第65話
「……何度見ても、すげえポスターだな」
昇降口から靴箱に上がったすぐ目の前の廊下に設置された掲示板の中で、すさまじい存在感を放つ一枚のポスターを見て、一年生の森翔琉は毎日同じ言葉を繰り返す。
おそらく美術の教師ですら評価を付けられないだろう、そこから何か這い出て来そうな絵と思しきものの下に、『たのしい軽音楽部』という呑気な丸文字のフォントががたがたに貼られているそれは、毎朝見るたびに彼を不安にさせると同時に、妙に心を掴むものがあった。
「毎朝ここで、SANチェックしてる気分になるな……」
いつも見ているTRPGの動画に出てくる単語をつぶやいて、彼は教室を目指す。
(あーあ、ホント困ったなあ……TRPG同好会とか、クトゥルフ神話研究会とか、そういうのないかなあ……あるわけないよなあ……)
それらしい集まりのポスターが貼られていなかったことを思い出して、翔琉はがっくりと肩を落としながら教室に向かう。
(なんかオレ、サッカーやりたくってわざわざここ受験したのに、何やってんだろ)
学校見学の時にすっかりテンションが上がり過ぎたせいで何も覚えていなかったことが災いし、入部して三日で、この聖漣高校のサッカー部で求められているのが、自分が今までやってきた『楽しむサッカー』ではなく、『勝つためのサッカー』なのだと気が付いて、その厳しい空気が嫌になって辞めてしまった翔琉は、これから毎日、放課後まっすぐに寮へと戻るしかなくなった自分のあてのなさと、予定のない休日の退屈さをひどく持て余していた。
(せっかく頑張っていい学校に入れたんだし、さっさと別の部活入らないと、時間がもったいないよな。でもなあ、サッカー以外のことやってこなかったし、運動部はきっとみんなあんなノリだし、今から何始めればいいんだろ。いっそ自分一人でクトゥルフTRPG研究会とか立ち上げるか? でもあれも、いつも動画で見てるだけだから、公式ルールブックだって持ってないし……)
考えながら歩くうちに、彼は自分の教室を通り過ぎ、廊下の真ん中にある二つ先のクラスまで行ってしまう。
そしてそのまま教室に入って、自分のロッカーを探し、鍵をポケットから取り出して差し込もうとして、なぜかそれがうまく鍵穴に刺さらないことに首を傾げたとき、
「あの、そこ、僕のロッカーなんだけど……」
後ろから聞き覚えのない声に呼ばれて、翔琉はそちらをふりかえった。
隣のクラスの紗雪と廊下で別れた敦哉は、まだ持ち慣れないカバンと、真新しくて重いギグバッグを背に負って、入口にいたクラスメイトへの軽い挨拶と共に自分の教室へと足を踏み入れる。
そして、まったく見知らぬ少年が、自分のロッカーを開けようとしているのを見て慌てた。
(誰!?)
自分と同じくらいの背丈の、日焼けした肌と髪の少年は、そこに鍵が刺さらないことに首をひねっている。
「あの、そこ、僕のロッカーなんだけど……」
遠慮がちに声をかけると、彼はぎょっとした顔で敦哉を見た。
「えっ」
「えっ」
数秒の沈黙の後、敦哉は彼の困惑振りに、何となく察しがついたことを言ってみる。
「……ここ、四組」
「えっ!?」
勘は当たったようだった。少年は慌てて周りを見回し、自分の見知った顔がいないことに気が付いて、
「うわ、マジだ。ごめんごめん、どうりで開かないわけだ。いや、開かなくてよかった」
詫びながら申し訳なさそうに笑みを浮かべる。
「ははは……」
本気で間違えていた様子の少年に、どう反応していいか迷った敦哉は、中途半端に笑った。
「次から気を付けるよ、ほんとごめん。じゃあ」
少年は手を振って、大急ぎで教室から出て行く。
「……?」
変な子だな、という感想を、初対面の人に抱くものではないと思って捨て置くと、敦哉は背中からギグバッグを下ろし、慎重にロッカーの上に寝かせる。
(部室に置かせてもらった方が危なくないかもしんないな、後で先生に相談しよう)
とりあえず家からここまでの間、十万円以上した中身をどこにもぶつけず運んでこれたことにほっとして、敦哉は大きなため息をつく。
その時ちょうどホームルームの予鈴が鳴り、クラスメイトたちがぱらぱらと着席し始めたのに倣って、彼もロッカーを開けると、カバンを入れて鍵をかけてから自分の席に着いた。
「うお、やばい、予鈴だ」
先ほど間違えて入ってしまった教室から、もう一度昇降口前の掲示板まで戻り、部活動のポスターを眺めて自分の入りたいと思えそうな部活を探しつつ、ああでもないこうでもないと決めかねていた翔琉は、結局その考えに進展がないまま自分の教室に慌てて駆け込む。
今度は間違えずに自分のクラスだということを確認してから、ポケットから大急ぎで鍵を出して、彼はロッカーを開けようとする。しかし、
「あれ、開かない……なんでだ?」
何度も差し込もうとするが、先端すら入らなくて翔琉はすっかりテンパってしまう。
それが寮の自分の部屋の金庫の鍵だと気がつくのは、担任の大井が教室に入ってきてからだった。
「みんな席についてー、出席とるぞー」
教室の中に声をかけながらすたすたと教壇に上がる、ダークブラウンのスーツに目の覚めるようなブルーと白のストライプのネクタイをきりっと締めた興津の姿に、
(はー、今日もカッコいい……どこから見てもステキ……)
くるみは惚けながら、心の中で大きなため息をつく。
彼が担任になって一週間が経ったが、毎日見ても見飽きないとはまさにこのことで、くるみは何色を着ても様になる彼のスーツ姿を見るのが非常に楽しみだった。
(定演のときみたいなショッキングピンクは似合わないけど、こういう落ち着いた色はホント上手に色合わせするなあ)
差し色のネクタイのおかげでもっさりした印象にならないあたりは、さすがとしか言いようがない。
(部活の時はジャケット脱いじゃうし、それも色っぽくてカッコいいけど、フル装備の時はいかにも『先生』って感じがして……知的でいいなあ……)
教卓の向こうでタブレットを手にしている凛々しく硬い印象の興津が、自分と二人でいるときにだけ見せてくれる甘く柔らかい表情を思い出して、くるみは満足感と優越感で頬を染めた。
「……あれ? 下田はまだ来てないか?」
タブレットの座席表を眺め、興津が実夢の席を見遣ったが、彼女の姿はない。
「遅刻か? 連絡網にも何も来てないし……誰か下田から連絡とか受けてるか?」
彼の問いに教室はざわつくが、誰も応える者はいない。
「しょんないなあ、あとでこっちから連絡しよう」
彼はそう呟いてタブレットにペンで何かを書き込むと、タブレットケースのカバーを閉じた。
(下田さん、どうしたんだろ)
麗から聞いた話では、一年生の時も遅刻だらけで、出席日数もギリギリ足りる程度に学校を休んでいたという彼女を、くるみは少しだけ心配する。
(服装検査のたんびに、お化粧や髪のことで先生にいろいろ言われてるみたいだし、学校に来づらいのかな……でも、あんなハデハデなカッコしてたらそりゃ怒られて当たり前だし、大学とかに進学するなら内申だって大事だし、出席日数もギリじゃあ、まずいと思うんだけど……)
春休み明け、実夢の髪のマゼンタのインナーカラーが深紅に染め直され、姫カットにした顔の横の髪の房だけが明るいピンクになっていたうえ、耳の上側に軟骨の両端を貫通する新しいピアス穴が開いていたのを思い出し、
(……なんか、見た目だけなら、るなぴパイセンといい勝負だなあ、ベクトルは違うけど)
またしばらく会わないうちに派手になっているであろう瑠菜の容姿が浮かんで、くるみは小さく笑う。
そうするうちに、クラス全体を見渡しながら連絡事項を伝える彼と、一瞬だけ重なった視線がそこはかとなく温かく感じられ、
(先生と毎日顔合わせられるんだもの、休むなんてありえないな)
彼女は胸の内でそう独りごち、幸せな笑みを浮かべた。
午前中の授業が終わり、昼休みが始まる。
(……さゆ、また一人でご飯食べてるだろうな。今日はどこ連れてこうか……)
今日も今日とて、自分が顔を出すまでの間は、一人でコンビニのおにぎりをちびちびと食べているだろう彼女の姿を思い起こし、敦哉はポケットにスマートフォンと財布を入れて立ち上がる。
そうして急ぎ足で廊下に出て、さり気なく三組の中を見ると、
「あ……」
紗雪の周りの机に凛子とソフィアが座って、昼食を食べながら会話を交わしている。
彼女が特になにか自分から喋っているわけではなさそうだが、先週までのように、自分と二人きりでいるよりは、女子同士ということもあって――悔しいことに、ずっと居心地が良さそうだ。
(……いやいや、これでいいんだ、掛川さんと松崎さんが来てくれたなら。女同士でしかできない話だってあるだろうしさ……もう、俺が心配しなくても大丈夫、なのかな……)
一瞬、使命感のような感情に心が沸き返って、やはり割って中に入り声をかけようか、という考えが浮かんだものの、
(……大丈夫だ。あの二人は、あんなことにはきっとならない。『あの子』とは違うんだ)
敦哉は二人の気遣いをふいにすまいと自分に厳しく言い聞かせてから、女三人に男一人が混じるわけにもいかない、と落胆の笑みを浮かべて割り切り、久々に安心できる中身が入った財布の方に意識をやって、食べ物が売り切れないうちにと購買へ急いだ。
「はい、250円ね」
「はい。ありがとうございます」
購買の店員の壮年女性に言われた金額を渡して礼を言うと、敦哉はメンチカツパンとチョコクリームパンを手に購買を出る。
そして、すぐ目の前の自動販売機で飲み物を買おうと近づいたとき、そこで何やらもたもたと慌てる人影がいることに気がついた。
「あれ、……うわ、まじか、五千円札しかない」
どうやらあといくらか細かい金額が足りないようだが、彼は持ち合わせがなさそうだった。
「あ」
その声に覚えがあり、敦哉は側に寄る。
はたして、それは今朝自分の教室に間違えて入ってきた少年だった。
「大丈夫?」
聞きながら、さっと敦哉は十円玉を財布から出し、自販機に入れてしまう。
すでにボタンが押されていたらしく、がこん、という音がして取り出し口に商品が落ちてきた。
「えっ、あ、……」
「どうぞ」
「あ、えっと、あの……」
唖然としたまま動けない少年に、敦哉は取り出し口から商品を取り出して手渡し、
「ほら、後ろつっかえてるから」
三人ほど並んでいた生徒たちの前から彼を移動させた。
「……あ、ありがとう……」
パックのヨーグルト飲料と財布を両手に、少年は戸惑いながら礼を言う。
「いいって。細かいのなかったんだろ?」
「うん。……あ、これ、お礼に」
少年は財布から慌てて五千円札を取り出し、そのまま敦哉に突き出す。
「いやいやいや、それはおかしい」
「あ、そうか」
ぎょっとした敦哉に言われて、彼は素直に五千円札を財布にしまった。
「でも、さっきの返さないと悪いよ。どうしよう……」
「……購買で両替してもらえばいいじゃん」
「あー、その手があったか」
少年は素晴らしいアイデアを得たかのように、ぱっと顔を輝かせる。
「じゃあ、ちょっと行ってくる。待ってて」
そう言うと彼は購買の入り口に向かう。
が、すぐにそこの段差につまずいて転びそうになる姿を見て、
(……なんか、危なっかしいな……)
敦哉は苦笑いして肩をすくめた。
「ごめん、おまたせ」
購買から戻ってきた彼は、四個ほどの菓子パンとプリンを一つ抱えて戻ってきた。
「はい、これ」
「えっ……」
当たり前のようにプリンを差し出され、敦哉は目を丸くする。
「今朝のお詫びも兼ねてさ、もらってよ」
「別にいいって、何もなかったんだし」
「いいからいいから」
二重幅の広い大きなたれ目をひどく愛想良く笑みの形にしながら、彼は敦哉の手にプリンを押し付ける。
「……じゃあ、もらっとく。ありがとう、ごちそうさま」
その反応に満足したのか、
「じゃ」
彼は短くそう言って、駆け足で去っていった。
(……ちょっと変だけど、悪い奴じゃないな)
遠ざかっていく背中を見ながら、ふふっ、と敦哉は笑う。
と、彼は急に踵を返し、どたばたと猛ダッシュでこちらに戻って来て、
「ごめん、スプーン渡すの忘れてた! はい!」
なよっとした身体の割に大きく筋張った手で、透明なプラスチックのスプーンを差し出す。
「あはは、わざわざありがとう」
間抜けだが律儀な少年に、敦哉は何とも言えない親しみを感じた。
「さすがにそのままじゃ飲めないだろ?」
「いや、飲み物じゃないからね?」
くだらない冗談に、二人で思わず笑ってしまう。
そのくだけた雰囲気と、無邪気で明るい人柄が手に取るようにわかる、朗らかな彼の居住まいにすっかり絆され、
「あの……よかったら、一緒に昼飯、食べさしてもらっていい?」
このまま教室に戻って一人で昼食を取るのも勿体ない気がした敦哉がそう申し出ると、少年は心底嬉しそうな顔をする。
「え!!? マジで? うわあ、ありがとう! オレ、この辺の人間じゃないからさ、クラスだと知り合い同士で固まられちゃって、ずーっとぼっちだったんだよ!」
「そっか……僕も同じ中学からの子が、隣のクラスの女の子だけだから、似たようなもんだよ」
一人にならずに済んだ安心感で、彼らはお互いに安堵の笑みを浮かべた。
「あ、名前まだ言ってなかったね。……僕、舞阪敦哉」
「オレは森翔琉。えーと、……あの、クトゥルフTRPGって好き?」
「え?」
あまりに唐突な話題に半分笑いながら、敦哉と翔琉は廊下を歩いて行った。
「たぶんそれ、東京とか大阪に行ってるんじゃないかな」
「東京と大阪?」
いつもの階段で四人、今日は学食で買った揚げ物と粉ものを食べながら、麗が教えてくれる実夢の話にくるみたちは首を傾げた。
「うん。あの子が推してる、この辺出身のヴィジュアル系のバンドがいるんだけど、時々そっちのライブハウスで演奏するらしいんだ。それを追いかけて土日に新幹線で行って、そのあと夜通し向こうのバンギャ仲間と遊んでから、日曜の真夜中とか月曜の始発で帰ってくるみたい」
「えええ……よく退学にならないわね……」
「それ、お家の方はご存知なんでしょうか?」
自分には及びもつかない生活に引いた祐華と、純粋に心配そうなミチルに麗は続ける。
「前のクラスの子っちが話してたけどさ、あの子の家、昔っからの地主で寄付金がすごいんだって。お母さんもここの生徒で、やっぱり同じようにバンギャやってて、二年生のときに妊娠して中退したらしいんだ。だから、娘が同じことしてもなんとも思わないんじゃないかって……去年の担任の先生も、何言っても暖簾に腕押しだ、って嘆いてたよ」
「うああ……先生、問題児引いちゃった感あるなあ」
初詣のときに、ついでに厄除けのお守りも渡したほうが良かったか、とくるみは頭を垂れる。
「それでも学校にはちゃんと来ないと、進学に響くんじゃないかしら」
「どうだろう、ここ卒業したら、そのままお見合いして結婚とかじゃないかな」
「……」
麗の言葉に、ミチルがぎくりと箸を止めたのがくるみの視界の端に映る。
しかし麗の目にそれは入らなかったようだった。
「まあ、理事長先生が寛容だから、なんとかここに通っていられるんだろうね。たぶん普通に公立行ってたら、そっちのほうが退学になってた確率高いよ」
「……聞けば聞くほどめちゃくちゃね、わたしにはわからない世界だわ」
情報量の多さに圧倒されつつ、祐華が気を取り直して膝の上の焼きそばをつつき始める。
「本人は楽しそうだからいいんじゃないかな、先生はかわいそうだけど」
「お給料下がったりしないかな、先生……」
「大丈夫だよ、上の先生たちだってあの子のこんわかってるから、興津先生がどうこうってのはないと思う」
心配するくるみにそう言うと、麗は手に持った大きなポテトフライの串を眺めてつぶやく。
「……学食、思ったより安くてびっくりしたっけ。100円で買えるとは思わなかったよ」
「今度はもっと早く行って、席取って汁物とか丼もの食べてみようか」
「定食もあったわね」
わいわいと盛り上がるくるみたちを眺めながら、ミチルはかすかなため息をつく。
(……卒業したら結婚……)
大嫌いだった祖父の顔がちらつき、彼女の長いまつげの瞳は曇る。
(もうお祖父様もいないんだし、あの約束はなくなったはずだけど、……相手がそう思ってるかどうか……)
祖父によく似たその顔が浮かびそうになるのを、東京から、その顔から逃げるようにやってきたこの街で出逢った、優しくて凛々しい太陽の笑顔を思い出して打ち消す。
(……この街にいたい。東京なんかに帰りたくないし、ウイーンにも行きたくない)
この街で暮らし始めて一年経ったが、肌にも心にも馴染んだ潮風とのどかな風景が、大好きだった祖母を育んだものだと思うと、ミチルにはなおさら離れがたいものに感じられた。
(お祖母様、お願い。……わたしのことを守ってください)
胸の中で密かに祈りを捧げると、ミチルは生まれて初めて食べたお好み焼きをひと切れ箸で取り、マヨネーズを付けて口に入れた。
「……」
五時間目の授業の後、遅い昼食を取りながら、藁科が作成した資料を読み始めた途端、興津は絶句した。
「これは、……」
想像よりも深刻な出来事が羅列されたその記述に、箸を置いて内容に意識を集中するほかなくなる。
(伊東も舞阪も、こんなことが身近で起きてしまっていたのか。兄の方も、この頃ちょっと様子がおかしいのは、きっとこのせい……これは、下手に僕から聞くことはできない。あの子たちの中できちんと気持ちの整理がついてから、話をしてくれるのを待つしかない)
果たしてこの事実を知った上で、自分が今までと同じように紗雪たちに対して振る舞えるか、少し自信がなくなる。
しかし、自分は教師だ、と懸命に喝を入れ、彼はどうにかぐらついた意識をもとに戻した。
(僕にできるのは、妹の方を合奏に入れることより先に、心が安らぐように、演りたい曲を演らせてあげることだ。でも、たぶん演りたい歌は『ひこうき雲』の他にもある。そんな気がする……)
考え事をするときのいつもの癖で口髭の下に手をやりながら、興津は食事も忘れて資料を読み、思案に暮れる。
十五歳の少年少女が経験するには重すぎるだろう現実に、彼はめまいを覚えた。
掃除が終わり、生徒たちは部活動に向かう者、帰宅する者、または寄り道する者と各々の過ごし方に分かれる。
「はー、今日からはまた気楽に部室に行ける……」
階段を登りながら、くるみはそう言ってほっとため息をつく。
「週末は本当に大変だったわね、くるみちゃん。太陽先輩もお疲れ様でした」
「あははは、あんな大声出したの、稽古以外で何年ぶりかなあ……もうご勘弁願いたいね」
「今日からは気持ちを切り替えましょう。もう空気が悪くなるようなこともないでしょうし」
「うん」
満面の笑みを浮かべて、くるみたちは三階の踊り場までやってくる。
そこに、
「お疲れ様です」
「……お疲れ様です」
敦也と沙雪が階段の下から声をかけてきて、くるみたちは足を止めて振り向いた。
「お疲れ様。……ん?」
二人のすぐ後ろにいる、初めて見る少年に三人は戸惑う。
「あ、こちらは今日、軽音楽部の話をしたら、見学に来たいって言うんで……」
「よろしくお願いします」
敦哉に紹介された少年はきちっと頭を下げる。
「そっか、よろしく。名前は?」
「森翔琉です。よろしくお願いしまうわあっ」
太陽と話しながら階段を上ろうとして、翔琉は思い切りつまずき、あやうくそのまま前に倒れ込みそうになる。
「……大丈夫?」
「あはは、気にしないでください、よくあることなんで……」
どうにか両手をついて転倒を阻止した彼は、手のひらの汚れを払いながら体勢を立て直す。
「手、痛くない? 気を付けてね」
「はい、すみません」
祐華の言葉に素直で人の良さそうな笑顔を浮かべる翔琉に、くるみはいい印象を抱きつつも、
(ここまで運動神経の悪い人、初めて見たかも)
体育ではいつも補欠扱いの自分のことは棚に上げ、心の中で苦笑した。
中庭ライブで何をやろうか、と話をしながら彼らは部室の前まで歩き、
「お疲れ様ー」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です。見学の子、連れて来ました」
ぱらぱらと挨拶をしながら中に入る。
そして、そこにいた人物を見て、くるみの表情は凍った。
「……なんで?」
「お疲れ様です、くるみ先輩。あの後すぐ、楽器屋行って買ってきました、これ」
新品のテレキャスターを自慢気に抱え、緑郎は何事もなかったかのように笑っている。
「真面目に音楽やれば、俺と付き合ってくれるんでしょ? だから決意表明です。十五万しましたよ。これ弾けるようになったら、俺と付き合ってもらいますからね」
そう言って当たり前のようにくるみの近くに寄ろうとしたのを太陽に睨まれ、緑郎は諦める。
助けを求めるようにドラムの椅子に座っている隆玄を見たが、彼も困った顔でくるみを見るばかりになる。
窓際でギターを抱えた凛子も、化け物を見るような目で黙って緑郎を見ている。
部室の中に、この間よりも淀んで重たい空気が漂った。
ややあって、
「お疲れ様。みんないるかな?」
そう言って入ってきた興津が、くるみと同じ表情をする。
「未角……! お前、この間監督に叱られたばっかりだろう、なんでこっちにいるんだ!?」
怒りを隠せなくなった興津が、生徒を『お前』と呼ぶのを、くるみは初めて聞いた。




