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第64話

「いやあ、今年は困った一年生が入ってきましたね」

 チューニングの済んだ赤いストラトキャスターのヘッドからクリップチューナーを外し、大きなため息を吐きつつ、安倍は昨日の昼過ぎに緑郎の起こした騒ぎを思い出して苦笑する。

「昨日、サッカー部の監督にこってり絞られたみたいだし、ちいっと(少し)は懲りたでしょうかね」

 だるだるのジャージに無精髭の大井が、久しぶりに引っ張り出したエレアコの、張り直したばかりの新しい弦を撫でながら同じ笑みを返す。

「まったく、高校生にもなって……親御さんも少し甘やかし過ぎだ。あれでよくサッカー推薦が通ったな、あんな自己中な性格じゃ、チームメイトにも迷惑かかるだろうに」

 ハイハットとバスドラムを交互に踏んで調子を確かめ、藁科が面倒くさそうにため息をつく。

「今はそういうこと、教師が面と向かって言えないのが困るのよね。ちょっときついこと言うと、すぐにパワハラとか訴えるとか言われちゃうんだもの」

 指慣らしにブルグミュラーの『アラベスク』を弾きながら、養護教諭の朝比奈由佳里が藁科に同意する。

「明日から、真面目にサッカーをやってくれればいいですけれどね。真剣に音楽をやる気がないのに、うちの部に来られても困りますから」

 ダークブルーのジャズベースをチューニングしつつ、興津もうんざりしながら答えた。


 田んぼのど真ん中にある大井の自宅の隣にある、かつて彼の父親が経営していた建設会社の工場だった倉庫の中で、聖漣高校の教員たちが組んでいるバンドは、今年の文化祭に向けての練習を始めていた。

 去年のくるみの担任だった安倍はそのまま二年生に持ち上がって麗のクラスの担任になり、大井も一年ぶりにクラス担任として新入生を受け持つことになった。

 藁科も吹奏楽部の顧問で時間を取られることが増え、朝比奈は自分の子供が高校受験で何かと慌ただしく、正直去年より忙しいのだが、みんなそれ以上に音楽が好きで、たとえ休日を返上してでも、冠婚葬祭ではない限り全員が必ず顔を出すのだった。


「それにしても、牧之原さんもかわいそうね。どうもあの子は変な男に絡まれる確率が高すぎるわ。ねえ、興津君」

 指慣らしを終えた朝比奈が、指先をさらに解しながら同情たっぷりにそう言うと、男性教諭たちが一瞬だけびくっと動きを止める。

 去年の文化祭の後、くるみへのアタックで玉砕した男子生徒の流した噂や、定期演奏会の時に舞台袖でほんの少し油断した姿を目撃されたりなどの要素が重なり、興津とくるみが恋人同士であるということは、この場にいる朝比奈以外の人間は全員把握済みだった。


(変な男って、それ、僕もカウント……されるだろうなあ、常識的に考えれば……)

 興津の背中と額に冷や汗が滲む。

 いくらハグ以上のことをしていないとはいえ、自分より十六も年下の少女に本気で恋をしているなどと知れたら、その先に待っているのは破滅だけだ。

 今までの自分の経験則からして決してそういう嗜好ではないはずなのだが、どんなにそれを言ってみたところで、くるみと付き合っているという事実があるだけで、世間からの色眼鏡は絶対に変えられない。

 彼は自分のしていることが改めて恐ろしくなった。


「……そうですね、今年は担任でもあるんで、何とかしてあげたい気持ちはありますけれど」

 興津は朝比奈にそう返して、クリップチューナーだけを視界に入れながら、2弦を弾いてペグを捻る。

「あの子のお母さんもテレビに出てる間は、ストーカーの被害に遭ったとか、プレゼントの中に盗聴器が入ってたとかいう話を聞いたことあるし、あんまり美人なのも考えものよねえ」

 朝比奈は肩をすくめ、すぐそばに置いてあるトートバッグからマイボトルを出し、お茶を一口飲んでからまたそれをしまう。

「あの子、自己評価が低すぎて、自分が結構な美人さんだって自覚がないのも怖いのよね。なんかの拍子に悪い大人に騙されなければいいけど」

 彼女は大きく伸びをして、今度は『エンターテイナー』を弾き始めた。


 なんでもない会話なのに、まるで揺さぶりをかけられているような心持に、興津は口の中がからからになる。

 他の三人も、ここで彼をつつこうものなら朝比奈にまで二人の関係がばれてしまうことを避けてくれているのだろう、特に何も言わずに音出しをしている。

 その沈黙は、興津にとってひどく居心地の悪いものだった。

 彼は出てこない唾を飲みこむと、いつも以上に重たく感じられる罪悪感にため息をつき、倉庫の中にいるメンバーひとりひとりの顔を、一度ぐるりと見渡した。

(藁科先生は、ご自分の奥さんが元生徒だから、っていうのがあるから、何かと気遣ってくれてる。安倍先生も僕たちが変なことさえしなければ、きっと味方でいてくれるだろう。将之も信頼していい。……でも、朝比奈先生にまで知られたら、さすがにまずいな……)

 以前くるみが襲われそうになったとき、教師と生徒が一対一で話をするのを就業規則で禁止すればいいのに、と彼女がこぼしていたことに納得しつつも、それを部活のある日にほぼ毎回繰り返している身としては、肝が冷えるどころの話ではない。

 動揺して思わず1弦のペグを2弦と間違えそうになり、興津は慌てて手を止める。

(……怖い……)

 たとえば誰かに疑いをかけられて、自分がそれを切り抜けられたとしても、くるみはしらを切り通せるだろうか。直情的で嘘の下手な十六歳の女の子にそれを望むのは酷な気がして、彼は自分が彼女に負わせてしまった荷物と枷の重さを、深く悔いた。


(……それでも、僕たちは別れることは出来ない……)

 1弦の音を正確にGに合わせ、チューナーをヘッドから外し、ストラップピンとストラップがきちんとつながっているのを確認して、彼はパイプ椅子から立ち上がる。

(きっともう、何を言ってもくるみは僕についてきてしまう。例え行き先が地獄でも、僕を追いかけてきてしまうだろう。そして、僕もあの子を、どうしても振り払えない……)

 昨日、自分に縋って甘えながら、決して離れないと彼女が誓った瞬間が頭をよぎる。

(……でも、地獄に落ちるなら、僕一人だけでいい。もしもそうなったら、僕の命も未来も、何もかも全部くれてやる)

 もともと八歳で死んでいたはずの、すでにあってないもののような自分の人生など、いくら棒に振ってもかまわないと思った途端、彼はなぜか心が軽くなる気がした。


(……よし、やめよう、これ以上考えるのは。さあ、練習だ)

 彼はほんの少し長いまばたきをして、心の中から無理矢理に淀んだ考えを蹴り出すと、

「さて、準備できたんで、スコアお渡ししますね」

 椅子の横に置いてあった仕事用のカバンから、楽譜の挟まった分厚いファイルを取り出した。


 その日はすべての曲をいったん通しで演奏し、昼過ぎに解散になった。

「今年は一曲目、ビートルズだけど、子供っちはノッてくれるかしん(かなあ)

「あの曲ならわかる子も多いだろう。去年最後の新曲も出たから、名前も知れてるだろうしね」

 シールドを手慣れた動作で巻きながら、大井と興津は他愛もない会話を交わす。

「大ちゃん、このあと昼飯どうする? 一緒にどっかいくか?」

「……そうだな、あんまりひきこもってるのも難だし、ちょっと外の空気を吸っておこうか」

 帰宅しても寝るまでずっとベースの練習だけしていることを考えると、日中の一時間くらいは他のことに使っても罰は当たらないような気がして、興津は大井の誘いに乗った。

「他の皆さんもどうです? 予定がなければ一緒に行きませんか」

「いいですよ、私も帰っても暇なんで、ご一緒します」

 独り身がとうとう六年目に入った安倍が、にっこりと笑って同行を申し出た。

「私も行こうかね、嫁さんも子供も今日は遊びに行ってて留守なんだ」

 藁科もバスドラムを持ち上げながら、そう言って仲間に加わる。

「ごめんなさい、私はそろそろ子供が部活から帰ってくるもんで、ご飯の支度しないといけないから……また今度ね」

 細腕に似合わぬ力で軽々とキーボードを脇に抱えた朝比奈が、残念そうに笑う。

「……そうですか、じゃあまた、ご都合のよろしいときに」

 興津はほっとしてしまうことを申し訳なく感じながら、朝比奈を見送った。


「ああ、そうだ。興津君」

 バイパス沿いのカレー屋に入り、注文を終えたところで、彼の目の前に座った藁科が声を落とし、神妙な面持ちで話しかけてきた。

「昨日言ってた、第三中のことな。ちょうど朝比奈さんの上の子が今通ってるっていうんで、君が練習に来る前に少し話を聞いたんだけえが……」

「え……」

 偶然とはいえ、身近に事情を聞けそうな人物がいたことに興津は驚く。

 藁科は表情と声のボリュームをもう一段階下げて、話を続けた。

「……ちょっと良くない話が出てきてね、食事の前だし、ここで話すのも難だから、明日文書にまとめて渡すよ。あの二人の担任にもそれぞれ渡しておくから、適宜話をしてくれ」

「良くない話?」

 昨日、中学校の名前で検索しても何も出てこなかったため、その言葉に興津は眉をひそめる。

「興津くんが学生の頃もあったろう、『学校裏サイト』ってやつ。朝比奈さんが、今年に入ってからやっと閉鎖されたって言ってたけどな、どうも第三中はそれまでの間、少なくとも十年以上存在してたらしくてね、そこがあの学校のえらい荒れてた原因だったらしい」

「『裏サイト』……」

 自分が知らないだけで存在していたであろう、その不愉快な単語に、興津の顔が曇った。

 藁科もひどく重い表情でうなずいて、話を続ける。

「ああ。第三は、その『裏サイト』を介したひどいじめが恒常化して、そこにちょいと脛に傷がある、問題のある教員を寄せ集めて再就職させたりしてたもんだから、見て見ぬふりで監視もしてなかったそうで、それでめちゃめちゃになってたんだ。今回、伊東と舞阪の学年で起きた件がきっかけで、それまで隠蔽されてたものが全部明るみに出て、数年分さかのぼった『重大事態』になってる。君んとこの部員の何人かも、そこに個人情報が書き込まれてたってんで、保護者が一致団結して弁護士呼んで、県の教育委員会巻き込んで、どうにか削除した言ってたよ。……君が去年の吹奏楽部の顧問をなんとかしようとしたのがきっかけで、事なかれでいるのはやめよう、って、朝比奈さんが保護者に声かけたって言ってたな。ある意味、君のおかげだって笑ってたっけね」

「いや、あれはうちの部員が言い出したことですから。結局振り回されっぱなしでしたし」

 去年の夏休み前にくるみたちが起こした『放送室ジャック事件』を思い出して、興津は肩をすくめる。

「……あのときも思ったっけえが、君んとこの部は仲が良くて羨ましいね。うちは未だにあの事件のことを、三年生が何人かグチグチ言ってて困るよ」

「なんだか申し訳ないです、藁科先生には面倒なことを押し付けてしまったようで……」

「ははは、気にしんで(しなくて)いいよ。人数が多い部活の宿命だ、君も経験があるだろう?」

 彼の言葉に学生時代の部活のいざこざが頭に浮かんで、興津は苦笑いする。

 そしてふと、昨日一つだけ気になったことを訊いてみた。

「そうだ。清水はどうしてます? いつもは昼になるとうちの部室に来てたんですが、昨日は姿が見えなかったもんで」

「清水か。あの子な、クラリネットのパートリーダーやらせることにしたんだよ。今の三年生より経験年数が長いし、練習態度も真面目で、腕前もいいからね。そしたらなにか思うとこあったみたいで、昨日は同じパートの一年と飯食ってたっけね。だいぶ気が強いから、三年の陰口なんて素知らぬ顔して振る舞ってるよ。……それにしても、あの子最近、自分のクラリネット持ってくるようになったんだが、外国製のなかなかいいやつなんだよなあ。高校生が持つにはちょっと高価過ぎるシロモノなんだが、なんか思い当たることあるかや?」

「ああ……」

 冬休み明け、隆玄が「貯金がなくなった」と言いつつ、やたら嬉しそうに笑っていたことがあったが、その行方がなんとなくわかった気がして、興津は心の中で膝を打つ。

 そもそも、藁科は二人が付き合っていることを知らない様子だった。

「うちの部長が、今年の頭に貯金、全部溶かしたって言ってましたよ。たぶんそれでしょう」

 あまりストレートに言うこともはばかられる気がして、ややぼかし気味にそう伝えると、

「あ、……あー、そういうことか! それでいつもそっちに飯食いに行ってたのか、なるほどねえ。はは、伊東みたいなええ彼氏がいるじゃあ、先輩の言うことなんて気にもならんっけね」

 やっと全てを察した藁科は麗の行動に合点がいった様子で、笑いながらうなずいた。


 そこに、

「おまたせしました、スクランブルエッグとハンバーグの甘口カレーです」

 マスクをした男性店員が、興津の注文したカレーを持ってテーブルの横に現れる。

 手を上げるとそれは彼に差し出され、その皿の中身をこぼさないように受け取ると、

「ほんと、大ちゃんは相変わらず子供舌だな。せめて普通の辛さにしろよ」

 チーズとほうれん草を乗せた、明らかに辛そうな色のルーがかかったカツカレーを前にして、隣に座っていた大井が笑う。

「うっさい、辛いの食べると喉に来るんだよ。お前もそんな辛そうなの食べてよく平気だな」

「まだこれでもそんなに辛くないほうだって。大学時代に飲み会の罰ゲームで、サークルの先輩にここの一番辛いやつ食わされたけど、あれに比べれば全然マイルド」

「うわ、やな先輩だな……」

 その話だけで、自分が大学時代に祖父の介護に時間を取られて飲み会に参加もせず、サークルにも入っていなかったことに、興津はめいっぱい安堵した。

「辛味で攻めてくるだけまだマシですよ、私が学生のときはトッピングでやられました」

 揚げ茄子とシーフードのカレーに福神漬けを乗せながら、安倍が会話に加わる。

「へえ、なんかヤバイ組み合わせがあったんですか?」

「……昔、バナナと納豆が同時期にトッピングにありましてね……そのおかげで、いまでもその二つの食材は食べられません」

「うわあ……」

 あまり考えたくない組み合わせを想像して、二人の顔がひきつる。

「ははは、昔はめちゃくちゃだったよなあ。私の頃はこのカレー屋はなかったけど、なんしろ一気飲みの世代だもんで、『飲み会』っちゅう言葉ぁ聞いただけでしんどかったよ」

 キーマカレーとカレーコロッケをテーブルに置きながら、藁科が笑ってため息をついた。


 四人はそのまま、大学時代のよもやま話に花を咲かせながら食事を始める。

(……くるみはどうするかな、進路)

 月末に一回目の進路調査があることを思い出し、彼は彼女の答えに少しだけ怯える。


(たとえば、遠い町に行っても、僕のことを忘れないでいてくれるだろうか……)


 ずっと帰ってこない彼女を待って、この街で独り老いていく自分の姿が頭に浮かんでしまい、興津の胸はちくりと痛んだ。

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