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第54話

「……それ、妄想とかじゃないよな」

「妄想だったらそのほうがずっとマシだ、証拠もある」

 水曜の夜、バイパス沿いの中華料理屋で、数皿の料理を前に烏龍茶のグラスを傾けながら、興津はあらかたの話を終えると、白須から渡された名刺を大井に見せた。

「うわ、まじだ」

 そもそも嘘などつくはずもないが、興津の言っていることが一片たりとも間違いなく事実だとわかり、大井の顔がなんとも言えない感情で歪む。

「……確かにおばちゃんもエリちゃんも金髪だったけどさ、この辺だったらまあ、まずブラジル人とか、スペイン系だと思うよなあ」

 そう言って大井は少し冷めた小籠包を頬張り、数回咀嚼した後に紹興酒を流し込む。

「だろ? 僕もそうだと思ってた。……でも、よく考えてみれば、それならそうとすぐに話せばいいものを、何も言わないままだったのはやっぱり変なんだよ。本当なら別に珍しいこんでもないし、ことさら勿体つけるような話でもないんだから……」

 ため息の後、一口食べた麻婆豆腐に、口中がびりびりと痺れるほどたっぷり花椒が入っていたことにびっくりした興津は、ほとんど噛まずにそれを呑みこみ、急いで烏龍茶を飲んで中和する。

「確かにな。別にわざわざ隠すようなこんじゃない。……スイスかあ、俺、チーズとヨーデルとハイジくらいしか思い浮かばないな」

「……マッターホルンも赤十字も銀行もあるだろ」

 社会科の教員としてどうしても付け加えておきたいことだけぼそりと言うと、

「お祖母さんがどこの国の人でも構わないけどさ、今さらあれこれ言われても実感ゼロだよ。僕はどこまでいっても心が完全に日本人なんだから」

 まだ少し痺れる舌先に辟易しながら、興津は話を戻した。

「……でもな、本当に母さんがブラジルやフィリピンの二世とかだったら、多少なりともポルトガル語やタガログ語で話もしただろうし、そういうコミュニティに参加したり、食べ物や音楽なんかに触れる機会があったはずなんだ。だけど、そんなことは一切なかった。子供だったからなんにも気が付かなかったけど、今思うと、ってことばっかりだよ。……母さんの持ってたレコードも、自分の母親の形見だと思えば、あれだけの数にもなる。プレーヤーを買わなかったのも、実家と縁を切ったからには、堂々と人前で聴くこんなんて出来るわけないからで……」

 穂先メンマを箸でつまみながら、彼は何回目かわからないため息をついた。

「……大ちゃんのじいちゃんとばあちゃんも、いつか本当のこんをおばちゃんとおじさんの口から話すの、待ってたのかも知れないっけね」

 口の中を火傷したのか、大井は眉をしかめ、そこで言葉を切って氷水を一口飲む。

「うん……あんなこんにならなければ、多分いつか話してくれたとは思う。でも、そうだったとしても、この話聞いて、東京に行くなんちゅう選択肢はないな」

「ふうん、なんで?」

「嫌だよ、ああいう世界。ドラマや小説なんかのせいもあるけどさ、みんなギスギスしてて騙し合いだらけってイメージしかなくて、僕だったらすぐに胃に穴が開きそうだ。それに、うちの部にもまさに、あの手の世界で生まれ育ったおかげで窮屈な育ち方をした子がいるからね。極端な例なんだろうけれど、目の当たりにすると余計に印象がよろしくないよ」

「ああ、あの子か。確か財閥令嬢だっけ?」

 頭の中にミチルの姿が浮かんだ大井が、彼女の名前を出さずにひとり納得する。

「あの子、軽音楽部にいること、まだ自分の親に言ってないみたいなんだよ。うちの学校に来たのも、かなり強引なやり方したみたいだし、あとからトラブルになりそうで怖いよ……」

「あんな大人しそうな顔してるのになかなか肝っ玉の太い奴だよな。人は見かけによらんよ」

 ぐったりと頭を抱える興津と対照的に、面白くてたまらないといった風に大井は笑うが、すぐに真面目な顔に戻る。

「で、断るんだな?」

「当たり前だ。ぽっと出の僕がいきなり孫ですなんて言っても、いい顔なんてされるわけないし、そもそも仕事の内容に興味が持てない。相続なんて勝手にやってくれって感じだ」

 うんざりした様子でそう話しながら、今度は辛すぎないだろうと思って箸を伸ばしたエビチリが予想通りのまろやかな味で、興津はほっとする。

「おお、その意気でいけよ。相手が押してきても絶対負けんな、大ちゃん」

 二杯目の紹興酒を小瓶からグラスに注ぎ、大井が強気な笑みを凛々しい顔に浮かべる。

「うん。一応、相続放棄のやり方について調べてみたら、執行人がいても放棄する場合はこっちが優先になるから、無理難題言われても全部『関係ない』で通すよ」

 興津は口元と髭についた感触のあるチリソースをペーパーナプキンで拭うと、烏龍茶をもうひと口飲んでから言葉を続けた。

「……父さんたちは嘘なんかついてない。誤解がないようにしたくて事実を伏せてたんだ。僕たちが大きくなったときにちゃんと話すつもりでいたけれど、その機会が永遠になくなっただけで……じいちゃんたちがあえて黙ってたのも、きっと父さんと母さんの考えを尊重してくれてたんだ。そうじゃなかったら、レコードプレーヤーなんか買ってくんなかったと思う」

 今も自宅の一室に置かれているそれを思い出しつつ、興津は箸を置いて座席に寄り掛かった。

「……大ちゃんも、身内がWeb辞典に載ってる系の人間になっちゃったか、大変だな」

「?」

 酔っぱらった大井の癖である唐突な話題替えと、『も』という言い回しが引っかかり、興津は訝しげに眉を寄せる。

「夫婦そろって親戚が有名人だと身動きがとりづらそうだなあ、くれぐれも気を付けろよ」

「ふっ……!? ば、バカなこと言うな!」

 彼が何を言わんとしているか察した興津の顔が、一瞬で赤くなる。

「ははは、飲んでないのにずいぶん赤いな」

「黙れ、酔っ払い」

 ぶすっとした兄貴分を、大井はにやにやと眺めて、紹興酒の小瓶から三杯目を注ぐ。

「こんなもんじゃ酔わねーっての」

「酔ってる。……お前こそどうなんだ、あの子。島田の双子の姉」

 興津の反撃に、大井は飲み込みかけた紹興酒にむせる。

「……馬鹿、大ちゃんこそ何言ってんだ」

 今年の初詣で偶然行き会った生徒たちの中に、太陽とは別の高校に通う双子の姉の瑠菜がいたことと、彼女の言動が明らかに大井を意識していたことを興津は思い出していた。

「傍から見たら随分仲が良さそうだったんでね。お前、影じゃ『まーくん』なんて呼ばせてんのか」

「勝手にあっちが呼んでるだけだ。あの双子は生まれたときからの付き合いだから、年の離れた姉弟みたいなもんだよ。他意はない」

「ふうん……」

「なんだよ、その納得してない目は」

 酔いが回った大井が、顔の前で手を組みながら、若干据わった眼で興津を見て声を潜める。

「……どこかの誰かさんと違って、俺はロリコンじゃないからな」

「!……僕の初恋は二個上の先輩だ。お前だって知ってるだろ、人聞きの悪いこん言うな」

 あらぬ疑惑をかけられて興津は焦る。

「誰も大ちゃんだとは言ってないだろ、怒るなよ」

 綺麗にカウンターが決まったことが嬉しいのか、大井はくくっ、と笑い声を漏らす。

「しかし、その先輩、話聞く限りじゃだいぶ変わってたみたいだな。編入してきたと思ったら、ポールの側にいたいからって受験前に学校中退して、イギリス行っちゃったんだろ?」

「ああ。美人だったけど、それ以外のところが強烈過ぎて、うちの高校の伝説になったっけ。ある意味フラれて正解だったかもしれない。付き合えたとしても、向こうに振り回されて疲弊して、こっちが人生棒に振る可能性のある人だったと思うっけ」

 興津はそう言うと、告白したときのひどい振られ文句を思い出して首をすくめる。

「でもまあ、変な女の子に惹かれるってのは変わってないのか」

「……あのな、一応彼女の名誉のために言っておくけど、変じゃないよ、あの子は。少し突拍子もないだけだ。あの先輩と比べちゃ失礼だよ」

 大井に釘を刺しながら、『先輩』の奇行をあれこれと思い出し、興津は懐かしさと可笑しさで苦笑いを浮かべる。

「今頃どうしてるかねえ。まだイギリスにいるだかしん……ある意味、自分の人生を変えてくれた人ではあるから、爪の先くらいは感謝してるけど、厄介な女だったっけ」

 もうおぼろげになった面影をぼんやりと脳裏に描きながら、興津は小籠包を取り皿にとる。

「いま会ってもやけぼっくいに火がつく、なんてことはなさそうだな、その言い方だと」

 追加で何か頼もうと、大井がメニューを手に取りつつ興津を見遣った。

「ないない。僕がフラれたときの言葉、人生で聞いたひどい台詞三つあげろって言われたら、絶対入るくらいキツかったから」

「なんて言われたんだよ、いったい」

「言いたくないな、けっこう屈辱的だったもんでね。でも、本気で音楽やめたくなったくらいには心が折れたっけ。……あ、なんか頼むなら水餃子と酢豚、一緒に追加で」

 大井が店員を探し始めたのを見て、だいぶ食欲の回復してきた興津も便乗する。

「オッケー。大ちゃん、ピータン豆腐とレバニラ食う?」

「いや、無理」

「相変わらず子供舌だなあ、さっきも麻婆豆腐にビビってたろ」

「うるさい」

 胸の奥に詰まっていたものをひとまず吐き出せたことで、ようやく呼吸が楽になった彼は、いつもの慣れた空気で幼馴染と軽口をたたいた。


 時刻は夜の十一時に差し掛かっている。

 歓迎会で演奏する曲を聴き飽きて、くるみはスマートフォンのロックを解除すると、音楽アプリで『アデリーヌ・フォスター』のプレイリストを開き、ランダム再生をクリックする。

 興津に教えてもらってから、一日に一度は必ず聴くようになったピアニストの奏でる音色は、デジタルリマスターされても柔らかさを失うことなく、決して優れた技巧ばかりに頼り過ぎない、情感豊かでふくよかな響きを持っている。

(すごいな……この曲、わたしと同じ年で演奏してるんだもんね……)

 いちばん最初に再生された、彼女が世に出たコンクールで演奏した『幻想即興曲』を聴いて、くるみはただただ感心する。

 そしてふと思い立ち、ブラウザを立ち上げ、Web辞典で『アデリーヌ・フォスター』と入力し、ページを開く。

 もう何回も検索して、リンクがほとんど紫色になってしまったそのページを、改めて眺める。

(……『海に消えたピアニスト』、か……もしも今年まで生きてたら、八十歳になってたんだ……)

右上にある『1964年撮影』と書かれた白黒画像の中の彼女は、色づいて見えるほど美しい。

(まつげ長くて、鼻がすっと高くて、……映画女優みたい……)

 そして、くるみはその顔を見るたびに抱く違和感を反芻する。

(なんか……なんだろう、見覚えがあるような気がする。なんで?)

 毎日眺めているうちに意識にこの写真が刷り込まれてしまったのだろうか。

 なぜか誰かに似ているような気がするが、まったく思い当たらない。

(こんな顔の女優さん、いたかも……っていうか、外国人の女優さん、そこまでしっかり見分けがつくわけじゃないもんで、頭ん中でごちゃごちゃになってるだけかな)

 くるみは首をかしげて、『配偶者』の欄にある『白須等』という名前をクリックする。

(……意外だったけど、日本人と結婚してたんだよね。この人、今年の一月に亡くなったんだ。……四十年間、ひとりぼっちか。寂しかっただろうな……)

 後妻を迎えたという記述はないため、独身を貫き通したのだろうことは推測できる。

『子息』の欄もないことに、子供もいない独りきりの生活を思うと、もしも父と母の間に自分たちがいなかったら、などと想像してしまい、くるみは同情を禁じ得なくなる。

 何度調べても変わらない情報のウインドウを閉じ、少し悲しくなって、彼女はため息をついてから、机の上の冷めた紅茶を飲む。

(ロックやポップスばかり聴いてると、やっぱり少し疲れるときがあるから、クラシック聴くのも大事かも。癒される……)

 椅子の背もたれに身を預け、天井を見上げる。


(ほんと、いろんな音楽があるなあ。……わたし、一生のうちに、どれだけ聴けるかな……)

 母のiPodの中もまだ制覇できていないというのに、毎日新しい曲が発売され、配信されて、部活で興津や友達と話をするたび、瑠菜とカラオケへ遊びに行くたびに、自分の中に新たに歌や曲が飛び込んで来ては心を揺さぶる。

 そのどれもが好きになれるというわけではないが、様々なメロディが、紡がれた言葉が、常に自分に刺激を与えてくれることは確かだ。


 やがて、部屋に流れる曲はモーツァルトの『ピアノ協奏曲21番』に変わる。

(先生と出逢わなかったら、ビートルズもQueenも一生聴かなかったかもしれない。ピアノだって、ギターだって弾かなかっただろうし、本気出して歌おうだなんて絶対に思わなかった。……クラシックをこんなにちゃんと聴こうとも思わなかったなあ、きっと。……音楽があるって、人生がすごくきらきらするんだな……ほんとうに、先生と出逢えてよかった)

 合唱を決して心から楽しめていたわけではなかった中学時代と比べれば、今の自分はなんと素直に、身の回りに溢れるすべての音楽に触れているのだろう。

(あなたが、わたしの人生を豊かにしてくれた……)

 こちらを見て照れくさそうに微笑む、柔らかな雰囲気の端正な顔と、今ではもう愛しくてたまらないパーツのひとつである口髭を思い描いて、くるみは幸せに頬を染める。

(……いつか卒業しなきゃいけないし、多分大学も受験するけど、その後もずっと、先生の側にいたいな)

 自分を支えてくれているのと同時に、彼が自分のことを必要としているのだということは、彼と二人で話をすればするほど、変えようのない事実として胸に宿る。

(一緒に暮らしたら、毎日がもっと楽しくなるんだろうな……離れたくない……卒業したら、すぐ連絡先交換して、先生の家に遊びに行こう。……)

 そこから先を想像することはまだ自分には早い気がして、くるみは慌てて意識を音楽に戻す。

 バイオリンやフルートと会話するように、たおやかで力強いピアノの音色が耳を撫でる。

(ほんとは卒業したらすぐ結婚してもいいけれど、卒業前から付き合ってるのバレちゃったら、先生の立場がなくなっちゃうから、そんなことできないなあ……うん、カモフラージュも兼ねて、ちゃんと大学に行こう。もう二年生になるんだし、子供みたいな夢ばっかり見てないで、少し真面目に将来のこと考えないとね)

 どうしてもかしこまった音楽という意識でクラシックを聴く癖があるせいだろうか、くるみは襟を正すような気持ちで椅子に腰掛け直し、背筋を伸ばしてマグカップの紅茶を飲み干す。

 そして、ふとあることを思い立って目を輝かせた。

(受験するの、出来るだけ近所の大学にしよう。絶対、県の真ん中から出ない範囲で、うちから通える距離の……それなら先生と離ればなれにならないよね。よーし、決めた。あとでちょっと、どの大学が一番近いか調べてみようっと)

 進級したら行われるであろう進路調査の回答を早々と決めて、くるみはひとり笑った。


 木曜日、しとしとと冷たい雨が降る、暗い灰色の午後。

「相続放棄します」

 月曜日と同じカフェの同じ席で、同じコーヒーを間に挟みながら、興津は白須と有前を真正面から見据えて言い放った。

「え、いやいや、勿体ないよ? せっかく数千億単位の財産が手に入るチャンスなのに」

「私には必要ありません」

「いや、金はいくらあっても困らないって。断ったら絶対後悔すると思うんだけどな?」

「後悔なんてしませんよ」

 食い下がる有前に、なおも興津は突き放すような口調で告げる。

 短い沈黙を、蓄音機の形をしたスピーカーから流れる『テイク・ファイヴ』が埋めていく。

「……理由を聞こうか」

 こうなることを予想していた、という顔の白須が、興津をじっと見る。

 彼はまだ温かいコーヒーを一口飲んでから、静かに喋り始めた。


「……私の両親は、きっとそちらの仰られるとおり、駆け落ちしてこの街に来たのでしょう。そしてきっと、折を見て私と姉に、その話をするつもりだったのだと思います。……結局、その機会は訪れないままでしたが」

 あの日の事故の光景が一瞬だけ蘇りそうになったが、彼は瞬きでそれを追い払うと、顔を上げて言葉を続ける。

「ですが、真実を知ったところで、私にはとてもそちらの示される話を受け入れることはできません。……私の家族は、この街で生きていました。父も母も姉も祖父母も、家族の思い出は全部この街にある。みんなが眠っている場所だってそうです。離れることはできません」

「いや、でもさあ……」

 彼の次の言葉を遮るように口を開いた有前を、白須がぎろりと睨む。

「黙れ。……すまないね、続きを聞かせてくれ」

 興津はもうひと口コーヒーを飲むと、促されるまま話を続けた。

「……私は今、教職についていますが、とてもやりがいがあります。これからの未来を担っていく子供たちに生きていくための力をつけてあげて、失敗を恐れないで進むために背中を押して、大人になったときに後悔しない選択をさせること、そして今しかできない経験をたくさんさせてあげるということは、私の天職だと思っています。今年も受験生のクラスを担任しましたが、全員笑顔で卒業式を迎えさせてあげられたことを、私は誇りに思っています」

「……」

 そう言って微笑んだ興津に、白須と有前は何も言わない。

「それに、私は音楽が好きです。お祖母さんという方がピアニストだったことで、私の母は、私と姉にピアノの手ほどきをしてくれた。そのおかげで私は中高生の頃、家族がいなくなってしまった寂しさを、音楽で埋めることができた。音楽を通じて大事な友達も出来ましたし、買ってもらった楽器を演奏したり、様々な曲を聴くたびに、家族のことを思い出すことも出来る。音楽は、私自身の心を癒して奮い立たせるための大事な手段なんです。……東京で新しい仕事に就いたら、その大事な時間が無くなるのは目に見えています。私が私として生きていくために必要不可欠なものは、いくらお金を積まれても、奪われたくはありません」

 迷いなく言い切った興津を見て、有前が大きなため息をつきながら電子タバコを取り出す仕草で胸ポケットに手をやり、慌ててそれを止めながら彼を見る。

「でもさ、音楽なんかより楽しいことだってあるかも知んないよ? 女の子と遊ぶとかさ……」

「女性は消費の対象ではありませんよ。この間も思いましたが、あなたのお考えは少々前時代的だ。改められた方がいい」

 さすがにいらっとして、興津は有前の発言をたしなめた。

「な……!」

「いや、彼の言うとおりだ。お前はもっと女性に敬意を払え。いい加減にしないと、そのうち炎上するか後ろに手が回るぞ。……万一そうなっても、我々は助けてやらんからな」

 興津の言葉に同意した白須に、言い返そうとしたことを封じられ、有前は不機嫌そうに横を向いて腕を組む。

 まるで駄々っ子のような隣の人物を見てため息をつくと、白須は興津に向き直った。

「本当に構わないのか? 君の資産についても調べさせてもらったが、事故の賠償金はほとんど全額、交通遺児の育英会に寄付してしまったようだね。今の仕事も言ってしまえば、そこまで実入りが良くないだろう? 相続放棄はあとから取り消しは出来ないが、それでいいのかね?」

「構いません。私には今の暮らしがいちばん身の丈に合っています」

「……欲のない男だな、君は。正直、私は君を哀れだと思ってしまうんだよ。介護やら何やらで、学生らしいことは何一つできなかっただろうに」

「祖父母は私のことを実の子供のように育ててくれました。その恩を返しただけです。確かに大変でしたが、哀れみを受けるようなことではありません」

 気遣うような言葉のふりで馬鹿にされた気がして、彼の言葉尻は厳しさを帯びる。

 それを聞いて、白須はいよいよ興津の言葉を受け入れることにしたようだった。

「……わかった。だが、私は君のことを諦めたわけじゃない。まだ三か月の猶予はある。気が変わったら、名刺の電話番号に連絡してきなさい」

 彼はそう言って、今日はカップの中身を全て飲み干す。

「ここのコーヒーは美味いね。……また何か、このあたりに用事が出来たときにでも来るよ」

 その隣で有前が、はあ、とわざとらしく大きなため息をつく。

「ホント、勿体ないことするよ。黙って『はい』って言っときゃ、人生イージーモードになる上、金も女も手に入るってのに、()()()()チャンスを蹴るなんて」

「……お前を執行人に指名したことは、会長が最後に犯した最大のミスだな」

「ははっ、また駄洒落ですか」

「この俗物が」

 凄まじい圧を放った白須の低い声に、有前は身を竦めてコーヒーを一気に全部胃の中に流し込み、慌てて席を立って店の外へと速足で出て行く。

「すまなかったね、失礼した。まったく、あいつには君の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいよ」

 白須は苦笑いしながらそう言うと、この間と同じように伝票をもってカウンターに向かおうとして、不意に足を止めた。


「……最後に一つだけ聞かせて欲しい。梓は、……君のお母さんは、この街でどんな暮らしをしていた? 君たちと毎日をどんな風に過ごしていたのか、君が覚えていることだけでいい、教えてくれないか」

「……」

 そう言ってこちらを見た白須の目は、ただ純粋に、永遠に手の届かなくなったものへの憧憬に満ちている。

 少しだけそれに絆されて、興津は口を開いた。


「……母はいつも笑っていました。真っ黒に日焼けして、毎日泥だらけになって、畑や田んぼで父や祖父たちと一緒に働きながら、それが楽しくてたまらないという風に。幼稚園や学校から帰ると、時々手作りのお菓子を用意して待っていてくれました。眠る前には、一緒にピアノを弾いて、私と姉を必ずハグして、頭を撫でてくれた。……私の名前を付けたのも母です。この街の、どこまでも続く田んぼと畑の風景が、冬の強い風の中で春をじっと待つ広々とした『大地』が、とても好きだと言っていました。……この街で、私たち家族と一緒に暮らせて幸せだ、と……母は、そんなことを素直に言える人でした」


「……そうか」

 遠い記憶の中の『梓』と、この街で生きていた『杏奈』を重ねようとして、うまくいかない様子の笑みを白須は浮かべる。

「ありがとう」

 彼はそう言って、興津から視線を逸らしてまぶたを閉じ、肩を落とすように大きく息を吐くと伏し目がちに目を開けて、もう一度『杏奈』の息子を見た。

「……じゃあ、また会うことがあったら」

 スピーカーから流れている『アンフォゲッタブル』を背にして、彼は今度こそカウンターへと歩き去った。


 ドアにつけられたカウベルの音で二人が去ったことを確認すると、興津はどっと出た疲れに任せて身体をアンティークな椅子にもたせ掛け、長いため息をついた。

(母さんのこと、くるみと将之以外の誰かに話したのは久々だ。……教えて良かったのかな、今の話。……なんだか、父さんが向こうで嫉妬してそうだ)

 出かけるときにはいつも寄り添い、手を繋ぎ、時折子供の前でも軽いキスを交わすほど仲が良かった両親を思い出して、彼は小さな笑い声を立てる。

 そして、ふっと顔を曇らせて、スマートフォンのリマインダーを開いて文字をフリックする。

(……相続放棄の書類、早めに作って提出しよう。三か月なんて言ってたけど、そんなに長いこと引き延ばす気はない)

 メモを終えると、明るい灰色の空から降り続く雨がぽたぽたと滴る、窓の外の桜の枝と蔦の葉に目をやって、彼は大きく深呼吸をする。

(言いたいことは全部言えた。もう二度と会うことはないだろう)

 残りの冷えたコーヒーを全部飲み干して、カップをソーサーに置くと、きちんと椅子に座り直してから、彼は大きく伸びをする。

(……疲れたなあ……なんか、母さんの話をしたら、パウンドケーキが食べたくなったな。せっかくだし、コーヒーおかわりして、食べてから帰るか)

 外から帰ったとき、時々家に満ちていたバターの香りと、懐かしい素朴な味を思い出しつつ、カウンターの奥を覗くと、そこにいた店主と目が合った。

 笑顔を浮かべてこちらにやってきたエプロン姿のその人に、

「すみません。ブレンドと、パウンドケーキ追加で」

 興津は微笑んでそう伝えた。


「あーもー、これで結局親族会議になっちゃったじゃねーか、なんで素直に『はい』って言わねーんだよ、あいつ。いい子ぶりやがって……」

「文句を言うな。相続放棄の方が執行人の意見よりも優先だってのは覆らないんだから、諦めて次の仕事に移れ」

 リムジンの中で電子タバコを吸い続ける有前に、白須は呆れ口調でそう言って肩を落とした。

「高校教師ってことは女子高生好きなんだろうから、うちの事務所のそのくらいの子を餌につれば行けたかもしれないな……しくじったか」

 親指の爪を噛みながら有前は口惜しそうに窓の外を見る。

「お前の脳味噌は偏見と女性蔑視の塊だな、とっとと週刊誌にすっぱ抜かれちまえ」

 相手をするのも馬鹿馬鹿しくなり、白須はスマートフォンでニュースサイトを見始めた。

「袖の下握らせてるからそれはないね。だいいち……っと、ちょっと止めて!」

 突然叫んだ有前の声に、運転手がそれなりの急ブレーキをかけると、道端にハザードを出して車を停める。

「なんだ、急に」

「いやいや、こんなど田舎でも上玉っているもんだなあ。……そこのコンビニの駐車場に入れて。スカウトしてくる」

「はあ?」

 有前は言うが早いか、傘もささずに車から降りて車道を横断し、車線と反対側のコンビニへと走っていく。

「また迷惑がられるのがオチだと思うが……」

 額を押さえながら、白須がぼそっと言葉を吐いた。


「ねえキミ、芸能人とか、モデルとか興味ない?」

 自宅の最寄りのコンビニでいつものはちみつレモンののど飴と、前から気になっていたネイルカラーを買ったくるみは、外に出たところで見知らぬ男に声をかけられた。

「……は?」

「いや、こんな田舎に君みたいなかわいい子がいるなんて思わなかったんでね、声かけさせてもらったんだよ。こう見えてボク、芸能事務所やっててね……ってキミ、話聞いてる?」

 くるみは男の言葉を無視して店の中に戻り、店員に一言だけ告げた。

「そこで不審者に声かけられました。警察呼んでもらっていいですか」

 店の外を見た店員がうなずいてバックルームに姿を消すのと同時に、男は店に入ってくる。

「ねえ、ちょっと……」

 くるみは何も答えずにカウンターから身を乗り出して、奥で電話している店員を見る。

「芸能界なんかくそくらえです。今警察呼んでもらってるんで」

「え、ちょ、待って待って! 誤解だって、ボクは本当に芸能事務所の……」

「ここ交番すぐそこなんで、もうお巡りさん来ますよ」

「いや、だから……」

 男が懲りずにさらに食い下がろうとしたとき、たまたまパトロールで立ち寄ったという雰囲気の警察官が、自転車で駐車場に入ってきた。


「馬鹿だねえ……」

 職務質問される有前を車の中から見て、白須はいい薬になっただろうと思いつつ笑う。

 そして、窓の外にそびえる古い団地と、その向こう側にある海岸線に植えられた松林の間に、濃いピンクのレンゲをてんこ盛りに咲かせる広々とした田んぼを見た。


(『春を待つ大地』、か。……私には、きっと与えてやることが出来なかったものだ)

 ピアノを奏でる、記憶の中の白く美しい彼女の手が、日に焼けて土にまみれている絵をどうしても思い浮かべることが出来なくて、彼は目を伏せる。

(私は結局、君が何を好きだったのか、何を求めていたのか、そんな大事なことも知らずに結婚しようとして、……そして、何一つ教えてもらえないまま、終わってしまったな)

 そうして思い出す記憶の中の彼女は、やはり後ろ姿のままだ。

(でも……幸せだったんだな、梓。私と結婚していたら、長生きは出来たかも知れないが、同じだけの幸せを与えてやれたかはわからない。やっとわかったよ。私たちはこうなるしかなかったんだ。……君がこの街で幸せに生きていたことを知れただけで、もう私には充分だ)


 振り向かない後ろ姿はそのまま瞼の奥に消え、白須は目を開ける。

 若かりし頃の思い出に、彼はようやく『さよなら』を言えた気がした。

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