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第53話

 新年度まであと二週間を切った、春休みの火曜日の午後四時過ぎ。

 くるみは自転車を近くのスーパーに走らせていた。

(智が帰ってくるのは六時だから、今からやれば余裕で間に合う。だいじょうぶ)

 いつも食事を作ってくれる父は締め切り前、智は米研ぎこそしてくれたものの今は水泳に行っていて、慎も平日はアルバイトで帰りが遅い。結果的に食事当番は自分になる。

(何作ろうかなあ。とりあえずお味噌汁と、何か大皿料理と、作り置きに出来るおかずも考えなきゃ)

 頭の中で千々に乱れる考えを巡らせつつ、彼女はぐいぐいとペダルを踏みこむ。

 すっかり春めいた風の中に、高潮と一緒に花の香りが混じっているような気がする。

 おさげに編んだ長い髪をそれになびかせながら、素足に刺さる西日の強さにくるみは焦る。

(ちゃんと日焼け止め塗ればよかった……春がいちばん紫外線強いんだっけ、失敗したなあ)

 せめて日に当たる時間が少しでも短くなるように、彼女は全力で自転車をこいだ。


 建物脇の駐輪場に通学用自転車を停めて鍵をかけると、くるみは急いでスーパーの中に入る。

 誰が歌っているのかわからないテーマソングに混じって、焼き芋の売り場から耳に残って離れない呼び込みの音が流れてくる。

 春物のパーカー一枚では、店内の空気は少し寒すぎるくらいだった。

(さっさと買うもの買って帰ろう、智が帰ってきたらお腹空いたってうるさいし)

 本当ならすぐ隣にあるドラッグストアで新しい化粧品も見たいのだが、今日は仕方なくあきらめることにして、くるみはかごをカートに乗せると、まずは正面の野菜コーナーを見渡す。

 そのとき、

「あ……」

 目に飛び込んできたその人――興津の姿に、彼女は思わず目を見張った。


(うああ、すっごい偶然!!! え、わたし何か徳を積んだ!!?)

 まさかの人物との遭遇に、くるみは思わず焼き芋の機械の影に隠れて様子をうかがう。

(……ホントに自分で言ってたとおり、お休みなのにワイシャツ着てる。めんどくさがりだなあ、きれいめコーデとか似合いそうなのに……)

 それでも一応、なんらかの努力はしたのだろう、カジュアルな黒いデニムのジャケットを羽織ったその姿に、彼女の胸はときめいた。


 やがて、気持ちの落ち着いたくるみは、人気に紛れて気配をできるだけ抑えて彼に近付き、そっと隣に立つと、

「……先生」

 自分の中では語尾にハートマークを付けたつもりで声をかけた。

「!?」

 彼はほんの刹那、ぎょっとした表情で身を竦ませると、次の瞬間にははにかんだ笑みを浮かべて彼女を見た。

「……びっくりした。こんにちは」

「こんにちは。先生もお買い物ですか?」

「ああ、……ちょっとね」

 ほんの少しだけ何か言い淀んだ雰囲気があったが、それはすぐに消える。

「……髪を縛ってる君は、なかなか見慣れないな」

 きっと二人きりだったら、彼の指がおさげに触れていただろうという雰囲気に、くるみの頬は熱くなる。

「……そうですか? 春休みだから、ちょっと変わったことしようと思って」

 かすかな甘い空気と、プライベートな彼の姿を見られたことが嬉しくて、答える声が弾んだ。


(……可愛いって思ったら負けだぞ)

 人前だということを自分に強く言い聞かせ、必死で教師としての意識を手元に握りしめながら、興津はくるみを見た。

 緩いシルエットをとる淡いピンクのパーカーに、短めの丈のデニムのキュロットから見える、白く細い素足が眩しい。

 くるぶし丈のソックスを履いた左足首に、自分が着けているものと対になっている、お手製の黒い革紐のアンクレットが結ばれているのを見てほっとする。

 ざっくりと二本に編まれた三つ編みも、見慣れたワンレングスとは違って新鮮だった。

 おまけに、頬と唇にきれいな薔薇色が乗せられていることにも気が付いてしまう。

(……だめだ、負けでいいや。すごく可愛い)

 彼はあっさりと敗北を認める。

 せめて制服を着てくれていればもう少し冷静でいられたであろう鼓動の速さに、幸せよりも罪悪感の方が重くのしかかる。

(ほんと、普段と違う格好されるの、困るんだよな……)

 去年の合宿の時も毎日どぎまぎさせられたことを思い出してしまい、彼は慌てて心の中で自分の頬を叩くと、出来る限り冷静に彼女を見て、学校の廊下と同じ距離で話しかけた。


「牧之原も、よくここに来るのかな?」

「はい。もういっこの方も行きますけど、今日はこっちの方が安いから」

「なるほどね、わかるよ」

 近所にもう一つあるスーパーの特売日を思い出したのか、納得した様子で興津が笑う。

「近くに住んでるんだってわかってはいましたけど、本当に会えるなんて思わなかったです」

「そうだね。ここまで生活圏が被ってるなんて、なかなかないよ」

 めったにない幸運に顔がほころぶのを、二人は止められずに、刹那見つめ合った。


(……離れたくない)

 ずき、と胸の中心が痛くなり、興津は思わず彼女に手を伸ばしそうになる。

 昨日の今日で買う物など何もないのに、二十四時間ほど前に聞かされた話を考えてしまうのがただただ嫌で、一人で部屋にいたくないという理由だけでここにきたことを、限りなく幸福に近い呪いのように感じながら、彼は彼女の愛くるしい顔を眺める。

(でも、……もしも『教師と生徒』でなくなったら、……)

 そこから先を考えそうになって、ぐらりと意識が揺れる。

(馬鹿、何考えてるんだ)

 ショックで心が弱り切っているせいか、昨日から仕事もなかなか手に付かないところに現れたくるみに、今すぐに縋って泣いて、ひたすらに甘えたい気持ちでいっぱいになる。

(しっかりするんだ、大地。僕は大人だろう)

 頭の中に浮かんだことすべてを乱暴に蹴飛ばして、彼は何でもないふりをした。


「……牧之原は、今日は何を作るんだ?」

「えっ、あ……な、何も考えてなくて……なんか、適当に安いの買って、ばーって炒めちゃおっかなって。先に作っておかないと、弟が帰ってきたらお腹空いたってうるさいから……」

 彼女はそう言って、思わずそこにあったピーマンを一袋取ってかごに入れる。

「そうか。確かいま、中学生だったね」

 同じものをかごの中に入れながら、彼は彼女に質問する。

「はい。四月からは中だるみの二年生だもんで、グレないか心配です」

「ははは、君の話を聞く限りでは大丈夫だよ」

 以前、眠る前にピアノで連弾するようになってから問題行動が減ったという話を聞いていた彼は、安心させるように優しく笑う。

「わかりませんよ、なんと言ってもわたしとお兄ちゃんの弟ですから」

「……やっぱり、君たちと同じような状況なのかな?」

 彼女とその兄のように弟もまた腫物扱いのような学校生活なのか、言葉を濁しつつ彼は聞く。

「いえ、弟は本当に羨ましくなるくらい運が良くって。友達もたくさんいるし、幼稚園からずっと一緒の、すごく仲がいい女の子もいます。めちゃくちゃリア充です」

「ふうん、じゃあますます心配はいらないよ。……やっぱり君は優しいね、家族思いだ」

 そう言いながら、目の前にあったタケノコの細切りの水煮を手に取ってかごに放り込みつつ、彼はもう一度笑った。

「いえ……」

 今度は彼女の方が同じものをかごに入れて、小さくため息をつく。

「……ダメですね。わたし、お母さんがいなくなってから、つい代わりになろうとしちゃう癖があって、いつも変なことばかり心配して……お父さんにもよく注意されるんですけれど、お兄ちゃんも智も、わたしがお母さんに似てるからって甘えてきたり、けっこう過保護だったりするもんで、どうしても意識しちゃう……」

 おさげの片方を指で弄びながら、くるみは上目遣いに興津を見た。


(絶対に言えないな……)

 先程脳裏をよぎった考えを完全に放棄せざるを得なくなって、彼は眉根を寄せて唇を噛んだ。

 普段から母親代わりを演じているからこそ、自分の弱い心根を受け入れて甘やかしてくれているのだということを、彼女の口から改めて聞かされてしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 そうでなくても暗く孤独な過去を共有させてしまったのに、十六歳の少女にこれ以上の重荷を負わせることはできない。

(いや、そもそも僕の問題なんだ、話したって解決するこんじゃない。甘ったれんな)

 言いたいことは心にも頭にも溢れているが、そのどれもが彼女に言うべきではないことばかりで息が詰まる。

(僕がこの子を支えてやらないといけないんだ、『恋人』である以前に、僕は『教師』なんだから)

 自分の苦しさでゆがんだ顔を使いまわしながら、彼はこちらを見上げる黒い瞳を見つめた。


「……辛くないか?」

「えっ?」

 興津の唐突な質問に、くるみは目をぱちぱちと瞬かせる。

「いや、君はまだ子供なのに、母親代わりとか、その、……甘えたいときはないのか、って」

「……ふふっ」

 彼の言葉を聞いた彼女は、幸せそうにくすくすと笑い出す。

「大丈夫です、先生がいつも甘やかしてくれるから」

「え……」

 今度は興津が驚いて戸惑う番だった。

「先生と話してると、頑張ってお姉さんぶらなくていいから、すごく気が楽です」

「……」

「それに……わたしのこと、いろんな意味で大事にしてくれてるんだなってわかるから、いつも安心できるし、いつも幸せです」

 周りの騒音に紛れて、彼女は二人きりのときと変わらない甘さで言葉を紡ぐ。

「……そうかな」

「そうですよ」

 嘘偽りのない笑みを浮かべたくるみに、隠し事だらけの笑顔を返しながら、興津は心の中で深いため息をついた。


 にゅっ、と後ろから人の腕が伸びてきて、二人の脇にあった冷蔵ケースのもやしを取る。

「あ、すみません」

 慌ててくるみはカートをよけ、腕の主の老婆に謝る。

 特段気にしない様子で去って行った老婆を見て、ふたりはもう一度、今度は生徒と教師の顔で視線を交わすと、

「……買い物の続き、しないとですね」

「そうだね」

 賑やかな特売日のスーパーの中を、またゆっくりと歩き出した。


 ややあって、くるみと興津は互いの買い物かごの中身を見る。

「先生、まねっこしました?」

「それは牧之原の方だろう」

 興津の方にジントニックとレモンサワーの缶が一本ずつある以外は、全く同じものが入った二つのかごを見て、くすくすと笑い合う。

「ほんとは、うちでご飯食べてくださいって言いたいんですけど……」

「ははは、気持ちだけありがたく頂いておくよ」

 二人は並んでレジに向かう。

「でも、同じものを作って、同じ日に食べるのって、ちょっと不思議だけれど、……なんか、嬉しいですね」

「……そうだね」

 人通りのない日用品とペットフードの棚に挟まれた通路を歩きながら、スピーカーから聞こえるスーパーの歌とざわめきに紛れて、恋人同士の会話を交わす。

 ひさしぶりに訪れた、人目がなければ手を繋いでいる距離に興津が安堵していると、

「先生」

 くるみがまた彼を誘うような眼差しで見つめて、いたずらっぽく甘い声でささやく。

「……結婚したら、毎日食べたいもの作ってあげますね」


「!……」

 もしかしたら訪れないかも知れない未来に、彼の胸がまた痛んだ。


「……先生?」

 いつものように優しい返事が返ってくると思っていたのだろう、くるみが寂しそうに表情を曇らせる。

「あ、ああ……ありがとう、期待しておくよ」

 口元だけ笑みを作ってどうにかそれだけ返すが、とうとう彼はいたたまれなくなって立ち止まる。


 自分につられて足を止めたくるみに興津は向き直るが、

(……くるみ、もしも、僕がこの街からいなくなったら、……)

 それだけは言えなくて、彼は思わず目を伏せる。

(訊かなくてもわかる。くるみのことだ、学校なんて辞めてついていく、って言うだろう。……そんな事、絶対に言わせちゃいけない)


 目を開けた彼は、静かに首を横に振って、

「……なんでもない。行こう」

 教師の自分を引っ張り出してきて、無理矢理に満面の笑みを作った。


 それぞれ会計を済ませて、一緒に店の外に出る。

 店の前の遊具スペースで遊ぶ子供を見ながら、興津はくるみを駐輪場まで送る。

「それじゃあ、気をつけて帰りなさい。また新学期にね」

「はい」

 前かごに荷物を入れてスタンドを蹴り、くるみはペダルに足をかける。

 そして、

「……あの、先生。なにか悩み事あったら、言ってくださいね」

 明らかに様子のおかしい彼にそれだけ言うと、短く手を振って自転車を漕ぎ出した。


(どうしたんだろう。……ずっと、何か言いたそうだった)

 心ここにあらずといった様子の興津に、くるみの心は不安で揺らぐ。

(大丈夫かな……わたしが、力になれればいいんだけどな……)

 レンゲの花が咲き始めた田んぼに降り注ぐ金色の日差しの向こう、薄紫の闇を纏い始めた空を見ると、昇ってきたばかりの薄い氷のような月が張り付いている。

(新学期になったら、話聞けるかな。……教えてくれたらいいな)

 自宅に続く農道へとハンドルを切りながら、くるみは海のにおいがする風の中を急いだ。


(……言わなくてよかった)

 ずっと飲み込み続けていた苦しみが脂汗になって出てきて、運転席で興津は額を拭う。

(でも、決めた。絶対に断ろう。僕はこの街にいるべきだ。東京なんかに行ったら、父さんたちの墓参りだって今まで通りにできなくなるし、きっと音楽だって続けられなくなる。……その亡くなった会長っていうのが、どんな人だったのかは知らないけど、あの優しいじいちゃんがあそこまで怒ったんだ、あまり人当たりの良くない言い方をする人だったんだろう。そんな人の孫だって思われるのも、なんだか癪だ)

 そこまで考えると、ふう、と大きく深呼吸をして、彼は座席を倒し、身体を預けて目を瞑る。

 さっきまで隣にいた少女の、やわらかい輪郭がまぶたの裏の闇に映り込んでいる。

(……くるみと絶対に、離れたくない。あの子とこんな関係になっておいて言えたことじゃないかも知れないけど、教師の仕事だって続けたい。僕は、この街で生きて、この街で死にたい。僕が生きていく場所はここしかない)

 固い決心の後、ようやく気持ちが落ち着いた興津は、身体を起こしてから座席を元通りの角度に傾け、シートベルトを締めた。

(そうだ、将之に相談してみようか。……信じてもらえるかは別として、誰かに洗いざらい吐き出してしまいたい)

 滅入ってしまった心を宥めるように胸元を撫でてから目を開け、エンジンをかける。

 暮れなずんだ駐車場の中を縦横無尽に歩き回る歩行者をかわしつつ、彼はスーパーの前の広い道路に出た。


(でも……同じものを作って、同じ日に食べる、か……)

 くるみの言葉と、そのとき見せてくれた本当に嬉しそうな笑顔が蘇る。

 昨日から全くわかなかった食欲が少しだけ戻ったような気がして、自分の単純さを自嘲するように、彼はかすかな笑い声を立てる。

(ありがとう、くるみ。……やっぱり、僕には君が必要だ)

 独りで向かう食卓の侘しさがわずかに和らぐような気がして、興津の表情はほんのりと凪いだ。

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