第47話
宿題とバイトに追われながら駆け足で過ぎていった冬休みの終わりの日の夜、くるみは初詣で興津と交換したお守りを財布の中から取り出してひとしきり眺めた後、また同じ場所にしのばせる。
(厄除けなんて渋いなあ、……でも、たしかに去年は色々あったもんね。心配してくれてるんだ。……ありがとう、先生)
きっと自分が渡した交通安全のお守りは、今頃彼の車のバックミラーにぶら下がっていることだろう。
地方都市ゆえの車社会では自分で運転することを避けてはいられないため、彼も移動手段としてそれなりに車を使ってはいるのだが、やはりハンドルを握ることはあまり好きではない、とこぼしていたことを思い出す。
(少しでも運転するの、辛くなくなればいいな……そういうのにも、ご利益あるかな)
ため息を付きながらそう祈り、財布をカバンの中にしまうと、くるみはベッドサイドの小机の引き出しを開け、この間百均で買ってきたはがきファイルを取り出す。
その1ページ目に入れられたはがきを取り出すと、彼女はすっかり頬を緩めてしげしげとそれを見た。
初詣から帰ると、友人たちからの年賀状といっしょに、興津からも年賀状が届いていた。
もちろん差出人の住所は自宅ではなく学校のものだったが、彼が自分のためにそれを書いてくれたという事実だけで、くるみは今まで迎えた新年の中で最もめでたいと思っている。
律儀な彼のすることだ、自身が担任する三年一組の生徒と軽音楽部員全員に出しているというのは、インクジェット用紙にプリントされた干支の動物と、整ったフォントの『謹賀新年』という文字でわかる。
しかし、余白に彼の綺麗な字でひとこと添えられていたのと、その内容が実に彼らしいことに、くるみはたまらなく幸せな気持ちになるのだった。
『ビートルズのアルバム“リボルバー”の5曲目、ぜひ聞いてみて。きっと気に入るから』
それを読んですぐに、スマートフォンで音楽アプリを立ち上げたのは言うまでもない。
もちろん、ビートルズの曲はだいたいさらってあったのだが、何がどのアルバムに入っているかまではさすがに把握してはいなかった。
そしてたどり着いたその曲は、彼から彼女へのひどく遠回しな、しかし目いっぱいの想いが込められたメッセージだった。
(『Here,There,and Everywhere』……先生、わたしも同じです。あなたと同じ気持ち……)
甘い旋律と歌詞を思い起こすたびに、くるみの胸は灯りが点ったように温かくなる。
二人きりのときに伝え合う『好き』や『愛してる』も大切だが、それだけでは伝えきれない想いをこうしてやり取りすることは、まるで暗号文を解くようなわくわくする気持ちも相まって、ことさら嬉しく感じられた。
(よーし、冬休み明けからも頑張ろう。……大人の女の人に負けないように、もっと勉強して、いっぱい自分磨きしなくちゃ)
年賀状を丁寧にしまってファイルを引き出しに戻すと、くるみはカバンを開けて、明日持っていく荷物を確認する。
(……放課後、こっそり渡そう)
楽譜を入れたクリアファイルから取り出したクラフトペーパーの小さな包みを眺めてから、もういちど同じ場所に挟むと、くるみは自分の左足首を見て、そこにあるものに満足して幸せなため息をつく。
(これなら、秘密に出来るもんね)
渡されたときの彼の反応を楽しみにしつつカバンのファスナーを閉じると、くるみは鼻歌で『Here,There,and Everywhere』を歌いながらドレッサーの椅子に腰掛けて、背中の上側まで伸びた髪をブラシで梳いてから、初詣の帰りに寄った雑貨屋で、あまりのデザインの可愛さに衝動買いしてしまった香水の瓶の中身を手首に軽く吹き、それを首筋と胸元に押し付ける。
中に入ったガラス玉のしゃらしゃらという軽い音のあとに、淡いシャボンと花の香りがして、なんだかそれだけで自分が特別に可愛くなれたような気がする。
(明日の朝からこっそり使ってみよう。……先生、気が付くかな)
彼に叱られることすら待ち遠しくて、くるみはうきうきとした気持ちのまま、ベッドに入って部屋の明かりを落とした。
「おはようございます」
昇降口で服装チェックに立っていた瀬戸に、くるみは自転車置き場で一緒になった祐華と、その後を追いかけてきたミチル、先に歩いていたのを捕まえた麗と一緒に頭を下げる。
「おはよう、もう今日から部活あるだか?」
「はい」
「君っち、去年はトラブルばっかだったからなあ、今年はなんも起きんととええね」
「あはは、本当にそう思います」
「じゃあ、みんな頑張れよ」
「ありがとうございます」
くるみたちは口々に礼を言って、靴箱へと向かった。
(あれから特に、これといって目立つことはないな)
ギグバッグを背負ったくるみの背中を見て、瀬戸はひとまずの懸念を追い払う。
(このまま何事も起こさずに卒業できるか、まだこの先も見張る必要はあるが、古和土の件もあるから、興津君も下手に手出しはしないだろう。……いや、あいつなんかと比べちゃあ悪りぃっけな。そもそも彼は真面目だ、色々わきまえてる)
やってくる生徒に挨拶をしつつ、適当に服装と顔を見ながら彼はふむ、と息をつく。
(ま、最悪、ニュースになるようなことにならなきゃええら)
そこまで考えたとき、赤いメッシュの前髪に、ピンクのインナーカラーが入ったハーフツインの姫カットが目の前を足早に通り過ぎようとしたのを見て、
「こら、下田! おめえ冬休み中にその赤いの、染めてこいっつったら!! 何また増やしてんだ!!」
瀬戸は逃げ出した実夢を追いかけて靴箱へと走っていった。
職員室に足を踏み入れた興津の目に真っ先に飛び込んできたのは、ベージュとピンクの髪を青みがかった黒に染め直し、顎の長さでばっさりと短く切った巴の姿だった。
前々から彼女の派手な髪色と服装を気にしていた藁科と笑顔で話しながら、この間までのようにやたらとフェミニンさを強調するような装いではなく、上品なノーカラージャケットのスカートスーツに身を包み、度付きのカラーコンタクトをやめて銀縁眼鏡をかけた彼女は、ふと彼の方を見て軽く会釈をする。
(……何か心境の変化があったんだろうな)
同じように会釈を返して興津は自分のデスクに向かい、5弦ベースが入ったギグバッグをスタンドに立てる。
たぶんもう自分が言い寄られることはないだろうという安心感に、彼は胸をなでおろした。
冬休み明けの全校集会が終わり、ホームルームと提出物の確認も済んで、その日の放課後はいつもより早く訪れる。
くるみたちは麗も誘い、軽音楽部の部室で一緒に昼食をとることにした。
「麗ちゃん、冬休み中も自主練してたんだ?」
麗が手に持っているクラリネットのケースを見て、くるみが感心したように訊く。
「あ……これは、……うん、まあ、そんなとこ」
右手に感じられる、隆玄から贈られた気持ちの重さが嬉しくなり、麗は幸せそうに微笑む。
「そっかあ。本当に好きなんだね、クラリネット」
「……うん。……やめられない理由も、出来ちゃったしね」
「やめられない理由?」
「ふふ、なんでもない」
麗は足取り軽く、くるみたちより先に階段を上り終える。
「……なんだか、雰囲気が変わりましたね、麗さん」
「そうね。なんていうか……前よりもふわっとした感じ?」
後ろを数歩遅れて歩いていたミチルと祐華が、踊り場で顔を見合わせて首をかしげた。
「お疲れ様でーす」
「お疲れ様」
「お疲れー。あ! やっほー、麗ちゃん! いらっしゃい!」
「みんなお疲れ。先生、一時過ぎくらいまで会議があるって言ってたから、とりあえず先に飯食おうか」
部室に入ると、上級生たちがすでに自分たちの昼食を広げていた。そこへ、
「あ、みなさん、これ焼いてきたんで、よかったらどうぞ」
くるみは手に持っていた紙の手提げから、ずっしりと膨らんだ大きなジッパーバッグを取り出して、手前の机に置いた。
「え!? クッキーじゃん!」
中にぎっしりと詰まったチョコレートとバニラのアイスボックスクッキーに、すでに半分ほど弁当を平らげていた紘輝が目を輝かせる。
「しかもめちゃくちゃ大量……すごいね、模様がいろいろある」
太陽も箸を止め、旺盛な食欲をのぞかせる。
「あはは、くるみちゃん、パティシエにでもなるの?」
メロンパンを片手に、机に腰掛けた隆玄が楽しげに笑う。
「なんか朝からいい匂いがすると思ったけど、これだったのね」
甘いものに目がない祐華が、頬を上気させてくるみを見る。
「まあ! わたし、お料理が本当に苦手なので、こういうことができる方って尊敬します……」
夏休みの合宿でベーコンを炭化させたミチルが驚嘆の眼差しを送る。そして、
「うわ、女子力高っ……」
ひときわストレートな麗の感想に、
「いやいや、高くない高くない。そういう子はこんな雑に袋に詰め込んでこないって」
くるみがそう返すと、その場は和やかな笑い声に包まれた。
「ちょっと形は難がありますけど、味はうちの家族の保証付きです」
「へええ……ホントにもらっていいの?」
既に待ちきれない様子でこちらを見る紘輝に、
「はい。めでたいことのおすそ分けということで」
くるみは満面の笑みでそう返す。
「めでたいこと?」
「あ、いえ、こっちの話です」
楽しみ過ぎて思わず出て来てしまった言葉を慌てて取り繕うと、くるみはジッパーバッグのファスナーを開けた。
賑やかな食事の後、吹奏楽部の練習に向かう麗を見送ってから、くるみたちは各々楽器を出してチューニングを始める。
「バイト代、入るのっていつだっけ?」
太陽が誰ともなく問う。
「月末には振り込みって言ってましたよ。太陽先輩、何買うんですか?」
祐華がその日が待ちきれない様子で答える。
「うーん、エレアコにするか、それとももうちょっといいエレキにするか迷ってるんだよな。ホントはエレアコ買う予定だったんだけど、紘輝先輩のストラト見てたら、俺も本物が欲しくなっちゃって……」
「ははは、試し弾きするか? 決心がつくかもしれないぞ?」
チューナーを見つつ慣れた動作でペグを捻りながら、紘輝が太陽に声をかける。
「……あとでちょっと借りていいですか?」
「オッケー、チューニング終わったら貸すよ」
「ありがとうございます!」
快い返事をくれた紘輝に、太陽はぱっと表情を輝かせた。その隣で、
「そっかー、月末かぁ。じゃ、そこまでは超節約生活だなぁ……」
『今宵の月のように』のドラム譜を眺めながら、隆玄がその言葉とは裏腹に、幸せそうな笑みを浮かべる。
「なんだ、りゅーげん? お年玉とかもらってるんじゃないのか?」
「うん、ちょっと諸事情で使い込んでさ、今、貯金ゼロなんだよ。小遣いも前借りしちゃったもんで、向こう三か月もらえないし。だから明日から飲み物おごって」
「なんでだよ、自分でなんとかしろよ。麗ちゃんみたいにマイボトルにお茶でも入れてこい」
「えー、めんどくさいなぁ」
「お前ら付き合ってるんだろ? だったら少しは彼女のこと見習え」
呆れ顔で太陽は隆玄を軽く小突くが、
「そういうお前はどうなんだよ。ねーミチルちゃん、太陽ってさぁ、なんか付き合い始めてからミチルちゃんの真似、してることある?」
「えっ!?……急に言われましても……あ、でも、テーブルマナーのことはよく聞かれます」
「わー! ミチル、素直に言わなくていいから!!」
思い切り反撃を食らい、顔を赤らめながら大慌てで彼女を制止した。
「仲いいなあ、相変わらず」
「ほんとね」
少し離れたところで祐華と一緒にチューニングをしながら、くるみは友人たちのじゃれ合いを眺める。
そしてふと、頭をよぎったことを祐華に聞いた。
「……そういえばさ、ベース、返してもらえた?」
「うん。この間、修理から戻ってきたとこ」
「そっかあ、よかったね……いや、よくないか。うーん……」
なんと言ってよいのかわからなくなったくるみを見て、祐華がくすくすと笑う。
「やっぱり、先生が言ってたみたいに、音が変わっちゃった?」
「そうね、前に比べると少し音伸びが悪くなったかも。でも、手元に帰ってきてくれただけでいいわ。先生が教えてくれた書類を書かなかったら、もしかしたら向こうで処分されちゃう可能性もあったみたいだし」
「うああ、それは困る……容赦ないなあ、警察って」
あり得た可能性にくるみは慄きつつ、言葉を続ける。
「でもさ、証拠品返してもらうのはいいけど、裁判とかってどうなるの? うちのお父さんが『弁護士が必要なら知り合いがたくさんいるよ』って言ってたけども……」
「ううん、……お父さんたちは裁判にしたがったんだけれどね、そうすると、返してもらうまでの時間が長くなるから、示談にしてもらったの。あれ以上あの子たちと関わり合いになるのも嫌だったし、早く返してほしかったから、もうそれでいいかなって」
「え、じゃあ、またあの子たち、ここに来る可能性が……」
「大丈夫だと思うわ。もうこの街と学校に近づかないっていう書類を書いてもらってから、全員退学して、年明けまでにみんな県外に引っ越したはずよ。その上で、ちゃんとあの子たちを見張ってる人もいるしね」
「へええ、厳しい。しっかり線引きされてるんだね、よかった。じゃあ、これからは安心して学校に通えるね」
祐華の答えにくるみはほっとして、肩の力を抜く。
「うん。でも、くるみちゃんもよかったわね。古和土先生、学校辞めたって今朝の集会で言ってたじゃない」
「まあ、……いられないよね。わたしに何したのか、みんな知ってるし。何食わぬ顔で復帰してきたらどうしようって思ってたから、本当によかった……」
ふう、と大きなため息をついたくるみの背中を、祐華が優しく撫でる。
「合唱部、まだ顧問の先生がいないけど、いったいどうなるのかなあ」
「今は休部中ってこんで、一応、歓迎会の自主練だけしてるらしいし、春になったらたぶん新しい先生が来るんじゃないかしら、巴先生みたいに」
祐華の言葉に、くるみははたとあることを思い出す。
「そうそう、巴先生で思い出した! すっごいイメチェンしたよね!」
「うん、びっくりした! なんかゆるふわから一気にカッコよくなったわよね!」
遠目に見れば大学生のようだった巴の外見が唐突に教師然としたことは、既に学校中の話題になっている。
髪型や服装だけではなく、化粧やアクセサリーもこれまでの彼女とはあまりに変わり過ぎたおかげで、くるみは一瞬誰かわからなかったほどの衝撃を受けた。
「前の髪色より絶対今の方が似合うよね、もともと綺麗めな顔してたからすごく映える……」
そこまで言った勢いにつられて、また別の不安がくるみの中で頭をもたげる。
「……巴先生が興津先生に振られたっていうの、本当なのかな」
去年から彼に聞けないままだったことが、思わず口の端からこぼれる。
「聞いてみたら? きっとくるみちゃんになら、嘘なんて言わないできちんと教えてくれるわよ」
「……うん……」
自信がない様子でうつむいたくるみを励ますように、祐華の手がぽん、と背中を叩いた。
太陽が紘輝から借りたストラトキャスターで『Walk This Way』のリフを弾いていると、
「お疲れ様、みんないるかな?」
いつもの挨拶と共に、興津が部室の入り口に姿を現した。
その声に窓際から跳ねるように首をもたげて彼を見たくるみへ、彼は優しい微笑みを返す。
「……ねえ、くるみちゃん。先生の分のクッキー、残ってないけどいいの?」
隣から、重大な罪を犯したような口調で祐華がひそひそとくるみに問うが、
「だいじょうぶ」
彼女はそう言って片眼をつむった。




