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第58話

「いやぁ、くるみちゃん怖かったねぇ」

「そりゃそうだ、シチュエーション最悪だし、あの一年の態度はだめだろ」

「そもそも、サッカー推薦なのに見学にもいかないなんて、あの子ちょっと引くわ……」

「いくらくるみさんが好きでも、もう少しなんとかしようがあったんじゃないでしょうか」

 一年生が帰り、日が落ち始めて薄暗くなった部室の隅で、くるみ以外の上級生たちはひそひそと会話を交わしながら、最大級に不機嫌になっているくるみと、彼女に声をかけようとして何度もタイミングを逸している興津を見遣る。

「なんで自分とくるみちゃんが付き合って当たり前みたいな言い方だったんだ、あいつ」

「くるみちゃんに一発で嫌われたの、理解できてなさそうだったなぁ」

 髪の毛が蛇のように動き出すのではというほどの剣幕で怒って、無礼な申し込みを断ったくるみに、「もったいないなあ、俺と付き合えば毎日薔薇色っすよ」と言い放った緑郎を思い出し、太陽と隆玄が苦言を呈する。

「あの子、くるみちゃんがいちばん嫌がるタイプかも……」

「そうですね。確かにくるみさんはとっても可愛らしい方ですけれど、見た目のことをあれこれと言われるのは、とても嫌だとおっしゃられてましたし……」

 はあ、と祐華とミチルがため息を揃って吐く。

「……声、貶されたのと、先生の前でっていうのが、いちばんのブチ切れポイントなんだろうなぁ」

 隆玄が一段と声を潜めて誰ともなく言うと、それを聞いた三人は揃って首を縦に振る。

「興津先生のこんだから、余計な気を回しそうだしね」

「変なことにならなければいいですけど……」

「心配だわ……」

 自分たちに明言こそしてはいないものの、きっと互いを深く想い合っているであろう二人の関係にひびが入らないことを、部員たちは祈るしかなかった。


 部室に自分たち以外の人間がいなくなったことを確認すると、くるみは興津に背を向けたまま盛大にため息をつく。

「……あの、くるみ、……大丈夫か?」

「大丈夫じゃないです。ものすごーくやな気持ち」

 腹立ちまぎれに思わずくるみは八つ当たりするが、彼女の胸中を察してか、彼は黙ってそれを受け止めたあと、仕方なさそうに口を開く。

「……困ったね、サッカー部の監督とコーチには今から話をしておくけれど、最終的な決定権は本人にあるから、どうしてもうちに来ると言われたら、断ることが出来ないんだよ……」

「わたし、あの子嫌いです。言ってることが薄っぺらで。おまけにわたしが一番気にしてること、ド直球でディスるし、あれで付き合おうと思ってもらえるって考えがどうかしてる」

「まあ、……あんな言い方しておいて、君が断るはずない、みたいな口調だったのは、僕も聞いていて不愉快だったよ」

 彼女の言葉にそう返して、興津もため息をつく。

「てか、『()()()』って何、『()()()』って。超失礼。いままで告ってきた男子の中でダントツにムカつきます。何食べて生きてきたらあんな風にほぼ初対面で彼氏面なんてできるの」

「うん、あの言い方は君に対する敬意が全くなかったし、だいぶ厚かましかったな」

「ぶっちゃけ、あんな感じの男子に小学校の頃すごいいじめられたんで、印象最悪です」

「なるほどね」

 部室のカーテンを閉めながら、興津はくるみの愚痴に付き合った。

「……彼氏いる、って言っちゃえばよかったかな」

「いままでもそう言って断ってきたんだろ、別に言っていいよ」

 背中側に興津が立った気配に、くるみはそちらを振り向いて、ひどく困った顔をした彼を見上げる。

「先生、余計なことしないでくださいね」

「何が?」

 きょとんとした彼が憎らしくなり、くるみは不安に任せて言葉を発する。

「あの子とわたしのこと、何かしようなんて思ったら、もう絶対口きかないから」

「何言ってるんだよ、別に何もしないって。なんで急にそんなこん言い出すんだ」

「……だって、なんか最近、先生変だもの。わたしの話、ときどき聞いてなかったりするし、返事もいいかげんだし」

「!……そんなこたあない、ちゃんと聞いてるって」

 事実を言い当てられて、興津はぎくりと身をすくませる。

「わかってる。わたしと付き合うの、窮屈なんでしょ。そうだよね、見つかったら懲戒解雇なんだから」

「そんなこん言ってないだろ、落ち着きなさい」

 怒りという刃物で、ずっと胸の中に溜め込んできた心細さと寂しさの詰まった部分がぷつりと切り裂かれ、一気にはじけたように溢れ出し、くるみは苛立ちにまみれた言葉を抑えることが出来なくなっていく。

「こうやって二人で話してるのだって、誰かから報告されたらアウトなんでしょ。だったらさっきの子にわたしを押し付けて、逃げちゃった方が楽ですもんね」

「そんなこんしないよ、待って、ちょっと」

「先生っていつもそう。いつだって別れてもいいみたいな空気で、それが幸せだとか言い出しそうで、いつかわたしのことなんか置いて、どっか遠いところに行っちゃうんだ……」

「いや、くるみ、本当に落ち着いて。僕はそんなのひと言も言ってないし、どこにも行かないよ。……」

 そう言った途端に、三月に突然自分にもたらされた話を思い出して、興津は少しだけ言葉を飲み込んでしまった。

「……ほら、また嘘ついた」

 そのわずかな隙を、彼女はすっかり誤解してしまった。

「……先生、ホントのこと言ってよ。わたしと付き合うの疲れたなら、もうやめるから……」

 ぼろぼろと泣き始めてしまったくるみに、興津は何も言えないまま寄り添う。

「……普通の恋人同士じゃないの、わかってる。本当はいけないってわかってるのに……手を繋いで、ハグするだけでもすごく危険なんだって、何かあったらって……」

「くるみ……」

「……ごめんなさい……好きなんて、言わなきゃよかった……片想いのままだったら、先生を困らせたりするなんて、きっとなかった……」


 自身でも納めどころのない感情に振り回されているくるみを、興津は苦い気持ちで見つめる。

(あの野郎……本当に、なんてことをしやがったんだ……!)

 未遂で終わったとはいえ、去年、危うく襲われかけてから、やはり心の中に負ってしまった傷が癒えてはいないのだろう、くるみは冬休み明けから時折――無自覚なのだろうが、こうして自分にだけ感情をあらわにして、泣いたり甘えたりを繰り返し、ひどく不安定な様子を見せた。

 決して大々的にではないが、それなりに報道されるような事件にまで発展した『事件』に巻き込まれただけに、本来であれば転学も視野に入れて良いはずなのに、余計な詮索をされることがないよう、堂々と、まるで何事もなかったかのように振る舞い、本当ならば男そのものが恐ろしくなってしまっても仕方のない出来事だのに、彼女はスクールカウンセリングすら「邪推されたくないから」と受診をせず、日々を『普通に』暮らしている。

 自分が彼女のクラス担任になれたのも、「その場にいて、話を聞いていたはずの他の職員が気にも留めなかった中、単身、娘の身を案じて助けに行ってくれたから」という、彼女の父からの強い信頼による多額の寄付金を伴う『要請』と、それを汲んだ理事長直々の配慮があってこその采配だった。

 そうして新学期が始まってからは、気分も一新されたのか、ここ一週間でようやく落ち着いてきたところだったのだ。

 目を通すも痛々しい聴き取り調査の資料によれば、空恐ろしい台詞で脅迫し、話を聞く耳も持たず、あらぬ疑いをかけて「全裸になれ」と迫りながら追い回したというのだから、先ほどの男子生徒のように強引な質の男に言い寄られることは、せっかく薄れてきていたその記憶をほじくり返されるようなものに近い感触を伴い、不快極まりないだろう。

 それはそのまま、事故の調査のために、繰り返し同じ話を何度も警官や医者にしなければならなかった幼い日の自分の姿と、それによってすり減った心が、帰宅した空っぽの家の座敷で家族の遺骨と遺影を見た瞬間に跡形もなく潰されて、それきり何か月も声を失った記憶と重なる。

(……絶対東京なんか行かない。僕は、この子の側にいて、この子を守らないと。くるみが自分をここまでさらけ出してるんだ、お前もカッコつけてんじゃねえぞ、大地)

 ようやく彼は迷いを振り切り、くるみに己の隠し事を全て打ち明けてしまうことに決めた。


 両手で顔を覆って泣き続けるくるみの肩を一度叩くと、興津は戸口に行っての部室の明かりを落とす。

 そして、窓の外と廊下に明かりと人の気配がないことを確かめてから、彼はもう一度彼女の側に歩み寄り、しっかりと彼女の身体を自分の胸元に抱き寄せた。


「先生、……やだ、やだ、わたし、先生の側にいたい……ほったらかしにしないで、ちゃんとわたしの側にいてよ……」

 泣きじゃくっている彼女の涙が、彼のシャツにじわりと冷たく染み込んでいく。

「もうやだ、ぜったいやだ、……なんで、こんなに、……わたし、だって、好きなのは先生なのに……ほんと無理……どこにも行かないで……」

 言葉が意味をなさなくなるほどに先ほどの出来事がショックだったのだろう、なかなか彼女は泣き止む気配を見せない。

「大丈夫、僕はどこにも行かないよ」

 彼の言葉を聞いても、彼女の頭は胸元で横に振られてしまう。

「信じてもらえないか……」

 彼が左手で彼女のなめらかで長い髪を優しく撫でると、小さな嗚咽が聴こえた。

「順番に話そう。……僕は君と付き合うことに疲れてなんていない。困ってもいない。だけど、自分が何をしてるのかはわかってるつもりだ。……君の気持ちを受け入れたせいで、君がこんなに怯えてしまうなんて、全然考えなかった。くるみ、君は何にも悪くない。いつだって悪いのは僕のほうだよ。だから自分を責めないで」

 再び横に動いた形の良い頭を撫で続けながら、興津は先ほどの決心を口の端に乗せた。

「でも、もしも、このごろの僕の態度が君を不安にさせてしまっていたなら、本当にごめん。……そうだな、言うつもりなかったんだけえが(だけども)、君には話すより、他ん(ほかに)ないか……」

 その内容を悪い方に解釈したらしいくるみが、腕の中で身体をこわばらせる。

「大丈夫、君が心配しているようなこんじゃない。僕が好きなのは君だけだよ、くるみ。他の誰にも、君のことは渡さない。これからも君の側にいて、ずっと守ってあげるから。安心しなさい」

 その言葉を聞いてようやく背中に回ったブレザーの腕の感触が嬉しくなり、彼はようやく苦悶の表情を手放す。

「……でも、少し長い話になると思うから、明日にしよう。今日はもうそろそろ帰らないと」

 ぽんぽん、と背中を優しく叩くと、くるみはようやく顔を上げる。

「安心して。悪い話じゃない。……言うかどうかずっと迷ってたけど、僕の家族のこんだから、やっぱりちゃんと君にも言っておかないといけないな。……春休み中に、僕の母さんのことで、少しわかったことがあったんだ。あんまりにも嘘くさくて、自分でも信じられない内容だけどね」

 興津がそう言って微笑んだのを見て、彼が嘘をついていたのではなく隠し事をしていたのだとわかり、やっとくるみはこのごろの彼の妙な態度が腑に落ちた様子で、小さく息を吐いて身体の力を抜く。

「よしよし、いい子いい子。……大丈夫。何も心配しなくていいからね」

 胸元でうなずいたくるみを、完全下校十分前のチャイムが鳴るまで、興津はそれきり口を開くことなく、じっと黙って抱いていた。


「……あの、先生」

「うん?」

 窓越しにオレンジの四角い陽だまりが落ちている廊下を並んで歩きながら、くるみは隣の彼に前を向いたまま小さな声で呼びかける。

「さっき、悪いのは全部自分だ、なんて言ってたけど、……わたしだって同じです。本当だったら、この気持ちは卒業するまで、ずっと秘密にしてなくちゃいけなかったのに」

「……」

「だから、わたしは先生の共犯者です。……もしも先生に何かあったら、わたしも学校辞めて、どこまでも一緒について行きます」

「!……そんなこん言っちゃだめだよ」

 夕日が濃い影を作る階段の手前で立ち止まった興津の隣で、くるみも脚を止め、すらりと背の高い彼を見上げて微笑む。

「いやです。もう決めたから。先生がだめって言っても、絶対言うこと聞いてあげない」

「……前言撤回。君は悪い子だ」

 彼は肩を落として、それでも幸せそうに笑顔を返す。


(……僕があの話をしなくても、くるみはそんな覚悟、とっくにできてたんだ)

 言わせるつもりのなかった台詞が結局は彼女から告げられてしまったことに、興津はもがいていた自分が馬鹿らしくなって、一度だけ深呼吸をしてから、愛しい『共犯者』の背中を追った。

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