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第63話

 結局、緑郎と彼を追いかけた興津が帰ってくることはないまま、その日の活動は各自が演奏したいものを演奏して、片付けの時間になった。

(……今日はもう、話ができないかもなあ)

 いつもの部活終わりの逢瀬が無くなってしまったことに意気消沈したくるみは、せめて部室の鍵を返すことを理由に、彼が戻ってくるのを待とうと考えた。

(怒られてもいいから、少しだけでも話がしたいな……言い訳する気はないけれど、わたしを庇ってくれたお礼が言いたい……)

 彼に近づいたときにほのかに香ったコロンの匂いが懐かしくなって、ぎゅっとくるみの胸は痛んだ。


 窓の外は春の日暮れのまばゆさを徐々に纏いながら、ゆっくりと南東から海風を運んでくる。

 その優しい色合いをしばし見つめてから、くるみは窓のカーテンを全て閉めた。


「……よかった、兄さんからOKもらえたよ」

 スマートフォンの画面を見て、敦哉が顔を輝かせる。

「ほんと? あっくん、よかったね」

 紗雪がギグバッグを背負いながら、ほっとした笑みを浮かべた。

「お、あっちゃん、大輔だいすけさんとなんかあるのか?」

 カバンの中にスティックケースを突っ込みながら、隆玄が明るく問う。

「いや、ちょっと借金を申し込むだけだよ。返せるあてが今のところないけどね」

「いいじゃん、大輔さんなら、きっと出世払いできるまで待っててくれるだろ」

 隆玄と敦哉は実の兄弟のようにはしゃいだ。

 そしてふと、

「そうだ。……紗雪、今日はどうだった?」

 隆玄は妹を見て、優しく笑いかける。

「え……」

「楽しかっただろ?」

「……」

 兄の言葉に、明るかった紗雪の表情はまた曇ってしまった。

「……はは、訊き方が悪かったかなぁ。ごめん。……あっちゃん、途中まで一緒に帰ろう」

 妹の肩を叩いて敦哉に目配せすると、

「くるみちゃん、鍵ありがとねぇ。あとよろしくー」

 隆玄はそう言って、二人を連れて去って行った。


(……紗雪ちゃん、何かあったんだろうけど、隆玄先輩に止められちゃった。……きっと、何も訊かない方がいいんだろうな……)

 強く押し留めるような隆玄の目を思い出して、くるみはため息をつく。

(紗雪ちゃんのことも気になるけど、部長だからみんなをまとめなきゃいけないし、受験だってあるのに……先輩、パンクしちゃわないかな。……ああ、でも、麗ちゃんがいるから大丈夫か)

 多分彼らがこの後、音楽室の前で合流するであろう少女の顔が浮かぶ。

(そういえば今日、こっちにお昼食べに来なかったな。いや、来たところでいい気持ちになんなかったとは思うから、来なくて正解なんだけどさ……)

 きっと麗なりに何か思うところがあるのだろう、くるみは月曜日にいつもの階段で食事をするときにそれを聞くことにして、そこで考えるのをやめた。


 ややあって、

「先輩、今日は本当にすみませんでした」

 側に寄ってきて丁寧に頭を下げたソフィアに、くるみは笑って首を横に振る。

「いいよ、大丈夫。……ソフィアちゃんこそ、ひどいこと言われてたけど……」

 緑郎の暴言を思い出して、くるみは嫌な気持ちが沸き起こる。が、

「ああ、あんなの慣れっこです。中学の頃はもっとひどいこんいっぱい言われたんで、気にしてません。……半分は向こうの言うとおりですしね」

 ソフィアは気丈に笑うと、肩をすくめて舌を出した。

「アタシが言うのも難ですけれど、丸く収まってくれるといいですね」

「そうだね」

 二人は互いに苦笑する。

「それじゃ、すみません。お先に失礼します。お疲れ様でした」

 ソフィアはそう言って部室の戸口に向かい、廊下に出たところでくるみを振り返ると、にこりと笑って手を振り、走り去っていった。


「先輩、今日はありがとうございました」

 ソフィアが部室から出て行ってすぐ、帰り支度を終えた凛子がくるみの前までやってきて、嬉しそうにぴょこりとお辞儀をする。

「え? わたしなんかした?」

「助けてくれたじゃないですか、わたしが今日、自己紹介で『オタクだ』って言われたとき」

 彼女にそう言われてから、昼休み中のトラブルのせいですっかり忘れていた午前中の出来事を思い出し、くるみはほんの少しだけ照れた笑みを浮かべる。

「いや、……だって、ギター上手なのはホントのことだもの」

「いえいえ、とんでもない。実際オタクなのは確かにそうなんで、悔しいけど言い返せなくって、でもケンカしたくないなあって思ってたら先輩がフォローしてくれたもんで、ちょっと泣きそうでした。……ありがとうございました、このご恩は一生忘れません」

「あはは、大袈裟だなあ」

「大袈裟なんかじゃないですよ、本当に嬉しかったです」

 そう言って凛子は艶やかな笑みを浮かべると、

「先輩、これからもよろしくお願いします。それじゃ、お先に失礼します」

 西日が入り始めた廊下へと軽やかに駆けて行った。


「くるみちゃん、今日は大変だったわね」

「本当にお疲れ様、お互い参っちゃうね」

「とてもお気疲れされたでしょう」

「あはは、なんか言っちゃいけないこん、山ほど言った気がするなあ……」

 祐華に肩を揉まれ、ミチルに頭を撫でられながらくるみは苦笑いする。

「いや、りゅーげんも言ってたけどさ、あのくらいキツイこと言ってよかったと思うよ。あいつ、多分今まですっげー甘やかされて育ってきたんだろうと思うから、みんながもっと迷惑する前に、自分が何してるかって、俺らがわからせてやったことにしとこう」

 二人分のカバンと自分のギグバッグを背負い、右手にミチルのキーボードを持った太陽が、やっと本来の彼らしい穏やかな目で笑う。

「そうよ、自分が機嫌悪いからって周りの人まで嫌な気持ちにさせたり、見た目や趣味のことで人を貶したりなんて絶対に駄目よ。くるみちゃんにそのままそっくり言い返されて、いい薬になったんじゃない?」

 祐華がそう言って、安心させるようにくるみの背中をやわらかく叩いた。

「サッカー部でもうまくやっていけるといいんですが……きっと軽音楽部にいるよりは、厳しく言われるでしょうから、もう少し他の方へ配慮ができるようになれるといいですね」

 くるみの身体から手を離し、ミチルがバイオリンケースを両手で持つ。

 四人は顔を見合わせ、嵐が去ったことを確信して微笑んだ。


「……それじゃ、鍵よろしくね。また月曜日」

「先生帰ってきたら、よろしく言っといて」

「お先に失礼しますね、くるみさんもお気を付けて帰ってください」

「うん、ありがと。みんなも気を付けてね」

 戸口から出て、廊下を去って行く三人を見送ってから、くるみは部室の中に戻って椅子に腰かけ、ふう、とため息をつき、目を閉じて机に突っ伏した。


 祐華たちが部室を出て行ってから十分後、下校時刻の予鈴が鳴り、うとうととしていたくるみは目を覚ます。

(……本鈴の五分前まで待って、戻ってこなかったら帰ろう)

 軽くあくびをしながら黒板の上の時計を眺めてそう心の中で独り言ちると、くるみはポケットからスマートフォンを出して、画像のお気に入りフォルダを開き、去年の文化祭の後に興津と二人で撮った写真を開いた。

(懐かしいな……もう、これから半年経ったんだ……)

 画面の中の二人の姿で違うところは、自分の髪の長さくらいだろうか。

 ふふ、と小さく笑って、くるみはそっと唇を興津の画像に寄せる。

(先生、好き……)

 いつか本当に、彼の唇にキスすることをうっとりと夢見ながら、もう一度くるみは画面に同じことをする。

 そのとき、

「……くるみ」

「うえっ!?」

 背中から画面の中にいる人の声がして、くるみはあやうくスマートフォンを落としそうになるほど動揺する。

「あ、え、せ、せんせい、……」

 無言で部室の扉を閉めると、耳まで真っ赤になってしまったくるみの側まで、興津は靴音を立てて歩み寄る。

「動かないで」

 そのまま椅子越しに背中からぎゅっと抱きしめられ、くるみはますます顔が熱くなる。

「……可愛いことしてるね」

 頭の上から溶けそうなほど甘い声が降ってきて、彼女はすっかりのぼせてしまった。

「や、やだ、……いつから見てたんですか……」

「画像開いたとこから」

「……引きました?」

「そんなことないよ、すごく嬉しい……」

 本当に自分のことが愛おしくてたまらない気持ちがいっぱいに詰まった彼の声は、今日あった嫌な出来事を全部吹き飛ばしてしまうほど心地よかった。

「くるみ、……愛してるよ、絶対に君のことは、誰にも渡したりしない……」

 状況が状況だけに、やはり気が気ではなかったのだろう。自分を抱きしめる腕に力がこもったことに、くるみはほっとしつつも、胸がひりひりと焼けるように痛くなるのを感じた。


 隣り合った机の椅子に横向きに向かい合って腰掛けながら、興津の身に三月の半ばに起こった事実を聞かされて、くるみはしばらく言葉が出なくなってしまった。

「ごめんね、本当は相続放棄が済んでから話そうかと思ってたんだ。内容も内容だし……」

 そこまで喋った興津の頬に、くるみは思わず左手を伸ばした。

「……こら、だめだよ」

 くすぐったそうに彼女の手を絡め捕り、彼は照れくさそうに微笑む。

「……そっか、やっとわかった。……先生、横顔がアデリーヌさんにそっくりです」

「え?」

「……アルバムのアートワーク、どこかで見たことあるなって思ったの、先生と似てたからなんだって……今、すごく納得しちゃった」

 プレイリストの既視感の正体にたどり着いて、くるみは安堵の笑みを浮かべる。

 そして、同時にずっと胸の奥に漂っていた、『彼がどこかに行ってしまうのではないか』という不安の理由にも合点がいき、くるみは手を解くと床に膝をついて、彼の腕の中に飛び込んだ。


「……どこにも行かないでね、先生」

 背中と腰にぎゅっと腕を回し、シャツ越しの胸板に頬を寄せて、くるみは大きく深呼吸をする。

 彼の心臓の音が耳の奥に優しく響き、いつものコロンのラストノートがふわりと匂い立って、彼女は今日初めて安心して呼吸をするような心持ちになった。


「行かないよ。僕はずっと君の側にいる」

 彼女の頭に頬を載せ、興津もほっとして体の力を抜く。

 息をするたびに香る甘いシャンプーとシャボンのオードトワレと、胸元に感じる柔らかくて熱い吐息が嬉しくて、彼は彼女を抱え込むように抱きしめながら長い黒髪を撫でた。

 絶対になびくことはないと思ってはいたが、しつこいアプローチを目の前で彼女が全否定してくれたことで、自分の中に降り積もっていた不安がどうにか霧散し、波の高かった心が凪いでいく。

 昨夜はまんじりともせずに夜を明かしたが、今夜は安心して眠れるという確かな思いに、彼は無意識に幼い子供のような笑みを浮かべていた。


「ずっと一緒だよ……僕は君の行くところなら、どこにでもついていく」

「うん。わたしも、あなたが行くところなら、どこまでもついてくから……」

 二人きりの部室で、興津とくるみは互いの立場をほんの僅かの間だけ忘れて誓い合った。


「……あの、ところで……」

 部室の鍵を閉め、二人で並んで廊下を歩きながら、くるみはあまり話題にしたくない気持ちはありつつも、ちゃんと結末を聞かなければいけない気がして話を切り出す。

「あの子、どうなりました?」

「……ああ……一応聞く?」

 興津も困ったように質問を返すが、くるみは決して乗り気ではないことを示すために、肩をすくめてから渋い顔でうなずいた。

 彼はその仕草を見て、自分が見てきたものへの困惑を隠さないまま話しだす。

「未角は寮生なんだけれどね、いくら校舎の近くに寮があると言っても、帰るまでに何かあったら困るから、後を追いかけたんだ。でも、寮母さんに聞いても帰ってないって言われて、学校からあの子のスマホに電話しても出てもらえないしで……もしかしたらなにか事件に巻き込まれたのかも知れないと思って、そっからは他の先生っちにも手伝ってもらいながら、手分けして、サッカーグラウンドと校内と、学校の周りを見て回ったんだ。でも、全然見つからなくって……」

「まさか……」

「いやいや、ちゃんと続きがあるから安心しなさい。……警察に連絡しようかって話をしてた所に、寮母さんから未角が帰ってきたって連絡が来てね。私が話をしに行くよりはいいだろうということで、サッカー部の監督にあとは任せて、こっちに戻ってきたんだ。……まあ、月曜日からはきっと、こっちに来ることはないと思うよ。他の先生方もだいぶおかんむりだったから」

「うああ、運動部の監督のお説教とか、想像するだけで怖い……やっぱりちょっとかわいそうなことしたかなあ」

 今頃相応に叱られているだろう緑郎を想像して、くるみは苦笑いを浮かべる。

 その彼女の同情の言葉を、興津は首を横に振って打ち消した。

「いや、そもそもあの子は、言ってることもやってることもわがままばっかりで、ずっと場の空気を悪くしていたから、ここで怖い先生にしっかり叱られないとダメだよ。もう高校生なんだし、自分の言動の後始末は自分でやらせないとね」

 彼はそこまで喋ると、少しだけ声をひそめる。

「……ここだけの話だけど、君が僕の言いたかったことを代弁してくれたから、すごくスッとしたっけ。生徒同士で言う分には何でもないけれど、教師が言ったら問題になる言葉っていうのも、やっぱりあるもんでさ。助かったよ、ありがとう」

「あはは、……なんか、変なとこ見られちゃったっけ……」

 一連の出来事を思い出して、くるみは急に恥ずかしくなって指をもじもじと動かした。

「まあ、君に口喧嘩で勝てないことはよくわかったよ。でも、ちょっと言い過ぎだ。今回は見逃すけど、次からは気を付けなさい」

「はーい」

 全く悪びれないくるみの返事に、くくっ、と興津も悪い笑顔を返しつつ、彼女の肩を撫でた。

 そこで彼はふと表情を曇らせ、小さなため息をつく。

「……それより、問題は伊東の妹だな」

「……紗雪ちゃん、……」

 敦哉と話していたときの素直な笑顔がきっと彼女の本来の姿なのだろうという気はするが、それ以外はずっと重く暗い表情を浮かべていた、眼鏡の奥の紅茶色の猫目をくるみは思い出す。

 興津は少しためらうようにうつむいたが、すぐに前を向いて静かに話し始める。

「……『ひこうき雲』はね、病気で亡くなった友達のことを偲んだ歌なんだよ。もしかしたら何か、似たようなことがあったのかも知れないな……」

 ずっと引っかかっていたものに正しい答えが与えられて、くるみはひとり納得した。

 しかし、彼はそこで話を終えることなく、言葉を続ける。

「でも、一つ変なのは、なんであの曲を歌うのにわざわざアコギを選んだかなんだ。今まで弾いたことのない楽器より、経験もあるピアノのほうが、あの歌は弾き語りが楽なはずなんだよ。原曲の演奏もピアノメインでされているしね。自己流とはいえ、四か月かけてコードがあれしか弾けないっていうのも、なんだかおかしい気がする……」

 興津はそう言って口髭の下に左手をやりながら、階段を一段ずつゆっくり下りる。

「……まだ、なにか別のことを隠してるのかな……」

 踊り場の窓から見えるすみれ色の空を眺めながら、くるみも暗い顔で小首をかしげた。

「兄の方に訊いてもいいんだっけが、今日の様子だと素直に話してくれそうにないからね。どのみち、少し気をつけてあげることしかできないよ。……まあ、あの三人の様子じゃあ、いつも妹の近くには舞阪がいるみたいだし、あの子と話しているときの表情はそこまでひどくないから、一緒にいれば大丈夫だろう。君もあんまり余計なことは気にしんで、普段通りに接してあげなさい。歌詞を見てしまったからには、もう『忘れろ』とは言えないっけえが、変に気を使わないようにね」

「はい」

 徐々に影色の濃くなる階段を、彼女は素直にうなずきながら彼と一緒に降りた。


 階段を降りきったところで興津に鍵を預けると、二人はすっかり日の落ちた廊下で向かい合う。

「それじゃ、気をつけて帰りなさい。また月曜日にね」

「はい、お疲れ様でした」

 昇降口に歩いていくくるみを見送って、興津は踵を返して職員室に向かう。


(……去年の第三中の状況を、調べられないだろうか。どうも引っかかる)

 背中で聞こえた隆玄と紗雪の会話、そして敦哉の殺気にも似た、淀んだ気配にひどい胸騒ぎがして、ギグバッグのハーネスを持つ彼の手に力が入った。

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