第50話
「うああ、ピッカピカだ……」
ミチルが組み立てたポータブルキーボードを見て、くるみは感動のため息をつく。
「そう言うくるみさんも、ぴかぴかですね」
彼女が手にした新品のエレアコを見て、ミチルも楽しそうに返した。
窓の外を、二月のきつい北風が、枯葉を枝からもぎ取って吹きすさんでいく。
紘輝が引退し、五人になった軽音楽部は、一月末に振り込まれたアルバイト代で手に入れたそれぞれのお目当ての品を持ち寄って、各々音出しを始めていた。
「結局両方買ったのか、お前」
「まあな。これで俺も貯金ゼロだ、たかるなよ」
ブラックのバーストが渋く光るストラトキャスターを持った太陽が、隆玄に釘をさす。
「思い切ったことしたなぁ、ストラトとエレアコの二本買いとか」
「どうせこれから剣道しかやることなくなるんだから、趣味は大事にしようと思ってさ」
「ふーん……俺もそのうち、本物のドラムセット買おっかなぁ」
「お前んち広いから置き場所に困んないだろ、買ったら?」
「ははは、スネアに猫が乗っかりそうな気がするなぁ」
隆玄は黒縁眼鏡のブリッジを押さえて笑う。その向こうの窓の側で、
「わ!……ディストーションって、こんなに音が変わるのね……」
買ったばかりのマルチエフェクターで順番にベースの音を変えながら、祐華がそのたびに歓声を上げている。
「エフェクターは沼だからな、藤枝。こだわり過ぎると大変だぞ。私みたいにいくつも集め出したら、お金があっという間に消えるから気を付けなさい」
聞き捨てならない台詞に、くるみは思わず興津を見る。
「……何でこっちを見るんだ、牧之原」
鋭い視線に彼はぎくりと身をすくませた。
「先生、趣味のことばっかりに使わないで、ちゃんと将来を見据えて貯金しないとダメですよ。歳とってからお金ないと大変ですからね」
「はは、しっかりしてるなあ……わかってるよ……」
彼はもごもごといい淀みながら困り笑いを浮かべて、口髭の下に手をやる。
その様子を見て、
「先生、すでに尻に敷かれてんぞ」
「くるみちゃん、強いなぁ……」
太陽と隆玄がひそひそと言葉を交わし、楽し気に笑った。
ミチルが楽譜の入ったファイルを開いて譜面台に置き、ピアノの音色でキーボードの試し弾きを始める。
淀みない指運びと弾むような音色に、部員たちは手を止めて聞き入った。
彼女は途中まで弾くと、はたと自分以外の楽器の音がしないことに気が付いて、指を止めてみんなを振り返る。
「あ、あの、みなさんお気になさらないでください!」
「ううん、気にしちゃうよ! だってやっぱりミチルちゃん、すごく上手だもん!」
くるみの言葉に部員と興津はうなずく。
「そんな……きちんと暗譜もしてませんし、大したものではありません」
「それでもすてきよ、やっぱりミチルちゃんのピアノってなんだか心に、すうっ、て入ってくる感じがするわ」
「あ、ありがとうございます……大変恐れ入ります……」
祐華の素直な誉め言葉に、ミチルは真っ赤に染まった頬を押さえながら照れた。
「……ところで、今の曲って何て名前だったっけ? なんとなく聞き覚えはあるんだけど……」
「リストの『愛の夢・第3番』だね」
太陽の疑問に興津が即答した。
「先生さすが、クラシックも詳しいっすね」
ドラムの奥で感心しきりといった様子で声を上げた隆玄に、興津は首を横に振る。
「いや、ピアノのソロ曲だけだよ、そこそこわかるのは。交響曲なんかになると有名どころしか名前は出てこないからね」
「ふうん……」
その言葉を聞いて、くるみはあることを思いついた。
「ねえ、曲当てクイズしましょうよ、先生」
「は?」
唐突な提案に興津はぽかんとする。
「昨日テレビでやってたクイズ見ました? あれと一緒です。イントロだけ聞いて当てるやつ」
「……ああ、あれか……いや、なんで私がそれをやらないといけないんだ」
「単純に先生の知識量に興味があるから」
「えええ……」
無邪気に笑うくるみに、興津はうろたえる。
「いいっすね、面白そう」
それを見ていたずらっぽく笑った隆玄の鶴の一声で、部員たちの視線は一つ所に集中した。
「曲名と作曲者、両方出てきたら正解ってことにしましょうよ」
白いボディのベースをスタンドに置きながら、祐華が便乗してハードルを上げる。
「ミチル、他にも楽譜ある?」
「はい。じゃあこれはいかがでしょう」
「ちょ、ちょっと……」
戸惑う興津を置き去りに、太陽に促されたミチルが、楽譜のファイルをめくって曲を奏で始める。
「さあ、先生。これはなんていう曲ですか?」
後ろからやってきた祐華と隆玄の間に入って、ミチルの隣で楽譜を一緒に見ながら、くるみが興津に問う。
「これは簡単だ、ドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』」
「正解! じゃあ次。ミチルちゃん、お願い」
「はい」
つやつやと日暮れの光を受けるキーボードの鍵盤の上で、ミチルの指がまた別の旋律を叩く。
「ベートーヴェンのピアノソナタ、『月光』の第一楽章」
間髪入れずに答えた彼に、おお、と部員たちは歓声を上げる。
「ミチル、次のよろしく」
「はい、ではこれにしますね。少し難しいですよ」
「得点が倍になるチャンスっすよ、先生」
「何の点数だよ……」
隆玄の言葉にぼやく興津を尻目に、ミチルは演奏を始める。
「……グラナドスの『アンダルーサ』」
ほとんど間を置かずに興津が答えると、部員たちは顔を見合わせどよめいた。
「うああ、すごい……! わたしこんな曲知らなかった……!」
「しかも、ちょっと聞いただけで当てちゃうんだもの……」
くるみと祐華は同時に嘆息する。
「なんでそんなに知ってるんですか? やっぱ子供の頃に習ってたからとかです?」
太陽の質問に、興津は少しだけためらってから、静かに答え始める。
「……いや、ちょっとしたきっかけがあってね。『アデリーヌ・フォスター』ってピアニスト、聞いたことあるかな?」
「はい、存じております。昔活躍された、スイスのピアニストですよね。確か飛行機事故で亡くなられたっていう……」
「そう。やっぱり菊川は詳しいな。……君たちくらいの年の頃に、少し興味があったんで、その人の演奏音源を集めたことがあったんだ。おかげで曲名も頭に入ってるって感じかな」
「ふうん……」
そう語った興津の表情に影が差したのを、くるみは見逃さなかった。
(……あとで、訊いてみようかな。話してくれるかわからないけど)
すっかり面白がってまた別の曲を聴かせ始めた友人たちの輪の中で、彼女は彼に慈しみを込めた眼差しを送った。
「……形見なんだよ、僕の母さんの」
下校の予鈴と本鈴の間、部室の中での短い逢瀬。
二人きりになったときにくるみに理由を問われた興津が、重々しく口を開いた。
「中三の時、ようやく決心がついて、父さんと母さんの遺品の片づけをしたんだ。……そしたら、母さんのクローゼットの中から山ほどレコードが出てきてね。それが全部『アデリーヌ・フォスター』のものだったんだ。きっと、ファンだったんだろうね。母さん自身が音大でピアノを習ってたくらいだし、憧れてたのかもしれない。でも、うちにはレコードプレーヤーがなかったから、聴きたくても聴けなかったんだろうな……」
彼はそこで一つ息を吐くと、先を続ける。
「母さんがそんなに好きだったんなら、どんな演奏をする人なのか、気になってどうしようもなくなって、じいちゃんにねだってプレーヤーを買ってもらって、全部聴いたよ。母さんが好きだったものを少しでも覚えておきたくて、毎日繰り返し聴いた。受験勉強のBGMは、もっぱらそればっかりだったな。でも、レコードが擦り切れるのはやっぱり嫌だったから、中古のCDショップに通って、ネットオークションも見て回って、CDで出てるものは全部探した。十年くらいかかったっけなあ……まあ、レコードと照らし合わせて全部の音源集めたと思ったら、サブスクで全部聴けるようになってて、ずっこけたけどね」
ふふっ、と笑った興津につられて、くるみも小さく笑う。
「とても優しい音色でピアノを奏でる人だよ。ほとんどモノラル録音で、レコードだから余計に音に丸みがあるのかもしれないけれど、曲に乗せて情景が目の前に浮かんでくるし、泣きたくなるほど心が揺さぶられる曲もある。……飛行機事故で亡くならなければ、もっといろいろな曲を聴けたかもしれないね。ネットで調べてもみたけど、何しろ外国の人だし、四十年も前に亡くなってるから情報が少なくて、どんな人かもわからない。母さんが生きてたら、いつかプレーヤーを買って、僕たちに聴かせてくれたかもしれないな……」
そう言って寂しく笑う興津の隣に、くるみは椅子を引っ張ってきてそっと寄り添う。
「……お母さんとの大事な繫がりなんですね、ピアノ」
「うん。……母さんのピアノ、僕は好きだったな。農家やってたから、いつも爪に土が入ったままの手で弾いてたけど、気取ったり飾ったりしない、真っ直ぐな音だったと今になって思うよ。姉ちゃんも学校でいちばんピアノが上手いって、よく褒められてたっけ。……」
彼は泣くのを堪えるときの癖で、じっと目を瞑った。
「……ほんとは家潰すとき、ピアノも引っ越し先に持って行こうかって、最後まで迷ったんだ。だけど、公立高校の教員の初任給じゃ、とても置いとけるような部屋に住むこんも出来ないし……母さんや姉ちゃんを思い出して、悲しくなるのも、その頃の僕には耐えられなかった。……今ごろになって、すごく後悔してるよ。手元にあれば、寂しい時に、何か思い出すことのひとつもあっただろうにさ……馬鹿っこんしたなあ……」
くるみは黙って、小さく震えだした彼の背中に手を置き、優しく撫でる。
「……ごめん、くるみ。少しだけ、……」
興津はそう言って、くるみの肩に頭を乗せる。
右手同士の指を絡ませて握りながら、彼女は彼の涙がおさまるまで、背中を撫で続けた。
完全下校十五分前の廊下を、二人は並んで歩き、階段を降りる。
「『アデリーヌ・フォスター』、お母さんのiPodに入ってないか、探してみます」
「どうだろう、割とコアなピアニストだからね、知る人ぞ知るっていう……」
真っ暗な空気に口元だけ白くなる息を吐きながら、二人は踊り場から差し込む街明かりに浮かぶ、互いの青いシルエットに微笑み合う。
「なかったらサブスク探せばあるんですよね、絶対聴きます」
がらんどうの校舎にひんやりと、しかし温かな響きでエコーするくるみの声に、
「そっか。……なんだかうれしいな、僕の思い出を、君が共有してくれるみたいで」
興津は幼い子供のように、あどけない笑みを返す。
その笑顔があまりにも嬉しそうで――そして、底なしの寂しさも感じられて、くるみは彼のコートの腕をするりと撫で、慰めるように言葉を返す。
「……先生、いつかピアノ、連弾しましょう?」
「うん?……ああ、そうだね。でも、何年もまともに弾いてないから、指が動くかなあ」
「何なら『チョップスティックス』でもいいですよ、毎日弟と弾いてましたから」
「へえ、なんでまた?」
「それはね、……」
睦まじい二人の会話が、しんと冷え込む階段を下っていく。
誰もいなくなった廊下には、青白い真冬の色をした月明かりがまばゆく差し込んでいた。




