第51話
「「紘輝先輩、卒業おめでとうございます!」」
三月一日の正午前、胸に『おめでとう』と書かれた花形のリボンを付け、卒業証書の入った筒を手にした紘輝に、くるみたちは拍手を贈る。
「第二ボタン、誰かもらいに来たっすか?」
「うるせーばーか、誰もこねーよ」
隆玄にからかわれて、紘輝が全く怒っていない口調で悪態をつき、苦笑いを浮かべる。
「東京行くの、いつになるんですか?」
「明後日」
「まあ、随分早いんですね」
「向こうの生活に慣れておきたいもんでさ。東京の水に少しでも早くなじんでおかないと、学校始まったらパンクするんじゃないかと思って」
くるみとミチルにそう答えると、
「……今年の花見は、東京ですることになるな」
紘輝は廊下の窓の外の、まだ咲かない桜の木を眺めてぽつりとつぶやく。
「代々木公園とか行ってみたらどうですか? 毎年ニュースで見るじゃないですか」
「あんなとこ花じゃなくて、人見に行くようなもんだろ、絶対行かねー」
「酔っ払いに絡まれた女の子を助けるとか、そういう出逢いがあるかも知れないっすよ?」
「そんなマンガや小説じゃないんだから、都合いいことなんか起こるわけないだろ」
紘輝はけらけらと笑いながら、太陽と隆玄の言葉を軽くいなす。そこに、
「藤枝! よかった、まだ帰ってなくって。よーし、みんな、引き留めご苦労」
黒のスーツに白いサテンのネクタイを締めた興津が、したり顔で足早にやってきた。
「え? あの、ホームルーム終わったのに、まだなんかありました?」
きょとんとしている彼を見て、くるみたちと興津は顔を見合わせて笑う。
「よし、みんな行こうか」
「ささ、紘輝先輩、部室へどうぞ」
「は?」
彼らは状況を把握できていない紘輝を囲って押しやるように、部室に続く階段へと向かった。
「あ、来た来た。お兄ちゃん、お疲れ様」
部室の中には祐華が、セッティングされた楽器と共に待っていた。
「ありがとうございます、祐華さん」
ミチルが礼を言って、キーボードの前に駆けて行く。
「え、なに? 俺、今日ギター持ってきてないけど、なんか弾くの?」
「いやいや、今日は違うんすよ」
「とりあえず座って座って!」
隆玄と太陽にステージの真ん前に連れてこられ、そこにある椅子に肩を押されて腰掛けると、彼の目線からは教室の前半分がきれいに見渡せた。
隆玄がドラムの椅子に腰かけ、太陽がストラトキャスターのストラップを肩にかける。
祐華は白いベースの弦を一度だけ弾いて、大きく深呼吸をする。
ミチルが自前のキーボードの音色を確かめる脇で、左手にタンブリンを持ったくるみが、センターのスタンドに刺さったマイクのスイッチを確かめるようにひっかく。
その隣に、ジャケットを脱いでエレアコを抱えた興津が、微笑んで彼を見ている。
彼らが全員で笑顔を見合わせた後、隆玄の掛け声の後にスネアドラムが派手な音を立て、ミチルのキーボードと太陽のギター、そして祐華のベースが部室に響き渡る。
そこに興津のエレアコが混ざり合い、紘輝の耳に子供の頃から何度も聴いたことのある歌の前奏が聴こえ、彼の前に立つくるみが歌い始めた。
(『負けないで』……)
ここのところ妹が夜遅くまで練習していたのは、新入生歓迎会のための曲ではなく、みんなと一緒に自分を励まし、送り出してくれるための曲だったのだと紘輝は気づく。
急に胸の奥が熱くなって、彼はまだ今日いちども流していない涙が溢れそうになるのを、ぐっと堪えた。
彼は改めて、後輩たちが演奏する姿を一人一人見つめる。
入部したての頃は今よりもずっと背が低かった隆玄は、いつの間にか自分より頭一つ大きくなり、たどたどしかったドラムプレイもすっかり板について、複雑な譜面も難なく叩くようになった。
おととしの夏休みまでギターに触ったこともなかった太陽は、必死の努力で身につけたキレのある指使いとしっかりしたリズムで、真新しいストラトキャスターを弾きこなしている。
最初は技術の凄さよりも知識のなさが目立ち、やっていけるかどうか不安を感じたミチルが、乾いたスポンジが水を吸うように様々な音楽を吸収して、今では当たり前のようにキーボードを奏でていることが嘘のように感じられる。
はじめて喋ったときに作り声かと思ってしまったくるみの歌声も、今では耳慣れて心地が良く、この部の要となっていることを改めて実感する。
そして、中二の春休みに「聖漣に行って軽音楽部に入る」と宣言し、必死でいじめに耐えながら無事にその言葉通りの未来を掴み、今ではあの頃の怯えた面影のない祐華のベースの音が、力強く確かなグルーヴを聴かせてくれた。
(……きっと、言い出したの、先生なんだろうな)
みんなに混じってレフトハンドモデルのエレアコを奏でる興津を見る。
(そう、……先生が来てから、この部はちゃんと『軽音楽部』になった)
紘輝は、自分が一年生だったころのことを思い出していた。
名前も忘れてしまうほど存在感のなかった前の顧問はひどく気が弱く、楽器の知識をむしろ紘輝や慎に教えてもらうほど力量不足で、部員同士のトラブルが起きても対応できず、やがて夏休みの終わりには部室に来なくなってしまった。
部員もただ目立ちたいだけの、特に音楽が好きなわけではない生徒たちばかりで、ギターやベースをチューニングもせずアンプに繋いで放置し、女子はだらだらと菓子を食べながら自分たちの好きなアイドルの話で盛り上がり、男子は楽器を買っただけで練習した気になってしまった者が幅を利かせ、時には違うバンドのファン同士で喧嘩になったりもした。
憧れていた『部活動』とは程遠い、ひどく居心地の悪い部室の中、掃きだめのような部員たちの輪に混じらず、ただ一人、お互いの好きな音楽のことを語り合えた慎と二人でセッションすることだけが、紘輝が部室に来る意味になっていた。
アンプを占拠する上級生たちに反抗するように、紘輝は慎と向かい合い、基礎練習と好きなバンドの曲のコピーを演奏して、苛立ちで爆発しそうな感情をやり過ごす毎日が続いた。
そんな環境で練習するよりもずっといい気がして、そして不登校に陥っていた妹をどうにか励ましたい気持ちで慎を自宅に呼び、三人で一緒に演奏をしたあの日、やっと部活をしている気分になったのをよく覚えている。
そんな濁った空気の中で日々起こり続けるトラブルの末、活動停止処分までくらい、明らかに面倒ごとを押し付けられる形で先代の部長から後釜に据えられてしまった慎が、一生懸命に部員たちに練習を促して、逆に引かれてしまっていたのが、なんともやるせなかった。
前の顧問が姿を消してからほどなく、新しい顧問が来る、と知らされたとき、紘輝も慎も決して期待はしていなかった。
しかし、興津が初めて部室を訪れたその日、彼がその広い肩に背負ったギグバッグを見て、紘輝はきっとこの人なら現状を変えてくれるという確信を持った。
自己紹介を済ませたあとに、バッグからベースを出してチューニングし、スピーカーアンプにシールドを挿して『Stone Cold Bush』のベースソロを一切ミスすることなく、尚且つノールックで興津が弾いたときの部室の空気は、紘輝の高校生活で五本の指に入る衝撃だった。
興津が現れてから、頼れる人が身近にいなかった慎が嬉々として彼に教えを請い、ベースの腕前をめきめきとあげ、水を得た魚のようにヘッドバンギングしながら、課題曲の『Get Wild』を弾いている姿に、ようやく彼の肩の荷が下りたことを感じて安堵したことを覚えている。
それでも優しすぎる顔立ちの興津の話を、ほとんどの部員が真面目に聞かなかったが、彼がその年の冬休み明け、口髭を生やしていかにも教師らしい顔つきになってからは、言葉に圧と重さがぐんと加わって、その音楽に対する愛の深さゆえの厳しさに耐えきれなくなる者が現れ始め、まるで浄化されていくように部室の中は人が減っていった。
自身の苦手なクリーントーンのブラッシュアップに、と興津から渡されたいくつかのジャズの曲を弾くうちに、自分の中の『音楽の世界の狭さ』に気が付いて、今まで手を出したことのなかったジャンルの音楽を聴くようになり、印象に残ったメロディやリフを弾きこなせるようになるまで弾いているうち、そのまま夜明けを迎えたことも何度かあった。
そうして、腕を磨きながら二年生に進級したころには、幽霊部員たちは姿を消し、部室の空気はがらりと変わって、興津に課された基礎練習に飽きたり挫折しては脱落していく新入生の中、ただ一人残った隆玄を交えて、ようやく部室の中は落ち着き、何を気にすることもなく、快く演奏をすることが出来たのだった。
慎と楽器を交換して演奏したことも、隆玄が自宅に練習用の電子ドラムを買ったと嬉しそうに報告してきたことも、その隆玄に伴われて夏休みの始めに部室に現れた太陽が、指先に液体絆創膏を塗り、手の甲には痛み止めをすり込みながらギターを抱え、くまの酷い目元で真剣に楽譜とにらみ合っていたことも、ひとりひとりの演奏や心に寄り添い、真剣に、真摯に向き合って、うまくできたときは必ず褒めてくれた興津の笑顔も、全部が懐かしい。
文化祭のセットリストを完璧に弾けるようにするため、慎の提案で部室の中に籠って徹夜で合宿した翌朝、自分たちに課した過酷な練習に耐えきれず、床の上でみんなして倒れるように昼まで眠ってしまったことまで頭をよぎって、思わず笑いがこみ上げる。
その笑い声といっしょに、臨界点に達していた嗚咽が喉からこぼれ、紘輝の視界はゆがんだ。
がちがちに緊張していた妹が一生懸命、初めて人前で弾いた『夜に駆ける』。
最後の中庭ライブの後に飲んだスポーツドリンクの味。
許せない大人への怒りを、放送室でマイクに向かって思い切り叫んだあの日。
文化祭のステージの直前に思い付きで前髪を上げたときの、急に世界が開けたような感覚。
みんなでひいひい言いながらこなしたハードな筋トレも、その甲斐あって綺麗なハーモニーで歌えた『光るなら』も、歓迎会の空気が悔しくてやり直した『Smoke On The Water』も、最後に歌った『今宵の月のように』も――
情熱をありったけ注ぎ込んだ日々が、昨日のことのように眼前に浮かんでは消える。
その全てが、これから自分が向かう未来を迷いなく進めるように、明るく照らしてくれている気がした。
演奏が終わると、ベースをスタンドに置いた祐華が側に来て、ハンカチを差し出した。
「お兄ちゃん、卒業おめでとう」
「……お前ら、こういうの卑怯だから、やめてくれって……せっかく泣かないで、カッコ良く帰れるとこだったのに……」
渡されたハンカチで涙を拭い、鼻水をすすってから、紘輝は顔を上げてみんなを見た。
「あはは、なんかすみません」
くるみが肩をすくめて笑う。
「明後日、見送りに行きますよ」
「今日は壮行会ってこんで」
そう言って微笑む太陽と隆玄の隣で、ミチルがうなずく。
「私も時間が合えば行くよ」
くるみの後ろから、興津が声をかける。
「せっかくだから今、チャットの交換をしておこうか。何時にどこに行けばいいか、後で教えてくれ」
彼はそう言うと、スラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。
「……いいんですか、生徒と連絡先交換して」
「いいんだよ、卒業したからな。これからも、なにか困ったことがあったら連絡してきなさい。すぐに返事はできないけれど、お金以外のこんだったら相談に乗るから」
「えええ、一番困りそうなことが相談できないじゃないですか」
スマートフォンを出しながらそう言って笑った紘輝につられて、みんなも笑った。
「みんな、来てくれてありがとう」
日曜日、駅のホームで上り電車を待ちながら、ストラトキャスターの入ったギグバッグと、小さなショルダーバッグを背負った紘輝がみんなに頭を下げる。
「慎先輩まですみません、わざわざ来てもらって」
「いやあ、こういう経験なかなかしないからさ。それにもう、頻繁に顔も見れなくなっちゃうし」
そう言って照れ隠しをしながら、慎は戦友の目で紘輝に微笑むと、紙袋を一つ差し出す。
「これ、餞別。こっちのスーパーでしか買えないもん入れといた。向こう着いたら、ちゃんと自炊しろよ?」
「あはは、先輩に言われちゃかなわないなあ。善処します」
「お前、やらないつもり満々じゃん」
醤油やソース、鰹節の入った袋を、それでも紘輝は嬉しそうに受け取った。
「家はどこだっけ?」
「中野です。すぐそばに大きな公園があって、大通りは桜並木がすごいんですよ」
「そっか、いいとこだね。そのうち遊びに行くから、うまいラーメン屋見繕っといて」
「わかりました」
紘輝はうなずくと、慎の隣に立つ興津に右手を差し出す。
「先生、お忙しいところありがとうございます。とりあえず、やれるとこまでやってみます」
「ああ、頑張れよ。でも、絶対に無理はするな」
「はい」
二人が固い握手をかわすと、ホームに電車がやってくるチャイムとアナウンスが流れた。
やがて、銀の車体にオレンジの線が入った短い電車がホームに滑り込んでくる。
「お兄ちゃん、向こうついたら連絡してね」
「紘輝、頑張れよ」
「藤枝先輩、お気をつけて」
「またこっち戻ってきたら、いっしょに演奏しましょう」
「合宿参加してくださいね」
「しっかりな」
みんなが口々に彼に声をかける。
「紘輝先輩、また会いましょうね」
くるみが紘輝に手を振ると、
「ああ、またな」
彼もにこやかに手を振り返してくれる。
その目が今までとは少しだけ違う、優しい光を帯びていたような気がして、くるみはわずかに戸惑った。
ホームで手を振るみんなに短く同じ動作を返すと、紘輝はバッグと紙袋を下ろしながらガラ空きの車内を見回し、ギターを足の間に置いて、ネックを支えながら手すりの横に腰掛ける。
腕でネックを抱え込みながら、デニムのポケットからスマートフォンを出し、アルバムのフォルダを開いて、部活の合間に撮影した何枚かの画像を見返す。
(……相手が先生じゃ、敵うわけないんだよな)
こちらを見てアコースティックギターを抱えて困ったように笑う、くるみの写真を見つめる。
(ホント、俺って女運ないよなあ)
初めて逢った時にはもう、彼女の心が自分に傾くことがないというのは、黒い瞳の大きな目が追いかけるその先を見て悟っていた。
白い肌に映える薔薇色の唇に、時折どきりとした。
きれいな子なのに、唐突に予想もできないことをしでかす危うさと、甘すぎる声のギャップがひどくて、でも――それが密かに、愛おしく感じられた。
眩しいその笑顔がすべて興津に向けられていることが、羨ましくて、寂しかった。
それに気がついたのが部室に行かなくなってからだったのが、我ながら鈍すぎて可笑しくなり、口元に苦い笑みが浮かぶ。
(……さよなら、くるみちゃん。たぶん俺、君のことが好きだったよ)
気付くのが遅すぎた恋心に蓋をするように紘輝はフォルダを閉じると、画面の電源を落としてからポケットにスマートフォンを滑り込ませ、窓の外を過ぎ去っていく故郷を見送った。




