第48話 ―第二幕エピローグ―
下校時刻三十分前のチャイムが鳴る。
「よし、じゃあ今日はここまでにしようか」
すでに日が落ちて久しい窓の外を眺めて、興津が声をかける。
「お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
みんな口々に挨拶をすると、自分の楽器を片付け始めた。
「お兄ちゃん、本当に歌上手くなったわね」
「そうか? いや、身近にくるみちゃんっていう怪物がいるからなあ、あんま実感がないな」
ギグバッグのファスナーを閉め、マフラーを首元にタイトに巻き付けながら、祐華の褒め言葉に紘輝が照れる。
「紘輝先輩、わたしをモンスター扱いしないでくださいよ……」
コートを羽織りながらくるみが苦笑いする。
「相変わらず褒めてるのかけなしてるのかわかんないっすね、紘輝先輩の人物評。……じゃ、俺、この後、予備校なんで、お先でーす」
「お疲れ様、伊東。気をつけて帰れよ」
「りゅーげん、また明日な。麗ちゃんによろしく」
肩掛けカバンをリュックのように背負ってから、部室の出入り口でみんなに軽く手を振って、真っ暗になった廊下にスティックケースを持った隆玄が消えていく。
「俺たちも行こうか。校門まで送るよ。今日また迎えだろ?」
「はい。ありがとうございます、先輩。ではみなさん、お先に失礼しますね」
「先生、お疲れ様です」
「ああ、二人とも気をつけて」
部室に残っているメンバーに軽く頭を下げて、太陽とミチルが手を繋いで歩き去っていく。
バイト代が入ったら一緒にキーボードを買いに行く算段をする声が遠ざかっていくのを聞き届けると、紘輝はギグバッグを背負って妹を見た。
「よし、俺たちも帰ろう。……こうやってお前のお守りするのも、もうすぐ終わりかあ。なんか感慨深いものがあるな」
口ではそう言いつつも、紘輝のその行動が妹の身を案じてのことだったのは、すでにみんなの知る所になっている。
「お兄ちゃん、その言い方やめてよ。小さい子供じゃないんだから」
祐華も決して本当に嫌がってはいない様子で、兄に微笑んでみせた。
「じゃあ、お先に失礼します。くるみちゃん、気をつけてな」
「くるみちゃん、また明日ね。先生もお疲れ様です、ありがとうございました」
「うん、お疲れ様。車に気をつけなさい」
「また明日ね、お疲れ様でした」
自分に向かって手を振る祐華に手を振り返しながら、くるみは自分のギグバッグの蓋をした。
「……さて、牧之原も気をつけて帰りなさい」
そう言ってこちらを見る興津に、
「もう、二人きりなんですから、そういうのなし」
くるみは少しだけむくれてみせる。
「ははは、ごめんごめん。一応言っとかないとね」
笑いながら彼は教師の顔をやめて、椅子の上から恋人の目でくるみを見上げて微笑む。
「お疲れ様。お守りありがとう、あれ、ちゃんとご利益があるよ」
「え、何かあったんですか?」
「うん。今朝、道に出てきたタヌキを轢かずにすんだよ。間近で見るとずんぐりむっくりで可愛いね、最初は随分太った猫だなあと思ったっけ」
その光景が頭に浮かんだのか、興津は口髭の下に手をやって笑いをこらえる。
「えっ、先生の家の近く、タヌキ出るんですか!?」
「僕の家の周りはどこにでもいるよ、タヌキ。防風林で鬱蒼としてるし、近くに鰹節の工場もあるから、見かけるなら猫かタヌキか、って感じだね」
「鰹節工場……先生の家、もしかしてプラネタリウムも近くないですか?」
くるみはそばの椅子を引いて、興津の前に腰掛ける。
「そうだね。あの辺だよ」
「……意外とご近所かもですね、私の家、プラネタリウムまで歩いて十分ちょっとだもんで」
「どうかな、……これ以上は教えられないけど、そのうちどこかですれ違うかもね」
二人は見つめ合って、いつかその日が来ることを祈りながら小さな笑い声を立てた。
ややあって、
「あ、そうだ。……あの、先生」
「うん?」
くるみは膝に乗せていたカバンから、ファイルに挟んでいた紙袋と、可愛らしくラッピングを施した、形の整ったアイスボックスクッキーが入った透明なバッグを取り出す。
「これどうぞ。遅くなっちゃったけど、誕生日プレゼントです。おめでとうございます」
彼女の顔と差し出されたものを交互に見比べて、興津は戸惑っている。
「え……」
「クッキーだったら、食べちゃえば何も残らないでしょ?」
「……」
「……それとも、やっぱりダメですか? 受け取っちゃいけないって決まり、あります?」
「……いや、……ごめん、違うよ。……」
興津はうつむいて、ネイビーのジャケットの肩を震わせ始めた。
やがて、さほどの間を置かずに彼がすすり泣く声がして、くるみは慌てて彼の肩に手を置く。
「……先生?」
どうしたらいいか分からずひたすらおろおろとするくるみに、興津は顔を両手で覆ったまま言葉を返す。
「……ありがとう……誕生日を、祝ってもらえたのなんて、高校の時、以来だもんでさ……ちょっと、気持ちが、追いつかなくって……」
「……」
「しかもさ、僕の誕生日って、いっつも、クリスマスと全部、まとめられちゃってさ、……本当に、僕のことだけを、祝ってもらえたのは……初めてだよ……すごく、嬉しい……」
下を向いたまま、なかなか顔を上げない興津の背を、くるみは黙って撫でる。
そのうちに、彼への愛おしさが溢れて止まらなくなった彼女は、廊下に誰の気配もないことを確かめてから、彼の暗い茶色の髪にそっとキスをした。
「!……こら、だめだよ」
その感触に顔を上げた彼は、涙を浮かべながらも幸せに満ち溢れた表情で微笑んでいる。
「唇じゃないから、いいでしょ。プレゼントのおまけです」
「……本当に困った子だな、君は……」
彼は小さく笑いながら彼女の髪に指を滑らせ、ため息を付いた。
「……髪、伸びたね」
「伸ばしてるんです。……離ればなれにならないように、おまじない」
「そうか……僕も何か、願掛けしてみようかしん。禁酒くらいしか思い浮かばないけど」
ふふ、と笑いながら興津は目元を拭う。
その彼にハンカチを差し出しながら、くるみは髪の毛という単語で思い出した話を訊くことにした。
「……あの、先生。巴先生に告白されたって、ほんと?」
「ああ、そのことか」
ハンカチで濡れた頬を抑えつつ、興津は肩をすくめてみせる。
「安心して。はっきり断ったよ。結婚の約束をしてる人がいるから、って。どうも、定演の打ち上げのときに介抱したせいで勘違いされちゃったみたいで、仕事の邪魔してまで話しかけてくるもんで、本当に困ったよ。何より、知ったかでビートルズの話をしたのはいただけないな。まさか本当に知らないとは思わなかったから、……くるみ? どうした?」
顔を赤くしたまま硬直している彼女に、彼はハンカチを返そうとして困惑する。
「……結婚の約束」
「うん、君がいつも言ってるみたいに、卒業して即とか、二十歳になったらすぐ、ってわけにはいかないけど、君が大学を出たらそうしたいと思ってるよ」
当たり前のように答える興津に、くるみはますます顔を赤らめる。
「うああ……先生、あの、これ、……ぷ、プロポーズって思っても、いい……?」
「え……!」
今頃になって自分の言葉がそうなっていたことに気が付き、興津も首まで顔を赤くする。
「あー、えっと、……そ、そうなる、かな……君が嫌じゃなかったら、だけど……」
「嫌なんてことないです!……すごく嬉しい……」
興津の手を取り、くるみは薔薇色に頬を染めて彼を見つめる。
「わたしが言ったこと、真剣に考えてくれてたんですね……」
「……僕は何でも真に受けるからね。特に、君が言うことは全部」
そう言って照れ笑いを浮かべる興津に、
「じゃあ、これも?」
くるみは立ち上がって、彼の耳元に苺の香りの唇を寄せて甘く囁いた。
「愛してる。……ずっと一緒ね、先生。何があってもわたし、あなたのそばにいるから」
こそばゆさに彼は少しだけ身をすくませたが、すぐに彼女の身体を腕で抱き込むようにして自分の方に寄せると、長くつややかな黒髪を耳にからげてから、薄い唇と整った口髭を触れそうなくらいに近づけて、
「僕も愛してるよ。忘れないで、何があっても、僕はずっと君の味方だ」
たとえ彼女が自分の手を離してしまっても決して変わらない想いを、優しく吹き込んだ。
「……うん?」
そのときふと、彼女の首筋からシャボン玉のような匂いがして、興津は首を傾げる。
「くるみ、香水つけてるな?」
「あ、気が付きました?」
「……校則違反とは言わないけど、つけすぎるなよ。うるさい先生は結構いるからね」
腕を解いて、興津はくるみの頬をつん、と人差し指で柔らかくつつく。
「はーい。……ねえ、いい匂い? どきどきした?」
「大人をからかうんじゃないよ」
ただでさえ甘い香りのする彼女にもう一匙の砂糖が加わったような感覚に、このまま見つめていたらその細い首筋に噛み付いてしまいそうな気がして、彼はプレゼントを手に立ち上がる。
「ところで、こっちは何?」
興津は話をそらそうと、小さな紙袋を見る。
「アンクレットです。わたしが編んだの」
「君が?」
「はい。弟にミサンガ編んであげるときに、作り方見てやってみたんです」
彼が手の中の紙袋を開くと、黒い革で編まれた長い紐がくるりと巻かれて入っていた。
「なるほどね、これならつけていてもバレにくいな。ありがとう、大事に使わせてもらうよ」
丁寧に袋の口をもう一度閉じ、彼はそれを宝物を扱うような手付きでジャケットの内ポケットに入れた。
「あの、つける脚、絶対左側にしてくださいね」
「なんで?」
「左は『恋人がいる』っていうサインなんですけど、右は『浮気相手募集中』って意味になるから」
「あはは、わかった。間違っても右にはつけないよ、大丈夫」
心配そうなくるみの頭を優しく撫で、興津はなんとなく勘づいたことを訊く。
「もしかしなくても、ペアになってる?」
その言葉に嬉しそうにうなずいた仕草が愛おしくてたまらない心に任せて、うっかり口づけたくなった気持ちをぐっと抑え込んでから、彼はもう一度彼女の頭を撫でた。
「うああ、真っ暗……」
部室の鍵を閉めてから、二人は底冷えのきつい、明かりの消えた廊下を並んで歩く。
「引き止めてごめん。本当に気をつけて帰るんだよ」
「気にしないでください。引き止めたのはわたしのほうですから」
二人はそのまま、他愛もない会話を交わしながら、長い廊下の先の階段を一階まで下りる。
やがて職員室と昇降口との分かれ道で、二人は立ち止まって微笑むと、
「じゃあ、また明日」
「はい。お疲れ様です」
教師と生徒の顔をして、それぞれの方向へ歩いていった。
次の日、駐車場に車を止めて運転席から下りた興津は、まだ左足の靴下の中にある感触に慣れないでいた。
そこに縛り付けた彼女の心のくすぐったさがひどく嬉しくて、思わず知らず笑みが溢れる。
いつも通りに後部座席からカバンを取ると、続けて助手席側に回り、シートベルトで止めてあったベースのギグバッグを丁寧に出して、しっかりと背負う。
背中に気をつけながらキーのボタンを押し、車に施錠すると、彼は職員玄関に歩いて向かう。
今日は服装検査の当番の日だ。
早めに荷物を置いて、授業の準備を済ませ、登校してくる生徒を昇降口で待つことになる。
その中に早く逢いたくてたまらない人がいることに、彼の心は弾んでいた。
「おはようございます」
「おはよう」
果たして、いつもの登校時間に、彼女は彼の方に友達と一緒に歩み寄ってきた。
「……ちょっと待て、牧之原」
「ふえっ!? な、なんです!?」
彼に呼び止められて、彼女はぎくりと身をすくませ、気をつけの姿勢をとる。
彼は顔を近づけすぎないように背を屈め、愛くるしい目元と、昨日髪にふれた唇を見る。
長いまつげは、艶のある光をまとって彼女の大きな黒い瞳を縁取る。
朝日に照らされて、唇が薄い赤に青い偏光ラメの入ったグロスできらめく。
鼻先には昨日香ったシャボンの匂いが漂う。
(今日も可愛いな、……でも、仕事優先)
一瞬だけ見逃したい気持ちに駆られたが、彼は厳しい目で彼女を見つめた。
「……やっぱり。牧之原、今日メイクしてるだろ」
「し、してませんって!」
「いや、してるな。……グロスが唇から垂れてるぞ」
「嘘っ!?」
「嘘。……引っかかったな、後でちゃんと落としなさい」
「えー……」
くるみと興津は今日もそれぞれに境界線を引いて、その際を踏むようにじゃれ合う。
その二人の左足に、互いを縛る鎖のように黒い革紐が絡み付いているのを、他の誰も知らない。




