第55話
「祐華ちゃん、ミチルちゃん!」
「三人とも同じクラスね!」
「お二人といっしょで、本当に嬉しいです!」
クラス分けの掲示の前で、三人はきゃあきゃあと手を取ってはしゃぐ。
三人は二年一組の名簿の中に、自分とお互いの名前をそれぞれ見つけ、新年度の不安の一切が無くなったことを喜んでいた。
「全員文系志望だったけど、二つクラスあるものね。ホッとしちゃった」
祐華が本当に嬉しそうに、小首をかしげて微笑む。
「ええ。ところで、麗さんはどちらでしょう? 理系クラスにはお名前が見当たりませんが……」
もう一人、本当ならば同じクラスであって欲しかったが、自ら「理系以外の選択肢がない」と言っていた友人――清水麗の名を探して、ミチルがもう一度掲示を見る。
「麗ちゃん、もしかしたら医大受けるかもって言ってたから、特進クラスなんじゃないかな……あ、あった。六組だ。ほら、あそこ」
国内外の難関大を目指す特進クラスの名簿の中に麗の名前を見つけて、くるみが指を差す。
「医大ってことは、隆玄先輩といっしょにお医者さんになるのかしら」
去年の冬から付き合い始めた相手の名前と顔を思い浮かべ、祐華が納得したようにうなずく。
「そうかも知れないですね」
「きっと麗ちゃんならストレートで合格するよ、なんたって特待生だもん。……あ、噂をすれば」
視線の先にさらさらとした短い黒髪の後ろ姿を見つけ、くるみは彼女に近づいた。
「うん、受かるかわかんないけど、頑張ってみようって思って。お医者さんになるかはまだ決めてないけど、お姉ちゃんが大学行っていいって言ってくれたから、受けるだけ受けよっかなって、進路希望出したんだ」
「そうだったの。よかったわね、麗ちゃん」
「医大かあ、……わたしには及びもつかない世界だなあ、漫画でしか読んだことないよ」
昇降口まで歩きながら、四人は話に花を咲かせる。
「本当は看護学校行こうかなって思ってたんだけどね、お母さん、看護師だったし。でも、先生にもお姉ちゃんにも行けって言われたら、やっぱりその気になっちゃうじゃない?」
「お姉様も先生方も期待されてるんですね、麗さんでしたら当然です」
「そんなことないよ、わたしなんて隆玄先輩の足元にも及ばないから……」
ミチルの褒め言葉に照れつつ、この頃ようやく彼への好意と信頼を素直に態度や言葉で表すようになった彼女が、ほんのりと頬を染める。
「うふふ、夫婦でお医者さんなんて、なんだか海外ドラマみたいね」
「ちょ、ちょっと、……さすがに、それはあの、気が早いよ……」
祐華の発言に、ほんのりだった麗の顔の赤さはあっという間にトマトと変わらなくなる。
「きっと紗雪ちゃんもお医者さんになるんだろうし、伊東医院はこれからも安泰だね」
週末に入学式を迎える隆玄の妹を思い出して、くるみは微笑む。
「あれから会ってないけど、元気にしてるかなあ……ギターも練習してるのかな」
年末の少し前、楽器店でハート型のサウンドホールが人目を引くブルーグリーンのエレアコを購入していたのを、くるみは羨ましい気持ちで思い返す。
「時々隣の部屋から音はしてたから、勉強の息抜きに弾いてたと思うよ」
「そっかー……ん?」
当たり前のように返ってきた麗の答えに、くるみはぎょっとする。
「……麗ちゃん、隆玄先輩の家に遊びに行くのはいいとして、『隣の部屋』って……」
「!……や、やだなあ、変なこと考えないでよ! 先輩とは何もしてないってば!」
首まで真っ赤になってぶんぶんと顔の前で手を振る麗に、何故かくるみもぶわっと顔が熱くなる。
「いや、あの、わたしそこまで聞いてないけど……え?」
「ほ、ほんとやめて! ほら、行こう! 早くしないとホームルーム始まっちゃうよ!」
麗はそう言うと、逃げ出すように靴箱へと向かう。
「……あの、あんまり深く考えるのよしましょ、くるみちゃん……」
すっかり固まってしまったくるみに、祐華がやはり顔を赤くして声をかける。
「?……あの、どういう……」
「あー!! ミチルちゃんはなにも知らなくていいんだよ、うん、……」
二人の言動をいぶかしんだミチルに引きつった笑顔を返しつつ、心の中の疚しい想像を追い払ってから、
「……行こっか」
くるみは二人に声をかけ、二年生の靴箱へと向かった。
「担任の先生、誰になるのかしらね」
「また安倍先生かなあ」
ホームルーム前のチャイムが鳴り、教室は誰が入ってくるのかざわざわと落ち着かなくなる。
「この後、全校集会があるけど、そこでわかるのかな」
「どうかしらね。……興津先生だといいわね、くるみちゃん」
「うえっ!? ななななにいってるの祐華ちゃん、そういうの誤解されるから……」
からかうような祐華の物言いにくるみが慌てたところに、
「全員いるかー? 出席取るから席に付きなさい」
今まさに名前の出た人物が、黒いスーツにダークブルーのネクタイ姿で教壇に登った。
「!……」
思わずぱっとそちらを見てしまったくるみに、深いコーヒー色の瞳が刹那、優しく微笑む。
(うそ……)
あまりのことにくるみは声が出なくなるほど驚いた。
声に振り向いた祐華も、まさか自分の言ったことが当たると思っていなかったのか、二、三度二人の顔を見比べると、可笑しそうにくすくすと声を立てて笑いながら前を向いた。
「また後で全校集会のときに挨拶するけど、このクラスの担任の興津です、よろしく。とりあえず名前を呼ばれたら返事してー」
彼は出席簿を広げると、教室の端に座っている生徒から五十音順に名前を呼んでいく。
概ね彼が担任であることを喜ぶ空気が教室に満ち、くるみは胸をなでおろすのと同時に、またとない幸運に暫くの間ぼうっとする。
(部活だけでも幸せなのに、担任まで……! 厄除けのお守りのおかげだ……うああ、今度ちゃんとお礼参りに行こう……!)
新学期に合わせてか、すっきりと散髪されたばかりの暗い茶色の髪と、いつも通りにきちんと整えられた口髭の下の薄い唇が次々とクラスメイトの名前を呼ぶのを、彼女はうっとりと見つめる。
やがて、
「……藤枝祐華」
「はい」
前の席に座っている祐華の声で、彼女は我に返る。そして、
「牧之原くるみ」
そこはかとなく自分の名を呼ぶ声に甘いものが混ざっているような気がして、思わず顔をほころばせながら、
「はい!」
くるみは興津にはっきりとした返事をした。
「あははは、そっかぁ。まさに軽音楽部全員集合だねぇ」
その日の長い放課後、部室で昼食を食べながら事の顛末を説明すると、隆玄はメロンパンを片手にひどく面白そうに笑った。
「たぶん興津先生、希望は出してたんだろうね」
太陽が三つ目のおにぎりのラップを剥きながら言う。
「去年は色々起こりすぎましたから、とても心強いです」
そのとなりでミチルが、空になったコンビニのパスタサラダのカップに蓋をして、にっこりと笑う。
「そういえば、あの子も同じクラスだったわね。あの髪にメッシュの入った子」
デザートのシュークリームの袋を開けながら、祐華がふと思い出したように言う。
「下田実夢さんですか、早速先生に叱られていましたね」
集会の後に体育館の出口で呼び止められ、興津と教頭の瀬戸俊太郎に厳しくなにか言われている様子だったのを思い出して、祐華とミチルは顔を見合わせて肩をすくめる。
「結局春休みのうちに黒染めしなかったんだね、下田さん。あの子、ピアスもすごい数開けてるみたいだし、時々身体に針挿して糸で模様縫ってたし、そのうち停学になっちゃうんじゃないかって、見てるこっちがひやひやするな……」
プラスチックの弁当箱から卵焼きを箸でつまんで、麗が元クラスメイトの心配をする。
「……麗ちゃん、頼むから、痛い話やめて……」
「ホント軟弱ですね、隆玄先輩」
「麗ちゃんがタフすぎるんだよ、何だよ、その身体に糸縫うってやつ。怖えーよ、手術かよ」
「……先輩、外科医になるの諦めたほうがいいんじゃないですか?」
隣で真っ青になっている隆玄に、麗が呆れ顔を返しながら卵焼きを口に入れた。
「絶対下田さんの方が派手だから、わたしくらいのお化粧だったら気にならないかなあと思ったら、そうでもないのが興津先生なんだよねえ……」
彼がしつこく自分の化粧を咎めるのが『他の男に見せたくない』という子供のような嫉妬心からのものだとわかっていても、すでに自分の中のルーティンになっている事柄を今更やめる気にもなれないくるみがそう言って、フルーツティーを一口飲んだとき、
「ふうん、つまり今日も牧之原は、メイクしてきたということだな」
背中から興津の声がして、彼女は思わずむせた。
吹奏楽部の練習に行ってしまった麗を見送ると、くるみたちは各々楽器を出してスタンバイを始める。
「今年はベースじゃなくてハーモニカで参加ですね、先生」
「ははは、君たちがメインなんだから、私はこれでもでしゃばり過ぎだよ」
手の中で銀色のハーモニカを転がしながら、興津はくるみに微笑む。
「それにしても先生、すごいですね。ハーモニカまで吹けるなんて」
「いやいや、さすがにちゃんと吹くなんて小学校以来だから、動画サイトと教則本で春休み中に練習したよ。短いフレーズで助かった、付け焼き刃でもなんとかなるから」
感心する太陽に彼は肩をすくめてみせた。
「新入生、今年はどのくらい来ますかねぇ」
隆玄がクラッシュシンバルをさらさらと撫でながら、去年の悲惨な入部状況を思い出して苦笑いする。
「ていうか紗雪ちゃん、うちに入るんだろ? それとも中学と同じで吹奏楽?」
「どうかねぇ、勉強との兼ね合いもあるし……でも、紗雪がうちに来たら必然的にもう一人男子部員が増えることにはなるな」
「そうなのか?」
太陽の質問に隆玄がうなずく。
「俺と紗雪の幼馴染でさ、紗雪と同い年で、幼稚園からずっと一緒の子がいるんだよ。たぶんその子、紗雪と同じ部活に入ると思う。小学校も同じクラブ活動ばっかだったし、中学んときも吹奏楽部一緒に入って、紗雪がアルトサックスで、その子はテナーサックスやってたから」
「ふうん……」
二人の会話を聞いて、
(ふふ、なんか、うちの弟と莉里ちゃんみたい)
智といつも一緒にいる莉里を思い出し、くるみは小さく笑う。
「でも、今年は入部希望者、すごく多そうね。去年の秋ごろ、バンドのアニメがすごく流行ったじゃない、異世界でガールズバンドが無双するっていう、よくわかんない話の……」
「ああ、あれですか……スマートフォンのゲームにもなってますね。動画を見ているときに、頻繁に長い広告で挟まってくるので、いつもスキップしてしまうんですが……」
実際、よく見かけるからだろう、祐華の言葉にミチルが若干の困り笑いを浮かべる。
「うーん、そういうのきっかけで始めるにしてもさ、楽器買うのもお金かかるし、持ったからっていきなり弾けるわけじゃないし……毎日地味に基礎練習して、ボイトレして、休みの日は何時間も自主練するなんていうの、ゲームやアニメ見てるだけだと想像できないだろうなあ……」
兄と紘輝から聞いた、興津が来るまでの軽音楽部の惨状を想像して、くるみはため息をつく。
「慎先輩と紘輝先輩が言ってた頃と同じにならなきゃいいよな……本当に音楽やりたい! って人と、イメージ優先でただ駄弁りにくるのと、あらかじめ分ける方法とかないかな……」
「ポスターにそういった文言を書くわけにもいかないですしね……」
「あ! ていうか、そうだよ、ポスター! りゅーげん、お前ちゃんと描いてきたか?」
ミチルの言葉に、春休み前に興津が隆玄に課した部員勧誘ポスターの存在を思い出し、太陽はエレアコをスタンドに立てかける。
「おお、出すの忘れてた。ちゃんと描いてきたよ、今見せるから」
椅子から立ち上がった隆玄は、床上の自分のカバンの中から丸められた画用紙を一本取り出し、マスキングテープを剥がしてくるくると広げてみせた。
「どうよ」
自信満々で隆玄は胸を張る。
「……」
「……え、ええと……」
「あの、伊東先輩……?」
「……隆玄先輩、……これ、……」
絶句してしまったくるみ達を見て、興津も椅子から立ち上がり、近づいてそこに描かれているものを見るが、そのとたんに言おうとしていたことが全て吹っ飛んでしまった。
「……伊東、ほんっとうにごめん、……これはなんだ?」
「え、ギターとベースとドラムっすよ。でもって、ボーカルってことでこれ、くるみちゃん」
どうにか傷つけないよう、力いっぱいに詫びてからの興津の質問に、なぜそんな事を訊くのかといった表情で隆玄はきょとんとしている。
「……りゅーげん、ごめん。俺が悪かった。お前、受験のストレスで……かわいそうに……」
「いやいやいや、なんで謝られんの?」
肩に手を置かれて太陽に謝罪と同情をされ、隆玄はますますぽかんとする。
「あ、ある意味、高度な芸術性が感じられますね……」
ミチルがどうにかフォローしようとする横で、
「!……」
祐華が肩を震わせて、必死で笑いをこらえている。
(……お兄ちゃんよりすごい……いや、わたしも「牧之原さんは何を描いてもタコになるね」って言われたから、下手の自覚はあるけど、ここまでではない……はず……)
父方の血を継いだのか、子どもの頃からどんな絵を描いても何を描いたのかがわからない自分や家族以上のもの――ひどい『不安』を感じて、くるみの頬はひきつる。
「うん、伊東、……よく頑張ったな。ありがとう。……」
「いえいえ、一応部長ですし、こういうのもしっかりやらないと」
今回ばかりは棒読みの褒め言葉と苦笑いしか出てこない興津が、にこにこ顔の隆玄からポスターを受け取った。
「れ、練習しようか……」
「……そうですね」
「……っ、ポ、ポスターも大事だけど、演奏も大事よね、うん……」
むしろ演奏を頑張らなければ絶対に新入部員は来ないだろうと確信した太陽たちは、顔を見合わせてそれぞれの立ち位置に戻ろうとする。
「……すみません、わたし、は、発声練習してきます……」
後からじわじわと笑いが込み上げてきて、くるみはそう言って隆玄に背を向ける。
「うん、行っといでー」
屈託なく自分に声をかけてくれる隆玄に申し訳ない気持ちはあるものの、本能に逆らうことはできず、くるみは彼の前で吹き出さないように必死で部室から逃げ出した。
練習の後、いつも通り自分たちよりも先に帰ってしまった部員たちを見送ってから部室に鍵をかけ、くるみと興津は部室の二つ隣の教室へと音をを立てずに忍び込む。
窓の外はだいぶ日が落ちたが、カーテンに閉ざされた空き教室は互いの表情がやっと見えるくらいの明るさだった。
荷物を机の上に置き、くるみは彼に歩み寄ると、スーツの胸元に頬を寄せ、腰に腕を回して目を閉じる。
「……先生、いっぱいぎゅってして……」
「ん……」
廊下に誰もいないことを確認してから、彼もくるみの背中と腰に腕を回し、艶のある黒髪に頬を寄せた。
「寂しかった……ずっと抱っこしてほしかったの……」
「うん、……僕もだよ、くるみ……ずっとこうしたかった……」
服越しに感じるお互いの体温と、髪と肌から香るコロンとシャンプーの匂いに、二人は溺れる。
「でも、嬉しいな……これからは毎日、教室でも会えるんですね……」
くるみはほう、と幸せなため息をつきながら、うっとりと彼の腕の中で目を開ける。
「希望が通ってよかったよ。去年担任したのが三年生だったから、あんまり期待はしてなかったんだけどね。選択も歴史総合、選んでくれててよかった。あとは三年で世界史とってくれたら、たぶん二年通しで教えてあげられるから」
ひそひそと優しく頭の上から降ってくる、彼の嬉しそうな低い声に、彼女はうなずいた。
「先生のくれた厄除けのお守り、すごい効き目ですね。今度神社にお礼参りに行ってきます」
「ふふ、じゃあ僕も行かないとな。あのお守りを見るだけで、心が落ち着くよ。……対向車線からトラックが来ても、身体がこわばらなくなった」
「ほんと? よかった……」
二人は見つめ合って、心から安堵したようにくすくすと笑った。
「……先生、なにか困ってることないですか?」
寂しさがそれなりに満たされてから身体を離し、いつものように手を繋ぎながら窓にもたれかかって寄り添うと、くるみは春休みに買い物先で会った彼の様子を思い出していた。
「……そんな風に見えるかな」
彼女には絶対に言わないと決めた自分の身の上話を腹の底に封じ込めながら、興津はいつもの笑顔で彼女を見る。
「うん、……こないだ、あんまり元気なかったから、ちょっと気になって」
「大丈夫、気にしすぎだよ。……前の日に少し考え事して、そのまま徹夜しただけだ」
彼が事実を織り交ぜてはぐらかすと、
「だめですよ、ちゃんと寝ないと」
あまりにも素直に彼女が騙されてくれたので、興津はいつも以上に罪悪感のこもった眼差しで見つめてしまった。
(今の、きっと嘘なんだろうな)
彼がこちらを見る目が、出逢ったばかりの頃のような愁いを帯びている気がして、くるみは胸が痛くなった。
(隠しておきたいこと、何かあるのかな。……他に好きな人が出来た、とかじゃないよね)
いちばん自分にとって隠して欲しくない答えが真っ先に浮かんでしまって、ますます痛みは重く深くなる。
(でも、そうだったら、さっきみたいにハグなんかしてくれない。先生はそういう人だって、わたしは知ってる)
指を絡ませて握りしめた手に、きゅっと力がこもる。
それに応えて、同じだけ強く握り返してくれたその手のひらの温かさに、少しだけ暗くなりかけた心は凪いだ。
(……話題変えよう)
彼を疑うことが嫌になって、彼女は思いついたことを、廊下に誰もいないことを確認しながら口の端に乗せた。
「……そうだ。先生、わたし今、毎日聴いてますよ。『アデリーヌ・フォスター』」
その名前を出した途端、彼の身体がびくりと震えた。
(?……どうしたんだろう、なんか今、先生ちょっと変だった)
ふい、と彼を見上げると、こちらを見ない横顔に、明らかに翳が差している。
そして、
(あれ?……なんか、見たことある。先生なんだけど、……先生じゃない、他の人の顔……)
すっと通った鼻筋と、品良く形の整った顎。眉山の高さ。そのどれもが、いつも見慣れた彼の顔ではない、別の誰かの面影と重なりそうな気がして、しかしそれが誰かはわからなくてもやもやする。
なんとも言えないもどかしい既視感に首を傾げながら、くるみは先を続けた。
「あの、……先生が言ってた通り、すごく優しい音でピアノを弾く人ですね。最初のコンクールの『幻想即興曲』は緊張してるみたいで、ちょっとだけアタックきつめですけど、そこからは全然そんなことなくって、モーツァルトとかドビュッシーとか、聴いてるとすごく心が和みます」
「……うん、そうだね」
興津の返事は、この間スーパーで交わした会話よりも空虚さを増していた。
(本当にどうしちゃったんだろう……体調悪いのかな……)
心なしか顔色も良くなさそうな気配がして、くるみはそっと彼の頬に手を伸ばす。
「……先生、あんまり具合、よくないですか?」
「え、……いや、そんなことはないよ」
明らかに無理をして笑っている彼を、くるみは無性に抱きしめてしまいたくなった。
「だめ。嘘ついちゃ。……そこの椅子、座ってください。立ってるの辛いでしょ」
「……」
そうではない、といいたそうな顔はしているが、特段反論もせずに、彼はすぐ傍の椅子に腰かける。
その彼の頭を、くるみはぎゅっ、と自分の胸に抱いた。
「!……こら、くるみ……まずいって……!」
慌てふためく彼の頭を、くるみはますます胸に深く抱き込む。
「大丈夫。廊下はわたしが見張ってるから、しばらくこのままでいて」
「でも……」
「先生、去年の夏、こうしてあげたら寝坊したでしょ?……だから、ちゃんと眠れるように。ね?」
「……」
切りたてのさらさらした髪を撫で、おくれ毛を綺麗に剃った彼の首筋をくるみは指で辿る。
「先生、……どこにも行かないでね」
なぜか彼がいなくなってしまいそうな気がして、彼女はぽつりと言葉をこぼす。
「……うん」
くるみの薄く膨らんだ胸に頬を埋めながら彼は小さくうなずくと、ほんの五秒だけ彼女の心臓の音に耳を傾け、背中に腕を回し、やわらかく細い身体を強く抱いた。
「ありがとう、もう大丈夫だよ。離れて」
腕を緩めてから興津はそう言うと、大きな深呼吸の後にくるみの胸元から顔を離した。
「……不意打ちはだめだよ、くるみ」
「だって、……なんだか、ぎゅってしてあげたくなっちゃったんだもの」
「僕は子供じゃないよ。……でも、ありがとう。心配してくれて」
彼はくるみの頬を指で辿ってから立ち上がると、お返しに彼女の髪を丁寧に撫でた。
「今夜は眠れそうですか?」
「ああ」
彼がうなずくと、彼女は満足した様子で愛らしく微笑む。
去年の夏の合宿で初めて感じたときよりも淡く、それでいて甘さを増したくるみの優しい匂いは、彼の心にかかっていたヴェールのような闇を、少なくとも今夜一晩眠れる程度には溶かしてくれている。
そして、自分を抱きとめた感触は、きっと彼女にも同じように安眠をもたらすのだろうと思うと、興津はひどくこそばゆくて温かい気持ちになった。
「行こうか。もうあと少しで施錠の時間だ」
「はい」
普通の恋人同士だったらきっと、ここでキスのひとつくらいするのだろうが、くるみも興津もその気持ちをそれぞれ思いとどまって、黙って見つめ合った後に荷物を机の上から取った。




