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第57話

「はい、じゃあこの姿勢をキープしたまま、二十秒間声を出します。3セットいくからね」

 金曜日の午後の部室の中、ジャージ姿で髪をポニーテールに結ったくるみが、V字バランスをしながら余裕の表情で発声練習を始める。

 今ではもう軽音楽部の習慣となった筋力トレーニングを、くるみと同じようにこなす三年生と二年生の部員の後ろで、一人、また一人と姿勢を保てない者や、声が出せない者、呼吸が続かなかった者が脱落していく。

 歓迎会の翌日から始まったこの『基礎トレーニング』は、初日だけで入部希望者の数を半分に減らし、その後一週間をかけて毎日行われ、そのたびに順調に彼らを選別していった。

 残っている一年生はもう二十名を切っているが、今日を乗り越えれば本入部となり、明日から正式に活動を始めることになる。

 最後の試練ともいえるこの日のトレーニングは、下手な運動部よりもハードなものだった。


 入部を取り消した一年生の「もっとゆるい部活だと思ってた」「運動部みたいなことはしたくない」という声とともに、「牧之原先輩がこんなに厳しい人だと思わなかった」という文言が混じっていたことに、興津は彼女に申し訳なく思いつつも、そう言ってもらえて安堵していた。

 何よりも、くるみ自身がその意見を喜んでいることが、彼にとって救いになった。

 去年の文化祭以来、これまで関わりの無かった男子生徒に突然交際を申し込まれることがあり、そのたびに相手と話すのも断るのも面倒だとこぼしていた彼女にとって、自分にマイナスイメージがつくことは非常にありがたいらしい。

 その証拠に、こんな昭和のスポ根アニメのような根性論丸出しの作戦を彼女は快く引き受け、鬼教官として――それも実に楽しそうにその役をこなしている。

(なんだか、押し付けちゃったみたいでくるみには悪いけど、僕が言ったりやったりするよりはずっと効果があるっけ)

 ほとんど意地になって歯を食いしばる一年生を見ながら、興津は彼らに励ましの言葉をかける。

 そして以前よりだいぶ余裕はあれど、やや負荷の高めな今日のメニューに少しだけ苦悶の表情を浮かべている上級生たちを見て、興津は思案するときの癖で口髭の下に手をやった。


 このトレーニングは入部希望者たちのみならず、二・三年生の実力の底上げにもなっている。

 去年の定期演奏会で『光るなら』を歌ったとき、コーラスで歌ったサビの部分に興津は一つの可能性を感じていた。

 メインやソロで歌うことがなくても、コーラスは重要なパートのひとつだ。

 紘輝が抜けた状態での歌声のバランスがどこまで変わったか、今日残った一年生の声色はどうなのか、それはあとから確認するとして、歓迎会で聴いた合唱部の美しいハーモニーにすっかり触発された彼は、機会があればぜひとも試してみたいこともあり、今後も彼らを指導するなら、ひとつの目標を定め、そこに重点を置きたいと考えていた。


 V字バランスを終え、間髪入れずに始まったニートゥチェストに、一年生たちはうめき声を上げながらも必死について行っている。

 事前にそうしても構わないと告げてはあったが、昨日までに辞めた一年生の中には、このトレーニングの最中に姿を消してしまう者も少なからずいた。

 それはもしかしたら、あり得たかもしれない可能性を失くしてしまう諸刃の剣だったかもしれない。しかし、部費で楽器を買えるだけの余裕がない今、うっかり個人でそれを買わせてしまう前に諦めさせることができてよかったと彼は思うことにしておいた。

 楽器は決して安いものではない。中古販売でよく見かける、それこそ数千円で買えるジャンク品を選べば値段は張らないが、必ずと言っていいほど破損や欠品があり、前の使用者の身体の癖に合わせて削りなどのカスタマイズがされていたり、何よりメーカー保証が利かないうえ、『初心者セット』のようにアンプやシールドといった周辺機器がついてこないため、――これは今もなお、そのループを繰り返している彼の経験上言い切れるのだが――あれもこれもと必要なものを選んでいくうちに、レジでの合計金額が想定外になることもままある。

 かといって、新品でも粗悪なものに当たれば、フレットバズ――いわゆる『ビビり』が起きやすかったり、ナットやペグなど部品のクオリティが低くチューニングが不安定になったり、下手をすればフレットのエッジ処理が綺麗にされておらず、演奏中に指を痛めたり、バリ取りをしてもらうために楽器屋に持ち込まなければならなくなったりなどして、時間と金が余分にかかる可能性もある。

 ゆえに、用意するならできる限り『間違いのないメーカーのそれなりの価格の新品』を選んで欲しいというのが興津の信条だったが、この先ずっと続けるかどうかもわからないものに、ほぼ確実に親の財布から数万から十数万の金額を出させることは、いくら個人の責任とはいえ、やはり心苦しい。

 しかし、それを口で言おうが何をしようが、楽器だけ買って満足する生徒は出る。

 金銭的に余裕のある家庭の者が多く通う私立校である分、その確率は高いだろうし、それが他の部員のモチベーションを妨げるのはどうしても避けたい。

 ならばこうして最初に目の細かいふるいにかけて、この先も部活を続けていくという強固な信念と、基礎練習も音楽の重要な一つの要素だということを受け入れる意思があるかどうかを、自分の身体を通して問わせる方が幾分か建設的だと彼は思って、この『作戦』を提示したのだった。


(僕の考えは古いかもしれないし、やり方も厳しいかもしれない。でも、やるからには本気で取り組んで欲しいし、無理はさせたくない。三年間しかない高校生活なんだ。やる気がないこんをやってるふりして無為に過ごしたら、後悔したって取り返せない)

 ふとそんなことを思うと、なんだか自分がこうして立っていることも無駄な気がして落ち着かなくなり、興津はジャケットを脱いで椅子に掛けると、上靴を脱いで床に肘をつき、その場でプランクを始めた。


 いつものバックエクステンションの後にヒップリフトまで追加して、トレーニングは終わる。

 懸命に大きく息を吸ったり吐いたりしながら背中を伸ばす一年生たちに、

「はい、お疲れ様でした。今日はちょっとキツめにしたけれど、普段は昨日までのメニューを週に必ず二回はやります。でも、一年生は最初の一か月、筋肉が出来上がるまでは家でも毎日やってね。休んでいいのは部活がない日曜日だけだよ」

 潰れたポニーテールを解いたくるみが、絶望するしかない言葉を容赦なく叩きつけると、数名の一年生が顔をひきつらせた。

(……多分今日で十人は切るな。まあ、うまくやれば、バンドがもう一組か二組は組めるだろう)

 残ってくれそうな人数を予想して、興津も腹筋を伸ばすために背中を反らした。


 予想に反してごっそりと十名以上が入部辞退を申し出て、残った一年生はたったの五名となった。

「……ちょっとやりすぎましたか?」

 淡い水色の空にほんのりと日暮れの気配が迫る窓を背にして、ジャージの上からスカートを穿いたくるみが、申し訳なさそうに興津に問う。

「いや、いいよ。冬場の水泳部と、さほど変わらないトレーニング量だ」

 以前働いていた公立高校で、泳げもしないのに任された運動部の顧問の経験を思い出して、彼はくすりと笑う。

「さて……今日はもう時間もないし、正式な自己紹介は明日に回すとして、名前だけもう一度確認させてくれ」

 横線だらけの簡易名簿を手にした彼は、指で残った名前を辿りながら、五人に声をかけた。


「伊東紗雪」

「……はい」

 小さな声で、隆玄の妹が返事をする。

 兄にそっくりな大きな猫目と太い眉に、腰まで伸びた黒く長いおさげ髪が印象的な少女だ。

 トレーニング中は外していた赤いアンダーリムのメガネをかけて、彼女はブレザーを羽織る。

(ほんと、紘輝先輩と祐華ちゃんみたい。全然似てないうちとは大違いだなあ)

 兄の隣に立った紗雪を見て、くるみは微笑ましい気持ちで二人を見た。


掛川かけがわ凛子りんこ

「はいっ!」

 癖のない黒髪をポニーテールに結った少女が、元気に手を上げた。

 その名の響きに違わない涼やかな目元と、綺麗に形の整った眉と赤い唇が美しい。

(初めて見たときから思ってたけど、この子、美人さんだなあ。和装とか似合いそう……そう言えば初日にギター持ってきてたの、この子と紗雪ちゃんだけだったっけ)

 ポニーテールの根元に、カバンから取り出した白いレースのシュシュを巻いた彼女がどんな演奏をするのか、くるみは興味を持った。


舞阪まいさか敦哉あつや

「はい」

 紗雪の隣に立っていた少年が、折り目正しく興津の方に身体を向けて答える。

(この子が隆玄先輩と紗雪ちゃんの幼馴染なんだ……なんか、あんまり目立たない感じの子だな)

 自分の周りが少し個性的すぎるというのもあるのだろうが、際立って強調された顔のパーツがあるわけではなく、背が飛びぬけて高いとか筋肉が発達しているという身体的な特徴もない。

 良くも悪くも平凡な印象を受けたが、

(でも、声がきれいで、耳に気持ちよく入ってくる。優しそうな雰囲気だし、癒し系、って感じかな)

 却ってその『目立たなさ』が新鮮な気がして、くるみは敦哉を心の中でそう認定した。


松崎まつざきソフィア」

「はい!」

 既に帰り支度を終えて椅子に腰かけていた、エキゾチックな顔立ちの少女が立ち上がる。

(いや、改めて見ても、背ぇ高っ!)

 太陽と同じくらいの背丈をしている上、頭の天辺で長い黒髪を大きなシニヨンにまとめているため、彼女は余計に上背があるように見える。

(ソフィア、ってことは、お父さんかお母さんがブラジルの人かな?)

 小学校の同級生に同じ名前のブラジル人の子がいたことを思い出して、くるみは推測する。

 と、ソフィアはふいに彼女を見て、にっこりと歯を見せて笑いながら手を振った。

(やっぱりお国柄かなあ、フレンドリーだ)

 仲良くやっていけることを願いつつ、くるみは微笑んで彼女に手を振り返した。


未角みづの緑郎ろくろう

「はい」

 最後に名前を呼ばれ、真っ黒に日焼けしたスポーツ刈りの少年が返事をする。

(……なんだろ、なんか違和感あるなあ、この子)

 傍から見ればどうみても運動部の風体と身体付きなのだが、彼はその見た目通りにフィジカルはしっかりしているようで、基礎トレーニングを難なくこなしていた。

 そして、次の興津の言葉で、くるみはその違和感の正体を知る。


「未角、君はサッカー部じゃないのか? 君の担任の先生から聞いたが、サッカー推薦でここに来たんだろう? どっちも入りますなんて言うのは通用しないぞ」


(え、サッカー推薦で入学したのに、なんで軽音楽部にいるの!?)

 くるみはぎょっとして思わず目をむいた。

 興津の言葉を聞いて、さすがにその場にいた全員がざわつき、話題の中心になった少年を見る。

 すると彼の口から、とんでもない発言が飛び出した。


「あ、サッカー部は最初から行ってないんで別にいいです。部活こっちにします」


「は!?」

 興津はびっくりしすぎて目を白黒させる。が、すぐに彼は冷静になり、目の前の少年を厳しく見据えた。

「何言ってるんだ、見学にも行ってないのか? それはさすがに駄目だ。今ならまだ間に合うから、明日からはちゃんとサッカー部に行きなさい。監督とコーチには私から話をしておくから……」

「いえ、別にいいですって。俺はこっちじゃないと嫌なんです」

 興津の言葉を断って、緑郎は平然と笑う。

「……理由がわからないな、何かトラブルでもあったりしたのか?」

「違いますよ。俺、運命の人見つけちゃったんで、軽音楽部でいいかなって」

 訝しんだ興津にそう言い放つと、緑郎はまっすぐにくるみに向かって来て、手を差し出す。


「先輩、俺と付き合いましょう。歓迎会で決めたんですよ。声は何つーか、ちっこい犬みてーでアレですけど、顔がアイドルみたいな美人だから、俺の彼女にするなら先輩でいいかなって。てか、もう俺、彼氏ってことでいいですよね?」


「……はあ?」

 腹の底から湧き上がる嫌悪感を隠さない、くるみが出せる中でいちばん低い声が部室に響いた。

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