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第66話

「……未角、シールドは?」

「え、シールドが何? なんすかそれ、盾? 冒険でも始めるんすか?」

 致し方なくギターの扱いを教え始めたが、半笑いで真面目に話を聞かない緑郎に、興津の声は怒りをはらんでいつもより低くなる。

「……シールドというのは、エレキギターとアンプを繋ぐケーブルのことだ。それがなければ、エレキギターのあの音は出ないぞ」

「えー、店員の奴、そんなこと何も説明しなかったっすよ。んだよ、そういうの必要だったら最初から言えっつーの、クソが」

「……」

 興津は怒りを通り越して、呆れて黙ってしまった。

 彼がどういう買い物の仕方をしたのか、その場にいた全員の頭の中に、だいたい同じ絵が浮かぶ。

 その興津の説明を聞いて、

「へえ、コードとかケーブルって呼ばないで、シールドって言うんですね。なんでそう呼ぶんですか?」

 自分の名前を噛むという、なかなか不思議な失敗をして、みんなの心を少し和らげる自己紹介を済ませ、ぴかぴかの楽器に目を輝かせた翔琉が、全く空気を無視して興味深げに尋ねる。

「……私も調べてみたんだが、詳しい構造を説明するのはちょっと難しいね。簡単に言えば、楽器の電気信号をノイズから守る内部構造になっているケーブルを『シールド・ケーブル』と呼ぶんだ。もっと詳しく電気信号の話を聞きたいなら、物理の先生に聞いたほうがいい。私はそっちの知識はからきしなもんでね」

「なるほど、ありがとうございます。そっかー……」

 素直に理解して感心する翔琉の態度に、興津の表情がふっと和らいだのを見て、少し離れたところで祐華とミチルに守られるようにして座っていたくるみも、少しだけ安心した。

「まあでも、普段はまだるっこしいから、みんなは単に『シールド』と呼んでいるよ。だから、これからは『シールド』と言われたら、ギターとアンプを繋ぐケーブルのことを指していると思いなさい」

「はい、わかりました」

 うなずきながら返事をした翔琉の隣で、緑郎も合点のいった顔をする。

「じゃーつまり、その線がないと弾けないってことか。おい、誰か貸せよ」

「お前……」

 何か太陽が言おうとしたのを、

「あー! あの! 自分予備のシールド持ってるんで! 今日だけお貸ししますわ!」

 凛子が大慌てでそう言って止めると、ギグバッグの中を急いで探し始めた。

「まじで!? お前、オタクの癖に使えるじゃん」

「……そりゃどうも」

 凛子は少しだけかちんときたようだったが、どうにか受け流し、取り出したシールドを緑郎に渡す。

「念のため言っときますけど、踏んだりして壊さないでくださいよ。一応5000円したんで」

「なんだ、安物じゃん」

「……」

 凛子の綺麗な顔が怒りに歪むのを気にも留めず、緑郎はテレキャスターにシールドを挿し込み、スピーカーアンプに近づくと、

「ここに挿すんすよね? えーと、これか」

 手にした反対側のプラグをジャックに近づけた。

「ストップ!」

 興津がそれを慌てて声で制する。

「え、だってここに入れるんでしょ?」

 彼に止められたことが不満そうな緑郎の側に興津が向かうと、翔琉も一緒にアンプの近くに飛んでくる。

「確かにそうだが、その前に毎回ちゃんと、確認しないといけないことがある。……ここ、電源がオフになっていることと、ボリュームとゲインのつまみが全部ゼロになっているかどうか。これは必ず確認しなさい。特に電源が入ったままシールドを抜き差しすると、ポップノイズが起こって、最悪の場合アンプやスピーカーが壊れる。自分で使うものもそうだが、特にこれは、学校のお金で買った部の共用品だ。扱いは充分気を付けてくれ」

「ちっ、めんどくせーな……」

 聞こえよがしに舌打ちしつつ、荒っぽくシールドをぶすりと挿しこむ緑郎にうんざりして深いため息をつきながらも、ふむふむ、と後ろで頷く翔琉を興津はちらと見やって、少しだけ気を取り直した。

「そうだ、チューナーとピックは……」

 緑郎が持っているわけないだろうな、と思いながら、彼は部室を見渡す。

「……あの、ピック、貸します」

 既に興津がかなり疲弊しているのを見て取った紗雪が、そっと手を上げる。

「チューナーの使い方、俺が教えましょうか、先生」

 気を利かせた太陽が、自分のバッグからクリップチューナーを取り出して、興津に聞いた。

 そのとき、ボリュームとゲインを目いっぱいに捻った不協和音がスピーカーから爆音で飛び出し、その場にいた人間全員の耳をつんざく。

 部室の壁を貫通したその音に、廊下の窓の外でばさばさと鳥が羽ばたいて逃げた。


「……いいか、ボリュームを上げていいのは部室では半分までだ。耳を痛めるから、それより大きな音は絶対に出すな。うちの部は特に練習する音がうるさいからこそ、こんな校舎のはずれに部室があるんだ。ご近所だけじゃなくて、隣の工場からもクレームが来たら活動できなくなる。気を付けなさい」

 驚きすぎて目いっぱいに上がってしまった心拍数と呼吸がおさまってから、まだ軽くキーンという不快な音の残る耳を抑えつつ、興津は緑郎を厳しく叱る。

「だからー、そういうの先に言ってもらわないと困るんすよね、俺『初心者』なんで」

「……っ」

 自分で出した音に苛立ちながら耳の穴を指先でほじりつつ、吐き捨てるようにそう言い放った緑郎に、さすがに腹に据えかねた様子の興津を見て、隆玄がずい、と前に出る。

「……未角。お前さぁ、さっきから黙って聞いてりゃ、ぜんぜん人に教わる態度じゃないよな? 先生や先輩の説明に合わせもせんで、勝手なことして周りに迷惑かけてんのはお前だろ? まず、『ごめんなさい』しろよ。……てかさ、この間も太陽に同じこと言われてたっけなぁ、お前。……いい加減にしろよ。どこまで人のこと舐めてんの?」

 話をするうちにしずしずと怒りを滲ませ始めた隆玄の言葉尻が、だんだんきつくなる。

「……別に。舐めてないっすよ……」

 彼の鋭い目線から逃げるように、緑郎は顔を逸らした。

「だったらまず謝れ。……こんな幼稚園児にするような注意、高校生にもなってさせんな」

 腹の底から湧きたつ憤怒をだだ洩れにした隆玄の言葉に、むすっとした緑郎は大きくため息をついて、ストラップを肩から外し、ギターを机の上にごとん、と音を立てながら置く。

「すんませんっした。……俺、もう今日は弾かないんで。そっちの初心者、貸すから勝手に使え」

「ああもう、不貞腐れるなよ……物に当たってもしょんないだろ……」

 その様子を見ていた太陽が、頭を抱えてつぶやき、

「……初心者って、どの口が……」

 立ち去りざまにシールドを踏まれた凛子が、般若のような表情で吐き捨てる。そして、

「あ、いいの? ありがとう、じゃあ遠慮なく借りるよ」

 敢えて空気を読んでいないのか、はたまた元からそんな気はないのか、先の緑郎の発言を聞いた翔琉が嬉しそうにストラップを肩から掛けた。


「……よし、これで全部の弦のチューニングは終わりだ。もしアンプがなくても、こういう『ピエゾ式』っていうタイプのクリップチューナーがあれば、ネックからの振動を感知して音合わせしてくれるから、本当にギターを買うなら一つ持ってたほうがいいよ。あと、できればどの弦はどの音に合わせるか、覚えちゃった方が楽だね」

「はい。ありがとうございます、先輩」

 太陽の言うことをきちんと聞きながらチューニングを終え、礼を言った翔琉は、すっかり腕の中の楽器に夢中になっている。

「……あの子、素直でいいっすね。未角とは大違いだ」

「はは、……みんながああなら、苦労はないんだけどなあ……」

 くるみに大見得を切ったときの勢いはどこへやら、すっかりやる気をなくし、部室の隅の椅子に腰かけ、無表情でスマートフォンのゲームで遊んでいる緑郎を見遣って、隆玄と興津は二人の落差の激しさに苦笑する。

「そう言えば、まだ松崎の姿が見えないが……」

「そうっすね、どうしたのかなぁ。まさか来ないってこともないでしょうけど……」

 集合時刻からすでに三十分以上経過しているが、ソフィアは今だ姿を現さない。

「どうもあの子、だいぶ時間にルーズっぽいですね……これからあの子だけ、集合時間早めに伝えましょうか?」

「それで時間が守れるようになるかなあ」

「ものは試しですよ」

 二人がそう言って顔を見合わせたとき、

「おっはよーございまーす。……あれ? 新入部員?」

 何も悪びれなくソフィアが戸口に現れ、にっ、と歯を見せて笑った。


「はー、なるほどねー。それであそこで地蔵になってるわけかー。アハハ、お子ちゃまー」

 くるみの肩を揉みながら、ひそひそ声でソフィアが緑郎を見て笑う。

「もういい加減、サッカー部でも寮でもどこでもいいからどっか行って欲しいんだけど、あの子が今、ギター借りてるからそうも言えないし……」

 部室の真ん中で、興津と太陽にいくつかコードを教わりながら、楽しそうに指を動かす翔琉を見て、くるみは小さくため息をつく。

「しつこい男は嫌われるって、まーだわかんないのかなー」

「わかってたら初日に振られた時点で来なくなってるってばよ。……ったく、あいつマジでキモい。ストーカーかよ、きっしょ」

 ソフィアの辛辣な物言いに、先程からの恨みをふんだんに混ぜ込んだ呪詛を凛子が返す。

「コーチや監督がこの時間になっても来ないってこんは、匙投げられたんでしょうね……」

 はあ、と祐華が息を吐きながら肩を落とす。

「今は森君がいるから助けられていますけど、みんなの雰囲気を悪くするのは本当にやめさせないと。和を乱す方とはいい演奏なんてできませんもの」

 ミチルがすっかり怒って、腕を組んで緑郎を睨む。

「……やだな、あの人」

 紗雪がくるみと同じく、緑郎の方を見ないようにしながらぼそりと呟く。

「……」

 嫌悪感と諦観のこもった眼で、敦哉が紗雪をかばうようにしながら緑郎を見た。


 やがて、一通りの基礎を興津と太陽に教わり、翔琉は深々と頭を下げる。

「ありがとうございました」

「どういたしまして。楽しかったかな?」

「はい。やってみると面白いですね、いろいろ勉強になります」

 心からそう思っている様子でにっこりと笑う翔琉を見て、興津と太陽も笑顔になる。

「これ、貸してくれてありがとう」

 翔琉は緑郎にそう声をかけると、ストラップを肩から外してテレキャスターをスタンドに立て、今しがた教わった通りに、アンプのボリュームとゲインを下げてからスイッチを切った。

 声をかけられた方はちらりと彼を見ただけで、無言でスマートフォンの画面に目を落とす。

 もはや何も言う気になれなくなった興津と三年生は、緑郎を無視して翔琉の方を見た。


「扱いが随分こなれてたけど、ギターの経験があるのかな?」

「いえ、全然。でも父がギターを演奏するので実家には何本もありますし、テレビで見たりもしますから、なんとなく持ち方や弾き方はわかります」

 自分の質問から、さらに興味深い答えが返ってきて、興津はやっといつもの笑みを浮かべる。

「お父さんが演奏を?」

「はい。父は旅館の支配人なんですが、昔バンドを組んでたんです。今は母や従業員の人たちとバンドの真似事をして、お客様に余興のひとつとして演奏を披露しています。うちの客層がお年を召した方ばかりなので、昔の曲ばっかりですけど」

「へえ、すごいな。ちなみにどんな曲?」

「そうですね、……ベンチャーズとか、ビーチボーイズとか……あとはグループサウンズとフォークソングと、歌謡曲や演歌やビートルズもやってたと思います」

「お、ビートルズか」

 その名を聞いて、興津の表情は瞬く間に明るくなった。

「さぁ来るぞ、先生の十八番」

「森くん、興津先生にビートルズの話振ると、家に帰れなくなるからやめときなよ」

「大丈夫です、ボク、寮なんで」

「「いやいや、そういう意味じゃないって」」

 同時に入った三年生の突っ込みに、先ほどまでの不快な空気が嘘のようにかき消え、部員たちの間に和やかな笑いが起きる。

「じゃあ、小さい頃から楽器に触ったりはしてた?」

「いや、ボクはそういうの才能ないんで、ずっとサッカーやってました。万年補欠でしたけど、すごく楽しくて……」

 期待でいっぱいの興津の問いに、翔琉は恥ずかしそうに頭を掻く。と、

「なんだ、お前サッカーやってたのかよ。じゃあスポーツ推薦か?」

 サッカーという単語に反応したのか、部屋の隅から緑郎が急に声を上げ、会話に混ざり込んできた。

「いや、スポーツじゃないよ、普通の推薦。オレはそういうの無理無理、エンジョイ勢だから」

 興津と三年生が頭を抱えるのをよそに、翔琉はにこにこと屈託なく答える。

「へー……俺、実はサッカー推薦で入学したんだよ」

 そう言って自信満々に立ち上がり、緑郎は翔琉をにやにやしながら見る。

「そうなんだ、すごいな。でもなんで、そんなすごい奴がここにいるんだ? サッカー推薦で入ったんなら、ここでスマホゲーなんかしてたらダメなんじゃない?」

 緑郎の態度に全く動じることなく、翔琉は笑顔で緑郎に正論を突きつけた。

「……いいんだよ。くるみ先輩と付き合うために俺はここに来た。先輩のためにサッカー部入るのやめて、こっちに入ってギター買ったんだ。弾けるようになったら付き合ってもらうって約束でな」

「ふうん、そっか、君も『初心者』なんだね」

 一瞬怯んだ緑郎に、そう相槌を打った翔琉は、続けて不思議そうに質問した。

「じゃあ、なんで真面目に練習しないで、隅っこでスマホなんていじってんの? オレと同じで、これまでサッカーばっかでギター弾いたことないんだよな? せっかく先生も先輩もちゃんと教えてくれてるのに、話聞かないで上手くなれると思ってる? 部長にも先生にも注意されてその態度とか、これ、サッカーだったら、ペナルティでレギュラー外されてるよ?」

「……」

 緑郎は言い返せないまま、スマートフォンの画面を落とし、翔琉を睨みつける。

「ていうかさ、本気で先輩と付き合いたいって思ってるなら、早く弾けるようにならないとダメなんじゃないの? もたもたしてたら先輩、卒業しちゃうと思うんだけど。そもそも、それ、先輩は了承してる? さっきから見ててさ、オレにはどうもそうは思えないんだけど、もしも君が勝手に言ってるだけだったら、迷惑だからやめた方がいいよ?」

 言葉以上の思惑は感じられない、まっさらな翔琉の発言に緑郎は顔を苦々しげに歪めると、スタンドからテレキャスターを引っ掴んでシールドを乱暴に抜き、弦がネックに跳ね返る音を立てながらハードケースに詰めて、カバンを雑に背負うと、何も言わずに部室を出て行った。

「!」

「あー、先生、やめましょう。もういちいち追っかけなくっていいっすよ、どうせ飯の時間には寮に戻ってますから。構ってちゃんはほっときましょうって、気にしない気にしない」

 部室を出て行こうとした興津を、隆玄が腕で制した。

「今日ギター持ってきたってこんは、この間、行方不明になってた時間は楽器屋にいたってことですよ。だとしたら、今日は周辺機器揃えに、また同じとこに行くんじゃないですかね」

「いや、でも……」

「いいんですよ、未角は用事があって早退しただけです。……本当のところ、あんな態度の悪い生徒よりも、俺らの面倒見たほうが気分いいし、建設的だって思うでしょう? 違います?」

 太陽にまでそう言ってだめ押しされ、興津は追いかけるのを止めざるを得なくなる。

「しっかし、参ったねぇ。ほんとにギターしか買わなかったんだな。店員さんも聞かなきゃ教えてくれないとはいえ、少しは事前に調べようと思わなかったんかなぁ」

「さすがにシールドとピックくらいは、自前で用意してもらわないと話にならないよ。ついでにスピーカーアンプも買ってきてくれたらいいんだけれど」

 太陽と隆玄はそう言って顔を見合わせ、肩をすくめながら苦笑いする。

「……あ、そうだ、シールドシールド」

 二人の会話を聞いた翔琉は、慌てて足元に落ちていたシールドの先端を持ち上げると、アンプの電源をもう一度確認してからジャックを抜く。

「掛川さん、貸してくれてありがとう。伊東さんもピックありがとう」

「あ、いえ、どういたまして……」

「……」

 いまだに呆気にとられたままの凛子と紗雪が、こくりとうなずく。

 興津は追いかけるか追いかけまいかもう少しだけ逡巡した様子だったが、数秒の後、彼は一つ大きな咳ばらいをすると、

「……え、ええと、……森、返す前にシールドをちゃんと巻こうか。巻き方教えるから」

「あ、はい」

 緑郎をそっとしておくことにしたようだった。


「……いやあ、森くん、火の玉ストレートっすなあ……」

「え、何が?」

 綺麗に巻かれたシールドを受け取ってため息をついた凛子に、まったく自覚のない様子で翔琉が質問する。

「……味方につけると心強いけど、敵に回したくないタイプだね、キミ」

 ソフィアが若干ひきつった笑いを浮かべながら翔琉を見る。

「?……オレ、変なこと言ったかな?」

「いやいや、そんなことはないよ。……うらやましいなあ、あそこまで言えるの」

 敦哉はそう言って、少しだけ困ったように笑う。

 その隣で、彼を気遣うように、紗雪がかすかに口元だけ笑みを浮かべて背中を撫でた。


「……さて、次は舞阪の番だ。楽器は用意してきてくれたかな?」

「あ、はい」

 興津の呼びかけに、敦哉は大慌てで自分のギグバッグを開け、中からウォルナットの木目が美しいジャズベースを取り出した。

「うああ、カッコいい! 敦哉くん、すごくいいの買ったんだねえ」

 何本もベースをじっくりと見てきたおかげで、敦哉の持っているものが興津の使っているものとほぼ変わらないグレードだろうということが、くるみにはよくわかった。

「渋いボディね、ステキだわ」

 祐華も楽し気に感想を述べる。

「やっぱり、新しい楽器って、見ているとわくわくしますね」

「うん」

 ミチルの言葉に太陽はうなずくと、

「……大事に扱ってもらえるって、それだけでもすごく大切なことだと思うんだけど、あいつのギター、なんか可哀想だな……」

 先ほど乱雑にケースに入れられたテレキャスターを思い出し、悲しげにつぶやいた。


「……ちょっと、良く見せてくれるかな?」

「はい」

 純粋にベーシストとして興味が湧いた興津は、敦哉の持ってきたジャズベースを手に取って、細部までじっと見る。

「このメーカーのなら間違いはないよ、私も使ってるからね。……しかし、ずいぶん奮発したな。貯金が空になっただろう?」

「あ、いえ……その、……兄が買ってくれました」

「お兄さんが?」

「はい。本当は自分の貯金を全部使って、一番安いのを買って、足りない分だけ借りるつもりでいたんですけど……どうせやるならいいもの使え、って、周辺機器まで含めて全額出してくれて。だからあんまり、自分のものって意識が持てなくて、借りものみたいな気分です」

 敦哉は肩をすくめる。

「そうか……わかるよ、私も一本目は自腹じゃなくて、おじいさんに買ってもらったからね」

 興津は微笑んでそう言うと、元の場所にそっとベースを置く。

「しかし、随分気前のいいお兄さんだね。もう働いてるのかな?」

「はい、東京の大学行って、そのまま向こうで就職しました」

「なるほど。こんなにいいものを買ってもらったんだから、これから長く続けないとな。楽器は手入れをきちんとすれば一生使えるものだから、メンテナンスは怠らないようにね」

「わかりました」

 なにか思うところがあるのか、興津は敦哉とひどく楽しげに言葉を交わす。

「じゃあ、いちばん最初からいこう。まずはストラップの付け方だ」

「よろしくお願いします」

 彼の指示に従って、敦哉はギグバッグのポケットからストラップを取り出す。


(先生が家族のこと、わたし以外の子に話すの、珍しい……っていうか、初めて?)

 以前彼から聞いていた、市役所の側の商店街にあった小さな楽器店で、今も現役で使っている海外の有名メーカーのベースを買ってくれたという、太っ腹な父方の祖父の話をくるみは思い出す。

(……何だろ、この感じ。すごくもやもやする……やだ、これって……)

 すぐに自分が敦哉に嫉妬していることに気が付いて、くるみは急にそれが恥ずかしくなり、耳まで真っ赤になる。

(ばかばかばか! なんでヤキモチ妬いてるの! 先生だって他の子にそういう話することあったっていいじゃない! わたし心が狭い!! もー!)

 いたたまれなくなって、指をもじもじと動かす。

(でも……それだけ先生の中で、何かが変わったってことなのかな……)

 これまで謎だった出自が完全に明らかになったということが、彼の心境に大きな影響を及ぼしたということはさすがに察しが付く。そのおかげで彼が他の人にも心を開き始めたのであれば、それは歓迎すべきことなのだろう。

 しかし、それはくるみにとって、決して「嬉しい」という感情だけで受け入れられることではなかった。


(……先生、わたしだけのものでいてくれないかな)


 胸の奥に独占欲が不意に沸き起こって、くるみは自分の左の膝からふくらはぎを辿り、最近履き始めたルーズソックスの縁を指でなぞりながら、その先の足首に固く縛り付けた、彼が着けているものと対になっている黒革のアンクレットの存在を思い出す。

(先生がわたしのこと、他の誰にも渡さない、って言ってくれたのと同じ。……わたしも先生のこと、誰にも渡したくない……)

 アンクレットと同じ色の紐で彼を後ろ手に縛って、どこにも行けないようにしてしまいたくなり、くるみは思わぬ形で浮かんでしまった不埒な想像を、慌てて首を横に振ってかき消した。

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