微笑んだ。


 数秒の間、また同じ単語がこちらに飛んでこないか、聞き耳を立てる。

 映画の話はとっくに終わり、部員たちが別のアニメの話題で盛り上がっていることを確認して、くるみはほっと息を吐く。

「……なにか、飲み物買ってきましょうか」

「いや、いいよ。大丈夫。……ありがとう、気を遣ってくれて」

 肩に触れた手に、震えは伝わってこない。

(よかった、落ち着いたみたいで)

 程よく筋肉のついた彼の肩を、何回か優しく撫でてからくるみは手を離す。

 二人は顔を見合わせ、そこにお互いがいることに安堵し、ふふっ、と小さく笑った。


「……なんすかあれ」

「何が」

 トレーニングの後、今日こそはチューニングを教えるためにすぐさま緑郎を捕まえた太陽は、そう言われて視線の先を追う。

「くるみ先輩、なんであんな奴と楽しそうに話してるんすか」

 お互いの楽器をチューニングしながら笑顔で会話を交わす興津とくるみに、緑郎はあからさまに嫉妬していた。

「……お前、先生をあんな奴呼ばわりすんなら出てけ」

「……すんませんっした」

 あまりにも不遜な緑郎の態度に腹を立てつつ、太陽は胃が縮むような思いで二人の睦まじい様子を見て、事実だけを述べる。

「先生はいろんなこと知ってるからな。音楽もそうだけど本業は歴史の先生だし、教え方も丁寧でわかりやすい。生徒一人一人をちゃんと尊重してくれるし、俺も話してて楽しいよ」

「……そうっすかね。ヒゲ生やしてカッコつけてるし、俺にはすげー感じ悪いじゃないっすか。いつもくるみ先輩の隣にいるし、マジムカつく」

 もう相手をしたくない気持ちでいっぱいだったが、太陽はどうにか冷静に答える。

「お前に対して厳しいのはお前の行動が原因だ。胸に手を当てて考えろ。それに、お前がいつまでもしつこくするから、先生は顧問として、お前が妙な真似しないように、くるみちゃんをガードしてるんだ。さっさと諦めて練習に集中すれば、そんな些細なこと気にならなくなる。真面目にやれ」

『顧問として』のところに妙な力を入れないよう細心の注意は払ったが、太陽の目から見れば、明言しないだけで既に恋人関係なのだろう二人の姿をできる限り客観的に解説するのは、非常に難しかった。そして、

「俺と話したほうが絶対楽しいのに。あんなヒゲ面のおっさんと話すことなんてあんのかよ、古くせえバンドの話ばっかじゃねえか」

 緑郎は自分を省みて、嫉妬心を抑えられるほど精神が成熟してはいないようだった。


(……あの二人のことだから、万一疑われるようなことがあっても上手く切り抜けるんじゃないかとは思うけれど、目を付けられたことだけはどうにかして教えてあげないとな……)

 自分のギターの1弦の音を合わせ、太陽は動揺を悟られまいと心の中でため息をつく。

(あとでミチルに伝えておこう、そしたら大丈夫だ)

 一年生たちと仲良くアニメソングの話で盛り上がっているツインテールの小さな背中を見て、彼は少しだけほっとする。

(……先生とくるみちゃんには悪いけど、タゲられたのがミチルじゃなくてよかった。きっとどんなに怒っても、タッパがちっちゃいから迫力ないし、この間のくるみちゃんみたいにはっきりものを言い返せないからな。また去年みたいなことがあったらと思うと、気が気じゃないよ)

 入学したての頃に、彼女が中年の男性教師にしつこく付きまとわれていたことを思い出し、太陽の胸はひやりと恐ろしい何かが舞い降りたような感触に襲われる。

(……俺が居なくても大丈夫かなあ……友達がいるとは言っても、やっぱり心配だ)

 卒業してしまえば毎日一緒とはいかなくなることが、今からひどく不安に感じられる。

(俺、東京の大学に行くつもりだけど、ミチルは進路どうするんだろう。お父さんやお母さんに話もしないといけないだろうし、ややこしいことにならないといいんだけどな……ていうか、少なくとも一年間は遠距離かあ、時々は会えるといいな……)

 一年後に感じているはずの寂しさが前倒しでやってきた気がして、ついに堪えきれなくなったため息が彼の口からこぼれた。


「そう、しっかり指を立てて、……そうしたらピックの先で、上から弦を弾く。やってみて」

 興津の指導に、緑郎は嫌そうに顔を歪ませる。

「……指、痛いんすけど、なんとかなんないっすか」

「最初のうちはしょんない。弾いているうちに筋肉がついたり、やわらかくなって自由に動かせるようになる。サッカーだってそうだろう? 今やっているのは、ボールの蹴り方みたいなものだ。少しずつやり方を覚えて、体を慣らしていくしかないよ」

「俺、最初に少年団入ったときからずっとレギュラーでフォワードだったんで、そんな説明されてもわかんないっすね」

 先ほどくるみと楽しげに話していたのを目撃したせいもあるのか、緑郎は昨日以上に興津に対して反抗的だった。

「……まずは今言ったように手を動かしてごらん、じゃないと先に進めないよ。ちゃんと弾けるようになりたいんだろう?」

 最早小さい子供をあやすような心持なのだろう、興津の口調はだんだんと諦めの色を帯びると同時に、高校生に話しかけるものではなくなってくる。

「こーゆーのじゃなくって、初心者でも簡単に弾ける曲とか教えてくれないと困るんすけど」

「その曲を弾くためには基礎が大事だ。階段もいきなり百段目までジャンプなんてできないだろう、焦らないで一段ずつ上りなさい。君はとりあえずギターが手元にあるんだから、音は出さなくてもリズムのとり方やコードの押さえ方は毎日やれるんだし、頑張って」

 励ましの言葉を鬱陶しそうに聞きつつ、緑郎はピックアップの上に赤いピックを走らせ、一度だけCコードのダウンピッキングをすると、

「……痛ってえ……いつまでやるんだよこれ……タイパ悪すぎ」

 出てきた音にたいした関心もなさげに、うんざりした様子でつぶやいた。


(……あんなに楽しくなさそうに楽器弾く人、初めて見た気がする)

 反対側の隅で緑郎と翔琉以外の部員たちと音出しをしながら、くるみは四苦八苦する興津を見ていた。

(やだなあ……わたしの個人的な好き嫌いは置いといて、ああいう態度で部活続けられたんじゃ、楽しい気持ちがなくなっちゃうよ……)

 軽音楽部に入ってからこれまで一度も感じたことのない、純粋な『音楽を楽しみたい』という欲求を邪魔される不愉快さに、彼女は眉根を寄せる。

(……そりゃ、わたしだって軽音楽部に入ったの、先生のこと好きになったからだから、きっかけに関しては強く言えないよ。でも、わたし、先生と話がしたくて、いろんな音楽を聴いた。あの日先生が持ってたベースのことだって調べたし、そこからビートルズにたどり着いたから、お兄ちゃんに話も聞いた。先生が歌った歌を探して、真夜中まで動画サイトを見て……)

 それが『Don’t Stop Me Now』だとわかったときの喜びと、初めての自己紹介でQueenが好きだと聞いたときの、パズルのピースがぴたりとはまったような感覚を、懐かしく思い出す。

(自分が少しでも演奏に入れるようにピアノだって練習したし、自由に歌ってみたら、すごく楽しいことも分かった。お母さんのiPodに入ってた曲のおかげで、家族や先生だけじゃなくて、友達や先輩ともいろんな話ができるようになった。歌詞やメロディに込められた誰かの思いを知ることもできたし、わたしのものの見方や世界を広げてくれた。この世界にあるすべての音楽を聴いてみたくなった。……でも、あの子を見てると、わたしにとって『音楽』は、いろんな人との大事な思い出や繫がりを感じられる、とても大切なものなのに、それを全部踏みにじられてるみたいで、すごく辛い……)

 きっと興津も同じか、それ以上に強い想いを『音楽』に対して持っているはずだ。

彼の人生は『音楽』の上に成り立っていると言っても過言ではないほど、生い立ちから今に至るまで深い結び付きがある。

 その彼が緑郎に何か言い返されるたびに、ほんの一瞬だけではあるが傷ついた顔をすることが、くるみには何よりも許しがたく、悲しいことだった。

(……世の中には、音楽が嫌いな人がいるのはわかってる。それはしょんないけど、音楽が好きな人の前でわざわざ「自分は音楽が嫌いだ」なんて言う必要はないよ……)

 事故のトラウマから、『映画』という言葉に関する一切のことが苦手になってしまった興津が、先程の凛子たちの話に水を差すまいと懸命に動揺を堪えたように、何もアピールすることなく、自分の心の内だけにしまっておけばいいのだ。

(……やっぱりあの子、人として好きになれない。あの態度にどんな事情や理由があったとしても、先生にあんな言い方してる時点で、もうかわいそうだとは思えない)

 結局練習を途中で投げ出し、翔琉にギターを押し付けてスマートフォンをいじり始めた緑郎に、敵意を込めた視線を送ることすら嫌になって、くるみはうつむいた。


 十数秒後だろうか、部員たちはいっせいに翔琉の方を見る。

「えっ……?」

 一切濁りのない音で聴こえてきた『ドレミファソラシド』に、くるみは思わず息をのんだ。

「……森、ギター触ったの、昨日が初めてだったよな? もう音階が弾けるのか」

 興津は天才を見たというような表情で彼を見る。が、

「いやあ、どうしてもコード抑える練習だけでもしたくて、部屋にあったダンボール切って、そこにフレットと弦書き込んで、動画の講座見ながらマネだけやってみたんです。でも触ってみたらやっぱりぜんぜん幅が違いますね、動画よりゆっくりになっちゃった」

 そう言ってにこにこと笑う翔琉に、彼はますます驚いて目を丸くする。

「……テキトー言うなよお前、なんで弾けんだよ」

 緑郎が胸ぐらに掴みかかりそうな勢いで詰め寄るが、翔琉は逃げもせず、にこりと笑った。

「あはは、自分でもびっくりしてるよ。なんかうまくいっちゃった」

「……」

「音が出るのと出ないのとじゃ、やっぱりぜんぜん違うね。当たり前だけどこっちのほうが楽しいな」

 悔しそうな緑郎を尻目にそう言うと翔琉はフレットを押さえる指を変え、Cコードを奏でる。

「あ、よかった、間違って覚えてなくって」

 また指を変えながら、D、G、Am、Emと彼は次々にコードを正確に弾いていく。

「よーし、昨日習ったのと同じ音が出た! 動画見るだけでも覚えられるもんだなあ!」

 無邪気に大喜びする翔琉に、興津は唖然としつつも思わず質問する。

「いや、森、ちゃんと食事して、宿題やって寝たか? 徹夜したり、勉強放ったらかしでやってたりするなら……」

「大丈夫ですよ、先生。ボク食べて寝ないと動けないんで、ちゃんと食事して七時間寝ました。宿題も提出しましたよ」

「そうか、ならいいんだ……」

 去年くるみが真夜中まで起きていたことをまだ気にしているのだろう、彼は翔琉の回答にほっとしたようだった。

「あ、あとギターなんですけれど、父さんに昨日話をしたら、お古を一式譲ってくれるって言ってました。新品じゃないけどいいですか?」

「あ、ああ……ものにもよるけど、……とりあえず、君は現物が手元にあったほうがいいな」

 それまで曇っていた興津の顔は一気に晴れ、目に輝きが戻ってくる。

「よかった、じゃあもう今夜には届くように送ってくれたみたいなんで、明日持ってきます」

 翔琉はわくわくするのを抑えきれない様子でそう言うと、

「緑郎くん、悪いけどもう少し借りててもいい? やっぱダンボールと本物じゃ指の感覚違うからさ、しっかり手を慣らしておきたいんだ」

 返事を待たずに、ちゃっかりとテレキャスターで再びコードを一つずつ丁寧に弾き始める。


「……ダンボールにフレット書くって、普通そんなの思いつくか?」

「怖い子が入ってきたねぇ」

 太陽と隆玄が凄まじいものを見る目で、夢中になってギターを弾き続ける翔琉を見つめる。

「なんだか、くるみちゃんがここで初めて歌ったときのこと思い出しちゃった」

「わたしもです」

「うえっ!? なんでわたし!?」

 あたふたするくるみに、祐華とミチルは二人で顔を見合わせてくすくすと笑う。

「努力の方向が斜め上すぎるっすよ、森くん……」

 凛子がぽかんとしたまま翔琉を見てつぶやく。

「ペレがボールのかわりに新聞紙やスイカでサッカーしてたって話、ママから聞いたけど、それと同じだ……本当に好きなら、道具がなくても工夫しちゃうもんなんだね」

 ソフィアが感心して大きなため息をついた。


(……天才っているんだなあ、俺の周りはそんな人ばっかりだ)

 コントロールをいじって音色を変え、また同じようにコードを弾き始める翔琉から、敦哉は隣で自分と同じように、黙って眼前の光景を見ている紗雪に目線を移す。

(……兄さんも姉さんも、たっちゃんもさゆも、部活の先輩たちも、それに掛川さんと松崎さん、……おまけに森くんまで……)

 手の中にある新品のベースが、ことさら重く感じられる。

(俺って本当に、何も才能がない……勉強だって運動だって、何やっても一番になったことなんかない……野球だって下手だったから、父さんにはずっと嫌み言われて、機嫌悪いと殴られて、……母さんも、俺が何にも取り柄のない奴だから、言いなりになってばっかで助けてくれない……)

 足元が大きな波にさらわれるように、さらさらと心が根本から崩れ落ちるような不安にさらされ、彼はめまいを感じて思わずまぶたを閉じる。

(……誰の期待にも応えられない、俺って存在する価値、あるのかな……)

 ぐっと胸の奥が苦しくなり、息が詰まって、目の奥が熱を持つ。

(駄目だ、泣くな。子供じゃないんだから。いつまでさゆや、たっちゃんに慰めてもらうつもりなんだ。二人の方がずっと大変なのに。……こんなことで傷ついてんじゃねえ、馬鹿野郎、甘ったれんな)


 こみ上げてきそうだったものをぐっと心の底に踏みつけて、敦哉はゆっくりと目を開ける。

 その途端に、こちらを振り向いた興津と目が合い、

「さて、それじゃ森はこのまましばらく自主練してもらうとして……舞阪、昨日の続きをやろうか。チューニングはもうOKかな?」

 彼はそう言って楽しそうに微笑んだ。

「……はい!」

 せめてその笑顔には応えようと、敦哉は正面切って興津の目を見てうなずく。

(俺にだけできることがあればいいのに。ただ一つでいい、たっちゃんや、さゆにもできないこと……)

 昼過ぎに収まってきたばかりの指先のひりひりする痛みと手のこわばりを捨て置いて、敦哉はバッグからシールドを出して差し込むと、興津の待つベースアンプの側に歩いていった。


 自分を置いてけぼりにして盛り上がる部室の空気に緑郎は舌打ちをして、スマートフォンのテレビアプリを立ち上げると、昨夜宿題も睡眠もほったらかしで見ていた、海外のクラブチームの試合をダイジェストでまとめた番組を見始める。

 選手が何かミスをするたびに、自分のほうがうまく立ち回れた、自分だったらこう動いたのに、と思いながら、その度に彼は苛立ちを募らせる。

 やっぱりもう一度見てもその試合は退屈に思えて、今度は別の試合のダイジェストに移動するが、そこでもやはり選手が自分の思った通りの動きをしなくて、出来の悪いゲームの画面を見せられているような気分になる。

(どいつもこいつも使えねえなあ、俺が監督だったらクビにしてるし、オーナーだったらまず監督をクビにしてる)

 プロだろうと地元のサッカークラブや中学校の部活と同じだ、と緑郎は思う。

 それはこの高校についても同じだった。

(俺より上手くボールを扱えるやつなんていないのに、みんな俺のことを見くびりやがって)

 自分についてこないチームメイトや、自分よりも下手くそな先輩と一緒にプレイしなくて済むと思ってこの高校を受験したが、推薦枠に入りはしたものの特待生にはなりそこねたことで、彼のプライドは激しく傷つけられた。

 今頃、特待枠で合格した同じ中学の同級生がグラウンドで何をしているのか、否が応でも気になってしまう。しかし、自分を認めてくれないサッカーチームにいても何も意味はないと思い直して、緑郎はちらとくるみを見やる。

 敦哉にベースを教える興津の隣で、楽しそうに会話をしながら微笑むくるみはやはり可愛い。

 そして、さきほどの太陽の言葉がさらに彼を苛立たせる。

(顧問だからって近すぎなんだよ、離れろクソジジイ)

 気がつくといつもくるみの隣にいる興津を、憎々しい気持ちで睨みつける。

 敦哉を褒めているのか、笑みを浮かべて何かを話しているその顔が、妙に整っていることが気に入らない。自分より頭一つ高い身長も悔しくて仕方ない。

 何より、むしろくるみの方から興津に寄って行っている気配があることが腹立たしい。

(そんなに俺のことが嫌かよ……俺とデートするほうが、絶対こんなとこにいるより楽しいのに。カフェで飯食って、ゲーセンで遊んで、カラオケ行って、それから……ああ、どっかで制服から着替えないとホテルは無理か。寮じゃ壁薄いし、入口に人もいるから、連れ込んでもすぐバレるだろうしな……)

 不躾で破廉恥な妄想を遠慮なくしつつ、ふと緑郎は脳裏にひらめいたものがあって、くるみと興津を交互に見た。


(ひょっとしてくるみ先輩、こいつのこと好きなんじゃないだろうな……?)


 緑郎は改めてくるみの様子を見る。

 興津と話している仕草はいつもと変わりない。

 しかし、二人の自己紹介の文言が今頃になって頭に浮かんできた。

(なんか二人とも、同じバンドが好きだって言ってた気がするな……)

 もしも、くるみが興津と親しく話をするために、自身の趣味を彼に寄せたのだとしたら――


 非常に短絡的な、だが効果がありそうな作戦が頭に浮かぶ。

(……じゃあ、あいつをこの学校から追い出せばいいんだ。そうすれば先輩はあんなヒゲのおっさんなんかじゃなくて、俺の方を見るはずだ)

 緑郎は今日、部室に入ってから初めての笑みを口の端に浮かべる。

(見てろよ、お前のことはばっちり淫行教師に仕立て上げて、二度と表に出られないようにしてやる。くるみ先輩は俺のものだ、お前なんかにやるかよ。地獄に落ちろ、クソジジイ)

 自分とくるみのために、目障りな興津には消えてもらおう。

 存外簡単にそれができることに、緑郎は満足して二人を眺める。

(まあ、せいぜい今のうちにイチャイチャしとけ。先輩の目は俺が醒まさせてやるんだ)


 そこまで考えてほくそ笑むと、

「あ、やっべ、ログボとタダ石」

 彼はテレビアプリを落として、更新時間が近づいた、お気に入りのソーシャルゲームを起動した。

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